夏目漱石におけるイプセン戯曲の受容


  ーー留学時代のイプセン読書(1)ーー

                木村 功


     1 漱石とイプセン

 森鴎外の「青年」(「スバル」明治43年3月〜明治44年8月)の中に登場する平田拊石が夏目漱石をモデル
にしていることはよく知られている。その平田拊石は講演会でイプセンに言及し、〈イブセンは初め諾威の
小さいイブセンであつて、それが社会劇に手を着けてから、大きい欧羅巴のイブセンになつたといふが、そ
れが日本に伝はつて来て、又ずつと小さいイブセンになりました。なんでも日本へ持つて来ると小さくなる。〉
(七)と述べている。もちろんこれは拊石に依った鴎外自身の意見であり、当時発展途上国であった日本の
文化的土壌がまだまだ貧弱であることを指摘したものである。この作品にイプセンの名が出てくるのは、鴎
外が「ブラン」を「牧師」として翻訳したり、小山内薫と市川左団次の自由劇場のために「ジョン・ガブリ
エル・ボルクマン」を翻訳するなどして、イプセン戯曲に親しんでいたことも理由の一つであるが、社会的
な要因もこの作品の背景として存在している。
 日露戦争を経て世界の「一等国」の仲間入りを果たした大日本帝国においては、その戦後の社会生活の中
に様々な問題の湧出をみることになった。戦後の慢性的な不景気は、国民の生活を脅かし、浮華動揺を招来
することになったが、その中で問題視されたことの一つとして家制度を支える儒教精神の崩壊が上げられる。
これには明治生まれの新しい世代の人間が社会に進出する時代に入ったことと無関係ではないが、次々に日
本に輸入される欧米の思想が、個人主義や世界主義として青年層を中心に波及して行ったことも遠因として
考えられるだろう。イプセンの戯曲とその登場人物達なども、ラジカルな個人主義の旗手として明治の知識
的な青年層に受け入れられていったように思われる。そのイプセンが日本の社会に決定的な影響を与えたの
は、周知のように明治44年の文芸協会による「人形の家」の上演によってである。その主人公のノラが夫
や子供のいる家庭を捨てるという結末は、家制度の桎梏に苦しむ女性の自覚的解放への道を示唆するものと
して受け取られ、明治社会にセンセーショナルな衝撃を与えたのである。そして同じ頃、平塚明子の主催で
スタートした女性だけの結社である青踏社は、このノラのイメージと相まって「新しい女」という言葉を流
行させる社会現象を形成した。
 「青年」にイプセンの名がでてくるのは、明治社会の成熟が迎えた一つの局面と根底で結びついているこ
とと、鴎外を含めてのイプセン戯曲自体に対する文壇、演劇界の注目があったからなのである。それでは、
拊石のモデルとなった漱石自身は、イプセンやその戯曲をどのように考えていたのであろうか。残念ながら
この問題に関する漱石研究は多いとは言えない。というよりも明治時代におけるイプセン戯曲の受容に関す
る研究自体が近代文学の研究分野で盛んではなく、漱石研究においてもその例外ではなかったのである。
 しかし全くないわけではないので、今までに管見に入った発言を整理しておく。その嚆矢というべきは小
宮豊隆で、〈『野分』はイプセンの『民衆の敵』を思ひ出させる。殊に白井道也が清輝館でする演説と、そ
の演説をする時の道也のシテュエーションとは、ストックマンの演説とその演説をする時のストックマンの
シテュエーションとに、酷似する所を持つてゐる。〉@と指摘した。板垣直子は『漱石文学の背景』の中で、
〈漱石はイプセンの近代劇の技術を、非常に高く評価し、そのことをいろいろ随想にかいた。イプセンは筋
を展開し、盛り上げてゆく布陣を、水ももらさぬ用心深さをもって配置し固めていった。(中略)つぎに、
藤尾という変った型の性格に、漱石は一人の「新しい女」をかこうとしたのである。そして、直接参考にさ
れたのは、イプセンの「ヘッダ・ガブラー」という作品の女主人公のヘッダである。〉Aと述べた。
 漱石が活動した時期に起こったイプセンの流行に着目したものでは、小堀桂一郎の「漱石と鴎外」B、大
澤吉博の「新しい女の衝撃ーー漱石・泡鳴・イプセンーー」Cの二つの論文がある。ただしこれらは漱石文
学におけるイプセン受容に焦点を当てたものではなかった。出淵敬子は「一九世紀イギリス小説と作家漱石
ーー新しい女の創造をめぐって」Dにおいて、『漱石資料ーー文学論ノート』の中に収められた英国留学時
代の断片類に漱石のイプセンへの言及が認められる事を初めて指摘している。また小倉脩三は「漱石におけ
るウィリアム・ジェームズの受容についてーー『意識の選択作用』の説をめぐってーー」Eという論考で、
漱石が「三四郎」を書いたときに美禰子の描写の仕方をイプセンの「建築師」から得ていることを指摘した。
毛利三彌も「『三四郎』とイプセン」Fで、「ロスメルスホルム」のレベッカと広田の過去に注目し、また
美禰子と「ヘッダ・ガブラー」のヘッダ、レベッカ、「棟梁ソルネス」のヒルデとの共通項を見出し興味深
い発現をしている。とはいえ、漱石とイプセン戯曲との関係についての研究は、十分に展開しているとは言
えないのが現状である。本論では、漱石におけるイプセン戯曲の受容の全容について闡明することを目的と
する。

