「虞美人草」論
───小野の形象について───
木村 功
「虞美人草」世界を読解する枠には〈文明批判小説〉(1)、〈父系によって母系を断罪した小説〉(2)とするものなどがあるが、いずれの論も甲野・宗近と藤尾・母の対立の図式の中でえがかれている。これらの図式にあって、小野は常に傍系の登場人物として位置づけられていたが、その小野に重点をおいた読み方も可能ではないかというのが本論の試みである。甲野・宗近・藤尾という登場人物に匹敵する位置を与えられながら、ともすれば藤尾に従属する位置しか与えられてこなかった小野の形象は、研究史においてもその意味が十分に闡明されているわけではない。かつて越智治雄は、〈漱石が小野さんの形象を通じて表現しようとしているのは、日本の知識人の生成の典型的な様相だとみることができるだろう。〉と述べ、小野の半生は〈自ずと日本の文明の状態とも重なっている。〉(3)と指摘した。しかし小野を文明批評的な観点から捉えることは、小野は勿論「虞美人草」世界そのものを、文明批判小説として一元的に解釈することに繋がっていくばかりだろう。
作家の〈人生観〉を中心とした文明批評的「勧懲」的世界の構築とその挫折として「虞美人草」世界を捉え、作家自身の啓蒙時代の終焉となった作品として位置づけるのではなく、小野や藤尾といった登場人物に注目することでむしろ後続作品へ通底するような、〈漱石のその後の作品群に対していわば一つの《原点》的な意義を持つ作品〉(4)という点から再評価することは、もはや不可能な試みなのであろうか。
一、「虞美人草」まで
「草枕」を書き終えた漱石に一つの転機がめぐってきていたことは、以下の鈴木三重吉宛書簡にもうかがえる。
苟も文学を以て生命とするものならば単に美といふ丈では満足が出来ない。丁度維新の当[ママ]士勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ。(中略)僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。それでないと何だか難をすてヽ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文学者の様な気がしてならん(明治三九年一〇月二六日)
漱石は、自分の進むべき道を「文学者」として位置づけ、〈維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい〉と決意を表明している。大学の教員をやめて朝日新聞社専属の作家として入社する経緯は、周知の事柄であるが、同時にこの前後の時期から漱石は民衆への啓蒙的な姿勢というものを意識し始めており、先の書簡と同時期の「文学談」(『文芸界』五巻九号、明治三九年九月)でも、「坊っちやん」に関する談話の外に以下のような発言が認められる。
扨て茲に長編の一小説を草するとすると、作者は作中の事件に就いては黒白の判断を与へ、作中の人物に就いては善悪の批評を施さねばならない。作者は我作物によつて凡人を導き、凡人に教訓を与ふるの義務があるから、作者は世間の人々よりは理想も高く、学問も博く、判断力も勝ぐれて居らねばならないのは無論のことである。文学は好悪をあらはすもので、普通[「普通」に圏点あり]の小説の如き好悪が道徳に渉つてゐる場合には是非共道徳上の好悪が作中にあらはれて来なければならん。此点から見て、文学は矢張り一種の勧善懲悪であります。
そして〈換言すれば一種の人生観のまとまらない作物は、其他の点に於ていくら成功しても、物足らないと云ふてもよい。〉(同)として、〈人生観〉を重視すべきことを主張する。漱石が考える「文学者」像は、端的に言えば〈吾人が世の中にある立脚地やら、徳義問題の解決やら、相互の葛藤の批評やら、凡て是等は小説家の意見を聞いて参考にせねばならん。小説家も其覚悟がなくてはならん。〉(同)とあるような〈人生観〉の専門家なのである。
