かなり長文(52kb)ですので、オフラインでお読みいただくことをお勧めします。
西村氏のホームページ 【TAKA&ZUKA駄べり館】で、フィギュアやトールキンの墓の写真がご覧になれます。
(otako@mti.biglobe.ne.jp)
馳夫殿よりメールをいただき、その中で丁重なる「紀行文」執筆のご依頼がありました。この文章は、それに応えるべく書き始めたものです。しかしながら、生来の回りくどい性分ですので、要点をまとめて簡潔にする、ということができません。おそらく、長大な駄文となることだと思います。(予防線を張っておかないと、後がコワイ……)
さて、さっさと本題――すなわち、「トールキン墓参旅行の顛末」を書くべきなのでしょうが、せっかく同じ『指輪物語』ファンと知り合えた今、この作品への熱い思いを語らないではおられません。(残念なことに私の身近には同好の士がいないのです。職業柄――馳夫殿は私の職業を「なんらかの文筆活動に携わっている」などとご想像のようでしたが、一介の地方公務員に過ぎません――多くの人に『指輪物語』を紹介する機会はあったのですが、最後まで読み通してくれた人は皆無でした。)
蛇足であるとは承知の上で、私がどのようにして『指輪物語』の世界に耽溺していったか、そして墓参という暴挙を敢行するに至ったかを述べさせていただきたいと思います。(「全文が蛇足じゃない?」という声が、背後から聞こえております。黙らっしゃい!!)
私が『指輪物語』と出合ったのは、大学時代のことです。あちこちの本屋に文庫版の『指輪物語』が並べられているのを見て、何度か手に取ってみたのでした。しかし、そのときは、読んでみようという気にはなりませんでした。
それから程なくしてだったと思います。私にとってのもう一人の神様・手塚治虫が、ラルフ・バクシ監督のアニメーション映画『指輪物語』を絶賛していた(実は別のメディアでは酷評していたらしいのですが……ま、手塚治虫にはよくあることですから、驚くにはあたりません。)ことから、より強くその名を意識しました。にもかかわらず、なぜか読まないままに時は過ぎ去りました。
数年の月日が流れ、私は思いもよらない形で『指輪物語』と再会しました。年甲斐もなくパソコンゲーマーの道を歩んだ私(飽くまでゲーマーとして現在まで年輪を重ねてきて、パソコン自体には全く精通しなかったところが私らしい)は、愛機PC9801F2を操り、あの名作ロールプレイングゲーム『Wizardry』にのめり込んだのです。凝り性の私は『Wizardry』関連の本を読みまくりました。そして、その中で何度も『指輪物語』に関する記述を目にすることになりました。そればかりか、このゲームが『指輪物語』なくしては存在し得なかった作品であることも知りました。(もっとも――今だから言えることですが――当時のコンピュータRPGで『指輪物語』の影響を受けていない作品を探すことの方が困難です。初期の日本のコンピュータRPGの中には「バルログ」なんていう最強モンスターが出てくるものもありましたっけ。)
閑話休題、かくして私は遂に『指輪物語』全編を読み通す機会を得ました。最初は飽くまでも、『Wizardry』に対する興味の延長線上に過ぎなかったのです。が、指輪の仲間が離散するあたりまで読み進んだときには、完璧に意識が逆転していました。私はすっかり『指輪』に取り憑かれていたのです。(まさに指輪の幽鬼……しまった、セオデンではなく、ナズグルと名乗るべきだったか?)
