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山内利秋 toshiaki yamauchi
國學院大學日本文化研究所

モノの残し方、ブンカの書き方
−文化遺産は歴史を記述できるか?−

1:文化遺産は近代を超克できるか?

文化遺産は決して「人類共有の財産」でもなければ、「守らなければならない」存在でもない。

2つのコトバを括弧 の中にくくらなければならなかったのは、この理念が有史以来ひたすら再生産され続けたパラダイムの一つに過ぎないからである。

少なくとも大航海時代以降、拡大されていった欧米スタイルの覇権主義を完全に克服し、そしてさらに第2次世界大戦以後知識人を中心に論じられてきた非西欧近代中心型の思考、例えば「未開」社会の育んできた野生の思想や、科学論におけるパラダイム交代論、あるいは現代社会で細胞分裂を続けるサブカルチャーのような相対主義的な(西欧)近代批判の言説から一歩先に進まない限りは、いくら大上段から文化遺産の絶対性を降りかざしても、その言説が有効であるとは決して言えない。

すなわち、遺産や文化、もしくは伝統そのものの所有をいつのまにか特定の個人や共同体から解放し、「人類共有」の財産へと公益化(publification)してしまう論拠が一体どこにあるというのだろうか?

そして、ある文化体系に属し、過去に生産されてきた文化財を「守る」事によって近代そのものを相対化し、いくつもの文化を並列に並べたあかつきには、一体何が待ちうけているというのか?  

要するに、そもそもこの二つ、「人類共有」や「守るべき」といったコトバは、異なった文化システムに位置付けられる様々な文化財を、近代における一つの原理によって価値を収連してしまいながらも、一方では近代をも含めて諸価値を並列に扱うという点で全く矛盾しているのである。  

この事は「人類共有」を、「国民共有」に置き換えた場合とは論拠が少し異なっていると言える。正確に言うと、少なくとも国家という共同体ないしはその前後がナショナリティーを統合する最大公約数と考えている現代においては、「国民共有の財産」とする事にはまだ可能性があり、原理的に制度化され得るのである。

日本を含めて国家は必ずしも単一の民族や文化から成り立っている訳ではない。むしろ、まったく一枚岩で生成されている文化など存在しないのではないか?一見孤立している様な、鎖国状態にあるような地域の文化でも他者とのコミュニケーションを行わない訳にはいかないからである。

ただそれでも、制度として文化遺産を保存していく場合、何を「保存する」・「保存しない」かも制度に即する・しないにかかってくるのであり、取捨選択には時代的・地域的そして政治的特性に依拠する価値判断が行われている。

そしてしかも、実際の文化遺産を保存する現場では、保存の対象となる範囲は減少する事なく少しづつ拡大している。この事は未来に文化遺産となりうる人工物を、文化遺産というフレームで一括できるかの判断を必要としている。

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