大友良英氏〜'05年4月27日JAMJAM日記より〜
少し前に出た飴屋法水の全仕事を特集した本のインタビューで、 彼が状況劇場の音響をやっていた若い頃に、武満徹に声をかけられて評価された話がでていて、 それがあったから続けられたみたいなことがでていて、オレの中の飴屋さんって、 もっとハイパーなイメージだったんで、意外なような、でも、その気持ち、すご く良くわかって。わたしも武満さんに声かけられたことがあって、ただの一度だけ でしたが、最初の映画音楽をやったときに電話がきて食事をご馳走してくれて、 とてもいい言葉をいただいて、こんなことでも駆け出しにはすごい自信と励みに なるんです。オレでも映画音楽やっていいんだって。権威のある人の言葉ってよ りは、こちらが尊敬している仕事をしている大先輩の言葉って意味で大きかった。
瀬木慎一氏〜'00年6月28日付朝日新聞夕刊より〜
武満徹の『SONGS』が大竹伸朗の絵入りで、先ごろ、一冊の本になった。 その二十曲のなかに、私の詩に基づく「雪」も混じっている。単純なフランス語によるたった五行の羅列にすぎない。
1962年のある時、銀座で一緒に飲んだあと、彼は、わが家に立ち寄って、また飲んだ。どこかへ電話すると、困った顔をして言う。 「明日までに、シャンソン風の歌を作らなければならない。短いのを書いてくれないか。フランスの曲を使う金が、映画のプロダクションにないんだよ」
仕方なしに、直ちに書いたこの贋シャンソンは、映画「白と黒(63)」で、岸洋子によって見事に歌われた。
すっかり忘れていたところ、武満が亡くなる直前に選曲して出されたCDの歌曲集に、これが収められたのには、びっくりした。彼自身がこの最短の歌に愛着があったとは。
あれをつくった頃のこの作曲家は、われわれの間でこそ一目も二目も置かれていたが、世間では、ほとんど無名だった。バーなどで音楽をやる人だと紹介され、 いやいやピアノの前に座らせられると、まるで素人のような手つきで、キーをぽつぽつと叩き、メロディーが一向に出てこない。本当にピアノが弾けるのかと怪しむ人もいた。 彼は、その時、水滴に近い微妙な時の音を探っていた。
絵画ではクレーと現代中国出身のザオ・ウ・キを好み、特に、「小さいものから始めよう」と言った前者の考え方に共鳴していた。その通りに、彼は、小さいものを小さいままに、 大きな世界を作り上げたのである。
〜99年6月24日付朝日新聞夕刊より〜
日本を代表する作曲家武満徹(1930-96)が初めて書いた劇音楽のテープが見つかった。 文学座が54年に上演した「夏と煙」で、文学座の音響を担当する東京演劇音響研究所(東京都新宿区)に保管されていた。テープから一枚の CDにダビングされて、女優の岸田今日子さん(69)から武満の妻、浅香さん(70)に贈られた。若き武満の作品が、45年を経て妻のもとに戻った。 武満の初期の劇音楽は楽譜も音源も残っていないものが多く、研究者も「貴重な発見。すでに武満らしさが感じられ、資料価値も高い」と話している。 (学芸部・星野学)
.....「彼らしい節だなと思いました。あのころ、サックスが好きでしたし」と、45年ぶりに曲を聴いた浅香さんは振り返る。 53年から54年まで結核で入院していた武満と、退院後の6月に結婚。この曲は、その直後に書かれたという。「上演の終わった曲は、引っ越しの時に捨てちゃう人だった。 見つかるなんて、夢にも思わなかった」と浅香さんは語る。「行方不明の劇音楽がほかにも見つかれば、まとめてCD化することも考えたい」.....