ラストシーン「サムのため息の場面」で、私は思わず涙ぐんでしまいました。(我ながら、ちょっと気恥ずかしかったのですが、後に、『ゲド戦記』シリーズの作者アーシュラ・K・ル=グウィンが「この場面を読む度涙する」と記しているのを読んで、妙に力づけられました。私、権威主義者なのです。)
先にも述べたとおりの凝り性ゆえ、今度は『指輪物語』関連の本を読み漁ることになりました。前作『ホビットの冒険』、未完の大作『シルマリルの物語』以下、公刊されている研究書を含むトールキン関係の書物のほとんど――としか書けないのは、情けないことに『妖精物語について』(福音館書店刊)を、未読であるからです――を読破し、無論『指輪』本編も7,8回読み返しました。その中で、馳夫殿のホームページ上の「到達者の館(旅の仲間 上)」で触れた「私家版指輪物語総索引」を完成させました。これについては、先にメールでお知らせしたとおり(ちゃんと届いたかどうか、電脳空間の藻屑と化してはいまいかと、初心者としては心配でなりませんでしたが、無事届いたようですね。)の代物で、旧版『指輪物語』(ハードカバー版)に基づいて、人名・地名・アイテム名・その他の固有名詞を書き出し、一覧にしただけものです。基本的に初出だけ――というより、一度出てきたと思ったものは自分の判断で無視してしまっていますので、不完全もいいところ、索引とは名ばかりです。それでも読書の役には立ってくれましたが……。
……ちょっと飛行機は(章題がネタ本と前後してしまった、情けない)……
そうこうするうちに、1992年3月に「トールキン生誕百年」を記念した新版『指輪物語』が出版されました。早速愛蔵版を入手しましたが、その最後には旧版で割愛されていたエルフ語の表記法などとともに、ちゃっかり「索引」がつけられているではありませんか。確かに索引があると読みやすいことは明らかです。しかし、なにか、愛し子を他人に奪い取られたような奇妙な感覚に襲われ、「それなら旧版にもつけておいてくれれば、わしゃあんな苦労はせんかったぞい」てな感じで、ちょっとひねくれてみたくなったことを、今でも記憶しています。
ついでの話ですが、新訳の文庫版で「追補篇」を割愛してしまったのには納得がいきません。「追補篇」の存在を知らぬままに『指輪物語』を読み通したと思いこんでしまう読者が生まれるのは、好ましいこととは思えませんが、如何でしょうか? それはさておき、実のところ、そのことよりももっと強く私の心を捉えていたのは「生誕百年」という言葉でした。連想ゲームのように「没後百年のころには俺も生きていないな」、という想念が浮かびました。それに「生誕百年」となれば、なんらかのイベントも催されると考える方が自然ではないか。新版の共訳者、田中明子氏の後書きには「トールキン肉声の朗読テープ」が存在している事実まで明かされています。ひょっとしたら、イギリスに行けばそれも手に入るのではあるまいか。その他、日本では入手困難なトールキン関係のアイテムがゴロゴロしているに違いない……。こう考え始めると、もう居ても立ってもいられなくなりました。
元来飛行機嫌いで、妻の再三の海外旅行の誘いも「ひとりで行っといで」と、かわしてばかりいた私が、突然「イギリスへ行くぞ」と言い出したのには、さすがの我が妻も驚いたようです。しかし、一方こちらは海外旅行大好き女である妻の立ち直りもみごとでした。瞬く間にイギリス旅行に向けての準備を整えてくれた手腕には脱帽しました。私は私で、『J.R.R.トールキン 或る伝記』(評論社刊 以下『或る伝記』と表記)を再読、トールキンがオクスフォード郊外のウォルバーコート墓地に葬られていること、生前のトールキンがオクスフォード近辺で何度も転居をしたこと、そのそれぞれの住所番地などもチェックしました。また、植物園のヨーロッパクロマツを背景に撮られた、最晩年のトールキンの写真を見ながら、「私も同じポーズで写真を撮ってやろう」と心に誓ったりもしました。
1992年8月15日、旅立ちの日はやってきました。(お待たせしました。と、言いたいのですが、まだまだ寄り道は続きます。悪しからず。)
12時間半に及ぶ恐怖のフライト(一度など、エアポケットに入ったのか、体感的には100メートル以上の垂直降下をやらかしてくれました)を終え、私はイギリスの土を踏みしめました。とうとうトールキンの国へやってきたのだ、という感慨は、正直、その段階ではありませんでした。午後1時頃に成田を発って、半日経っているのに、どうしてまだ午後7時なのだ。これは不条理だ。理屈では時差の存在を承知していても、体はもうヘトヘトの状態でした。早く眠りたい!
ああ、それなのに、現地係員の女性は妙に元気で、延々と明日からの日程の説明を続けている……。「そりゃ、あんたは現地時間で生活しているからいいでしょうけど、こっちは丸1日眠ってないんだよ、早く解放してくれえ!!」という私の心の叫びも届かず、彼女は小一時間しゃべりまくってから、漸く私たちを放免してくれたのでした。因みに、「日程説明」といっても、翌日のロンドン半日観光以外は全てフリープランのツアー(要するに放し飼い状態というやつ)で、現地係員の仕事など皆無に近かったのです。今思えば、彼女はサウロンかサルマンの手先だったに違いありません。(そう言えば、彼女の手が妙に白かったような……あ、こういう下品な洒落は駄目ですね。)
