簡単な見取り図として
評家は常に作品にのみ,作品の価値を求めねばならぬ。もし作品の鑑賞上,作家の伝記が役立つとすれば,それは作品が与えた感じに,脚注を加へるだけのものである。この限界を守らぬ評家は,たとひ作品の価値如何に全然盲目でないにしても,すぐに手軽な「鑑賞上の浪漫主義」に陥つてしまふ。惹いては知見に囚はれる余り,味到の一大事を忘却した,上の空の鑑賞に流れ易い。(芥川龍之介「時弊一つ」「新潮」1921.3.1 のち紅野敏郎等編『芥川龍之介全集』第7巻 1996.5.8 岩波書店 P.266)
芥川のこの言葉を見つけた時,僕は現在の文学研究者が気を付けねばならないことが,既に指摘してあると思った。一つは〈常に作品にのみ,作品の価値を求めねばならぬ。〉という所である。作者を括弧に括ってしまうことの意味については,既にテクスト論が広がった現在の文学研究では,常識に属することではあるが,既に芥川は1921年にこの点を喝破していたのである。第二は<惹いては知見に囚はれる余り,味到の一大事を忘却した,上の空の鑑賞に流れ易い。>という指摘である。知見にとらわれるということは,例えば理論に偏った姿勢を難じたものと解釈すれば,テクストの織りなす世界から遠く離れてしまって,もはや別の世界の意味について語っているような研究のことだといえよう。漱石研究にも,最近そのような研究者が登場していることを思えば,理論への目配りも十分気を付けなければならない,バランスに留意しなければならないということが言える。
漱石研究をはじめる学生は,まずこの芥川の言葉の意味をよくかみしめておいて欲しい。いろいろな文学観があるだろうが,それは議論の対象としては不適当なものなので論じる意味はあまりないだろう。我々が最低のマナーとして気を付けなければならないのは,テクストを通して他者とコミュニケートする姿勢をもっていなければならないということだ。
三好行雄によって構想された〈作品論〉研究は,〈作品〉を通して〈作家〉像を構築し,その〈作家〉像の累積によって〈文学史〉を構成するような構想を持っていた。思えば,作品論はニュークリティシズムの影響も受けていたのではないのかと思う。作者の意味をテクスト論のように抹消したわけではないが,重心を作品側に移したことで,作者の絶対性が損なわれていたことは確かだからだ。三好は,鑑賞という行為を厳正なものと考えていたようだが,作品分析が鑑賞者の視点に左右される以上,その作品論がおよそ科学的な客観性から乖離していくことはやむをえないことであった。
小森陽一・石原千秋によって拓かれた漱石研究のテクスト分析は,漱石研究ばかりではなく近代文学研究の主流メソッドとして定着した観がある。そしてテクスト分析の正しい方向性として,作者である漱石は「抹消」され,その「本文」すらも見事に解体されていっている現状である(正確には,まだ定本となりうるテキストは表れはいないのだが)。さらに展開すれば,テクスト分析の対象としては,その本文が漱石文学である必要はないのであり,その目的とするところも文学研究ではないのである。事実文学という制度を〈撃つ〉という事を,小森自身は自覚的に行っており,この確信犯的な行動によって,すくなくともかれらの活動の起点となった文学研究としての漱石研究は解体されつつあるように思う。彼らの射程の中には,〈文学〉や〈研究〉という制度化したものを解体して,あらたな何かを再構築していくような姿勢も認められると思うのだが,それが「文学研究」という体制にどのように波及していくのかは,もう暫く静観している必要があろう。ただ現在の彼等の中心舞台である「漱石研究」が,文学研究としてよりも,社会学的・歴史学的な研究の色彩が濃くなっていることは,彼らのテクスト論がニューヒストリシズムやカルチュアルスタディーズを組み込みつつ展開していることを示しているように思われる。端的にいうと,英文学研究の影響があるのではないかと思っているのだが,果たして如何。ともあれかれらの果敢な試みもまた文学研究を超えた新たな〈知〉の〈制度〉を再生産していくことは間違いない。
こういう傾向に対して,田中実は『小説の力』の中で文学研究が文化研究となることについて,警鐘を鳴らしている。彼の危機感は「文学」というものが解体していくことに対する危機感として,この世代の誰しもが抱いてるものだろう。
テクスト論のところで述べたように,僕個人の実感をいえば,「文学」という一つの文化の制度は歴史的な役目を終えようとしているのではないかという感触をもっている。大学では一般教養が解体され,文学などという教養的なものが省みられなくなった(語学は実学として依然有用である)。それを裏打ちするように,文部省の将来構想では,実学的な研究(科学・語学)を推進することが重要視されているそうだ。
短期大学では,至る所で4大化への移行に併せて文学系の学科の再編成を行い,文学の名称は消えつつある。国際文化・言語文化などという名称がそれにとって代わるようになった。一方で社会に目を向けると,不況のために就職に結びつく学部学科が人気を集め,文学部に入った学生でも,資格を意識してダブルスクールに通うものが少なくない。漱石流の言葉でいう「拝金主義」が,あいも変わらず隆盛を極めている現代では,文学研究のような退嬰的な世界に魅力を感じろという方が無理なのだ。明治大正の頃ならいざ知らず,マルチメディアが登場し,爆発的な勢いで社会に浸透し始めた現状は,産業革命以上の電子革命の時代であるといえるだろう。そのような時代の中にあって,文学という,旧来のエンターテイメントいや「文化」(?)を研究すると言うことの意味を,今一度真剣に考え直す必要があるのではないだろうか。文学から,はたしてこれからの時代を生きていくのに必要な情報を得ることが出来るのだろうか。ものの見方考え方を学ぶことが出来るという人もいるかも知れないが,文学を研究することで培われた思考力を評価する程社会は甘くはない。企業が求めているのは,人間的な魅力・体力に加えて正確な日本語の表現能力であり,情報機器を扱う技術力なのである。学生が,今の文学部にそのような力がないことを悟れば,学生はドンドン減少していくだろう。実際今の大学で情報教育に力を入れようとしている文学部を持っているところを,寡聞にして殆ど知らない。社会の要請に耳を傾けない大学の行き着くところは,火を見るよりも明らかである。
この10年で,文学が好きなだけでは生きていけない時代が,思った以上に急速にやってきてしまったというのが,偽らざる実感である。
これ以上愚痴を書いても仕方がないのでとりあえず纏めておくと,漱石研究に取り組もうという学生には,漱石研究という「文学研究」は解体しつつありますよと云わなければならないようだ。漱石研究はすでに「文学研究」ではなくイデオロギー研究の態様を見せている。文学研究にすると,「ああ,そうもいえますわな」で,チョンである。指導する5,60代のセンセイも大変だと思う。漱石を勉強している学生とは,話がかみ合わなくなるのは必定であるし,何よりも研究を真剣にやった学生ほど,当然文学を勉強するメリットに疑念を見いだすようになるのが必至であるからだ。テクスト論とは,まさに時代が文学を消去し始める流れに合致するように,文学内部から文学を解体するものになってしまったと,僕は考えている。その終局に見いだされるものは,まず文学の終焉ではないだろうか。それもいつの間にか,消え去っているだろう。あたかも文学史のなかで消えていった,明治時代の文学の正統であった漢詩のように,殆ど意識されることもなく。('98/1/26加筆)