「野分」(明治四〇年一月)の白井道也は、このような認識に基づいて形象された「文学者」であるといえる。〈白井道也は文学者である。〉の「野分」冒頭の一文は、白井道也が何ものであるかを物語るとともに、作家自身の読者に対する啓蒙主義的な立脚地を示すマニフェストであったのである。実際「野分」では、白井道也のほかに高柳秀作と中野輝一という文学士が登場してくる。物語がこの「文学者」達を中心にして展開していくところからも、「野分」がその一面において、作家自身の「文学者」像を実験する作品であったことは明らかである。三者の形象をそれぞれ見ていくと、たとえば高柳は小説家を志望しているが、生活に追われて創作の時間が持てず不遇をかこつ「文学者」である。一方中野は恒産に恵まれ、幸せな結婚もした新進気鋭の「文学者」である。趣味を持ち広い交際範囲を持つ点でも、高柳はその比ではない。道也も「江湖雑誌」の編集者として中野の談話を取材する立場であり、作品世界における社会的地位の点では著しく格差をつけられているのである。しかし物語中の〈作者〉は激烈な〈人生観〉を温める「文学者」と平凡な恋愛論を得意そうに開陳するこの「文学者」を対照させ、中野の浅薄さを逆に読者に提示し、道也によりそう姿勢を明らかにしている。〈維新の志士の如き烈しい精神で文学〉に取り組むという作家の姿勢に通底するものを、ここに認めることができる。そして高柳が道也の論文を読んで〈人生観〉にふれ、講演を通じていよいよその傾倒を深めていく様子を叙述することで、孤塁を守る道也の姿勢と〈人生観〉が、青年に支持されるように形象されている事が分かる。逆に言えば〈作者〉はこの小説の中で中野を、道也・高柳と対照するための人物として形象しているわけだが、それは「虞美人草」においても甲野・宗近に対する小野という同様の構図にスライドされていくのである。
ただし「野分」における中野が、道也・高柳の位置を浮かび上がらせる存在であったのに対して、「虞美人草」の小野は甲野・宗近に対峙するというだけではなく、それ以外にも積極的な意味を担わされた人物であるように思われる。例えばクレオパトラに擬せられる美貌の藤尾という女性像は、西洋的なファム・ファタルの系列と日本の清姫のような系列を併せ持つ、作家が作り出した「新しい女」像であった。しかし藤尾は、その恋愛において小野を主導しながらも、結局小野が改心したことで身を処する場を失ってしまうように、実は当時の平均的な女性同様恋愛においては受け身の立場であるという限界を露呈せざるを得なかった。そういう藤尾よりも、将来を嘱望される男性として相手を選ぶ権利を与えられ恋愛の主体であることを証し立てた小野清三という青年像こそ、作家の意匠が凝らされた人間(デウス・エクス・マキーナ)であり、それゆえに作家にとって重要な意味をもつ登場人物であったととらえるべきなのではなかろうか。
二、小野の形象
甲野と宗近は、作中で藤尾やその母親そして小野を懲戒する役割を担っており、この意味で作家の意図を体現する人物達なのであるが、それではもう一方の三人の中でも小野はどのような役割を担う人物なのであろうか。〈優しい、物に逆はぬ、気の長い男〉(一二)と語り手の〈作者〉に評される小野を、ただ単に藤尾の尻に敷かれる〈優柔〉な男と見るだけでは、小野の形象を十分に把握しているとはいえない。
甲野さんの日記の一節に云ふ。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。甲野さんの日記の一節に又云ふ。
「生死因縁無了期、色相世界現狂痴」
小野さんは色相世界に住する男である。
小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさへ云ふ。筒袖を着て学校へ通ふ時から友達に苛められて居た。行く所で犬に吠えられた。父は死んだ。外で辛い目に遇つた小野さんは帰る家が無くなつた。已むなく人の世話になる。(四)
第四章の冒頭からは、「虞美人草」の〈作者〉が甲野の日記の内容を読者に紹介できるような位置に居るのと同時に、小野の過去やその性格に通暁していることから〈作者〉と小野の距離も近接していることが読み取れる。それは必ずしも甲野と小野が〈作者〉から同じように評価されているということを意味しているのではないが、両者が〈作者〉にとってなんらかの意味で等価の人物達であったと考えることは出来よう。