ダメージの残ったままの8月16日は、定番のロンドン観光と、ロンドン最大級の書店のチェックだけで過ぎ去っていきました。それでも、日本で刊行された新版『指輪物語』の底本になったと思われる、アラン・リー挿し絵の愛蔵一巻本はしっかり手に入れましたが……。
……ふしぎな尖塔……
翌17日は、オクスフォードへと逸る気持ちを抑えつつ、エジンバラへと飛びました。これは通訳氏(我が妻)の希望に添ったもので、私自身は「また飛行機に乗るのか」と思うだけで憂鬱な気分に支配されていました。
エジンバラへ着けばついたで、なんと霙が降っている始末。なんでやねん?の世界です。イギリスの夏は涼しいとは聞いていましたが、まさか、あまりの寒さに手がかじかんでカメラのシャッターが切れない、なんて事態があろうとは、想像だにしませんでした。でも、悪いことばかりではありません。エジンバラには「スコット記念塔」という観光名所があるのですが、これが、素晴らしかったのでした。地上約60メートル、まるで宇宙ロケットをグロテスクな紋様で飾り立てたような外観、全体が煤けたような黒一色で彩られ、まさに「ミナス・モルグル」を彷彿とさせる、異様な、しかし、私を惹きつけてやまない建造物でした。
ここでは、もう一つ発見をしました。街の土産物屋で『指輪物語』を題材にしたフィギュアが売られていたのです。最初に見つけたのは「Black Rider(黒の乗り手)」でした。その時は、まだ半信半疑でしたが、直後に「Gandalf & Shadowfax」のフィギュアを発見。これは紛れもなく、飛蔭に乗ったガンダルフの雄姿です。そう思ってみると、あちこちの店頭に実に様々な「指輪物語フィギュア」が飾られています。のどから手が出るほど欲しかったのですが、まだ、先の長い旅です。この段階では荷物は増やすまいと心に決め、エジンバラを後にしました。(この判断のために、後に走り回ることになろうとは、私も通訳氏も知る由もありませんでした。)
以下の文章は、巻末に付した「オクスフォード・マップ」を参照しながら読んでいただくと、分かりやすいと思います。
明けて8月18日。パディントン駅(クリスティーの推理小説でも有名ですね)に向かいました。ここからオクスフォードまでは、1時間前後の列車の旅です。(ここまで我慢を重ねてお付き合いいただきまして、ありがとうございます。いよいよ、オクスフォード珍道中の始まりです。)
期待を胸にオクスフォード駅に降り立ちました。と言っても、この日はまだ墓参りの予定はありませんでした。なぜなら、ウォルバーコート墓地の正確な位置を把握していなかったからです。取りあえずは、街の中を探索して、トールキンの暮らした家やフラット(アパート)、講義したカレッジ(学寮とも。因みに、イギリスの人は頑固にコレッジと言うのだそうです。)などを巡り歩きつつ、墓地の情報を掴もうというのが、当初の計画でした。(というより、ウォルバーコート墓地までの直線距離は4q程度という、『或る伝記』からの事前情報で高をくくっていたのです。4qなら歩いたって1時間さ、と。これが、翌日の地獄を招くのですが……。)
学生の街にふさわしく、夏休み期間中のオクスフォードは、一歩メインストリートを外れると、静かそのものでした。そのメインストリートの方も、歩いているのは、ほとんどが観光客(なにせ、周囲から聞こえるのは英語ならぬスペイン語、フランス語、それに中国語や韓国語といった類ばかり)という状況の中、「なにはともあれ、まず観光案内所へ!」と主張する通訳氏の言葉に従うことにしました。そこでウォルバーコート墓地について調べようとしたのですが、インフォメーションの人も知らない様子です。どうも嫌な予感がしてきました。
仕方なく、セントメアリー教会やクライストチャーチカレッジといった、観光名所でも見ながら、これから先の行程を考えてみようか(一応、今日はこれだけは見ておきたい、というものは事前に決めていたのですが……)という、腰の砕けた仕儀とは相成ってしまったのでした。
まずは、マートンストリートを歩いて、トールキンが教授として講義をしたマートンカレッジや学生のテストを行ったエグザミネーションスクールを見ました。その後、トールキンが晩年を過ごしたマートンストリート21番地の質素なフラットを見つけることに成功しました。「ここで、あのトールキンが生活していたのだ」との感慨を胸に、入り口の前で写真を撮りながら、慎ましかったに違いないトールキンの生活ぶりが想像されました。
その近辺にはほとんど観光客もなく、そんなところで写真を撮っている東洋人というのも、随分と奇妙な構図だったのではないかと思われます。
