2022.11.20更新

     
 

 


“熊野前”の電停名は、交差点の北側にあった熊野神社にちなんで付けられました。

2008年(平成20年)から日暮里・舎人ライナー(日暮里−貝沼代親水公園間)が運行しています。熊野前で乗り換えができます。



 熊野神社跡

熊野神社は元享年間(1321年〜1323年)に豊島景村が、紀州熊野から勧請したと伝えられています。 1880年(明治13年)編の「上野東照宮組合明細」には『社名 熊野神社(八幡神社摂社)』と記載されていて、この時期に八幡神社の摂社となり、その後合祀されたと思われます(掲示板には明治11年合祀となっています)。合祀された後も社殿は存続し、数回遷座しましたが戦災で消失し、その後再建されませんでした。現在は小祠があった場所に、あらかわの史跡・文化財の掲示板があるだけという寂しい状態です…。

熊野信仰と『鈴木』
熊野神社は全国に約3千社ありますが、その総本社は紀州の熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)。熊野本宮大社に詣でる信者たちの世話や指導をする熊野御師を筆頭に、神官を受け継ぐ家系の名字が『鈴木』でした。鈴木姓の発祥の地は熊野ですが、鈴木という名字は特定の始祖が名乗ったのではなく、熊野信仰を広めた人々共通の称号として生まれたと考えられています。鈴木の名乗りを許された神官達が全国に熊野信仰を広めたと同時に鈴木の姓も全国に広まって、日本一多い名字になったそうです。
『鈴木』という言葉の由来については諸説ありますが、「紀伊半島の熊野地方では積み重ねた稲のことをススキと呼び、神武天皇に多くの稲を献上したそうです。その“ススキ”の当て字で、鈴木が誕生した」とか「スズキの源意は、稲積に立てた一本の棒。これを依代として稲魂を呼んだ」とか「信仰が深まった地域には、その地にある大木に鈴を下げ神社の建設が終わるまでの間、その鈴が下がる木を信仰の対象とし、その木を『鈴木』と呼んだ。そして神社が完成したとき、本殿の切妻の下にその鈴を下げた」とも。現在の神社で見られる本坪鈴はその名残とされ、それが下がる梁木を『鈴木』と呼ぶ地方もあるそうです。




 はっぴいもーる熊野前

停留所の近くには『はっぴいもーる熊野前』があります。その昔、TV番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」で、この商店街が取り上げられ、全国的に有名になった時期もありました。その名残りである“たけし招き猫”(昭和60年4月吉日)は商店街の中ほどの熊野前コミュニティセンターにあります、現在はコロナ禍が反映されてマスク姿になっていました。小さくて画像が粗いですが、顔が見える昔の写真も載せておきます。この商店街もよくドラマの撮影で使用されています。  

  



 尾久の原公園
旭電化工業(現:ADEKA )尾久工場があった場所です。戦後、東京都が跡地を買収し、跡地の東半分が公園として整備され、1993年に開園しました。公園は自然の原っぱや湿地などが大半の公園となっていて開放的な造りとなっています。西半分は東京都立大学荒川キャンパスとなっているほか東尾久運動場 、東尾久浄化センター (下水処理施設)となっています。

  



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