石崎等は、〈作品の構成も作用しているが、甲野における《生》の時間的な追究は、かれの日記その他の哲学的思索に反して量的には極度に少ない。それに対して、小野は、『虞美人草』の登場人物の中では、最も永い固有な《生》の時間と格闘しなくてはならない。生きていく過程そのものが、いやおうなく自分に課してくる《義理や人情》の重圧、係累の柵、立身出世の欲望をはばむもの……小野にとって《過去》とは、自己の生涯を決定するものとして存在している。〉(5)と述べて、甲野同様に小野に着目する視座を提出している。石崎論文が指摘するように、甲野がほとんど生活臭を感じさせないのに対して、小野が作中唯一生活感をもった人物として形象されている事に注目したい。実際登場人物の中で生い立ちまで語られるのは小野ただ一人なのであり、過去と現在を含めて小野を形象するこの〈作者〉の姿勢は、小野という人物が決して軽視されるべき人物ではないことを物語っている。
次に甲野・宗近に対峙しているという点でも、小野は看過できない。藤尾と母親はそれぞれ宗近について、〈「あんな趣味のない人」〉〈「あんな見込みのない人は、私も好かない」〉(八)と、〈趣味〉と〈見込み〉というそれぞれの実利的ともいうべき価値観を以て宗近を一振りで打ち消してしまう。また小野は小野で、宗近を以下のように評している。
宗近と云ふ男は学問も出来ない、勉強もしない。詩趣も解しない。あれで将来何になる気かと不思議に思ふ事がある。何が出来るものかと軽蔑(さげす)む事もある。露骨でいやになる事もある。(中略)あの男の前へ出ると何だか圧迫を受ける。不愉快である。個人の義務は相手に愉快を与へるが専一と思ふ。宗近は社交の第一要義にも通じて居らん。あんな男はたゞの世の中でも成功は出来ん。外交官の試験に落第するのは当り前である。(一四)
また甲野についても
高等学校こそ違へ、大学では甲野さんも小野さんも同年であつた。哲学と純文学は科が異なるから、小野さんは甲野さんの学力を知り様がない。只「哲世界と実世界」と云ふ論文を出して卒業したと聞く許である。「哲世界と実世界」の価値は、読まぬ身に分る筈がないが、兎に角甲野さんは時計を頂戴して居らん。自分は頂戴して居る。恩賜の時計は時を計るのみならず、脳の善悪をも計る。未来の進歩と、学界の成功をも計る。特典に洩れた甲野さんは大した人間ではないに極つてゐる。其上卒業してから是と云ふ研究もしない様だ。深い考を内に蓄へて居るかも知れぬが、蓄へて居るならもう出す筈である。出さぬは蓄がない証拠と見て差支ない。どうしても自分は甲野さんより有益な材である。(傍線引用者)(一五)
と、恩賜の銀時計の有無、すなわち〈脳の善悪〉で自分が甲野よりも〈有益な材〉と断じるのである。小野が宗近と甲野を否定する根拠は、学問を基準に据えた人物の「有益」度であり、そこから測られる将来的な「成功」の可能性の有無である。このような小野の価値観を俗物性の一語で片づけてしまうことは、「立身出世」という言葉がリアリティーを持っていた時代性を見落とすことになるだろう。天野郁夫は明治時代における近代教育の成立について分析し、〈(前略)わが国の中・高等教育の機関が、人間形成やあるべき「教養」の形について、はっきりした理念を欠いていたことは、教育の効率や効用ばかりを重視し、知識のつめ込みや切り売りに専念する傾向をうみ出した。〉と述べ、〈そこでは、教育を、それ自体が目的であるよりも、他の目的を達成するための手段と見る考え方が支配的になってしまった。〉〈わが国で教育といえば、教養や人間形成のための「教育」(エデュケーション)よりも、教育資格や職業資格のための教育――「学歴稼ぎ」(クオリフィケーション)を意味する。〉(6)と指摘した。銀時計を拝受するほどの優秀な「学歴」を持つ小野が〈未来の進歩と、学界の成功〉という〈他の目的〉を見据え、その「立身出世」への階梯に乗り遅れている宗近や甲野を見下すのは、「学歴稼ぎ」の近代教育を受けてきたエリートの価値観からすれば当然の態度であったといえよう。
