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5月
3月に仏壇を祖父の家から回収してきたということで、4月の下旬にはひさびさにお坊さんにきてもらって、祖父の母親の月命日のお経をあげてもらったりしたらしい。
そのために花をかってきたり、いろいろ大変。
私はなにもしないけどいいけど、母親が大変かも。
昼間に仏壇をみるとあいていたので、隣の部屋にいる祖母に、閉めにいかないかと声をかける。
やる気の祖母。また脇の下から支えるように押し出すパターンで仏壇の前につれていく、手を伸ばしてしめるだけ、と思ったら、「お参りする」といって、座ろうとする。
むむ、そういうものなのか。パタンとしめりゃいいもんじゃないのか。
正座すると反射的に手をあわせて、お経をとなえる。
「電気になって心配ないね」。ろうそくだか油だかで灯りをとっていたのを電球にしたのが、気に入った様子。
花があるのを確認し、またざっと見渡して、また念仏を唱える。
「電気はいいね」またくりかえす。
しかし次に突然「電気はさみしい」と言い出した。
どっちが本音なのかと問いただすと、「危なくない方がいい」というが、本当は味気ないとおもっているみたいだ。
そしてまた念仏を。。何度も繰り返して、ふと仏壇の下の小さいふすまが気になったらしく「こんにちわ」といってあける。
これ、この人はこういう冗談が好きなひとだとわからないとかなり悲しい動作に見えるだろう。
これは冗談だとして、こっちはかなりやばい、「あんたのうちは電気なの?」あ、あの、あんたのうちのちいさい仏壇を追い出してこれが入ってきたんですけど。。。。
そして、ろうそくしか入ってないのを確認してしめる。やっと仏壇の扉をしめる。
戻ろうとすると窓の外の庭のぼたんがみえたようす。
「きれいやねぇ」。
花をみて、念仏をとなえて、このひとはすこしずつ正気をとりもどしていく。
人間最後にすがれるのは、自然と先祖だけなのだろうか、たぶん誰にでもいつにでも絶対存在するもの。
でも、この年寄りの世代ほど、自分の世代は、自然や先祖を大切にしていないことに気がつき、自分は最後になにに救われるのか、と考えさせられてしまった。
祖母を部屋にもどして、いすにすわらせる。
たまには立つ練習をしなよ、と無理矢理立ち上がらせると、祖父がおもしろそうに「ぽっぽっぽ、と歌ってみれば」という。2度ほど繰り返されて、祖母が歌う「まめがほしいかそらやるぞ」超早口で。
あれは、そんな昔からあった曲なのか。
確かに「やるぞ」だし「みんなでなかよくたべにこい」だし、何かきびしい(本当は動物に対して非常に正しい日本語である)感じが、最近の童謡とはひと味違う。
テレビで、老人施設で、幼稚園みたいな歌を歌わせたり、風船ゲームみたいなのをしてるのをみると、少し悲しい気分になるのが、やはり刺激という点では大切なのかもしれないと思った。
でも、幼稚園や保母の資格に音楽が必修なら、老人ケアの資格にも音楽とあと歴史は必須なような気がする。
すごいぞ、「唱歌」の時間ってのが必要になるのだ。
まぁ老人むけ、という資格はないか。
こうなると、音楽の指導要領から「荒城の月」がはずれたのは、まずいのかもしれない。
音楽なんてどんどんあたらしいものが増えていくのだから変わってしかたない、と思ったけど、昔のものは教えられないと聞く機会がないから。
そこで、ふと、昔、祖父と祖母と一緒に箱根にいった時のことを思い出した。
後で写真をみたイメージかもしれないけど、箱根に「箱根八里」の歌碑があって、祖母がいきなり歌い出してびっくりしたことがあるような気がする。
