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「権狐」 |
「ごん狐」 |
1 |
茂助と云ふお爺さんが、私達の小さかつた時、村にゐました。「茂助爺」と私達は呼んでゐました。茂助爺は、年とつてゐて、仕事が出来ないから子守ばかりしてゐました。若衆倉の前の日溜で、私達はよく茂助爺と遊びました。 私はもう茂助爺の顔を覚えてゐません。唯、茂助爺が、夏みかんの皮をむく時の手の大きかつた事だけ覚えてゐます。茂助爺は、若い時、猟師だつたさうです。私が、次にお話するのは、私が小さかつた時、若衆倉の前で、茂助爺からきいた話なんです。 |
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一 2 |
むかし、徳川様が世をお治めになつてゐられた頃に、中山に、小さなお城があつて、中山様と云ふお殿さまが、少しの家来と住んでゐられました。 |
これは、私が小さいときに、村の茂平といふおじいさんからきいたお話です。 むかしは、私たちの村の近くの、中山といふ所に、小さなお城があつて、中山さまといふおとのさまが、をられたさうです |
3 |
権狐は、一人ぼつちの小さな狐で、いささぎの一ぱい繁つた所に、洞を作つて、その中に住んでゐました。 |
ごんは、一人ぼつちの小狐で、しだの一ぱいしげつた森の中に、穴をほつて住んでゐました。 |
4 |
雨があがると、権狐はすぐ洞を出ました。空はからつとはれてゐて、百舌鳥の声がけたたましく、ひゞいてゐました。 |
雨があがると、ごんは、ほつとして,穴からはひ出ました。空はからつと晴れてゐて、百舌鳥の声がきん/\、ひゞいてゐました。 |
5 |
権狐は、背戸川の堤に来ました。ちがやの穂には、まだ雨のしづくがついて、光つてゐました。 |
ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すゝきの穂には、まだ雨のしづくが光つてゐました。 |
6 |
兵十は、ぬれた黒い着物を着て、腰から下を川水にひたしながら、 |
兵十は、ぼろ/\の黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、 |
7 |
その中には、芝の根や、草の葉や、木片などが、もぢやもぢやしてゐましたが、 |
その中には、芝の根や、草の葉や、くさつた木ぎれなどが、ごちや/\はいつてゐましたが、 |
8 |
兵十がゐなくなると、権狐はぴよいと草の中からとび出して行きました。魚篭には蓋がなかつたので、中に何があるか、わけなく見えました。権狐は、ふといたづら心が出て、 |
兵十がゐなくなると、ごんは、ぴよいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちよいと、いたづらがしたくなつたのです。 |
9 |
その時兵十の声が、 「このぬすつと狐めが!」と、すぐ側でどなりました。 権狐はとびあがりました |
そのとたんに、兵十が、向うから、 「うわァぬすと狐め。」と、どなり立てました。ごんは、びつくりしてとびあがりました。 |
10 |
権狐は、ほつとして鰻を首から離して、洞の入口の、いささぎの葉の上にのせて置いて洞の中にはいりました。 鰻のつるつるしたはらは、秋のぬくたい日光にさらされて、白く光つてゐました。 |
ごんは、ほつとして、うなぎの頭をかみくだき、やつとはづして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。 |
二 11 |
大きな、はそれの中では、何かぐつぐつ煮えてゐました。 |
大きな鍋の中では、何かぐづ/\煮えてゐました。 |
12 |
「あゝ、葬式だ。」 権狐はさう思ひました。こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐ解りました。 「それでは誰が死んだんだらう。」とふと権狐は考へました。 けれど、いつまでもそんな所にゐて、見つかつては大変ですから、権狐は、兵十の家の前をこつそり去つて行きました。 |
「あゝ、葬式だ。」と、ごんは思ひました。 「兵十の家のだれが死んだんだらう。」 |
13 |
いゝ日和で、お城の屋根瓦が光つてゐました。お墓には、彼岸花が、赤いにしきの様に咲いてゐました。 |
いゝお天気で、遠く向うにはお城の屋根瓦が光つてゐます。墓地には、ひがん花が、赤いのやうにさきつゞいてゐました。 |
14 |
「それでは、死んだのは、兵十のおつ母だ。」 |
「はゝん、死んだのは兵十のお母だ。」 |
15 |
「(前略)所が、自分が悪戯して、鰻をとつて来て了つた。だから兵十は、おつ母に鰻を喰べさせる事が出来なかつた。それでおつ母は、死んぢやつたに違ひない。鰻が喰べたい。鰻が喰べたいと云ひながら、死んぢやつたに違ひない。あんな悪戯をしなけりやよかつたなー。」 |
