岡山城(烏城) GoogleMap     
             
   
     
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   岡山城   岡山城    後楽園(天守閣より)   
  岡山城(烏城)の歴史
備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋であった。
石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。
  その子八郎秀家(母ーお福の方)は、天承18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移して城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。
秀家の築いた天守閣は、二階建の建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城(うじょう)」の別名がある。
  この天守閣は、昭和6年に国宝に指定されたが、第2次世界大戦による昭和20(1945)年6月29日の、市街地空襲により消失した。
現在の天守閣は、昭和41(1966)年1月に鉄筋コンクリート造りで再建されたもので、外観は全く旧来の通りに復元されている。
                       
(現地案内板)  
岡山城をパノラマで見ると 岡山城ホームページ
 
   
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岡山城の特徴
1.不等辺五角形の天守台ーこの城の天守台は、北に大きく突き出た不等辺五角形で、全国に例のない珍しい形をしている。
2.野面積(のづらづみ)の石垣ーこれは、日本全国に近代的な城づくりが始められた頃(安土桃山時代の初め)のもので、天守閣を中心として、丸い形の自然石をそのまま用いて積み上げた石垣がこれである。(*この案内板設置場所の石垣)
3.天守閣の「城主の間」ー天守閣内に、かって城主が生活した名残を残す書院造りの「城主の間」と呼ばれる遺構を再現している。(*入城の上ご確認を)

  岡山城
(展示種類)備前刀剣などの武具、城主等古文書、映像コーナー、江戸時代の城下町の再現
(特色)慶長2年宇喜多秀家によって完成された三層六階の城。別名金烏城(きんうじょう)ともよばれ岡山市のシンボルとして市民に親しまれている。
春と秋には特別展が催され、にぎわっている。
(料金)(個人)大人300円 小人120円 特別展開催時料金変更 (団体)30人以上2割引
  (開館時間)9:00〜17:00 
(休日)特別展開催日前後12月29日〜12月31日
(交通)JR岡山駅/市内電車東山行き5分/城下下車徒歩10分 山陽自動車道岡山IC/車20分 
(駐車場)普通車50台(市営駐車場)(有料)
岡山市丸の内2−3−1 TEL086-225-2096
                  
 岡山県観光便覧より
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 岡山市コミュニティサイクル
 
   
岡山城 廊下門 中の段 岡山城 月見櫓
  岡山城 廊下門
上屋が本段(住居)と中の段表書院(藩庁)とを結ぶ城主の通路として使われたためこう呼ばれた。
昭和41年に、鉄筋コンクリートで再建された。
(現地案内板)
      岡山城 月見櫓
岡山城本丸跡に現存する唯一の櫓で、池田忠雄ー元和元(1615)年〜寛永9(1632)ーによって建てられた。
城の裏口を守る目的の建物であったが、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の構造となっている。
岡山城内にあった櫓の中で最も新しく優美であったと言われている。
 
 
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「岡山」地名起こりの地 石山城跡 不明門
  岡山」地名起こりの地
城のある丘は岡山と呼ばれ、岡山の地名の起こりといわれている。
宇喜多秀家は、旭川の川筋を付け替え、掘った土をこの丘に盛り上げて、岡山城本丸の土台をつくった。
 
  石山城跡ー岡山城下町始まりの地ー
元亀元年(1570)、直家は、岡山の金光宗高を自害させ城を奪い、岡山城ー現在の岡山城ではなく石山の地にあったーを大改造。
天正元年(1573)には、
亀山城から移って、家臣や備前福岡西大寺、児島等の商人を移住させ、城下町の礎を築いた(岡山開府)。そして、天正5年(1577)、浦上宗景を天神山城から追放し、ついに備前、美作一帯を統一して戦国大名となった。(乙子城そばの案内板の一部より引用) 
  岡山城 不明門(あかずのもん)
岡山城本丸、中の段、表書院(藩庁)から最上段にある藩主の日常生活を営む御殿(住居)に上る正門であったが、特に限られた身分の人しか通ることができなかった。
普段は門扉が閉ざされていたことから不明門(あかずのもん)と呼ばれていた。
明治維新で取り壊されたが昭和41(1966)年天守閣が再建された際コンクリート造りで再建された。
 
