DECEMBER
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◆CONTENTS◆
金原克範『"子"のつく名前の女の子は頭がいい』洋泉社
一見いかがわしい書名なので、貸してくれた吉村先生に思わず疑惑のまなざしを向けたものだが、内容は凄かった。社会学の本だったのである。「子」のつく女の子とそうでない女の子の情報の受容能力の差というものが、1980年代になって顕在化していることを、データを元に実証して見せている。指摘の一部を引用しておこう。
従来型の女性は、情報の価値を、未来に活用できる部分に置いている。しかし、現代型の女性は、コミュニケーションが行われる時点にだけ情報の価値を求めている。
コミュニケーション成立のためには、関与する個体が、送信者・受信者として互いに正常に機能する必要がある。メディア一世に生じた変化は、Passive Language認識能力の喪失による、送信者としての機能の低下と判断された。(中略)/メディア二世は、成長する過程で、メディア一世から主として事後送出のコミュニケーションが行われてきた。情報の事後送出の場合、受信者の獲得する情報量は減少し、コミュニケーション後にも受信者の行動は変化しない。(中略)結果、受信者はコミュニケーションには意味がないことを学習し続けていく。(p.169)メディアには、人間のコミュニケーションを変容させる副作用があったのであり、その発現が20〜30年後くらいのタイムラグをもっているために、つまり直接的な影響でないために、メディアが原因であるようには認知されないのだという。「"子"のつかない女の子」の入力情報に価値を置く傾向は、実はメディア一世の親によるコミュニケーションの問題性が端的に表れているのであり、それは今後のメディア社会がもたらす、人間のコミュニケーションの不成立と社会機能の低下の予兆に過ぎないのである。
土田知則・神郡悦子・伊藤直哉『現代文学理論 テクスト・読み・世界』新曜社
簡明で平易に文学理論を解説している。なかでも第W章は面白かった。フェミニズムの新しい理論や、レヴィナスの「他者論」など興味深い考え方が紹介されていた。テクスト論もいまや別の形態に生まれつつあるのだなあということを再認識したが、漱石論で展開されているスタイルがそのままこの解説書の中に見いだされるので、ナンダそういうことかと得心したことであった。
関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』文芸春秋
関川夏央といえば知る人ぞしる「『坊っちやん』の時代」の原作者である。どんなんかなと期待しながら通読した。同時代に活躍した人物達を絡めながら、二葉亭の人物像をあぶり出していくオーソドックスな手法が展開されている。安心して読めるのは良いのだが、なんかもうちょっとこのスタイルもなんとかならんものだろうか。伊藤整の「日本文壇史」講談社文芸文庫が刊行中だが、これも読んでいて相当面白いので、その面白さと、こちらの「安心」の径庭のなさ、というのか、時間的な隔絶があるのに評伝のスタイルに変化がないことには、何か健全でないものを覚えるのだ。労作であることは、勿論認めるのだが。それにしても川本三郎の『荷風と東京』都市出版も上梓され、江藤淳の『漱石とその時代』が続き、ちょっとした「評伝」ブームなのだろうか。次はそろそろ谷崎か?
村上春樹『レキシントンの幽霊』文芸春秋
村上春樹の最新短編集。お勧めは、「沈黙」と「七番目の男」の2作。それぞれの主人公が抱え込んだ問題を、恢復していく過程に注目したい。特に「七番目の男」は、その「啓示」とでも言うべき瞬間の解読が、大きな問題となるだろう。そこに宗教への一瞬の閃きを認めるのは、僕だけであろうか?