このように「虞美人草」世界には、甲野の「哲学」のほかに、「学歴」や「出世」に裏打ちされた小野の「文明の詩」とでも呼ぶべき論理が潜在しており、この二つが綯い合わさることで物語が織り成されていくと考えられる。藤尾と母親を目して、甲野と宗近の主たる対立者として捉えられ勝ちだが、実際のところ彼女たちが示しうるのは〈趣味〉と〈見込み〉という言葉が精々であり、それらは結局有力な男性との婚姻によって自らの社会的地位も確立させようという姿勢を物語る以上のものではない。言い換えれば、彼女たちの発想は小野の抱く価値観に従属しており、更に言えば「学歴」の申し子たる小野の存在を背景とすることで成り立っているにすぎないのである。したがって彼女達が自らの社会的な地位はもちろん、それに立脚した自立的な視点を持っているわけではない以上、小野の変容の影響下にあることからは免れないことになろう。ともあれ小野は、「学歴」を背景にした「文明の詩」の「論理」から、甲野と宗近の二人を相対化し、「虞美人草」世界に価値観の相克による緊張感を生じさせているのである。
さらにまた小野に注目する第三の理由としては、過去が描かれ優秀な「学歴」の所有者でもあるというだけでなく、甲野同様内面の彫琢が加えられている人物である事が指摘できる。「文明の詩」のような価値観を持つ小野は、どのようにして生れたのであろうか。
自然の経路を逆しまにして、暗い土から、根を振り切つて、日の透る波の、明るい渚へ漂ふて来た。――坑の底で生れて一段毎に美しい浮世へ近寄る為には二十七年かヽつた。二十七年の歴史を過去の節穴から覗いて見ると、遠くなればなる程暗い。(四)
〈水底の藻〉(同)である小野は、京都で井上孤堂の世話になることで、絣の着物をこしらえて貰ったり、年に二十円の月謝も出して貰つた。井上弧堂が京都に在住していたことから、小野が学んでいた高等学校が第三高等学校であることは容易に推測がつく。小野は孤堂の援助を受けて刻苦勉励の結果、〈暗い〉過去から浮上して現在に至ったのである。この事からは小野が、中学校・高等学校と「学歴」を身につける事で社会的な地位を獲得して行くしかなかった、武士階層の出身者であることを推測させる。天野によれば、「瓦解」によって、家禄を失った武士階層が生活の手段として頼らざるを得なかったのは、彼らの「武力」と「知識」であり、農民や商人のように土地や財産を持たない彼らは「教育」の価値を十分認識していたから、師弟の「教育」には熱心であったという(7)。三十年前に京都に移り住んだという井上孤堂が、漢学の教師をしていたという事は、彼が教養を持った士族であることと同時に、これからの社会における「教育」の有用性を十分知悉していたことも物語っていよう。
その孤堂が小野の面倒を見たのは、何よりも小野の優秀さを認めたからであるが、その一方で優秀な小野に娘を嫁がせようという目算がなかったとはいえないだろう。「教育」を受ける機会を与えることによって「立身出世」させ、その代わりに娘と夫婦となることによって、娘の結婚と自らの老後の生活の安定を計っていたのである。そしてそのような先行投資は、何ら奇異なものではない。孤堂の希望通り、英才である小野は帝国大学を出て、「立身出世」コースを歩き続ける。
ところが〈作者〉は、そのような小野を肯定的に捉えてはいない。〈――小野さんは水底の藻であつた。〉のが、井上孤堂の世話によって〈水底の藻は土を離れて漸く浮かび出す。〉、そして東京での順境にあって〈浮かび出した藻は水面で白い花をもつ。根のない事には気が付かぬ。〉というように、小野が〈根のない〉人物であるというマイナスの評価を読者に示すのである。そして小夜子の視点からも、〈小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、健気に生ひ立つた阿蒙の変りかたではない。色の褪めた過去を逆に捩ぢ伏せて、目醒しき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急に拵らへ上げた様な変りかたである。〉(九)と、否定的な評価を与えている。