突然、私たちに声をかけてきた人がありました。振り返ると、品のよい老婦人が私たちの方を見て微笑んでいます。婦人は親しげに何か話しかけてきました。通訳氏によると、「私は以前、日本からの留学生をホームステイさせていたことがあります。あなた達を見ていたら、つい懐かしくなって声をかけてしまいました。」とのことでした。私はどぎまぎしていただけで、後は通訳氏が二言三言、言葉を交わしていた、たったそれだけの出会いでしたが、なにか、この町に住む人の温かい心に触れたような気がしたことは、今でも強く印象に残っています。
続いて、彼が学生として学んだエグゼターカレッジを見に行きました。ここで、思わぬ大発見をしてしまったのでした。
エグゼターカレッジの正門付近をうろうろとしているうちに、なにか、奇妙な張り紙を発見したのです。見覚えのあるドラゴンの絵。紛れもなくトールキンの描いた竜の絵です。近づいて、書かれている文字を見ました。ひときわ大きく、「J.R.R.TOLKIEN」とあります。中程には例のドラゴンの絵。
その左に「EXHIBITION」とあるのが確認できました。
その下には再びトールキンの名と「1892−1973」と、彼の生没年が記されています。
次には「BODOLEIAN LIBRARY」の文字。
更に下方には、こう書かれていました。
「18AUGUST−23DECEMBER1992」
通訳氏の力を借りなくても、これぐらいは私にも分かりました。「ボドレアン図書館でトールキン展が開かれる」という案内だったのです。それも、1992年の8月18日から……。
間違いなく、それは今日です。私は思わず通訳氏と顔を見合わせました。なんという偶然。「運命」という言葉を、この時ほど実感したことはありませんでした。(今であれば、それこそインターネットを利用して、事前に情報を入手しておくことが可能です。しかし、もし、あのとき、こうした情報を事前に知っていたとしたら、あれほどの感動は味わえなかったと思います。世の中が進歩していくことで、得られることは多くなりましたが、一方で、失ってしまったものも確実に存在するのでしょうね。) 興奮が最高潮に達した私は、マップを片手に、通訳氏を引きずるようにして、ボドレアン図書館に向かいました。そして、道に迷うこともなく、辿り着くことができました。(実は、エグゼターカレッジのすぐ近くだったからなんですが……。)
こぢんまりとした展示会場には、トールキンの自筆原稿、絵画(トールキンの水彩画はほんとうに味がありますね。私も昨年、念願叶って画集を手に入れました。通訳氏がオーストラリア旅行の土産として買ってきてくれたのです。)などに混じって、世界各国で出版されているトールキンの本が展示されていました。我が日本からは、瀬田貞二訳の『ホビットの冒険』『指輪物語』などが並べられておりました。一通り見終わって、ポスターと「LIFE AND LEGEND」と題された、立派なプログラムを購入しました。
同時にその時、私たちの前で同じようなものを購入していた外国人女性の姿が、不思議なほど印象に残りました。(彼女は、展示を見学する際も常に私たちの直前を歩いていたのですが、ドイツ語とおぼしき言葉で、何か呟いていたのです。)
さて、買い物ついでに、係員というには余りに恰幅のよい老紳士に「ウォルバーコート墓地にはどう行ったらよいのですか?」と尋ねた(正確には「尋ねてもらった」)のですが、返事は「知らない」の一言でした。不安がますます募りました。
それでも、自分の幸運に酔いしれていた私としては、半分夢見心地のまま、クライストチャーチカレッジを経由し、本日のメインイベントである植物園に向かいました。そう、あのヨーロッパクロマツの前で写真を撮るためです。
植物園の入り口で、入場料ならぬ寄付金を納め、中に入りました。右顧左眄しながら歩いたのですが、なかなか、あの写真にあったような木は見つかりません。まさか、あの木はもう枯れてしまったのではあるまいか、などと焦りを感じ始めた頃、それは突然視界に飛び込んできました。
トールキンが愛してやまなかったヨーロッパクロマツの木。
生前最後の写真の背景として選ばれた運命の木。
ヴァリノオルにおける2本の木――テルペリオン・ラウレリン――或いはヌメノールの白の木のイメージにも影響を与えたかもしれぬ木。
それは、一言で表せば、「異形の木」でした。二抱えもあろうかという幹は、地上2メートルほどの高さから、複雑な形(ねじくれている、という表現こそが相応しいのかもしれません)で枝分かれしています。カメラに向かって例のポーズを真似てみながら、私の思いは『シルマリルリオン』や『指輪物語』の世界に翔んでいました。
植物園を後にして、マップだけを頼りに、マナー通り3番地及びホリウェル通り99番地にあるトールキンの旧住居を探し当てることができました。1940年代後半から1950年代前半にかけて、『指輪物語』執筆、推敲の舞台となった場所です。両所とも、今は別の誰かが住んでいる様子でしたが、「こんな畏れ多い家で、よく生活できるものだ」と、変な感心の仕方をしてしまいました。