   2 東北大学付属図書館漱石文庫所蔵
    イプセン英訳本書誌、及び購入時期について

 漱石文庫所蔵の書物に関しては、東北大学付属図書館より『漱石文庫目録』が出され、岩波の決定版全集
にも同様の目録が収められており、その全容を窺うことができる。しかしこれらはタイトルを主に拾った目
録であるためにどういう体裁の書物であるかは判然としない。換言すれば、漱石がその手で直に触れた書物
が一体どういうものであったのか、その実像にまでは至り得ていないのが現状である。ちなみに『漱石文庫
目録』に掲げられているイプセン戯曲の英訳本は、全部で9冊あり、メレジコフスキーの『THE LIFE-WORK
of HENDRIK IBSEN』を含めると10冊がイプセン関係の書物であることが分かる。ところがこの目録では、漱
石が読んでいた作品名を特定する点で問題が生ずる。たとえば目録中『THE PIRRARS OF SOCIETY & C』とな
っているものについては、書名に上がっていない作品があるわけであり、漱石がイプセンのどの作品を読ん
でいたかを調べる際に大きな障害となる。もちろんこのことは全集の目録においても同様である。このよう
な目録上の不備を補うために、東北大学付属図書館所蔵の漱石文庫に於いてイプセン戯曲の英訳本に関する
調査を行った。
 以下に掲げるのは、漱石文庫所蔵のイプセン英訳本の書誌である。凡例は次の通りである。@書名(タイ
トルページによる)、A翻訳者(tr)・出版者(ed)・前言(intr)・出版地・出版社・出版年期 、Bサイズ(縦
×横、単位は粍)、C本文頁数、D特徴(装丁、所蔵印譜等)、E書き込みの有無、F請求番号・登録番号。

1,@A DOLL'S HOUSE A ed,intr William Archer,Walter Scott,London,1900 B177×124 C175頁 D青
色クロス表紙、表紙見返しに「東北帝国大学図書館昭和19年2月25日受入」の印あり(以下8冊も同様)144頁
と145頁の間に写真1葉あり。タイトルページに「夏目」と「漾虚碧堂図書」印 E書き込み、傍線、下線な
し。F請求番号「漱1C719」登録番号「洋甲134331」

2,@THE COLLECTED WORKS OF HENRIK IBSEN VOLUME \ ROSMERSHOLM THE LADY FROM THE SEA A ed,intr
William Archer,William Heinemann,London,1907 B194×130 C349頁 D海老茶色クロス表紙、丸背(背
表紙に金押しのタイトルネーム)、アンカット、表紙見返し左上端に丸善シール(青地に金字、16×27)の貼
付あり。前表紙に「漱石居」、タイトルページに「漱石」、裏表紙の遊紙にも「漱石居」の印あり。E書き
込み、傍線、下線なし。F請求番号 「漱1C720」登録番号「洋甲134332」