橋浦洋志は、小野にとって〈「過去」とは無価値な通過点であり、人生の実質を形成するものではなかった。そしてここに「過去」を消極的にしか引摺りえない近代日本の、表層的欧化主義とのアナロジーが成立する。〉(8)と指摘している。しかし作家が剔抉しようとしていたのは、さらに大きな問題であったと思われる。すなわち、〈道義〉に裏打ちされた「悲劇の哲学」とは対蹠的な、「学歴」の獲得による「立身出世」への欲望に支えられた「文明の詩」を生きる小野の姿は、性急な外発的開化のために個人の精神から尊いもの(〈道義〉)を消失させながら衰亡への発展を続ける明治社会の精神構造そのものの隠喩であり、「文学者」である作家が最も危惧を抱く明治の「人間」像として形象されているのである。このため小野を評する〈作者〉の視点も、逆説的なものに変質してしまう。例えばそのような語り口は、以下に述べるような場面に表れてくる。
小野は、文学者として東京で出世すると同時に「過去」を忘却し始め、〈美くしき想像に耽るためには余裕がなくてはならぬ。美くしき想像を実現する為めには財産がなくてはならぬ。〉と考え始め、〈――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分を完ふする為めにも金を得ねばならぬ。〉(一二)という認識を抱くようになっている。
詩人程金にならん商買はない。同時に詩人程金の入る商買もない。文明の詩人は是非共他の金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。小野さんがわが本領を解する藤尾に頼たくなるのは自然の数である。あすこには中以上の恒産があると聞く。腹違の妹を片付るに只の箪笥と長持で承知する様な母親ではない。殊に欽吾は多病である。実の娘に婿を取つて、かヽる気がないとも限らぬ。(一二)
ここで〈作者〉は藤尾と恋愛関係にある小野の心底に横たわる、利害と打算の存在を剔抉している。この時点で見るかぎり小野は明らかに野望と欲望に突き動かされる、〈文明の詩人〉の相貌を露呈しているといってよいだろう。小野にとって藤尾との恋愛は、〈他の金で美的生活を送らねばならぬ〉〈文明の詩人〉の立場から当然の帰趨として見いだされるべき戦略なのである。そして小野は大人しく時機の到来を気長に待っていたのであった。しかしその小野の打算も、井上孤堂と小夜子という〈過去が押し寄せて来た。〉(同)ことで〈大人しく時機を待つ覚悟を気長に極めた詩人も未来を急がねばならぬ。〉ような不測の事態に陥ってしまう。その時に小野が編み出した〈論理〉こそ、〈文明の詩人〉の面目躍如たる内容を呈している。
恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れる様な不人情な詩人ではない。一飯漂母を徳とすと云ふ故事を孤堂先生から教はつた事さへある。先生の為めならば是から先何処迄も力になる積でゐる。人の難儀を救ふのは美くしい詩人の義務である。此義務を果して、濃やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんに尤も格好な優しい振舞である。只何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思ふ様に出来る。――小野さんは机の前で斯う云ふ論理を発明した。
小夜子を捨てる為ではない、孤堂先生の世話が出来る為に、早く藤尾と結婚して仕舞はなければならぬ。――小野さんは自分の考に間違はない筈だと思ふ。人が聞けば立派に弁解が立つと思ふ。小野さんは頭脳の明瞭な男である。(傍線引用者)(一二)
