第7回
前回の「『ジゼル』という名のロシア・バレエ」をアップしてから、すでに一年三
ヶ月を経過してしまいました。皆様、ご無沙汰致しました。
今回から気分一新して、旧作バレエについて長々と論じることを試みたいと思いま
す。例によって不定期、第二回のアップがいつになるかは定かでありませんが、ど
うぞお付き合いください。
バレエ『スパルタクス』序説(1)
昨年(九八年)末、ノヴォシビルスク・バレエ団が来日してアラム・ハチャトゥ
リャンの『スパルタクス』が上演されました。演出はかつてのボリショイの芸術監
督ユーリ・グリゴローヴィチ。観客の入りは今一つでしたが、公演自体はまずまず
の成功と言って良いでしょう。私も久々にバレエを楽しみました。
とは言え、今回の舞台に問題がなかったわけではありません。終演後、この公演
のためにわざわざ来日していたグリゴローヴィチが舞台上に現れ、満場の喝采を浴
びていましたが、正直なところ、隆盛を誇った往時のグリゴローヴィチを知るもの
にとっては、やや痛ましいものがありました。いかんせん、今回の舞台は費用の制
約からか音楽はテープ録音(それもテンポがしばしば踊りにふさわしくない)、美
術は場面転換用の黒い天幕のみ。さらにこのバレエでは、各幕が非常に印象的な構
図を描いて終わるのに、緞帳が下げられるのが早すぎて、この印象的な構図を観客
に十分に印象づけることができずに終わりました。これではせっかくの名作の意義
が薄れてしまいます。
あらためて申し上げますが、ノヴォシビルスクの舞台は非常に楽しめました。こ
れは偽りのない気持ちです。しかし、これをもって『スパルタクス』が分かったと
は考えないで下さい。私が恐れるのは、「なんだ『スパルタクス』って、この程度
か」「ああ、たいくつ『スパルタクス』!」(かつての朝日新聞の見出し)などと
いう、半可通の評論家の心ない言葉によってこの作品を汚されることなのです。今
回、この作品について改めて論じようと思い立った理由はそこにあります。
それで、まず第一回目は、ちょっと古い話になります(いつものことです)が、
私が見た中で最も感動した舞台について語りたいと思います。「序説」のイントロ
として、読み流し下さい。
『スパルタクス』二十五周年記念公演から
一九九三年四月九日は、グリゴローヴィチ版『スパルタクス』が六八年に初演さ
れてから、ちょうど二五周年にあたりました。これを記念して、ボリショイ劇場で
は四月一一日に『スパルタクス』全幕を上演しました。この模様はオスタンキノ第
一テレビによって録画され、ロシヤ全国で放映されています。ちなみに九三年は作
曲家アラム・ハチャトゥリャンの生誕九〇年にも当たり、これを記念して作曲家の
誕生日の六月六日にも『スパルタクス』が掛かっています。
九三年四月一一日、ボリショイ劇場における初演から数えて二三〇回目、グリゴ
ローヴィチ版初演から二〇九回目の公演は、ボリショイ劇場の(当時)最も若い世
代の踊り手たちによって演じられました。すなわちユーリ・クレフツォフ(スパル
タクス)、マルク・ペレトキン(クラッスス)、エリーナ・パリシナ(フリギヤ)、
マリヤ・ブィロワ(エギナ)です。このうちブィロワはエギナ役を一〇年の永きに
わたって演じているヴェテランですが、他はこれらの役を演じるようになって一、
二年の新進でした。
パリシナのフリギヤ、ブィロワのエギナ
フリギヤを演じたエリーナ・パリシナは、グリゴローヴィチの『石の花』、ボッ
カドロの『愛には愛をもって』、フォーキンの『ペトルーシュカ』、ゴレイゾフス
キーの『レイリとメジヌーン』(断片)などでクレフツォフと組んで主役を踊って
おり、実生活でも彼の良き伴侶です。
その面立ちはややエキセントリックで、むしろエギナ役が向いているように私な
どは思うのですが、『石の花』では銅山の女王ならぬカテリーナを、またかつてベ
スメルトノワが踊って好評を博したレイリを踊っていることから、その本質は内に
秘められた女性的な優しさ、ということになると思います。
しかし残念ながらこの日のフリギヤでは、女性的な優しさは内に秘められたまま
で、観客に直接的に伝わってきませんでした。これは、例えばマクシモワやセメニ
ャーカと言った表情豊かな先達の形象を見てきた後では、パリシナの演技が余りに