3,@THE PIRRARS OF SOCIETY,AND OTHER PLAYS (“GHOST”“AN ENEMY OF SOCIETY”を含む)A ed,intr
Havelock Ellis,Walter Scott,London B174×119 C315頁 D濃緑色クロス表紙、丸背(背表紙に“THE
PIRRARS OF SOCIETY & C”と金押しの文字があり、「漱石文庫目録」ではこちらのタイトルを採用している)、
天金、アンカットE書き込み、傍線下線あり。F請求番号 「漱1C721」登録番号「洋甲134333」

4,@BRAND a dramatic poem A tr William Wilson,Methuen&Co,London,1899, Third Impression B196
×129 C301頁 D緑色クロス表紙、丸背、アンカット、タイトルページに「夏目」と「漾虚碧堂図書」印あ
り E傍線2カ所あり。F請求番号 「漱1C722」登録番号「洋甲134334」

5,@HEDDA GABLER A tr Edomund Gosse,William Heinemann,London,1891 B 199×151 C236頁 D紙表紙
(右上部に、女優の上半身の写真あり)、角背(装丁し直しのため、原型ではない)、ラージペーパー版百
部限定版のうち22番、48、49頁と232、233頁の間に1枚ずつの写真あり(ロンドンのヴォードビル劇場で上演
されたときのもので、前者がミス・ロビンズ後者がミス・レアの写真) E傍線あり F請求番号 「漱1C7
23」登録番号「洋甲134335」

6,@JOHN GABRIEL BORKMAN Atr William Archer,William Heinemann,London,1897 B181×123 C202頁 
Dクリーム色表紙、角背、丸善シールあり、表紙に「妙虚不朽」、タイトルページに「漱石」の印あり E
傍線ありF請求番号「漱1C724」登録番号「洋甲134336」

7,@THE MASTER BUILDER(この本は初版が1893年に出版された後、廉価本として新たにアーチャーの解説を加
えて出版したものである) A tr Edomund Gosse and William Archer,William Heinemann,London,1901 
B176.5×119 C227頁 D黄色紙表紙、角背、丸善シールあり、表紙に「漾虚碧」「夏目金印」、タイトル
ページにも「夏目金印」あり E書き込み、傍線あり。F請求番号「漱1C725」登録番号「洋甲134337」

8,@LITTLE EYOLF A tr William Archer,William Heinemann,London,1897 B 183×123 C180頁 Dクリ
ーム色紙表紙、角背、丸善シールあり、表紙に「妙虚不朽」「漱石居」、タイトルページに「漱石」印あり。
E書き込み、傍線あり。F請求番号「漱1C726」登録番号「洋甲134338」

9,@WHEN WE DEAD AWAKEN A tr William Archer,William Heinemann,London,1900,Second Impression B
176×120 C160頁 D黄色紙表紙、角背。当該本は、装丁ミスのため原型を著しく損なわれている。昭和
41年2月12日に業者に送付されているが、この際ゲルハルト・ハウプトマンの“LONLY LIVES”の本文が、当
該本の見開き遊紙から数えて6枚目表から誤って製本し直されてしまっている。そして当該本の本文が“LONE-
LY LIVES”に製本されている。タイトルページに「漱石」と「夏目金印」あり。E書き込み、傍線あり。F
請求番号「漱1C727」登録番号「洋甲134339」
 このほかにもう1冊漱石が所蔵するイプセンに関する評論集がある。それはメレジコフスキーMerejkowski
のものである。
10,@THE LIFE-WORK OF HENDRIK IBSEN AG・A・Mounsey,Alexander Moring LTD,London B167×107 C72頁
D紙表紙、表紙部が水色で背表紙は白色、丸背(背表紙には「IBSEN」)とだけある。表紙見返しの遊紙に
「漱石」前表紙に「夏目金印」あり。F請求番号「漱1C755」登録番号「洋甲134371」