この辺の滝廉太郎シリーズだな、むむ、山田耕筰だっけか。まぁその辺がポピュラーソングということになるのか、そして唱歌だな、そのへんを押さえればいいのかな。
久々ののんびりした休みを楽しんでいたのだけど、毎日しないといけないことがある、というのはかなりのプレッシャーだった。
最終日5日、天気がよかったので、庭に祖母を連れ出す。
庭、といっても家の周り、と言うのが正しいというか、ぽっかりと空間があるほど広くないけど、とりあえずウチの土地の家と植木の間の狭い部分に連れ出す。
まともにあるける訳もないので、脇のしたから支えるようにして押し出すパターン。
前日、ふと家の外をみていたら、「草むしりでもしないと」と言っていたので本人全然覚えちゃいないだろうけど、やっていただくことにしたのだ。
ビニールシートの上にのせて、座らせ、むしってもらう。
ちょっと根っこが大きいといやがる。
ま、本当に家にいるだけで、全然太陽の光を浴びていないので、たまには光をあててやったほうがいい、と思ったのだが、10分ぐらいで飽きてしまったよう。
こちらもずっとつきあっていられるわけでもないので、部屋にもどす。
その間に祖父もでてきて、植木の説明をしていた、と思ったらすぐ部屋にもどっていた。
剪定をしようとはさみをもってきたのに、気分が悪くなったらしい。こっちのほうが心配。
なんでも祖父は朝から病院に出かけていったのだけど、残された祖母が、部屋から這ってでてくるんだけど、ぼけてる、というよりは行動が活発になったらしい。
部屋に見に行くと、確かに、いつもなら人目がなくなったところで、寝ているはずの祖母が起きている、だがしかし目の前にはまくらが一つおいてあった。
まくらがじゃまなのでどかすと、「まだ」という。
なんでも、まくらはただ置いてあったのではなく、まくらカバーを替えていて、ボタンで止めるようになっているのだが、まだボタンがとまっていない、ということらしいのだ。
た、確かに絶好調。
「あんたほかにもこんな仕事があったらもってきて」というが単なるボタンかけかなり難しい様子。
その後も洗濯物などたたんでいたらしい。
たしかに、1年前、意識がもーろーとして、お箸もつかえなくなり、自分の力で座れなくなる前までは、洗濯物はたたんでいたらしのだが、そのレベルにもどったのだろうか??
とりあえず、一人でほっておくと、刺激がないので、居間につれていって昼ごはんを食べてもらうことにする。
「やーやっぱ、昨日太陽にあてたのがよかったんだわ」自画自賛の私。
昼ごはんは最近自分がはまっているハッシュドポテト、冷凍のを解凍してレンジで焼く。
祖父はジャガイモはありがたくないらしいのだが、祖母は喜んで食べるので、初の試みである。
ケチャップをかけて、でもこれだけでは栄養がたりない、と「白菜とチンゲン菜のクリーム煮」「キャベツのコンソメ煮」など母親に提案したが、「そこまでしなくても」と却下。
バナナと牛乳を添えて出す。
フォークも出したのだがちょっと不安定なので、「手で食べていいよ」というと、しっかりとつかんで、直径5センチの半円部分を2口で食べる勢いのよさ。
やはり食べやすい、というのは幼児同様、老人にも重要なファクターらしい。
居間につれてくるとき、最初いやがった理由が「おいしくなさそうに食べると周りの人に迷惑だから」といっていたのだが、実際はすごく幸せそうに食べている。
結局のこしていたバナナも食べて、間食。
しばらくして、3時まで帰らないといっていた祖父が帰ってきた。
「帰らないと」という祖母。
自分の部屋に帰らないと、という意味だと思ったのに部屋にかえってしばらくして、「帰らないと」という。
むむむ、しっかりしたのはいいが、とうとう「本当の家」に帰りたくなるほど記憶がもどってきたのか??