〈作者〉は小野が〈机の前〉で発明した〈論理〉を読者の前に展開してみせるが、ここに窺えるのは〈温厚なる小野さん〉が抱く酷薄で独善的な性格である。たとえば、恩師である井上孤堂の窮状を助けることについて、〈先生の為ならば是から先何処迄も力になる積でゐる。〉というのは分かるが、〈人の難儀を救ふのは美くしい詩人の義務である。此義務を果して、濃やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんに尤も格好な優しい振舞である。〉というのは、明らかに恩師への厚意というものから逸脱している。言い換えれば恩師への厚意というのは、自分の得意な現在を飾るための偽善の行為でしかない。しかもその虚栄心を満たすための行為に必要な金は、藤尾の懐を当てにしているわけであるから、これほど都合のいい「恩返し」はないわけである。引用文の最後で〈作者〉が〈小野さんは頭脳の明瞭な男である。〉と評するが、小野の頭脳の明瞭さは如何に要領よく人から指弾されるのを免れ、義理を果たしながら、それ以上に自分の野心と欲望を遂行するかということを腐心する点に発揮されていたことを理解しなければならない。このように〈作者〉は、小野を一見評価しているように語りながら、実際は小野の暗い面を暴くという逆説的な語り口を用いているのである。
そして小野の「計画」は、小夜子との結婚の話を浅井に断らせようと画策したところから狂い始める。したたかな小野が、浅井のような粗漏な人物を難問解決の周旋役に選んだこと自体、彼の焦燥を物語っているのだが、それでも小野は最後まで「善人」としての自分を疑ってはいないのである。
浅井の様に気の毒気の少ないものなら、すぐ片付ける事も出来る。宗近の様な平気な男なら、苦もなくどうかするだらう。甲野なら超然として板挟みになつてゐるかも知れぬ。然し自分には出来ない。向へ行つて一歩深く陥(はま)り、此方へ来て一歩深く陥る。双方へ気兼をして、片足づヽ双方へ取られて仕舞ふ。つまりは人情に絡んで意思に乏しいからである。利害?利害の念は人情の土台の上に、後から被せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれヽば、すぐ人情だと答へる。(一四)
こうして小野は、浅井に縁談を断る「談判」を任せることにするのだが、そこでも〈こんな事は人情に拘泥しない浅井に限る。自分の様な情に篤いものは到底断わり切れない。〉(同)と考えているのである。本当に〈情に篤い〉人間であれば〈人情に拘泥しない人間〉に談判を任せたりはしないであろう、という反駁が容易に想定できる以上、ここでも〈作者〉は逆説的に〈情に篤い〉という言葉を用いていると考えられる。酒井英行は〈小野は、甲野・宗近に拮抗し得る、「人情」を主張する独自性を持った人物に成長している。〉(9)と積極的に評価するが、疑問である。小野を突き動かしているのは、やはりここでも〈利害〉(同)の念に他ならなかったと考えるべきで、それを〈独自性を持った人物に成長〉したとは評価できない。
このように小野は、藤尾の尻に敷かれるような大人しい人間というのではなく、したたかな打算と野心によって藤尾と交際し甲野家の財産を手に入れ、自らの暗い過去を払拭して輝かしい成功のうちに〈文明の詩人〉としての生活を築き上げようと画策する人物だといえよう。温厚さと独善的な自己中心性と〈利害〉を抱懐する、極めて「人間」臭い人物像がここに描かれているわけである。従来このような小野の形象は、〈小野さんの私は、小野さんに誠実がなく、道義的な背骨がなく、従つて小野さんに「性格」が缺けている所から生まれる。〉(10)という指摘から、〈性格紛失者〉(11)、〈無性格〉(12)等と評されてきた。しかし、このような一見相反するような複雑な内面を持つものこそが、実は人間のあるべき一つの姿なのではあるまいか。その意味で小野こそは、「虞美人草」の中で唯一「人間」臭い内面を持った登場人物として、むしろ評価すべき人物像であろう。さらに先走って言うならば、我執を内面化した後期作品群の登場人物達のプロトタイプとして、小野を想定することも可能である。
ともあれ逆説的な〈作者〉の語り口からも窺えるように、「人間」的な小野の性格は小野自身の善良な面と悪辣な面の二面性を読者に提示し、小野が少なくとも〈真面目〉な人間ではないことを読者に知らしめる効果を上げている。
