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ばあ好きの私
あーゆー、おもしろいぼけが楽しくてしかたがないのだ。
後日、要介護5にぎんさんがなったときいて、「喪服をきて、葬式にでれるひとが5は絶対おかしい」別にぎんさんに手厚い介護がなされるのはいいのだが、あれじゃあ他のひとから文句でそうだ、と思っていた。
年齢でいえばウチの祖母の親くらいにあたるので、本当は生きてるだけで要介護5でもいいと思うのだけど。
しかし5月ごろ女性週刊誌をみていたら、ぎんさん、本当に具合がわるいらしい。
そういえば、きんさんが亡くなる前も昼間はほとんど寝ていたらしいし。
女性週刊誌の記事によると、ぼけもすすんでいるようだとのこと。つらいことがあったからよけいなんだろうな。
このニュースにもまたくぎづけである。
週刊誌の増刊のたぐいにまでチェックをいれるしまつ。内容はほとんど横並びなのに。
書店でも手にとってみているのはほとんど老婦人である。
今回「は」記帳まではしないし、黙祷のたぐいも多分しないであろう、神の国にもくびをかしげる私、しかし、大事なものをなくしたようにこころは寂しいのだ。このあたり思想に一貫性がないが許せ。
開始直後、読んでる新聞がわるいのかみているテレビが悪いのか、「以前より負担が増えた」という苦情が優勢である印象をうけた。
いままでが贅沢だったんだよ!!ゼイゼイ、、、
思わず叫びたくなる。まだ「自立」の人が払い損だとか(まだ納められていないわけだが)40歳の人が文句をいうならわかるが、何らかのサービスを受ける対象にあるひとは、その金額が「本来の」適正値であるのに、他の人がつかうべきお金をぶんどってつかっていたころの、既得権を主張されるようで、いやーな気分になった。
介護保険もなんだかよく分からないが、「サービスをうけやすい仕組みが確立されたこと」と「機会の公平化」がはかられたのは確かであると、ウチの事例からは考えられる。
あと、おそらく「雇用の促進」もほそぼそと。
4月から変わった点。
土曜日があいていることが多いらしく、2つの施設どちらでも勧められた。
最初はうちも土曜日は人手があるので、予定にいれていなかったのだが、行く側にしたら土曜も平日も関係ないようなので、土曜日か月曜日に迎えにきてもらっている。
迎えに来る人は元気がよく、すごく慣れているひとで、どんよりと暗い老人を抱える家にあかるい空気を運んでくれる。
祖母はなにか仕事に出かけていると思い始めている、祖父に「仕事とかボランティアだからってだましてつれていく家もあるらしいよ」といったら驚いていた。うちではまったくだましていないのに、本人がそう思いこんでいる。
時間は9時すぎに回収にきて、3時から4時に戻ってくる。出るときと戻るときには必ず家に人がいないといけないので、用事があるときはちょっとめんどう。仕事のある介護者には全然役にたたないであろう。
保育園というよりは幼稚園の様な存在。連絡ノートがあり、毎回様子を少し書いて置いてくれる。
祖父は入浴つき、車椅子にのったまま風呂にはいり、2、3人がかりであらってくれるらしい。家では家族ゆえにこまかいところまで対応できないので、大変助かっている。
この制度いくらが限度額なのかわからないし、工事もいくらかかるのかわからなかったのだが、介護保険の適応をねらって、取り付けてもらうことにした。
見積もりだけでも何回か人がきて、そのわりには取り付けは一人の人がきて作業をしていくという、よく分からない仕組み。どのような部品をつけるとか、そういう細かい打ち合わせはまったくなかったようだ。
どんな風になるのか分からなかった割には家の中のてすりは雰囲気にぴったりあっていて、違和感がない。
祖父はトイレが楽になったらしい。
そして思わぬ付帯効果まで。
ある日家に帰ると廊下から「おかえり」との声がする。ふと顔をあげるとてすりにつかまって立ってトイレに向かっている祖母がいた。普段あるいていないことを忘れるほどの重症だったらしいが、予想外の出来事に驚いてしまった。
祖母がつかっていたのは、祖父の母親の時に今から20数年前に購入した年代物であり、便座が割れていたのをどうにか使っていた。あまりにみじめったらしいので、新規に買うことにしたのだ。
部屋においても違和感がないといわれる椅子風のものは祖母が椅子とまちがっても困るのでトイレらしいものを購入、しかしいちおう背もたれと肘掛けのついたものにしたのだった。
カタログのみで決めたのだが、現品をみて、いくつか驚いたことがあった。
一つはいままでのものより大きいこと、もう一つはバケツが小さいこと。特にバケツの大きさはリットルでしか記入されていないので、把握していなかったのだった。
背もたれのあるトイレのふたは折り畳みになっているのが普通であるようだが、これがまた問題になっている。
祖母は旧式のポータブルを使ったとき、ちゃんとふたをしめていた。
まともに立てない人間がどのようにふたをしていたのか、初めて見たときは感動的ですらあった。
祖母は用がすむと立ち上がる前に、ふたを手で背中の方に倒すのだった。そしてそのまま静かに立ち上がりトイレから離れることにより、静かにしまるという仕組みを編み出していた。
しかし新しいポータブルは左右に肘掛けがついているため手が後ろに回らない、さらにふたが折り畳まれているため、背中にのせようがないのであった。
暑くなりにおいがきになる時期だというのに、ふたを自力で閉めた形跡はいまのところまだない。
しかし、旧式のものでも自分で編み出した技なのだろうから、今回もまた新しい技を編み出してほしいと密かに願っている
儲けているのはいったいだれなんだ???いずれは正規に購入の予定だが、どんなのが欲しいか検討がつくまでレンタルは続く。
祖母用だが、このあいだは祖父を墓参りにつれていくのに使った。
いままで病院のなめらかな床で祖母を乗せたことしかなかったので、楽勝だと思っていたが、小さい段差はひっかかるし、坂道では祖父がずりおちそうになるし、ぬかるみにははまるしで、車椅子も結構大変である。ちなにみ墓参り、杖をついたあぶなっかしい普段家からでないような人までが墓地を歩いているわけだが、車椅子の人には出会わなかった。
とりあえず、必要な仕事は増えている、口座振り替えだって、どこかのサービス会社の紙が回ってくるし、あたらしいビジネスの場になっていることをひしひしと感じる。
墓参りボランティア。近くまでは舗装された道路があるのだが、その先に土の部分があり、歩けなければ到達することはできない。
そこで、祖父が歩けなかった時のために、バーチャル墓参り、つまり墓の様子をビデオにとって近くでお経を上げてもらうということを考えた。
結果的には祖父は歩けたため、バーチャル墓参りは実行しなかったのだが、自分としては他の人にも勧めたいほどのヒットだと思った。
しかし、祖父がどう思うかは聞かないままである。おそらく抵抗感はあるかもしれない。
ここでポイントはできるだけ近くまで行くということと、新鮮な状態で見てもらう、ということのような気がする。