気分を換えて、セントメアリー教会の展望台に登り、オクスフォードの町並みを眺めてみました。歴史を重ねた建造物が、信じがたいことですが、自然そのものの一部のように私の目には映るのでした。「人間も自然の構成要素の一つに過ぎない」――こんな言葉が、不意に思い浮かんできました。気がつけば、もう夕暮れ時(これは言葉だけの話。実際には午後8時ぐらいまでは明るい。)です。私たちは「ウォルバーコート墓地」に関する情報を得られぬまま、帰路につかねばならなくなっていたのでした。
……墓のない街……
8月19日。「オクスフォードの中心から北に4q」という手掛かりだけを頼りに、私たちは再度オクスフォードに向かいました。オクスフォード駅で、墓に手向ける花を購い、一路北に向かって歩き始めました。途中、セントジョン通り50番地とアルフレッド通り(現在はプシイ通りと改名)1番地の旧住居の前を通りました。そして、昨日から続く住居訪問の結果、不可解な事実に気づきました。どういう訳か、その付近でいちばん薄汚れた家(フラット)が、かつてトールキンの自宅だったのです。トールキンの旧宅ということで保存されているのか、とも考えましたが、だとするなら、現在居住している人間がいる(らしい)のも不自然です。セントジョン通りのフラットなど、左右の部分は新しく塗り替えられているのに、50番地のその部分だけはみごとなほど、真っ黒に汚れたままだったのです。
彼の説明してくれた通りにしばらく歩くと、「ウォルバーコート墓地」の文字が書かれた塀が見えてきました。その、長く続く塀の途中に、扉が一つありました。遂に、念願が叶った(と思った)のです。
『トールキン巡礼の旅』本編はこれにて完結です。しかし、まだ解決されていない問題が残っています。それは、例のフィギュア探索行です。
……もとの古巣……
思い返せば、今からもう4年以上も前の旅の話なのに、細部まで鮮明に覚えていたことに、我ながら驚いています。あのとき手に入れたアイテムの数々は、今も我が家の宝です。(それらを納めるためにだけ、サイドボードを購入してしまいました。)
……筆者悪あがき……
私は根本的に人混みとか観光地とかは好きではありません。人が沢山いる所に身を置くだけで、精神的ダメージを受ける体質だからです。その私の性格を知り尽くしている通訳氏が、旅行後しみじみと言ったものでした。 「今度の旅行中のあなたは別人としか思えなかった。」 1996年12月16日午後11時28分 脱稿
不審を拭い去れぬままに、アルフレッド通りからセントジャイルズ通りに突き当たる交差点に出たとき、その角にある本屋が目に入りました。オクスフォードの街にはいくつかの書店がありましたが、例外なく、トールキン関係の書物が並べられていました。その本屋にもトールキンカレンダーなどがディスプレーされていたので、思わずそちらに目が行ったのです。ところが……。私は、そこに信じられないものが飾られているのを見つけてしまったのでした。
足に震えが来るのを自覚しながら、私はもう一度「それ」を見つめました。間違いなく、そこには「TOLKIEN LETTERS」と大書された紙が貼られており、その下には、震えたような独特の文字で書かれた数葉の手紙が飾られていたのです。トールキン自筆の手紙が、街の小さな本屋で売られている!値段は350ポンドと記されていました。
当時の1ポンドが日本円にしていくらぐらいだったかについては、はっきり記憶していません。ただ、おいそれと手を出せる金額でなかったことは確かでした。(1996年12月現在で1ポンド≒200円ぐらいです)
一瞬、「買ってしまおうか?」と思いましたが、「これが偽物でないとどうして分かる?そもそも、なんでこんなところにそんなに貴重なものがあるのだ?」という疑いも湧き上がりました。結局、店主の許可を得て、写真を撮らせてもらうだけでそこを後にしましたが、後ろ髪の引かれる思いがあったことは否めません。
その本屋からさほど離れない場所に「The Eagle and Child HALLS」というパブがありました。『或る伝記』にも記されているとおり、ここが、トールキンやC.S.ルイスらが、インクリングスという会合を持ったパブです。すかさず、記念写真を撮りました。中に入ってみようかとも思いましたが、如何せん、まだ午前中。空腹感は全く感じておりませんでした。また、パブの、あの、くどい食事を食べる気分でもありませんでした。なによりも、墓参という大目的を果たさねばなりません。(後に、このパブか「White Horse」という名のパブのどちらかが、店内に「トールキンのいつも座っていた席」を表示している事実を知りましたが、後の祭りでした。このあたりの展開は『徒然草』の「仁和寺にある法師」のエピソードそっくりですね。)
私は、改めて北に向け歩き始めました。しばらくすると、やや後方から、足取り重くついて来ていた通訳氏が何やら指さしながら囁きます。
「バスで行こうよ。」
指さす先にはバスストップ。更に通訳氏曰く、「北へ向かうバスに乗ればいいはずでしょ。」
ウォルバーコートへ行くことさえできれば、私が否やを言う理由もありません。私自身、次々と身に降りかかる大事件に、少しばかり疲れを感じていたのでした。