 次に漱石が、これらの書物を何時、何処で入手したかについて検討したい。まず1については、村岡勇が
編んだ『漱石資料ーー文学論ノート』の312頁に「○Ibsen.Nora“I think that before all else I am a
human being just as you are,or at least,I will try to become one”」にはじまる言及があり、ノラに
対する批評がコメントされている。従って英国留学時代に1には目を通していたのではないかと思われる。
そう判断する根拠として、丸善シールの貼付の有無があげられる。このシールの貼付してある本は、丸善を
通して購入した書物であることを示しており、そうでない本は当時の洋書の入手経路を考えても、他の留学
生から貰ったとも考えられるが、漱石の場合は自身が英国に留学していた事実からも、留学時代の購入と考
えた方が自然である。1には丸善シールが添付されていない。1と同じく3・4の本にもシールは貼付されてい
ない。3については漱石資料の中に「○Ibsen Ghost ActU」の項目があり、その中に、3からの本文のそのま
まの引用が確認できる(詳細は別稿に譲る)ので、紛れもなく英国で購入され、その時に読まれた本である
と断定できる。4については、留学時代のメモにも、図書購入リストにも書名が確認できず、また丸善のシー
ルもない。従ってこの本に関する判断は保留せざるを得ない。
 イプセン戯曲の英訳本中シールが貼付してある書物は、2・6・7・8の4冊であり、5・9に関しては装丁がし
直されているために確認が不可能である。しかし小倉脩三によると、〈漱石文庫の中に漱石自身購入順に番
号と購入価格を記したノートがあり、その中にたまたままぎれこんでいる書店からの請求書(多くは丸善か
らのもの)によって、部分的に購入時期が確定できるのであるが、No.906 Oscar Wilde. De Profundisの丸
善請求書の日付(明治39・5・2)もわかるものの一つで、それから五十冊ほどおいて、No.953 The Master
Builder. No.954 Little Eyolf. No.955 When We Dead Awaken. No.956 Jhon Gabriel Borkman. No.957
Materlink The Double Gardenと続いている。 /このノートで見る限り、イプセンとメーテルリンクの入手
は、(明治三十九年五月二日より数ヶ月後の)同時期ということになる。〉Hとあり、6・7・8・9の4冊が
少なくとも明治39年5月2日以降に丸善から購入した書物であるということがわかった。
 2に関しては、刊行年が1907(明治40)年であることから、明らかに帰国後の購入であると判断できる。
また書き込み・傍線・下線などは認められないが、明治40年・41年頃の「断片」にロスメルスホルムのメモ
が残っているので、読書の時期も刊行年に近接している事実が分かる。
 残る5であるが、5に関しては岡三郎の『夏目漱石研究』第1巻の中で、1901年9月18日購入分の書物のリ
ストの中に、その書名がすでに確認されているI。購入日まで確認できるのは、イプセンの本ではこれだけ
である。
 以上の考察をまとめると、英国時代に購入したと考えられる本は、1・3・5の3冊であり、帰朝後に購入し
た本は2・6・7・8・9の5冊である。4については前述したように、判断を保留せざるを得ない。

