ほとんどのアメリカ人は、彼らの祖父母が良く知っていた星々を見ることが出来ないまま成長している。彼らは夜空を絵の中やプラネタリウムでしか見ることがない。これは、都市の中だけではなく、街灯やその他の「光害」の要因が星座や、流星雨や惑星の姿をさえぎるようになった沢山の郊外地でも起こっている。
実に、沢山の子供達が始めて田舎の夜空を眺めた後、今では言うかもしれない、「プラネタリムで見たとおりだったよ」と。
光害は、生死に関わる問題ではない。ただそうであっても大切な事だ、大いにそうである。空を見上げ、宇宙の中に我らの存在を見ることが出来ない時、私たち類は、自らの何かを失う事になる。それは子供達の笑い声を二度と聞けないのと同じ事であり、私たち自身の一部を失うことだ。
もし、光害が(人類の)進歩の避けがたいツケならば、この損失も受け入れられるかもしれない、しかしそうでは無いのだ。空の明るさの増加−と科学者達は呼ぶ、このほとんどは不必要なものだ。夜空の姿をかくす光は、夜の安全、快適さ、防犯にはほとんど貢献しない非効率的な照明から主にやってくる。眩しさや、ギラギラになるだけで、アメリカ国内だけでもエネルギーの浪費に年間1千億円以上の費用になっている。
科学にとって、影響はもっと実体的で害も出てきている。天文家達は、空気の汚れや、郊外の空の明るさのない場所で大きな望遠鏡によって初めて可能な、極端に微弱な対象を観測する必要がある。例えば、宇宙がどのように作られたかに興味を持つ天文家達は、地球からどんどん遠く、しかも膨大な距離にある銀河やクエーサーの光を調べるかもしれない。この様な画像は、宇宙のはるかな場所の情報を提供し、我々が自分の世界がどうやって作られたかを理解するのに役立っている。ただ、無量の光年を旅した後、こう言った対象からの光は、その道程の最後に私たちの空の明るさの中に消える可能性がある。
宇宙に設置された望遠鏡、例えばハッブル宇宙望遠鏡は1990年にシャトルで打ち上げられ、この問題への一つの道を出している。しかしながら、地球上の大きな望遠鏡はいつでも使われるし、もしアクセスする事だけが理由なら、地球軌道上の装置より安く、沢山の仕事を安くあげることが出来る。
事実、我々のこれまでの20年以上に及ぶ経験から宇宙を舞台とする天文学は、地球の上からの観測の必要性を少なくするどころか、実際はこの施設の要求を増やしている。新しく計画中や、地球上に建設中の望遠鏡は、宇宙にある望遠鏡から得る知識を補ってくれる − ただロスアンジェルスに近いウィルソン山や他の古い天文台で起こっているように、忍び寄る光害で観測が危うくならないならばの話だ。
光害を少なくすることは難しくは無い、ただ公的機関の人々、そして一般の市民の方々が問題に気付くこと、そして是正の行動をとることが必要だ。例えば、低圧ソディウム灯は、現在設置してある街路、駐車場、その他の照明のほとんどを置き換えることが出来る。眩しさを無くして、お金も節約できる。
余り骨を折らないで光害を少なくする方法が屋外照明の規制条例であり、50以上がアリゾナ州や、カリフォルニアとハワイの主要な幾つかの市や郡で施行されている。この手段の典型は、コミュニティーが効率の悪い、低品質の照明を禁止する必要があるものだ。この条例は、暗い夜空を守るだけでは無く、エネルギーの効率を上げる助けとなる。例として、最近アリゾナの刑務所に設置された屋外照明システムは、エネルギーの費用を50%も削減しながらも防犯効果をあげ、光害を少なくしている。全てのコミュニティーがこういう効率の良い照明を持たないと言う理由は無い。
個人的なレベルでは、必要なときだけ夜間照明を使う事、うまく遮光された照明器具を使い、不要なときは明かりを消すことで夜空の明るさを少なくできる。
光害を解決する事で眩しさを少なくしながらお金を節約できる。公害に関わる他の問題と異なり、私たちが暗さを保つことに努めなければならない珍しいケースとなる。我々の頭上にある星々は掛け替えのない遺産だ − 科学の知識としてだけでなく、人類としての私たちのアイデンティティーのためにも。
私たちのもっと多くの子供らが、そして彼らの子ども達が、夜に上を見上げて天の川を見る事ができるようにならなければならないのは、単におやつをあげるのとは違うのだ。
(米国)ナショナル科学アカデミー