〜99年5月19日付朝日新聞夕刊より〜
今度の本には「永遠の武満徹に」との献辞がある。1994年のノーベル賞授賞が決まる直前、 長編小説『燃え上がる緑の木』を「最後の小説」にしたいと最初に打ち明けたのが作曲家武満氏だった。
「自分を小説家でない所に追いつめて、『魂のこと』を徹底して考えたいというと、だまって聞いてくれた。オランダの哲学者スピノザについての思索を、手ががりにするつもりだった。 予期していたことでもあったが、少し深くなるにつれて難しくなり、頭がねじれるようだった。武満さんに弱音をはくと、『頭をねじれさせたくて、君は小説をやめたんでしょう?』 といわれた」
やがて、武満氏は病気になり、大江氏に説明した仕事の縮小プランを実現することなく、96年2月に亡くなった。
「僕の持ち時間も限られている、と強く思いました。小説という形なら方法はつかんでいる。なんとかこれまで考えたことを書き上げて、ささげようと考えました」.....
ルチアーノ・ベリオ〜99年5月11日付朝日新聞夕刊より〜
研究心のない創造性には意味がないが、一、二位の作品には研究心が満ちている。彼らの作品は美しい日本の伝統に根ざしているとともに、遠い将来も見据えている。
ジェルジ・リゲティ〜東京オペラシティ発行「tree」より〜
45曲の楽譜を受け取って、私は入念に全作品を読んだ。音楽としては面白い作品もあったが、オーケストレーションという観点から 見ると技術的に弱かったり、反対にオーケストレーションは素晴らしいのだが、独創性は全く見られない作品もあった。私は、武満氏から良い作品を探し出す責任を与えられたと思っているので、 真剣にその作業にあたった。1回目の選考を行い、その後もう一度見直す作業を行ったが、2回目も結局最初の選考が間違っていなかったという確認に他ならなかった。つまり、ほとんどの作品が、 特に優れた点のない、中程度のものだということである。1作品だけ、桁外れにいいオーケストラの演奏効果を示している作品があったが、内容はリムスキー=コルサコフやラヴェル、ストラヴィンスキーと 類似しすぎていて、独創的な楽想はまったく見られなかった。決まりきった手法が芸術性を殺してしまうことがあるのである。この作品の対極に位置するものとして、本当にユニークで、難解で、常軌を逸した作品が 1曲あったが、これは演奏不可能なものであった。(中略)
もちろん演奏可能な曲も何作品もあり、私の本当のジレンマは、これらの作品に関して生じたのだった。熟達した技術を持たない、平均的な作曲家4、5人に自作の作品を聴くチャンスを与えるべきなのだろうか? 私は、それは作曲の授業や夏期講習のすることだと思う。45人の作曲家の中には、専門技術を本当に修得するために、良い作曲学の授業をとるように勧めたい人が15人ほどいる。その人たちは、スコアを手に、ストラヴィンスキー やラヴェルや、ドビュッシー、マーラー、ハイドンを聴き、オーケストレーションに関する書物を読んで勉強するといい(この私も今シャルル・ケックランの論文を読んでいる)。(中略)
というわけで、優れた作品が見つからなかった私は、演奏にふさわしい作品の推薦をしないことに決めた。私の考えでは、「武満徹作曲賞」は、特に高度なレベルがふさわしい。初心者を励ますためとか、独創性のない プロ作曲家になんらかの栄誉を与えるためであってはならない。(中略)
大変に落胆されるだろう作曲家のみなさんに、それからコンクールと演奏会の主催者のみなさんに解っていただきたいのだが、私自身も問題の解決方法が見つからなかったのを残念に思っている。一生懸命に努力はしたのだが、 私の基準は非常に厳しかったうえ、審査員が私一人であるため、他の審査員たちと考えや意見をつきあわせてみることもできなかった。芸術家−この場合は作曲家は、自分自身のためにも、聴く人のためにも、そして芸術そのもののためにも 作品の水準を高く保つ責任を負っている。質の面で妥協をすれば、独創性重視の芸術のレベル低下につながる。競争ははげしく、生き延びるチャンスは少ないが、私は若き同僚たち(何人かは私のことを怒っているかもしれないが)にお願いしたい。 今日の作曲と専門技術の現状を改善するため、どうすればいいかを考えてほしい、と。
若い芸術家諸君は、文化のジャングルに影響されることなく、自分の道を探していってほしい。目先の利益を求めようとしてはいけない。作曲コンクールに優勝するといった利益を。(1997年12月10日 ハンブルクにて)
高城重躬氏 - 「レコード芸術」'91年6月号より -
藤田晴子さんは既に有名なピアニストでありながら、東大がはじめて女子に門戸を解放するや、法学部を受験して合格、 卒業後東大法学部の助手を務めていた。藤田さんによるとある雨の夜にベルが鳴ったので玄関に出たら、着流しで下駄ばき姿の若い人が立っている。清瀬保二の紹介で自作の曲を演奏してほしいとのこと、 おあげして話を聞くと、メシアンなどの作品を非常によく知っており、熱気をこめてくわしく説明した。又、雑談の中で、いま探偵小説を書いているとも語ったそうで、これが武満との初対面だった。 (中略)彼女はこの曲(『2つのレント』)が気に入って、初演のあとNHKラジオ放送でも自発的にとりあげて演奏した。