「(前略)ところが、わしがいたづらして、うなぎをとつて来てしまつた。だから兵十は、お母にうなぎを食べさせることが出来なかつた。そのまゝお母は、死んぢやつたにちがひない。あゝ、うなぎが食べたい。うなぎが食べたいとおもひながら、死んだんだらう。ちよッ、あんないたづらをしなけりやよかつた。」 |
16 |
こほろぎが、ころろ、ころろと、洞穴の入口で時々鳴きました。 |
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三 17 |
権狐は、納屋のかげから、あちらの方へ行かうとすると、どこかで、鰯を売る声がしました。 |
ごんは、物置のそばをはなれて、向うへいきかけますと、どこかで、いわしを売る声がします。 |
18 |
「鰯のだらやす――。いわしだ――。」 |
「いわしのやすうりだァい。いきのいゝいわしだァい。」 |
19 |
権狐は、元気のいゝ声のする方へ走つて行きました。芋畑の中を。 |
ごんは、その、いせいのいゝ声のする方へ走つていきました。 |
20 |
弥助のおかみさんが、背戸口から、 「鰯を、くれ。」と云ひました。 |
と、弥助のおかみさんが裏戸口から、 「いわしをおくれ。」と言ひました。 |
21 |
権狐は、何か好い事をした様に思へました。 |
ごんは、うなぎのつぐなひに、まづ一つ、いゝことをしたと思ひました。 |
22 |
まだぶつぶつ云つてゐました。 |
と、ぶつ/\言つてゐます。 |
23 |
次の日も次の日も、ずーつと権狐は、栗の実を拾つて来ては、兵十が知らんでるひまに、兵十の家に置いて来ました。栗ばかりではなく、きの子や、薪を持つて行つてやる事もありました。そして権狐は、もう悪戯をしなくなりました。 |
つぎの日も、そのつぎの日も、ごんは、栗をひろつては、兵十の家へもつて来てやりました。 そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二三ぼんもつていきました。 |
四 24 |
権狐は、道の片側によつて、ぢつとしてゐました。 |
ごんは、道の片がはにかくれて、ぢつとしてゐました。 |
25 |
「おつ母が死んでから、誰だか知らんが、俺に栗や、木の子や、何かをくれるんだ。」 |
「お母が死んでからは、だれだか知らんが、おれに栗やまつたけなんかを、まいにち/\くれるんだよ。」 |
26 |
権狐は、二人のあとをついて行きました。 |
ごんは、二人のあとをつけていきました。 |
27 |
「ほんとかい?」 加助が、いぶかしさうに云ひました。 |
「ほんとかい?」 |
28 |
「変だな――」 |
「へえ、へんなこともあるもんだなァ。」 |
29 |
「モク、モクモク、モクモク」と木魚の音がしてゐました。 |
ポン/\ポン/\と木魚の音がしてゐます。 |
30 |
「(前略)神様が、お前が一人になつたのを気の毒に思つて栗や、何かをめぐんで下さるんだ」 |
「(前略)神様が、お前がたつた一人になつたのをあはれに思はしやつて、いろんなものをめぐんで下さるんだよ。」 |
31 |
権狐は、つまんないなと思ひました。自分が、栗のきのこを持つて行つてやるのに、自分にはお礼云はないで、神様にお礼を云ふなんて。いつそ神様がなけりやいゝのに。 権狐は、神様がうらめしくなりました。 |
ごんは、「へえ、こいつはつまらないな。」と、思ひました。「おれが、栗や松たけを持つていつてやるのに、そのおれにはお礼をいはないで、神さまにお礼をいふんぢやァおれは、引き合はないなあ。」(五) |
五 32 |
その日も権狐は、栗の実を拾つて、兵十の家へ持つて行きました。 |
(六)そのあくる日もごんは、栗をもつて、兵十の家へ出かけました。 |
33 |
兵十はふいと顔をあげた時、何だか狐が家の中へはいるのを見とめました。兵十は、あの時の事を思ひ出しました。鰻を権狐にとられた事を。きつと今日も、あの権狐が悪戯をしに来たに相違ない――。 |
そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいつたではありませんか。こなひだうなぎをぬすみやがつたあのごん狐めが、またいたづらをしに来たな。 |
34 |
「おや――。」 兵十は権狐に眼を落しました。 |
「おや。」と兵十は、びつくりして、ごんに目を落しました。 |
35 |
「権、お前だつたのか……、いつも栗をくれたのは――。」 |
「ごん、お前だつたのか。いつも栗をくれたのは。」 |
36 |
権狐は、ぐつたりなつたまゝ、うれしくなりました。 |
ごんは、ぐつたりと目をつぶつたまゝ、うなづきました。 |
37 |
兵十は、火縄銃をばつたり落しました。まだ青い煙が、銃口から細く出てゐました。 |
兵十は、火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出てゐました。 |