 
鉄門跡 岡山市街 旭川方面(天守閣より) 大納戸櫓台の石垣
内下馬門跡の石垣 本丸正門跡 本丸正門跡
岡山城 岡山城 天守閣 岡山城・後楽園外苑(相生橋より)
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烏城の桜 中国銀行本店ビル   岡山県庁と岡山県立図書館(右手前)
おかやま菊花大会 2007年10月22日(月)〜11月17日(土) 於:烏城公園
岡山城の歴史
一.戦国時代ー金光宗高の居城であった(現在の石山付近
一.宇喜多直家、金光宗高を滅ぼし沼城より入城(1573年ー天正元年)ー城と城下町の整備進行
一.宇喜多秀家ー父宇喜多直家、母お福の方ー改築
一.小早川秀秋(1600年ー慶長5年)が関が原の戦で徳川方に寝返り東軍勝利し岡山城主ー備前・美作57万石を領するーとなる。秀秋は、豊臣秀吉の正室ねねの兄木下家定の子ではじめ豊臣秀吉の養子であったが、後に小早川隆景の養子となり筑前名島(福岡市)52万石を領していた。
  関ヶ原の戦で西軍でありながら徳川家康に内通して東軍に寝返り、これにより東軍が勝利。
一.1603(慶長8)年小早川秀秋没。
一.備前28万石と美作18万6,500石に分割。
一.姫路藩主池田輝政の次男忠継が備前に、信州川中島の領主森忠政が美作に入部。忠継が5歳という幼少であったため、姫路に在住したままで兄利隆が藩政を司る。
一.1613(慶長18)年に輝政が死去したことから利隆は姫路藩主として戻り、忠継が岡山に移る。
一.1615(元和元)年忠継死去のため弟の忠雄が継ぐ。
  母富子(良正院)の備中国にあった化粧料を合わせて31万5200石を諒することとなる。
一.1632(寛永9)年忠雄死去により継嗣の光仲が3歳であったため鳥取藩主の池田光政と領地の入れ替えを行う。
光政は、姫路藩主利隆の子で利隆が忠継の代わりに岡山藩政を司っていた時の岡山生まれ。
利隆が死んだ1616(元和2)年当時光政は8歳と幼少のため鳥取藩主に移封していた。
1672(寛文12)年まで40年間岡山藩主を務める。
一.1672(寛文12)年光政の子綱政が藩主となる。
  岡山城主とその在城年代
宇喜多直家 天正元(1573)年〜9年間
宇喜多秀家 天正10(1582)年〜19年間
小早川秀秋 慶長5(1600)年〜2年間
池田忠継   慶長8(1603)年〜13年間
池田忠雄   元和元(1615)年〜17年間
池田光政   寛永9(1632)年〜40年間
池田綱政   寛文12(1672)年〜42年間
  池田継政   正徳4(1714)年〜38年間
池田宗政   宝暦2(1752)年〜12年間
池田治政   明和元(1764)年〜30年間
池田斉政   寛政6(1794)年〜39年間
池田斉敏   天保4(1833)年〜9年間
池田慶政   天保13(1842)年〜21年間
池田茂政   文久3(1863)年〜5年間
池田章政   明治元(1868)年〜1年間
   
           
     
  対面所跡    岡山市街地駐車場      
  対面所跡
ここは岡山藩主が家臣などを引見した対面所跡といわれる。
文政13(1830)、建物は除かれて新たに御殿がつくられた。
この長屋門は江戸末期に建てられた生坂支藩の岡山屋敷の門で明治以降移築したもの。
  
岡山市街地駐車場
岡山市中心部の市街地にある主要駐車場を掲載。
岡山の中心市街地は、1q四方程度の範囲内にあり、そのまわりには、岡山カルチャーゾーン岡山駅西口地区、岡山市役所、岡山大学病院などがある。
従って、移動には徒歩でも十分な距離であるが、
路面電車市内循環バス「めぐりん」岡山市コミュニティサイクル「ももちゃりなどを利用してもわずか100円ほどで移動でき、コンパクトで便利な都市である。
従って、駐車場利用に当たっては、目的によって思いもかけない所に有利な条件で利用できる駐車場があることがわかる。
また、駐車場の利用料金の設定も各駐車場様々な工夫を凝らしているので目的に合った有利な条件の駐車場を探してみるのも面白い。
 
   

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