縷述してきたように小野の役割は、甲野・宗近と対蹠的な位置に立ち、読者に彼らの価値観を相対化してみせることにあった。労苦のうちに過ごした過去と得意の絶頂にある現在から自分なりの価値観を獲得した人物として、小野は甲野・宗近に対峙しているのである。ところがそのような小野が最終的に宗近によって〈真面目〉にされてしまうことによって、〈文明の詩人〉の敗北が単に示されるだけでなく、作家が〈文明の詩人〉の属性として描き込んでいた〈利害〉、野心、金銭欲なども否定され、〈道義〉による近代の懲戒という構図が成立し、近代的価値観よりも〈道義〉の優位が証明されることになってしまった。小野が魅力的で、前途有望な将来性のある青年として形象されればされる程、甲野・宗近による〈道義〉の逆転劇が読者へもたらす「教育」的効果は絶大であろう。また一筋縄ではいかない小野が〈真面目〉になることで、甲野の「悲劇の哲学」自体の「教育」的な効果も如実に証明されることになる。つまり甲野に「悲劇の哲学」の講釈をさせるよりも、その影響が直接波及し改心した人間の姿を見せる方が、はるかに読者には説得的であるはずである。この意味で小野は、甲野のように主題を語る人物ではないが、「虞美人草」の中で〈喜劇〉を生きている者が〈悲劇〉の意義を悟るという意味で、主題を生きる唯一の人物であるといえる。
実はこのことこそ、翻っては「虞美人草」がプロット的に一つの寓話に堕していることを証し立てることにもなるのだが、それは勧善懲悪のような既存の文学的モチーフを採用した段階で否応なく内蔵せざるを得なかった限界であったようにも思われる。むしろそういう文学的モチーフを採用する一方で、漱石が新たに盛り込もうとした内容そのものにこそ『虞美人草』の問題性が胚胎していたと考えるべきである。
三、「虞美人草」の問題性
縷述してきたように小野の形象には、作家のもう一つの意図が二重写しになっている。すなわち藤尾に代表される美貌と我執、母親に代表される強烈な生活欲金銭欲、文学士小野の温厚ではあるが利己的な性格といった、明治社会が醸成した人間の特質が、甲野や宗近の依る「哲学」に懲戒されるという構図は、甲野の「哲学」に認められる過去の日本の道徳が、明治の浮薄な風潮を懲戒し改めて主導するという作家の〈人生観〉を仮託したものと推察されるのである。
確かに義母による甲野の財産奪取を目的とした藤尾小野を巡る一連の画策は、長子単独相続を定めた明治民法の規定からいっても、明治を舞台とした「お家騒動」以外の何ものでもなく、「継子いじめ」(13)が確認できることや、作者の意向を担った登場人物による対立方の懲戒は「勧善懲悪」の話型を形成する。これらはすべて伝統的な文学的モチーフに属しており、作家がこれらの採用に無自覚であったとは考えにくい。むしろこのことについては、文学愛好家以外の人間も目を通す「新聞」というメディアにおいて、如何に馴染みやすく、如何に自分の〈人生観〉も表出できるかという試行錯誤の果てに採用されたのが、旧来のこれらのモチーフであり、これらを採用することで、説得力のある物語性を獲得しようとしていたと解釈すべきではないだろうか。それも、これらのモチーフの採用が逆に表現行為のくびきともなることを覚悟した上での、覚悟の選択であったろう。したがって「虞美人草」を目して勧懲主義によって善玉と悪玉が形象されているために、時代錯誤的な小説と考えるのは作品世界の表層をなぞっただけの評価といわなければならない。
しかしそれにもかかわらず、「虞美人草」はその本質において反動的な要素を保有した作品であると考えられる。その反動的な所以は、作家が小野や藤尾・母親として形象して見せた近代的な事象を、「過去」の〈道義〉によって懲戒し主導しようとしたアナクロニズムにある。換言すれば、明治の外発的な開化によって生じた〈文明〉を「過去」の内発的な道徳〈道義〉から批判したことである。そのための仕掛けとして物語に設定された小野の回心は、〈文明〉の側からの同調として描くことで、甲野・宗近の〈道義〉の有効性に説得力を与える働きを物語の展開上は持っている。たしかに小野は回心し、もとの婚約者である小夜子と結婚するのであろう。しかしそのような結末に、当の小夜子や井上弧堂が果たして満足していたかどうかは甚だ疑問である。しかも小野は小野で、恩義に報いるために自分の意思を犠牲にした上に、藤尾が自殺したことで新たな罪を背負ってしまったことになるのではないか。二重三重の悲劇に、小野は捉えられることになる。このように過去の〈道義〉が明治の〈文明〉を懲戒し導くという構想の下で、回心したはずの小野は救済されるどころか、さらに悪化した事態の渦中に放り込まれてしまっているのである。