   3 「ヘッダ・ガブラー」について

 前節における検討から漱石が英国留学中に読んだイプセン戯曲は、「A DOLL'S HOUSE」「THE PIRRARS OF
SOCIETY,AND OTHER PLAYS」「HEDDA GABLER」の3書、5戯曲に及ぶことが分かった。先ず本節では「ヘッダ・
ガブラー」を取り上げ、漱石がこの作品のどのような点に着目しながら読みすすめ、何を受容したのかを傍
線・下線等を手掛かりにし、併せて留学時代のノートを参照しながら考察する。前節でも述べたように漱石
の所蔵するイプセン戯曲英訳本中購入日時の明確なのは、この本だけであり、その日時からも読まれた時期
は後述する本と比べても早かったのではないかと思われる。
 「ヘッダ・ガブラー」は1890年に完成し、翌年英米独露蘭で翻訳出版され、ミュンヘンで早くも1月31日
に初演された戯曲である。その梗概を簡単に紹介しておく。ガブラー将軍の娘で征服欲が強いヘッダは、気
位も高いが反面嫉妬にも駆られ易く因習にとらわれている。美貌の彼女は多くの男性の憧憬を集めるが、と
りわけレーヴボルグという男とヘッダは親しく交際する。しかし彼女は父の死後、実直な学者であるテスマ
ンと結婚してしまう。そしてヘッダは夫に退屈し、人生に楽しむべき何ものをも見いだせない日々を送って
いた。そこへヘッダの知り合いで、ある地方の村長の後妻になったテア・エルブステードが、レーヴボルグ
の行方を求めてやってくる。彼はヘッダに去られた後の放蕩三昧の生活から足を洗い、新しい著述を認めた
原稿を携えて町へやって来たというのである。テアはその彼を愛していて、家出して来たのであった。ヘッ
ダは嫉妬し策を弄してレーヴボルグを招き寄せた。そして判事ブラックの屋敷で催される「独身会」で、新
著の原稿をテスマンに読んできかせるようにし向けた。そして当夜レーヴボルグは肝心の原稿を落としてし
まうのだが、テスマンが拾得しヘッダの手に預けられることになった。一方のレーヴボルグは大騒ぎの結果
警察に拘引されるが、翌朝ヘッダの家に現れ、居合わせたテアに原稿はフィヨルドに投じてしまったと告げ
る。その原稿を2人の愛の結晶と信じていたテアは絶望して立ち去り、レーヴボルグもヘッダに自殺を仄め
かす。ヘッダは亡き父愛蔵の2組のピストルのうちの1挺を彼に与えた。そして彼女は原稿を焼き捨てるので
ある。その日の夕刻ブラックがレーヴボルグの自殺の報をもたらすが、ピストルの入手経路が問題になって
いた。自身に疑惑が振り向けられたことを知ったヘッダは、以前言い寄られたことのあるブラックの手中に
自分が陥ったことを知る。またテスマンが、戻ってきたテアと共に彼女の持つ原稿のノートからレーヴボル
グの著作を再現しようとするのを見て、ヘッダは自分が孤立してしまったことを悟る。そして彼女はもう1
挺のピストルで自殺してしまうのである。
 それでは漱石は、この作品のどのような点に注目しているのであろう。『HEDDA GABLER』には傍線が、
赤鉛筆と鉛筆の2本で引かれている。9冊を調査した限りでは、傍線が二種類で色分けしてあるのはこの本だ
けであり、奇異な印象を受けた。そこで誰かがこの本を漱石から借用していないか、漱石文庫所蔵の「貸し
た本」によって調べたところ、森田草平がこの本を借りていた事が判明した。「貸した本」は登録番号「坤
三三」、松屋製の20行19字詰め藍色罫原稿用紙34枚を半折りにして、二カ所を糸で綴じ合わせたものである。
記載は9葉表まで認められる。残る25葉には記載がない。森田の記載があるのは、4葉裏7行目である。「Hedd
Gablaer 森田米松」(記述のまま)と、書名名前とも横書きで、書名は筆記体で書かれている。朱線がこ
の一条に縦に引かれているのは、返却をチェックしたからであろう。筆跡は小さく纏まったもので、漱石の
筆跡とは異なり、森田自身のものであると推測する。最初の方は漱石自身の筆跡が認められるので、自分で
貸し出した本を書き込みチェックしていたのであろうが、この頃にはそれを廃していたことが分かる。借り
た日時だか、2行前にも森田が本を借りていて、そこには「八月二十五日」と書いてある。その次の行6行目
にも「HELPS'S Essays」(記述のまま)を借りた森捲吉の名前があり、日付は「八月二十九日」である。
そして8行目の西村樗陰が借りた「THE LIFE OF THE BEE」(Maeterlinck)には、「九月二十三日」の日付が
ある。これが何年のものか日付の確定は出来ないけれども、8月29日から9月23日の間に森田草平が該当本を
借用していることは明らかである。
 そこで注意すべきは赤鉛筆の傍線である。漱石所蔵のイプセン戯曲英訳本中借り出されたのはこれ一書だ
けであり、しかも他の本には傍線があってもすべて鉛筆によるものであったということである。このことか
ら、この本が古本であった事も考慮して、この赤い傍線は漱石以外の人物の手による可能性が考えられる。