程なくやってきたバスの運転手に、通訳氏が、「ウォルバーコートへは行きますか?」と、尋ねたところ、運良く「このバスはウォルバーコート行きです」の答え。早速乗り込みました。後は終点までのんびりしていればよい訳です。この時点では、自分たちの幸運を信じて疑わない私たちでした。
乗車後いくばくもしないうちに、バスの窓の外の景色は、田園風景に変わってきました。オクスフォードの街は、地図から判断するより、はるかに小さなものだったと実感できました。
不思議だったのは、郊外の町に入ってから、バスが頻繁に停車することでした。そして、停車する度に、確実に客が降りるのです。しばらくして、納得がいきました。運転手に声をかけさえすれば、バスストップなどお構いなしに、どこへでも降ろしてもらえるらしいのです。中には、運転手と顔見知りらしく、以心伝心・阿吽の呼吸で降車する人までいる様子でした。
乗客も残り2,3人という状態になってきました。通訳氏が、近くの乗客に「ウォルバーコート墓地へは、どうやって行けばよいのか」尋ねました。すると、その人とは別の若い乗客が、強い口調で何か言い始めました。どうやら、墓地への道順を説明してくれているようなのですが、事細かに地名やら目印やらを説明されても、地理不案内の通訳氏には理解することが困難だったのでした。
そうこうするうちに、私たち以外の全ての人が降りてしまいました。私たちだけを乗せたバスは、ロータリーのような場所に停車しました。改めて、通訳氏が運転手に「ウォルバーコート墓地」の位置を尋ねたところ、思いもよらぬ答えが返ってきました。
「このバスはウォルバーコート墓地には行かない。ここが終点だ。」
私たちは、とんでもないミスを犯していたのでした。このバスは確かに「ウォルバーコート行き」だったのです。しかしながら、「ウォルバーコート墓地行き」ではなかったのです。「ウォルバーコートには墓地だけがある」という思い込みが招いた悲劇(喜劇)でした。後で調べてみて分かったことですが、ウォルバーコートはオクスフォード郊外の住宅地で、墓地はその一角を占めているに過ぎなかったのです。今にして思えば至極当然のことですが、その時はそんな当たり前のことにすら気づかないほど気分が高揚していたのでした。
途方に暮れた私たちを、バスの運転手が救ってくれました。
「墓地の近くまで送っていってあげるよ。」と、申し出てくれたのです。地獄で仏、とはこのことです。異邦人に対して警戒的な日本人とは異質な、イギリス人の大らかな感性を垣間見た思いでした。(それにしても、彼は、花束を抱えて墓地に行こうとしている東洋人を、なんだと思っていたのでしょう?)
バスは運行ルートを外れて、かなりの時間走りました。その事実から推して、私たちが目的地から相当ずれた方向へ来てしまっていたことが理解できました。運転手は、停車した後、丁寧にそこからウォルバーコート墓地へのルートを説明してくれた上で、私たちを降ろしました。
私たちは、期待を胸に古びた扉をくぐりました。そして、眼前に広がる光景を前に、呆然と立ち尽くしたのでした。見渡す限りの墓、墓、墓……。視界に入ってきたのは、とにかく、無数の墓標、それだけでした。
数瞬後、通訳氏がぽつりと呟きました。「どうやって、探すの?」
『或る伝記』の中には、トールキンの墓に関して、次のような一文があります。「一連の墓のだいぶ左よりにあるコーンウォール産の御影石の灰色の幅広い厚板は、くっきりと目立つ(p305)」
私はこの記述から、「トールキンの墓は、他と比べて非常に変わったものである」と判断していました。従って、すぐに見つけられるものだと考えていたのでした。ところが、現実は甘くなかったのです。いくら特徴のあるものであったにせよ、これだけの数の墓の中から「変わった墓を発見する」ことが不可能なことは、一目瞭然でした。目の前が真っ暗になるのを自覚しながら、少しの間、手近な墓石に刻まれた墓碑銘を読みとろうという、空しい努力を試みました。通訳氏は、既に諦めている様子で、そんな私の後ろ姿をカメラに収めるなどという、間抜けな行動に出始めました。 絶望に打ちひしがれながら、2、30分も歩き回ったでしょうか。別の出入口の近くまで辿り着いてしまいました。そこで、墓の周りの草刈りをしている初老の男性を見かけました。藁にもすがる思いで、通訳氏が尋ねました。「トールキンの墓をご存知ないですか?」
男性(たぶん、管理人だったのでしょう)は、足許を指さして、あっさりと答えました。「これに従っていけばいいんだよ。」と、示してくれた地面には、小さな案内板。それには、はっきりと「J.R.R.TOLKIEN AUTHOR」と記されており、矢印まで付されているではありませんか。(いろいろと「後で分かったこと」が多い旅でしたが、この男性が草刈りをしていた場所の近くにあった出入口こそが正面入り口で、その前にはちゃんと「トールキンの墓への案内板」が掲示されていたのでした。なんという大間抜け。早とちりしてバスに乗ってしまったことが、更なる過ちを招いていたのでした。)
