常山城跡 GoogleMap
常山城跡
常山城跡 腹切岩
玉野市指定史跡 常山城跡 指定 昭和39年6月25日 所在地 玉野市字藤木・用吉・木目及び灘崎町(現岡山市)迫川
「児島富士」と呼ばれるこの常山(標高307m)の山頂一帯に、「常山城跡」はあります。城郭は山頂の本丸を中心に合計14の曲輪で構成される、「連郭式山城」です。
築城の時期は戦国時代の初めと推定され、上野氏・戸川氏・伊岐氏等の城主が知られています。
女軍の戦いは1575年(天正3)年のことで、この戦いで当時の城主上野氏は毛利氏によって滅ぼされました。
その後、常山城は毛利氏の支配下に置かれましたが、毛利氏の築城技術と言われる竪掘や堀切の遺構は発見されていません。
恐らく毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備されたと思われます。
常山城は児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点でしたが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、1603(慶長8)年に廃城となりました。
城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと伝えられています。
    平成6年1月29日 玉野市教育委員会
(現地案内板より)                 常山城跡案内図
岡山市内のどこからでも望むことが出来る常山。逆に考えれば、岡山市内の殆んどの所を眺めることが出来るのではと考え、登ったのだが、残念ながら霞んでおりあまり眺望は良くなかった。
また霞の無いときに登ろうと思っている。
車でも頂上近くまで登れる。直道を登るのがしんどい場合には、少し長くなるが車道を登るのも一法。車はあまり通らないので気にならない。
常山城登山口側駐車場から車道を通って頂上近くの駐車場までの距離 約3.9km、友林堂までの距離 約0.1km

                       常山の麓から北東方面パノラマー岡山市南区ー
常山城本丸跡
      
常山合戦 女軍墓石・墓碑 北二の丸 兵庫丸の石仏
本丸下の石垣 北三の丸 天神丸の五輪塔
青木丸と鉄塔 栂尾丸の石垣 栂尾二の丸から栂尾丸
玉野市荘内方面(本丸跡より) みやま公園・宇野港方面 矢竹丸
惣門二の丸 惣門丸 灘崎 紅陽台方面
八浜方面 石畳の登山道 底無井戸(そこなしのいど)
石垣 登山道(直道) 登山口(直道)
底無井戸(そこなしのいど)から少し下った所には石垣が。築城当時のものかどうかは知らない。
登山道近くの駐車スペース 車での登山道(千人岩付近) 友林の墓と友林堂
この駐車スペースが常山城跡への登山用のものかどうかはわからないが、登山道(直道)入口近くに4〜5台は駐車できるスペースがある。連絡先としてNTTの電話番号が書かれているので、NTTの
施設管理用の駐車場かも?

上の車用登山道写真の付近には、千人岩(せんにんいわ)」の案内板が有り、「常山合戦の時、城方の退路遮断のため兵千人を配したと伝えられる」との説明がある。
どの岩か探したが見つからなかった。少し下ったところにあるのであろうが、先を急いでいたので撮影はしなかった。
常山城小史
年号 城主 事項
1492  明応元  上野土佐守・同肥前守  上野土佐守・肥前守、常山城に拠って児島の支配を始める。
1554 天文23  上野隆徳 この頃上野隆徳と備中の三村家親の娘鶴姫が結婚。
1571 元亀2 毛利氏が児島を勢力下に置く。
1572 元亀3 宇喜多直家毛利方となる。
1574 天正2 備中松山城主(高梁市)三村元親 織田信長方となり、11月より備中兵乱始まる。
1575 天正3 6月2日、三村元親自刃。
6月7日、上野隆徳ら自刃。常山城落城。
毛利城番 毛利氏より山本四郎左衛門・渡辺伊豆・冷泉元満ら常山城番。
1577 天正5 戸川秀安 この頃、戸川秀安 常山城主となる。
1579 天正7 宇喜多氏、織田方に付き備中辛川で合戦起こる。
1581 天正9 2月、毛利元清 麦飯山城に布陣。
宇喜多基家・戸川秀安ら八浜両児山城に出陣。八浜合戦で宇喜多基家戦死。
1582 天正10 5月、備中高松城の水攻め。
6月、本能寺の変。
1585 天正13 児島全部が宇喜多領となる。
1597 慶長2 9月6日、戸川秀安卒(60歳)
1598 慶長3 戸川達安 常山城主 戸川達安ら、宇喜多秀家と対立。
1600 慶長5 1月、徳川家康、戸川達安らを預かる。
9月、関ヶ原の戦い。
伊岐真利 10月、小早川秀詮(秋)岡山城主となり、金川・虎倉・常山の三城のみを残して他を破却する。
1603 慶長8 池田忠継、岡山城主となり、常山城廃城と決定(現地案内板より)