本書で確認できる手跡は傍線だけであるが、傍線部と内容との関連を考察する場合、赤い傍線部は除外して
考察を進めることとするJ。
 まず、@83頁2行目から3行目にかけて傍線が引かれている。第2幕でヘッダが判事のブラックにテスマン
への不満を訴える場面である。
HEDDA.
 --Everlastingly to be in the company of--of one and the same--
 新婚家庭から早くもこういう不満が出てくるのであり、ヘッダの夫への愛情の希薄さを窺わせる科白であ
る。
 次はA94頁の10行目から14行目で、ヘッダがテスマンの叔母の帽子をわざと女中のものと取り違えた風を
していじめた事をブラックに言い、彼がそれをたしなめた場面の続きである。
HEDDA.
  [Nervously, crosses the floor.] Yes,you see--it just takes me like that all of a sudden. And
 then I can't help doing it.[Throws herself down into the armchair near the stove.] Oh, I
 don't know how I am to explain it!
テスマンへの不満や今の生活への嫌悪から、他の係累にまで憎しみをぶつけていくヘッダの我が儘な性格
が浮かび上がってくる場面である。
 またヘッダは学究肌のテスマンを政治家にしようという考えをブラックに打ち明けて嘲笑される。それは
B99頁の8行目から18行目までの会話である。ただし傍線は、ヘッダの台詞にのみ引かれている。
HEDDA.
  Because I am bored, I tell you.[After a pause.] Do you think it would be absolutely im-
possible for Tesman to become a Cabinet Minister?
BRACK.
H'm! You see,dear Mrs.Hedda, in order to become that he must first of all be a to-lerably rich
man.
HEDDA.
[Rising impatienty.] Yes,there we have it! It is this poverty that I have come into--!
[Crosses the floor.]It is that which makes life so miserable! so perfectly ludicrous! For
that's what it is.
 ヘッダは、自分の虚栄を充たすほどテスマンが金持ちでもなく吝嗇であることが不満なのであり、そのこ
とをブラックに指摘されて憤慨しているのである。
 次にブラックが続けて、テスマンがいずれヘッダの内助を必要とするだろうというと、ヘッダは決して自
分はそんな責任というようなことには関係ないと否定する場面である。これはC100頁15行目から101頁3行
目にかけての、ブラックとヘッダの科白のすべてに傍線が引かれている。漱石が注目しているのは、ヘッダ
が人には多くを求めるにも拘わらず、自分は人に与えることを全くしないという点だということが分かる。
BRACK.
No,no,never mind about that. But suppose now there were created--what one--in the loftier style
--might call more serious and more responsible claims upon you? [Smiles.] New claims,little
Mrs.Hedda.
HEDDA.
[Angry.] Be quiet! You shall never live to see anything of that sort.
BRACK.
[Cautiously.] We will talk about that a year hence--at the very latest.
HEDDA.
[Shortly.] I have no vocation for that kind of thing, Judge. No responsibilities for me.
ついでD119頁17行目から19行目の傍線部、レーヴボルグがやってきてからの会話である。テスマンとの
結婚を知って憤る彼に、部屋を出入りするテスマンやブラックの目を気にしてヘッダは、馴れ馴れしいレー
ヴボルグの調子を改めるようにいう。二重傍線が引かれている。
HEDDA.
 No. You may be allowed to think it;but you must noy say it.
