Monthly UBE

MAY


 今月の特記事項は、ホームページを公開したことにつきる。いろいろと忙しかったが、何とか友人達の協力で公開までこぎ着けた。今後の課題は、取りあえず「漱石」研究の情報の内容を充実させていくことだが、それにはまず、研究者だけに有益というのではなくて、漱石に関心を持っている人々にも開かれたものでなくてはならないと考えている。それにはどういう情報が必要なのか、いろいろと試行錯誤を重ねなければならないようだ。また漱石ばかりというのも面白くない。僕自身は明治時代が何故か好きなので、何かこの時代の資料集のようなものを、書いてみたいと思っている。
 5月25日26日と東京の立教大学で日本近代文学会があったので、東京に行って来た。宿も池袋に取ったので、序でと言っては何だが、雑司ヶ谷霊園に行って来た。ここには、漱石や鏡花、小泉八雲、荷風、筑水といった文人達が眠っている。文学研究をしているような人は大抵、自分の好きな作家の墓参りをするもののようで、中には写真まで撮ってくる強者もいる。僕はそういうことにはあまり関心が無く、漱石を勉強し始めて10年になるが、こういう機会がなければ一生行かなかったと思う。
 霊園自体はそんなに広くはないので、探し回るのに苦労はしないなと思っていたのだが、谷中の墓地とは違ってどこそこに誰それの墓がありますよというような案内板が無い。これには困惑した。霊園の事務所で著名人の墓の所在番号を記したコピーを貰うまで、迷走しなければならなかった。それも警備員らしいおじさんに教えられたからよかったものの、それがなければどうなっていた事やら。
 最初に見つけたのは泉鏡花の墓だった。泉鏡太郎の墓と記して有る、あっさりとしたしかし端正な墓であった。それから事務所でコピーを貰い、漱石の墓を見つける。最初に歩いた道の近くにあったので唖然とした。道に対して背面を向けていたので、椅子型の特徴のある墓であるにもかかわらず見つけられなかったのだ。正面にまわって夫人と並んで併記してある墓を見る。漱石の墓は評判が良くない。椅子という形が門弟筋に嫌悪されていた記憶がある。しかし実際に見てみると、あまり違和感を感じないのだった。背面にまわ る。そこではじめて5女の雛子さんの死没年が記して有るのに気が付いた。1歳と半年位で突然死した彼女だけは両親とともに眠っているのである。そこに僕は、夫人の意思を感じていた。
 後は荷風と八雲ぐらいは見ておこうということで、探し回る。幸いおばさんの集団が、騒ぎながら僕と同じものを探していたので、彼女達が見つけてくれるのを待っていた。荷風の墓は植え込みに囲まれているので、植え込みかと思って通り過ぎてしまうと見つけられないモノである。植え込みに囲まれた薄暗い空間に父親の墓と並んで小さく立っていた。小泉八雲の墓は、荷風の墓から歩いて近いところにある。植え込みも何もない、台座のように墓地が高くしてあってそこに超然と「小泉八雲之墓」とある。奥さんの小さな墓が その後ろに小さく控えていた。すぐ近所には、筑水金子馬治の墓もある。
 それにしても墓というものは、何のために建てるのだろう。洋の東西を問わず、どこの国にも墓というものがある。鳥葬にする国などには、無いのかも知れないが、死者のためというよりも後に残る人間の思い出のよすがになるように建てられるもののように思われる。三内丸山遺跡の縄文人の集落では、墓所は住居の近くにあったそうだ。その頃生者と死者の距離は近かった。生きているものは、日々の生活の中でも死んだものを身近に思い起こしながら生きていたのであろうか。死者を偲び自らの生き方を振り返るとき、そこに 敬虔な心というものが生まれてくるのではないか。宗教心というものは、そういった死者との心の距離というものが保たれなければ生じ得ないもののように思われる。墓所が次第に生活空間から隔離され、「死」自体が社会の中から排除され非日常化していった現代では、宗教心もなにもあったものではない。「死」は観念として存在するだけであり、それは「いじめ」という悪質な遊戯の中にも取り込まれていってしまう。雑司ヶ谷霊園内の道路を赤いスポーツカーが走っていった光景は、田舎の墓地しか知らない人間には驚愕する ものだった。「霊園」という近代社会が生み出したこの空間は、一体誰のために何を祀っているのだろう。