身辺記@12/7読書会
この身辺記も友人たちが結構見るようになってきているので、前のように好き放題書けなくなってきた。でも、やっぱり書いてしまう。いけないことほど書いてしまう。それは、表現(タブー)に憑かれた者の業なのであろうか。
12/7に雪の降る中を福岡の福岡女子大学まで行って来た。朝起きたときにTVが、小郡下関間の高速道路が閉鎖されていると報じていたので、ちょっと驚いたが、ハイツのドアを開けたらもっと驚いた。昔郷里(兵庫県城崎郡日高町)で見ていたような牡丹雪が降っていたのである。列車に乗っていると、厚狭の辺りでは一面の銀世界で、「こりゃ高速も走れんわな」と思った。それでも列車は、6分遅れで運行していたが。一旦博多に出て、お歳暮を購入し、紀伊國屋書店をひやかしてから香椎に向かう。先輩の槇山朋子さんが初めて読書会に参加するので、JRまで迎えに行く必要があったのだ。13:10過ぎに合流。列車が遅れていたらしい。香椎の商店街には、面白い「鯛焼き屋」さんがあって、「小倉」「抹茶」餡は当然としても、「梅あん」(?)や「お好み焼き」「フランクフルト」と他10種近く異種格闘技に近い「餡」があって、槇山さんに紹介すると、大受けしていた。メールフレンドの根岸さんもこんなの好きだろうな。一度食べてやろうと思いながら、勇気が足りない僕だった。
14:00過ぎから読書会。発表者は長崎大の中原豊氏。低音の美声の持ち主である。最初に風邪気味であることと、腰を初めて痛めて「中年」と言う言葉を実感していると、前振りをして、参加者を笑わせてからからおもむろにジェラール・ジュネット『物語のディスクール』の発表に入られた。B4の紙に12枚と資料1枚が添付された大変な労作のレジュメを用意されていたので、度肝を抜かれた(後で聞いてみると、ブラインドタッチで入力されたものらしい。これだと見ながらに比べると、疲労度は思っているよりも少ないのである)。それに『物語の詩学』によって、ジュネットの訂正部も詳しく注として紹介してあったので、疑問だったところが、2,3解消する恩恵を受けた。実は10年前に購入しておきながら、それを読むことを必要としない環境だったので、宝の持ち腐れになっていたのだが、こういう会に入ったのは本当に正解だった。それに疑問だったところも、皆に意見を聞けるし、自分よりもすぐれた読み手の説明を聞けるのだから、実に有り難いことである。
17:20過ぎに発表が終わる。ずっとしゃべり続けておられた中原氏は、大変だったろう。僕は90分の講義を喋り続けて酸欠になったことがあるのだが、疲れを微塵も見せずに泰然とされていた。18:00近くまで質疑をして、時間がなくなったという松本先生の声で閉会となった。質疑の時間が少なかったのが残念であった。応用を展開したいという中原氏は、一体どのような例を示してくれるのか、一番聞いてみたかったのだが。
それから長崎組の中原氏は疲労もあって引き上げられ、残った一同で、JR香椎駅前の焼鳥屋で打ち上げをする。槇山さんは、明日が法事だったので帰られる。といっても帰宅は21:30をまわるだろう。飲み会では、最初僕が配った「文書」がらみで話が始まった。坂口さんに文書の表記上の不統一を指摘されたりしているうち良かったのだが、松本先生が学内LANにモザイクのかかった画像が配信されているという話を始めたところから脱線して、調子が出てきた花田先生がA感覚やOやVの話(タルホですな)を始めて、それを石川さんが「そういうことを口頭で表現できるというのはかなり知的/痴的なことだと思うのですよ、なぜなら」と言ったことから、収拾がつかなくなってしまった。鶏■という言葉は、実は男同士でしか使えないのだという、妙な定義の話を坂口さんが力説されるし、僕は石井・関谷ご夫婦から、牡を好きな牡のカモメだったかアヒルの話を聞いて、人間というのは本能が狂った動物だと考えていたのだが、そうではなくて動物そのものの本能だって怪しいものだと言うことを教えられた。鳥類は、恐竜の子孫であるという一説があるが、それを信じるならば、同性を愛するティラノザウルス・レックスが居てもおかしくないわけだと頭の中で考えて、慄然としてしまった。あとは、彼らの生徒が読む事を考えて、ここに書くわけにはいかない。つまり、危ない話ばかりが続くのであったが、僕は終電車の時間が近づいたので21:15に皆と別れて店を出た。
22:30下関駅のプラットフォームで連絡の電車を待ちながら思った。石川さんが、月に一度研究仲間と飲み食いすることの意義を前に話していたけれど、その意味がよく分かる。地方に来て、ある面で僕は失望していたが、今年はネット上で友人が出来、またこういう形で九州の研究者ともつきあえるようになった。「君は切磋琢磨する相手が居ないね」と同志社の学生時代に向井教授に言われて、はっとしたことがあったが、いまその相手達をを見いだせたことを僕は理解していた。僕は胸奥からこみ上げてくる震えを感じていたが、それは決して深夜の底冷えする寒さが体を震わせているばかりではなかったのである。
で、12/8帰宅。