さて、結局彼は、草刈り機を担いだまま、私たちをトールキンの墓まで案内してくれました。途中、私たちがどこから来たのかを尋ねて、トールキンが日本でも翻訳されているなんて知らなかったと、感心している彼の姿が、私の目には、神様のように神々しく映りました。(仏様に逢ったり神様に逢ったり、やはり幸運な一日だったと言った方がよいのでしょう)
何分か歩いて、彼が言いました。「ここだよ。」
今度こそ、遂に、遂に、念願が叶いました。トールキンの眠る奥津城が、今、静かに遠来の客を迎えてくれています。(案内してくれた「草刈りおじさん」への挨拶も上の空で、彼がいつ、どのように立ち去ったのか、ほとんど記憶していません。)
通訳氏と二人、暫くは脱力したようにトールキンの墓を見つめていました。今日のこと、さらには今日を迎えるまでのことが、次々と脳裏に浮かんでは消えていきました。そして、漸く冷静さが戻ってきました。
つい最近、先客があったらしく、ちょっと萎れたカーネーションの花束が飾られています。少し雑草も生えていました。掃除をしてから花束を捧げることにしようと、草取りなど始めたところ、先客の供え物らしいものを、二つ発見しました。一つはマルクの硬貨。――不意に、昨日ボドレアン図書館の中で見掛けた、あの女性の姿が思い浮かびました。ひょっとしたら、私たちより先に彼女がカーネーションを捧げに来ていたのかもしれないな、と直感しました。もう一つの供え物は、小さな鷲の人形でした。風早彦グワイヒアか、ソロンドオルのつもりに違いありません。私たちと同じように、国境を越えてやってきたのであろう見知らぬ誰かに、十年の知己に対する友情のようなものを感じた瞬間でした。
掃除を終え、朝から私たちと苦楽を共にしてきた花束を捧げました。墓碑に刻まれた、
EDITH MARY TOLKIEN
LUTHIEN
1889-1971
JHON RONALD REUEL TOLKIEN
BEREN
1892-1973
という文字を見ているうちに、改めて万感の思いが込み上げてきました。
思い入れを写し込むように、写真を何枚も撮りました。最後に、先客に倣って500円硬貨を供え、私たちはトールキンの墓を後にしました。
正門から出た私たちは、今度は迷うことなく(またもや通訳氏が活躍し、散歩中の人に、どのバスに乗ったらオクスフォードの街に行けるか確認してくれたのです。)、街に帰りつくことができました。後は、ノースムア通りの旧トールキン宅を訪ねることだけが、残された目的。しかし(全く、よく出てくる接続詞です)、例の如く、道に迷ってしまいました。それでも、迷ったおかげで、ドラゴンスクール(トールキンの子供達が通った学校)を発見できたのは、転んでもただでは起きない我が夫婦の生き方を反映したものだったでしょうか。随分な遠回りをしたものの、無事にノースムア20番地及び22番地の旧トールキン宅を見つけることができました。『或る伝記』によれば「子供の教育のために、閑静な場所の広めの一戸建ての住宅を選んだ」とのことでしたが、まさにその通りの場所に、ひっそりと佇んでいました。これで、オクスフォード市内に残っているトールキンの旧宅は全てカメラに収めることに成功したわけです。
オクスフォードの中心街に戻った私は、今度は、本を物色しました。市内最大の書店「BLACKWELL」には、さすがにトールキンのホームグラウンドらしい、ロンドンでは見られなかった本が置かれていました。『トールキン一家のアルバム』とか『(世界各国での翻訳の挿し絵を付してある)注釈 ホビットの冒険』といった類は、値段も顧みず、即座に購入してしまいました。その他トールキン自身による挿し絵が美しい「アドレス帳」「日記帳」なども買いました。この「日記帳」は、『指輪物語』中のイベントの発生した日にはその旨が記されている、というちょっと得した気分になれる本でした。また、以前から欲しかった『Journeys of Frodo』も入手できました。
いつの間にか、夕刻を迎えていました。ずしりと重い本を抱えて、私たちはオクスフォードに別れを告げたのでした。
ロンドンへ帰る列車の窓外に、原子力発電所の、他を威圧するような外観が、間近に見えました。科学文明の象徴ともいえる原発を、トールキンはどのように感じているのでしょうか……。
かくして、『彷人の冒険 ―追補篇―』の始まりです。(馳夫殿。きっと、とんでもない奴に原稿の依頼をしたものだと、後悔なさっておいでのことでしょうが、今暫くの辛抱です。)
実は、エジンバラでフィギュアを見つけたとき、「どうせ明日からオクスフォードへ出かけるのだから、そこで購入すればよい」という気持ちがあったのです。本編では省略しましたが、書籍とともに当然フィギュアも探したのです。ところが、どこにもそれは売られていなかったのでした。エジンバラ同様、フィギュアを扱っている土産物屋があるのだろう、などと思っていましたが、オクスフォードにはそれらしい店は存在しませんでした。(見つけられなかったと言った方が正確かもしれませんが……。)