ウチの祖父母より10は年上の90何歳の老人で、すごく元気な人だったのだ。
それこそ、「自分もがんばらないと」と70歳代の老人が地方紙に投稿してしまうようなパワーのある人。
以前は祖父母の家に毎日遊びにきていたのだが、ウチに来てしまってからは家が遠いのでめったに遊びにくることはなく、ずっとあっていなかったのだった。
坂のある4・5キロの道のりを自転車で遊びにきたこともあってびっくりしてたのに。
冬はスキーをしていたらしいし、交通手段はいつも自転車だし、電車にのってしょっちゅう東京にいっていたものすごく元気な人だったのだ。
しかし、なくなった原因は自宅の裏山で足を滑らせたのが原因らしい。
一人暮らしの家にいないので、周りの人が探して見つかった時にはもうなくなっていたらしいのだ。
祖母はたまたましっかりした日で、周りに迷惑をかけない、いいしまいかただ、(しまい方とはなんともいい言葉だ)と最後まで好きなことを自由にやって、自宅でなくなったことをうらやましそうな口調でしゃべっていた。
祖父は足が相当わるいらしく、お葬式には出ないといった。
私は以前、高校に入る時点で、ウチの親が転勤族だったために、転校するのが大変だろう、ということで、自分ですんなりと、祖父母の家にすみつくことを決めた。
なんとなく、そのころで、今ぐらいに弱っているようなイメージがあったのだ。もともと祖父母は気にかかる存在だったらしい。今思えば。
実際は日常生活がふつうに行えるほど元気で、入院したりすることがたまにあっても、老人病院に入るような病気でもなく、案外丈夫なもんだなぁと思っていた。
そこで、ある日、帰るとそこに自分の家のように座っている、祖父母の友人である老人がいたのだった。
老人同士の会話はかなりボリュームが高く、たまに試験とかでかえって自分のへやにいると気になって仕方がないのだった。
しかも相撲がすきらしく、普段は3キロほどはなれた坂の下にある市場に自転車でいって、祖父母の家で、すこしやすんでまた家まで自転車でかえっていく、という感じなのに、相撲の日は6時までテレビをみてからかえっていく。
小錦が負けるとうれしそう。
3年生になってさらに相撲の時間に家にいることが多くなった自分は、ある時ブチキレそうになった。
引っ越しのない家だとおもってずっと住めると思っていたのが、間違いだった、ここは祖父母の家だし、祖父母の生活があるということ。
それがわかった自分は、とにかくここを出て行かねば、という決心をしてしまい、高校卒業後、しばらく家を離れてしまったのだった。
(今思うと、引っ越すことを考える先に、外で遊ぶことかんがえろよ、という気もするが、そのへんは今も変わらない怠惰な性格である)
結局、家にもどってきてしまったのだけど、とりあえず一度出てしまった理由の何割かは、この老人が作ってくれた、そのときは、ちょっとうらめしかったけど、感謝している。
いまでも元気だときいて、安心していたのに、元気な姿をみないうちになくなくなってしまった、ということが、今は悲しい。
はいはい、と簡単に返事をして自分は自分の食事をしたり、新聞をよんでいたり、しているとまた「ごちそうさまでした」と食器ののったお盆を少し滑らせて移動させながらいう。
そこで、あ、祖母ははこべないんだった、ごめんね、と食器を下げるのだが、なんどか繰り返すうちに、私が立ち上がった時や、目があうタイミングをはかって「ごちそうさま」といっていることに気がついたのだった。
つまり「ごちそうさま=はやく下げてくれ」ということなのだ。
気がついてからはその手にはのるまい、と視界に入らないように別の部屋にいったりしたのだが、最近そもそも居間で祖父母がご飯を食べていないので、そんな習慣もすっかり忘れていた。
今は老人部屋で食べている。
食器を下げようとすると、今運ぼうと思った、というが、「運ぶ以前に歩けないでしょーー」とはつっこまず、いいよぉ、、とか言いながら食器を下げるのだった。
老人部屋になってから、昼間なんかに様子を見に行って、「大丈夫だね」と早く部屋を出ようとすると、「あ、もう帰るの」と祖母は言うのだ。
することなきゃ帰るでしょーとおもいつつ、この人寂しいのかなぁなんて思っていた。
しかし、老人部屋をすぐ出てきてもなにも言わない時があることに気がついた。
それは食事を部屋に運んだときと、下げる時なのだ。
おやつでも同様。
つまり、食べ物があるときはさみしくない、らしい。もうはっきりいって食だけが楽しみのようである。
「もう帰るの」は、もしかすると手ぶらできてかえるのかい、とまで言われているような気もしないでもない。
なにげなく聞いている言葉にもいろいろ含んだ意味があるようで。
しかし、最近目をらんらんと輝かせて喜ぶだろう、、とおやつを持っていってしまう自分は、喜ぶだろう、と必要以上に孫におやつを与えてしまう、かつての祖父母と同じ気持ちなのだろうか。1回喜ぶとそればっかりになるところも似てるかも。
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