'96年7月1日付朝日新聞夕刊より
今年度のサントリー音楽賞はビオラの今井信子さんが受賞したが、その贈賞式でのこと。指揮者、岩城宏之さん(63) が「亡くなった作曲家の武満徹さんは、一緒に音楽をすると畏怖の念を感じさせる人でしたが、今井さんもそういう人です」 とお祝いをいった後、「ついでといってはなんですが」といってこう続けた。
「この賞は、日本で最も重要な音楽賞ですが、僕がいただいた8年前と、賞金は500万円で変わりません。次回から上げてもよいのではないでしょうか」
拍手や笑いがおさまらないうちにマイクを持ったのが、サントリー音楽財団理事長でサントリー会長の佐治敬三さん(76)。 「えー、では今回から700万円といたします」といったので、再び大拍手となった。
ひと声200万円の岩城さんも「さすが、さすが」とうれしそうだったが、当の佐治さんは「あの場で『次回から』というたら、今回の今井さんに申し訳ないですやろ」。
今井さんは昨年、ビオラ奏者でもあった作曲家、ヒンデミットの生誕100年を記念して東京、ロンドン、ニューヨークで開かれた国際ビオラ・フェスティバルの 音楽監督を務めたことなどが高く評価された。この賞をビオラ奏者が受賞したのは、今井さんが初めてである。
宮澤淳一氏より
Present Ceremony and Galaconcert
honoring the late Toru Takemitsu
1996 Laureate of the Glenn Gould Prize
which is to be presented to Mrs.Asaka Takemitsu and Ms.Maki Takemitsu:In the Glenn Gould Studio
Canadian Broadcasting Centre,
250 Front Street West
Toronto, OntarioWednesday, September 25, 1996
Seating from 7.00 pm,
Program commences promptly at 7.30 pmThe gala presentation will be broadcast live
to the nation on CBC Stereo
and on La Chaine Culturelle FM de Radio-Canada
鈴木一郎氏 - 「現代ギター」'96年7月号より -
ある時、パリへ立ち寄られた武満さんとシャンゼリゼのピアノ・バー "ASCOTT"で朝の4時までお酒を飲んだことがありました。 「このカルバードスおいしいネ...ところで君に1曲何かプレゼントしようと思うが、何か希望はある?」とおっしゃったので、 「この店の閉店のテーマ曲は《ラストワルツ》なんですヨ、聴こえるでしょう...あの曲をギターで弾きたいナ」 「それじゃ明日、いえ今日の朝の11時にホテルへ取りに来なさい。書いておくから...。武満さんはホテルへ帰られ、この《ラスト・ワルツ》を 編曲されました。フロントに預けられた楽譜を手にしたのは約束通り朝の11時でした。
'97年2月13日付朝日新聞夕刊と大沼さん提供によるプログラムより
昨年2月にがんで死去した作曲家武満徹氏を偲ぶ一周忌追悼コンサートが8、9の両日、 ニューヨークのマーキン・コンサートホールで催され、会場はファンで埋まった。 コンサートは日本の音楽を米国に紹介している団体「ミュージック・フロム・ジャパン」が主催したもので、 生前武満氏と親しかった湯浅譲二氏とルーカス・フォス氏がそれぞれ追悼曲を作曲、「リタニ」「海へ」など 代表的な武満作品14曲とともに演奏された。日本の現代音楽の第一人者だった武満氏は米国でも高く評価されており、 コロンビア大学では12日から一周忌行事として同氏の映画音楽を紹介するドキュメンタリー映画を上演する。【8日の演奏曲目】
『Solitude in Memoriam T.T.for Trio(1997)』 by JOJI YUASA
ERIKO SATO,violin;FRED SHERRY,cello;DAVID OEI,piano『Litany(1950/89)』
World Premier
Commissioned by Music From Japan in memory of Takemitsu
KUMI OGANO,piano『Distance de Fee(1951/89)』
IDA KAVAFIAN,violin;KUMI OGANO,piano『Water Music(1960)』
MAGNETIC TAPE『Sacrifice(1962)』