 レーヴボルグの情動を牽制する内容だが、これは以前の関係をテスマンやブラックに悟られぬための発言
であり、言い換えれば自分の保身のための発言であることは明瞭である。しかしレーヴボルグの熱情にほだ
されてか、ついヘッダも昔話には迎合してしまうのである。それはE123頁6行目から9行目のレーヴボルグ
とヘッダの科白に引かれた傍線である。
       LOVBORG.
Always with the same illustrated newspaper in front of us--
HEDDA.
For want of an album,yes.
 この傍線部分に関して毛利三彌は、〈広田先生の引っ越しの手伝いをする三四郎が、美禰子と二人だけで
画帖をひらいてマーメイドの絵を眺めるところは、ヘッダがレェーヴボルグとアルバムを前にして二人だけ
の会話を交わす場面を思わせる。〉Kと指摘している。
またF123頁21行目から24行目の傍線部は、レーヴボルグがヘッダに対して過去に様々な懺悔をしたこと
を述べ、そうさせたヘッダの魅力を指摘し、ヘッダがそれが自分の持っている力であるのかと心地良げに男
に問いかける場面である。
LOVBORG.
Yes; how else can I explain it? And all those--those mysterious questions that you used to ask
me--
HEDDA.
And which you understood so thoroughly--.
   これを受けて、レーヴボルグが遠慮なしにづけづけとされてはと混ぜ返すと、ヘッダは“Mysteriously,if
you please.”(124頁4行目)と怨ずるのであり、ここにも傍線が引かれている。そしてG125頁4行目5行目と
9行目から12行目にかけて、レーヴボルグが懺悔する事を通じてヘッダに救いを求めたときどういう気持ち
でいたのかと尋ねた場面以降に傍線が引かれている。
      HEDDA.
Might want very much to get a peep in-to a world which--
LOVBORG.
 Which--
HEDDA.
 Which she is not allowed to know anythig about?
LOVBORG.
Then that was it?
 特に漱石はH125頁4行目5行目のヘッダの科白(“Might want”以下 )に三重傍線を引いて強い関心を示
している。ここはヘッダが、自分の好奇心を重要視して生きる姿勢が昔から身に付いていることを示すくだ
りであり、そのようなヘッダに漱石が強い印象を受けていたことを物語っている。
   またI143頁17行目の傍線箇所も二重傍線が引かれているが、この箇所はヘッダとテアがレーヴボルグの
先行きを案ずる会話を受けたもので、不安を訴えるテアにヘッダが「一生に一度でも、一人の人間に対して
支配力をもって見たい」と言い、テアからテスマンに対して持たないのかと尋ねられたことへの回答である。
HEDDA.
Oh! that would be worth talking a lot of troble about! Oh, if you could only know how poor I
am. And you are allowed to be so rich.[Throws her arms passionately round her.]I believe
I shall scorch your hair off,afterall.
 テアに対する嫉妬の感情が冗談めかしながらも強く伝わってきて、ヘッダの烈しい気性をよく表している
箇所である。またこの他にもJ179頁の11行目、レーヴボルグが原稿紛失をヘッダに告げに来て、居合わせ
たテアにも聞くように言うのを、テアが“Yes, but I don't wish to hear anyting, I tell you.”と述
べている所にも二重傍線を引いている。さらにヘッダから原稿を焼却したことを聞いて怒りながらも、ヘッ
ダの気持ちを喜ぶテスマンの複雑な反応にも興味を抱いたらしく、K203頁7行目に傍線が引かれている。
TESMAN.
[Laughing in excess of joy.]The servant! No;you are fun, Hedda! The servant is--just Be-
rtha! I will go out and tell Bertha myself.
 最後にL214頁5行目から10行目、ヘッダがレーヴボルグの死を知り、自ら一人の人間を支配したことを知
った場面に傍線が引かれた。それは、レーヴボルグの自殺を誰から聞いたかというテスマンの問いに判事が
答えた時であった。