淡白で、あたかもまだ稽古場から卒業しきっていないように感じられたからです。
フリギアを十全に演じきるには、また数多の舞踊・演劇面での経験が必要でしょう。
しかし彼女には豊かな足の甲としっかり達成されたアン・ドゥオールが備わって
います。この『スパルタクス』でもその脚線の美しさが披露されました。グラン・
パ・ド・シャで高く振り上げられた前足の高さまで腰(重心)が上がっていかない
のがわずかに気になりましたが、技術的にはまず申し分ないと言って良いでしょう。
クレフツォフとの難しいアダジオにおいても、サポート側にやや不安なところがあ
ったにも関わらず、見事に踊りきっています(この点、ノヴォシビルスクのクニャ
シコーワと対照的)。夫君とのパートナーシップと共に、今後も活躍が期待される
ところです。
マリヤ・ブィロワはこれまで見た中で最も素晴らしいエギナでした。もともと彼
女はパリシナに負けないほどエキセントリックな面立ちの持ち主で、妖艶さという
点でこのエギナや『黄金時代』のリューシカ、『愛の伝説』のメフメネ=バヌがま
さに適役なのですが、これまで見た彼女のエギナには技術的な不安が残っていまし
た。
それが、この舞台では全く不安さがありません。例えば第一幕のヴァリアシオン
で、ピルエット・アン・ドゥダンとグラン・パ・ド・シャが目まぐるしく交替する
部分でも、まったく乱れることがない。また第二幕のモノローグで、片足をルティ
レにして、割合ゆっくりとしたテンポでピルエット・アン・ドゥダンをする際、少
しくらいバランスが崩れそうになっても、ルティレにしていた足が緩やかなデヴロ
ッペを行い、身体がすっと伸び上がりバランスを取り戻してしまうのです。どの動
き、所作をとっても揺るぎなく自信に満ち溢れており、非常に心地よい。
昨今のボリショイ劇場では観客の歓呼、拍手喝采を煽るためのブラボー屋(サク
ラ)がうるさく、心ある観客の顰蹙を買っています。この日のブィロワに対しても
ブラボー屋の声が大きかったのですが、この日の演技は確かにブラボーに値する、
まさに第一級のエギナでした。
尚、これは余談ですが、約二ケ月後の六月六日の『スパルタクス』は、二十五周
年記念公演とほぼ同じキャストで上演されましたが、エギナ役だけはニーナ・セミ
ゾロワが踊りました。セミゾロワはクラッススを演じたペレトキンの夫人です。彼
女は『スパルタクス』では始めフリギヤを演じていましたが、あまり似つかわしく
なかったのでしょう、すぐエギナ役に転じました。
しかしことエギナに関して言えば、私ははっきりブィロワに軍配を上げてしまい
ます。セミゾロワにはどこか下町娘のおきゃんな雰囲気があり、それが妖艶かつ狡
猾なエギナの形象にそぐわないのです。技術的完成度、夫君ペレトキンとのパート
ナーシップという点からすると、彼女の方が相応しいのかも知れないのですが。
ペレトキンのクラッスス
マルク・ペレトキンのレパートリーは、『白鳥の湖』のジークフリート、『ジゼ
ル』のアルブレヒトと言ったノーブルな役どころから『バヤデルカ』のソロル、さ
らに『ロメオとジュリエット』のティボルトと言った敵役、そしてこのクラッスス
に及んでいる(いずれもグリゴローヴィチ版。尚、ワシーリエフ版『ジゼル』では
ペレトーキンはイラリオン役を踊っています)。いずれも古典バレエの規範に裏打
ちされた高度な技術をもって演じられており、現在のボリショイ劇場でも群を抜く
名手です。
このクラッススでは髪を金髪に染め丸く纏めており、眼光炯々としてあくの強い
その表情は初演のマリス・リエパを思い起こさせます。クラッススに特徴的なグラ
ン・スーブルソーなど跳躍はとても高く、グラン・バットマンの線は爪先までまっ
すぐ伸び上がっています。ジュテ・アッサンブレ・アン・トゥールナン、ピルエッ
ト、どれをとっても安定していますが、何よりも上体の表現が素晴らしい。
例えば第一幕第一場、ローマ軍進撃の情景。奴隷たち登場の直前、クラッススが
前足を くの字型に曲げて跳躍し、 舞台中央奥から前面に向かって進み出てきます
(このジュテもクラッススに特徴的だ)。この時、まっすぐ前方に突き出された片
腕が周囲に威圧感を与えますが、これはもともとの振付の要請によるもの。彼独特