JOHN WION,alto flute;NORIO SATO,lute;WILLIAM MOERSCH,vibraphone『Folios(1974)』
NORIO SATO,guitar『Bryce(1976)』
MARYA MARTIN,flute;MARIKO ANRAKU,JENNIFER SWARTS,harps;WILLIAM MOERSCH,marimba; CLIFTON HARDISON,percussion【9日の演奏曲目】
New York Premier
『For Toru(1996)』 by LUKAS FOSS
MARYA MARTIN,flute;FLUX QUARTET『Toword the Sea(1981)』
World Premier
Commissioned by Music From Japan in memory of Takemitsu
TARA HELEN O'CONNOR,alto flute;NORIO SATO,guitar『Rocking Mirror Daybreak(1983)』
IDA KAVAFIAN,ERIKO SATO,violins『From far beyond Chrysanthemums and November fog(1983)』
IDA KAVAFIAN,violins;DAVID OEI,piano『Orion(1984)』
FRED SHERRY,cello;DAVID OEI,piano『Les yeux clos II(1988)』
KUMI OGANO,piano『And then I knew 'twas Wind(1992)』
TARA HELEN O'CONNOR,flute;SCOTT ST.JOHN,viola;MARIKO ANRAKU,harp『In the Woods (1995)』
NORIO SATO,guitar『Air (1995)』
MARYA MARTIN,flute
小泉浩氏 - 季刊「ムラマツ」'97年春号より -
「海へ」という、アルト・フルートとギターのための曲が1981年に作曲され、その後アルト・フルートとハープとオーケストラ(1981年)、アルト・フルートとハープ(1988年)という2つのヴァージョンが 書かれました。私は、武満さんの大好きであったこの作品を数多く演奏する機会に恵まれましたが、その中でこの曲から「輪廻」ということを感じました。武満さんは無宗教なのですが、私がそう感じた事を お話しましたところ「それは嬉しいです」とおっしゃいました。フルート曲に関して言えば、「海へ」「ブライス」「巡り」「そして、それが風であることを知った」「エア」等に共通して「輪廻」を感ずる ことができます。
武満さんの作品を演奏する時には、この様な事を考えながら、テンポに気を付けなくてはいけません。例えば楽譜にM.M.=80とかM.M.=92とか書いておられますが、ほとんどの曲において、 指定のテンポで演奏をしますと、速すぎるのです。頭の中で歌われて、それをメトロノームに置き換えたテンポと、実際に音(声)として歌われるテンポとでは、場合によってはメトロノームの目盛りで5つから 6つも遅い時があります。「テンポ表示を書き直さなくては」と言っておられたのですが……。(略)
亡くなられたあと、ご自宅に伺ったおりに、ピアノの上に書きかけのスコアがのっているのを見ました。それは何と、フルートとハープのための協奏曲だったのです。 まだ2ページだけで、フルートのソロは出てきてはいないのですが、完成していればきっと素晴らしい曲になっていたはずです。
Toru Takemitsu
A Bird came down the Walk was composed as an expression of friendship and respect for the eminent viola player Nobuko Imai and it is my personal gift to her.The viola,expressing the bird of the title,repeatedly plays the theme,based on the bird theme of my orchestral work A Flock Descends into the Pentagonal Garden. As subtle changes occur in tone colour,the bird theme goes walking through the motionless,scroll painting like a landscape,a garden hushed and bright with daylight.
野々村禎彦氏(赤字部分は中野)
*...*で囲ったものは、チェックしておく価値があると思います。
以上フランスで活躍するフレッシュな若手5人組です。