例のフィギュアは「Tudor Mint」という名称のメーカーの製品である、ということはエジンバラで確認していました。同メーカーの製品は、オクスフォードの貴金属店で扱われていることも分かりました。ドラゴンのフィギュアも実際に置かれていたのですが、それはトールキンの物語とは無縁のもののようでした。
8月20日からの数日間は、通訳氏の希望に添って「ロンドン市内を探索する」ことになっていましたので、その間、私は氏に付き合うふりをしながら、貴金属店を見かける度にそこへ突入しました。20日・21日の2日間は、それだけで過ぎていったという感じでした。ハイドパークやマダムタッソー蝋人形館、大英博物館などを訪れたのですが、ほとんど印象に残っていません。ただ、大英博物館の趣味の悪さには気分が悪くなりましたが。(何か、大英帝国の略奪の歴史を自慢げにひけらかしているだけのような気がしてならなかったのです。)
さて、滞在の残り日数もあと僅かとなった8月22日。ウィンザー城へ出かけることになりました。(確か、火災が発生する前年だったと記憶しています。)
城内の絢爛豪華さは、まさに溜息ものでした。こういう世界に実際に住んでいる人間もあるのだなあと、小市民共通の感慨を胸に、外に出ました。
日本と同じく、観光地のお約束に従って、通り一面に土産物屋が並んでいます。何か、エジンバラの雰囲気と似ているな、と感じました。この数日間で諦めかけていた希望が再び燃え上がり、私は土産物屋の探索行に励み始めました。そして、何軒目かで『指輪物語』フィギュアに出会ったのです。残念ながら、ガンダルフではありませんでしたが、「The Strider」すなわち、馳夫のフィギュアに。(その店ではその他、いろいろな『指輪』キャラクターのフィギュアが売られていました。一番異様だったのは「木の髭」のそれでした。)ガンダルフが欲しかった私としては、かなりの時間逡巡しましたが、アラゴルンも好きなキャラクターでしたし、「これを逃してはもうフィギュアの入手は困難」と判断し、30ポンドほどを払ってそのフィギュアを購入しました。親切なその店の主人は、「もう少し先に行って左奥に入ったところにも、こんなフィギュアを扱っている店があるよ。」と、教えてくれました。(買う前に教えないところが、流石に商売人の鑑です。)当然、私たちはそこへ向かいました。本当に奥まったところにあって、彼が教えてくれなかったら、発見できなかっただろうと思います。
その店には、確かに『指輪物語』のフィギュアが大量に置かれており、「馳夫」ばかりか、あの「ガンダルフと飛蔭」もありました。私は恐る恐る、通訳氏を振り返りました。
「欲しければ、買えばいいでしょ。それより、さっき買ったフィギュアっていくらだった?」
何やら、冷たい口振りです。それも、当然。全く同じフィギュアを、ここでは17ポンドで売っていたのです。 まあ、私のやることなんて、こんなものなんですよ、いつでも。通訳氏の冷たい視線を浴びながら、私は「ガンダルフと飛蔭」のフィギュアを、また30ポンドほど出して購入しました。(こちらの方が「馳夫」のフィギュアよりずっと大きくて立派なもので、この店の値段こそが、適正価格だったのだろうと思います。)本当はもう一つ、2ポンドで売っていた「指輪物語フィギュアシリーズカタログ」も欲しかったのですが、さっきの失敗の手前、とても言い出せませんでした。
「来た甲斐があったね。」
通訳氏の皮肉も、その時の私には通じませんでした。これで、今回の旅の目的は、ほぼ完璧に果たしました。私の胸は満足感で一杯でした。踊り出したい気分で、私はウィンザーを後にしたのでした。
最後にもう一つ、付け加えを。
ロンドン滞在最終日に、たまたま買い物に行ったロンドン市内のデパートで、先に触れた「トールキン肉声テープ」を手に入れることができたのです。全4巻のカセットで、「アラゴルン等によるボロミアの葬送」、「エントの寄合」等が収められていました。「指輪物語ホームページ」で紹介されている海外のホームページに「トールキン自身の朗読が聞ける」というものがあったような気がしますが、このテープの内容と同じなのかもしれません。(そのホームページにはまだ接続したことがないので確認できていません。そのうち、確かめたいと思っています。)
長い旅は終わりました。忘れ得ぬ多くの思い出と、理不尽に重くなった荷物(大量の本と金属製のフィギュアだもの。そりゃ重いわな。)を抱え、私たちは帰国の途につきました。
長い道のりにお付き合い下さったことに深く感謝しつつ、「金の烏龍茶」でも飲むとしましょう。(「パイプ草」をくゆらす習慣は、私にはありませんので。)
そうでしょうとも。私をそこまで変えるほどの魅力を、トールキンの作品は持っているのですよ。『ホビットの冒険』を3ページ読むなり熟睡してしまった貴方には決して理解できないだろうけれど。(こうは書いても、感謝してるんですよ。この旅行は通訳氏の協力なくしては実現できなかっただろうし、当然、トールキンの墓へも辿り着くことができなかった筈なのだから。でも、パートナーとしては『指輪物語』は読んでおいて欲しいと願うのも当然だと思いませんか。)
(「読むわけないでしょ。」byパートナー )
オクスフォード・マップ