の表現が明らかになるのはこの直後で、舞台前面に進み出たペレトキンはローマ軍
を鼓舞するように、片腕を前、横にまっすぐ薙ぎ払い、最後に四肢を大の字状に広
げ仁王立ちするのです。これは音楽の各小節一拍目に合わせてなされるため、音楽
的にもこの所作のあくの強さが強調されます。
この後、クラッススは二回転のピルエット・アン・ドゥオールを繰り返します。
これは一つのピルエットが第四ポジション・エファッセで終わるや否や、両足を第
四ポジション・クロワゼに入れ替え、間髪を入れず今度は上体の向きを変え、再び
エファッセの位置に戻り、ピルエットを繰り返すという目まぐるしいものです。ペ
レトキンはここでも一拍毎に、これまでと同じ片腕をまっすぐ前方に突き出す威圧
的な所作を織り込みます。初演のリエパや、これまでクラッススを演じた中でも最
もあくが強そうなボリス・アキーモフでさえも、この個所は下肢の動きの速さに追
われて、上体の所作はややお留守になっていた嫌いがあります。この点でペレトキ
ンは先輩クラッススをはるかに上回り、圧倒的でした。
これは貴族的な悪の形象を見事に体現する、希に見る逸材と言えます。
クレフツォフのスパルタクス
ユーリ・クレフツォフはボリショイの男性的レパートリーをものにした、主要な
ダンサーの一人です。九一〜九二年のシーズンではグリゴロヴィチ版の『くるみ割
り人形』や、ナジェジダ・グラチョーワと組んで『ロメオとジュリエット』にデビ
ュー。また九二年三月に復活上演されたセルゲーエフ版『海賊』でもグラチョーワ
と組んで有名な「グラン・パ」の「奴隷」役を踊っています。さらに九四年十二月
に初演されたグリゴローヴィチ版『ドン・キホーテ』ではガリーナ・ステパネンコ
と組んで好評を博しました。
その踊りは大胆かつシャープで、特に後二者の「グラン・パ」におけるアチチュ
ードでのグラン・ジュテ・アン・トゥールナンなど、勇猛かつ向かうところ敵なし
といった印象を与えます。こうした男性的な役どころを買われて、クレフツォフは
九二年三月二五日『スパルタクス』のタイトルロールに起用されています(パート
ナーは記念公演と同じくパリシナ)。初演のウラジーミル・ワシーリエフから数え
て、十一人目のスパルタクスとなったのです。
これまで私が接してきたスパルタクスは、ワシーリエフやムハメドフなど、まさ
に頑強そのものと言った肉体であり、それに比べればクレフツォフははるかに細身
で、「華奢」な印象を受けました。写真で残るスパルタクスの先達に類型を求めれ
ばヴャチェスラフ・ゴルデーエフを思い起こさせますが、クレフツォフにおいて注
目すべきは腕のリーチが長いことで、これはワシーリエフに近いと思います。
さて記念公演に限って言えば、残念ながらクレフツォフらしさ、勇猛果敢な印象
は薄く、踊りが小振りに見えました。むしろこの踊りが小振りだったため、肉体が
「華奢」に見えたのかも知れません。
例えば第一幕第四場。仲間たちに叛乱を呼びかけるスパルタクスの踊りには、ジ
ュテ・アントルラセからドゥーブル・ソ・ド・バスク・アン・ドゥダン、四回転の
ピルエット・アン・ドゥオールからアラベスクを挟んで再びジュテ・アントルラセ、
そしてジュテ・アッサンブレ・アン・トゥールナンと、立て続けに複雑な技術が畳
み込まれます。クレフツォフはそのいずれもソツなくこなしているのですが、いま
一つ豪胆さに欠けます。惜しいのはポール・ド・ブラで、せっかくの長いリーチが
十分に伸び切らず、そのため圧政に抗して立ち上がろうとする強い意思が周囲に伝
わらず、淡白な印象に終わっています。
第一幕幕切れの有名なグラン・エカルテ・アン・レールにも不満が残りました。
クレフツォフのそれは高さは十分にあるのですが、スプリッツ(水平)に開いた後
ろ足がアン・ドゥオールを欠いており、ハッと眼を見張るようなまっすぐな線の美
しさが出てきません。むしろ第二幕に入って「アッピア街道」の情景で、アチチュ
ードでのグラン・ジュテ・アン・トゥールナンが十分なバロンと横への広がりを持
っており見事でした。だがここではアクロバティックなフイニッシュが音楽の終止
に先行し、いわば音楽を無視して終えられたため、それが個人的にはあまり感心で
きませんでした。
