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JULY


漱石を読む

 国語の授業中小説を読んでいて、教師の解釈と自分の解釈が異なり、しかしどうしても自分の解釈が誤りであるとは思われない、というような体験をされた方は多いのではないでしょうか。私自身、自分の解釈を「作者の考えとは違う」と言われて、どうしても納得できなかった覚えがあります。
 例えば夏目漱石の「坊っちやん」という著名な小説がありますが、従来の読み方では、漱石の松山中学校への赴任体験が反映されているという解釈上の大枠がありました。主人公の〈おれ〉は漱石であり、その周辺の人物達に実在の人物を当てはめて、そこから漱石の「思想」を導こうという試みがなされ、結局は〈おれ〉/漱石が赤シャツ/俗物教師たちを懲らしめる勧善懲悪の図式の中で結論が導かれていました。ここに窺えるのは、作者の「思想」というものを仮定し、そこに作品の意味を一元的に還元していく姿勢であり、読者の意見は等閑視されているのです。
 しかし近年では、テクスト論なる方法論が登場し、漱石の「思想」よりも、漱石の「作品」がどのような特徴をもっているのかという問題を考えるようになりました。テクストというのはフランス語で、「織物」という意味を持っています。つまり作者によって作られたものという意味での「作品」を、その時代の言葉によって構成されたもの=テクストとして考えるようになったわけです。再度「坊っちやん」で説明すると〈おれ〉よりも赤シャツ・山嵐・うらなり・マドンナといった人物に注目することで、〈おれ〉という主人公は相対化され、「坊っちやん」が表層に痛快な物語を位置させながらその深層では〈おれ〉を初め山嵐・うらなりの敗北を物語っている構造などが明らかになるのです。テクスト論の考えでは、テクストの意味は読者の観点の数だけ存在するものであり、正しい解釈も誤った解釈も存在しません。あるのはテクストをめぐる「意味」だけなのです。このようにテクスト論は、読者の視座を重視し、読者の観点から小説を読み解いていくことを尊重しています。テクストとは発信されている小説の言葉と、読者の言葉が切り結ぶ場であり、言葉の双方向性の中で常に新たな意味が産出されている意味生成の母胎であるといえましょう。
 今話題になっているインターネットのWWWのような新しいメディアの中にも、テクスト論に認められるのと同じ様な特徴が認められます。すなわちWWWの特徴も情報の双方向性にあり、誰もが情報の送り手であると同時に受け手でもあることから、今まで情報を受信するばかりであった我々の意識は、このメディアを入手することで大きく組み替えられていくことになります。この新しいダイナミズムを文学教育の中に取り込み、我々自身や教育制度自体を変革させながら、社会の新しい担い手を創出していく一助を担うことこそが、今後の文学教育の役割だと考えています。

                                  「宇部時報」1996.7.18 P.7掲載