ここにおいてこそ、作家の描いた〈道義〉による〈文明〉の主導という構想は、破綻をきたしていると言えるだろう。〈道義〉という言葉に新しい内容をもりこむことが出来なかったことと、〈道義〉による救済を企図したはずが救済として描出できなかったことによる破綻であった。小野という複雑な内面を持った「新しい人間」像を描き出すことには成功していたが、甲野と宗近が主導する〈道義〉によって〈文明〉を〈真面目〉へと導く救済の物語としては、小野をはじめ藤尾・母親を見舞った結末に鑑みる限り、その実現を見なかったといわざるを得ない。
註
(1) 平岡敏夫「『虞美人草』論」「日本近代文学」第二集、一九六五年五月。
(2) 大久保典夫「『虞美人草』論ノオト」『作品論夏目漱石』一九七六年九月、双文社。のち玉井敬之監修、浅田隆・木股知史編『漱石作品論集成』第三巻、一九九一年七月一〇日、桜楓社所収、一〇六頁。
(3) 「喜劇の時代――『虞美人草』――」『漱石私論』、昭和四六年六月三〇日、角川書店、九六、九七頁。
(4) 重松泰雄「――『虞美人草』――限界と可能性」「国文学」(夏目漱石の全小説を読む)第三八巻第二号臨時号、平成六年一月、學燈社。
(5) 「虚構と時間――『虞美人草』の世界――」『漱石の方法』一九八九年七月一〇日、有精堂、六四頁。
(6) 天野郁夫『学歴の社会史――教育と日本の近代――』一九九二・一一・一五、新潮選書、一〇八頁。
(7) 天野は、〈明治維新直後の時期、教育を当然のことと考え、教育の価値を知っていたのは、誰よりも旧藩関係者であり、人口の六%程度をしめたにすぎない士族たちであった。義務教育はともかく、中等以上の教育を真っ先に必要とし、要求したのが、他ならぬかれらであったのは、当然といってよいだろう。そしてそこにハンが、中等教育や高等教育のための学校の設立にかかわり、それらの学校に旧藩士の師弟を送りこもうと努力をつくす現実的な基盤があった。中・高等教育は、藩閥の延命策としてではなく、士族の救済策として、「教育授産」として重視されたのである。〉(前掲書、三七頁)と指摘している。また〈明治一八年当時の全国統計によれば官員の七六%、郡区長・書記の四七%、また教員の場合にも(明治一六年)中学校で七八%、小学校でも四〇%が士族であった。〉(前掲書、四八頁)というように上層部になれば成る程士族がその地位を占有していた実態が浮かび上がってくる。この事を参考にすると、井上孤堂が士族である可能性は、かなり高いと考えられる。
(8) 橋浦洋志「小野の『人情』」「日本近代文学」第三八集、昭和六三年五月一五日。
(9) 酒井英行「『虞美人草』論」『漱石 その陰翳』一九九〇年四月四日、有精堂、八六頁。
(10)小宮豊隆「虞美人草」『漱石の芸術』昭和一七年一二月九日、岩波書店、一二〇頁。
(11)桶谷秀昭「勧善懲悪と性格描写」『増補版 夏目漱石』昭和五八年六月一〇日、河出書房新社、七八頁。
(12) (2)に同じ。一〇一頁。
(13) 竹盛天雄「二つの『遐なる』もの――『虞美人草』周辺」(「国文学」第一九巻一三号、一九七四年一一月。のち、玉井敬之監修、浅田隆・木股知史編『漱石作品論集成』第三巻、一九九一年七月一〇日、桜楓社所収、六七頁)に〈継子いじめ譚のパターン〉の指摘がある。
【付記】
「虞美人草」本文の引用は、『漱石全集』第四巻(一九九四・三・九、岩波書店)に依る。書簡の引用は『漱石全集』二二巻(一九九六・三・一九、岩波書店)、談話筆記は『漱石全集』二五巻(一九九六・五・一五、岩波書店)に依った。また引用に際しては、漢字の旧表記は現行のものに改め、ルビも最小限にとどめた。
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