パリシナとのアダジオもやや不安げでした。フリギアを倒立させ片手でリフトす
る際、クレフツォフはパリシナを落とすまいと、恐る恐るもう一方の腕を前に差し
伸べることがしばしばありました。これも肉体が「華奢」に感じられたもう一つの
要因でしょう。
こう非難めいたことを述べてくると、私がクレフツォフ=スパルタクスに致命的
に否定的な評価を与えているように思われるかもしれませんが、実際はその反対で、
私はクレフツォフのスパルタクスに大きな感銘を受けたのです。そこには不満な点
も多々ありましたが、クレフツォフならではの美点も確かにあったのです。
まず第一に、彼の表情です。ムハメドフのスパルタクスと比較するとその違いが
良く分かると思います。タタール系のムハメドフの面立ちは彫りが深く、その両眼
が大きく見開かれあの黒々とした眉によって引き締められると、勇猛さもさること
ながらどこか尊大な印象を与えます。彼がモノローグにおいて強く眼光を投げかけ
る時、圧政に苦しむ剣奴の首領が同志を募り叛乱を呼びかけると言うよりは、逆に
周囲を睨みつけ威圧する感があります。このゆえに私はムハメドフには『イワン雷
帝』こそ似つかわしいと考えています。一方のクレフツォフは、両眼はムハメドフ
と同じように大きく見開かれるものの、眉が厳しく引き寄せられることはなく、そ
の視線は周囲を睨みつけるよりはむしろ遠くに投げかけられ、なにものかを渇望す
るかのように見えます。これは彼が持って生まれた甘いマスクに依存するところ大
であり、比類ないものです。
先に私はせっかくの梶[チが活かされていないことを指摘しましたが、これはま
だ若いクレフツォフが記念公演の大舞台で緊張して萎縮していたのかもしれません。
二ヶ月たった六月六日の舞台では開き直ったのか、別人のようにリーチが伸びて、
奴隷叛乱を仲間に呼びかける明確な意思が前面に押し出されていました。
何よりも印象的だったのは、第三幕第四場「最後の戦い」でのグラン・エカルテ・
アン・レールでした。これは第一幕のそれと同じく、下手奥から上手舞台前面へ三
回、次いで上手奥に回ってそこから下手前面に三回と繰り返されますが、クレフツ
ォフは最後から二回目の跳躍の後、着地の際に前のめりし転倒しそうになりました
。立て続けに大きな(それもあまりにも大きな)跳躍を行ったため、足が挫けそう
になりバランスを崩したのです。普通ならばそのまま転倒してしまうところを、ク
レフツォフはなんとか持ち堪え、体勢を取り戻し、最後のグラン・エカルテを単純
なジュテ・アッサンブレに代えて続けました。
もちろん、客観的に見てこれは失敗です。しかし私は、渾身の力を振り絞ってス
パルタクスを演じるクレフツォフに、初演でスパルタクスを演じたワシーリエフの
再来を見る思いがしました。それはかつてモスクワで『スパルタクス』を見た舞踊
家・石田種生氏の言葉を彷彿とさせたのです。「三幕十二場九モノローグという長
丁場が、息する暇もないほどの緊迫感にあふれていた。スパルタクスを踊ったワシ
リエフは、いまに倒れるのではないかと心配するほど長い強烈な踊りを精力的に踊
り抜いた。感動的であった。物語の筋をなめるようになぞっていく『ロメオとジュ
リエット』などと違って、これは舞踊的な飛躍があって心地よい。……このバレエ
は世界の傑作に間違いありません。」
良い得て妙とはまさにこのことでしょう。バレエがただ「物語の筋をなめるよう
になぞっていく」だけならば、いずれこの芸術は言葉の演劇や精巧な黙劇(パント
マイム)に淘汰されてしまいます。だがバレエはまた、与えられた振付をなぞって
進行するだけのものでも決してありません。石田氏の言う「舞踊的や飛躍」とは、
振付に従いつつも、さらに振付を超える「飛躍」という意味で解されるべきでしょ
う。そのことをこの記念公演は改めて認識させてくれたのです。
バレエ『スパルタクス』には音楽の輝かしさ、舞踊のダイナミズム、作品に秘め
られた数多のシンボリカなど、今日までのロシヤのバレエ芸術が培ってきた美質の
すべてがあります。これから私はその美質のひとつひとつについて、説き明かそう
と思うのです。
(第一回、終)
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