HEDDA.

[Half aloud.] At last an heroic act!

TESMAN.

[Terrified.] God save us--Hedda, what are you saying?

HEDDA.

I say that there is somethig beautiful in this.

 レーヴボルグに自殺を慫慂し、彼がそれを遂行した後も上記のようにヘッダは悲しむよりも、人の運命を
操ったという「悪」の感触を味わっているようなのである。
 明治40年に漱石は『東京朝日新聞』に「文芸の哲学的基礎」を発表したが、その中で〈ヘダ、ガブレルと
云ふ女は何の不足もないのに、人を欺いたり、苦しめたり、馬鹿にしたり、ひどい真似をやる、徹頭徹尾不
愉快な女〉と述べている。この意見だけを見ても漱石が英国留学時代における「ヘッダ・ガブラー」読書で、
ヘッダという女性像に注目していたこと、さらにいうならこの女性の〈徹頭徹尾不愉快〉な所に目を向けて
いた事が明らかであろう。
 英国留学時代のノート断片には、「Taste Custom etc ノ推移」と題されたものがある。この断片は漱石
文庫の『漱石 ノート断片(3)』(和甲79399)昭和25年10月23日受入の中に納められている。大きさは縦
210×横165.5(粍)の断片である。タイトル部分が著しく破損し「推移」の文字しか読みとれない。この実物
と村岡氏の編まれた『漱石資料ーー文学論ノート』の中の該当個所を比較すると、以下のような相違が認め
られた。タイトル部分に下線が引かれているのは省略されることになっているので仕方がないのだが、〈U-
niversal 反対〉の文句の下にも下線が引かれ、その直ぐ横にも赤いインクで同様の文句が書き留められて
いる。またその一段下の“Don Quixote--ideal character”の横にも、同様の朱書きの〈Universal 反対〉
の文句と、その下に引かれた赤い線が確認できる。以上のことが『漱石資料』では、確認できない。
 ともあれこの断片の中に〈ヘダ、ガブレル〉の名が認められるのである。
 Don Quixote--ideal character   Universal 反対
  Scrooze--Pecksniff-- 〃
  Hedda gabler - x = real character
  Roscan - x = 〃
 If they are real to Europeans, they are not so to the Japanese. The difference of psychology.
 この記載からは、ヘッダに注目しながらもリアリティーを感じないという漱石の評価が見て取れる。そし
てこの記載の横のコメントを見てみると、当時のヨーロッパの人々にその姿がリアルに映っても、日本では
そうではないという、心理学的相違に着目していることが分かる。この点については後年の漱石が「愛読せ
る外国の小説戯曲」の中で〈早い話がヘッダ・ガブラなんて女は日本に到底居やしない。日本は愚か、イブ
センの生まれた所にだつてゐる気づかいはない。〉と述べているように、このヘッダに関してはその女性と
してのイメージの点から見ても、また創作としても早くから否定的に捉えていたことが確認できるのである。
   以上の考察をまとめると、(1)傍線部の検討からこの作品の読書では、主人公ヘッダの性格がうかがえ
る部分に、漱石の主たる関心が注がれていたことが分かった。(2)そのヘッダの性格については、後年の「
文芸の哲学的基礎」に鑑みると、〈何の不足もないのに、人を欺いたり、苦しめたり、馬鹿にしたり、ひど
い真似をやる〉性格として否定的に捉えていた事が分かる。 (3)またその人物形象についても、日本的な感
覚からするとどこかリアリティーに欠けると考えていたようで、その評価は明治40年頃においても一貫して
いたようである。
 秋山公男は「三四郎」の美禰子像の造型に、〈イプセンの戯曲(就中「ヘッダ・ガブラー」)の影響が想
定されると思うのである。〉と指摘し、〈それがいくらイプセン劇であり、背景が北欧であったにしても、
あまりに作者の「哲学」が露(骨)であって、「情操化されて居らない」不自然性を漱石は気にしない訳に
はゆかなかった。「イプセンはそれだけ損をして居る」「効果を減ずる」(「近作小説二三に就て」)とみ
た漱石の判断は、そのまま美禰子の造型に参酌されたと推測される。〉Lと述べている。“If they are re-
al to Europeans, they are not so to the Japanese. The difference of psychology.”と述べる漱石の
考えからすれば、秋山論文の指摘するような露骨な「哲学」や情操化されていない不自然性といった「X」
を減ずる事によって、東西の心理学的な相違を克服した人物こそが日本の読者にもリアリティのある人物“
real character”ということになる。秋山論文の指摘にしたがえば、それこそ美禰子という事になる。〈拵
へものを苦にせらるゝよりも、活きて居るとしか思へぬ人間や、自然としか思へぬ脚色を拵へる方を苦心し
たら、どうだらう。拵らへた人間が活きてゐるとしか思へなくつて、拵らへた脚色が自然としか思へぬなら
ば、拵へた作者は一種のクリエーターである。拵へた事を誇りと心得る方が当然である。〉(「田山花袋君
に答ふ」『国民新聞』明治41年11月7日)と述べる漱石にあって、イプセン戯曲から学んだものには、軽視
できないものがあったといえるだろう。(以下続稿)
 漱石のイプセン戯曲の初期受容については、ほかに「社会の柱」「幽霊」「社会の敵」「人形の家」を4
作品を残しているが、別稿を期したい。


 @  小宮豊隆「短編」『漱石の芸術』昭和17年12月9日、岩波書店。
 A 板垣直子『漱石文学の背景』昭和31年7月30日鱒書房、のち吉田精一監修「近代作家研究叢書41 漱
  石文学の背景」日本図書センター、1984年9月25日所収。
 B 小堀桂一郎「漱石と鴎外」三好行雄等編『講座夏目漱石』第4巻 昭和57年2月25日、有斐閣。
 C 大澤吉博「新しい女の衝撃ーー漱石・泡鳴・イプセンーー」三好行雄等編『講座夏目漱石』第4巻
  昭和57年2月25日、有斐閣。
 D 出淵敬子「一九世紀イギリス小説と作家漱石ーー新しい女の創造をめぐって」「国文学」第28巻14号、
  昭和58年11月20日。
 E 小倉脩三『夏目漱石 ウィリアム・ジェームズ受容の周辺』1989年2月20日、有精堂。
 F 毛利三彌「『三四郎』とイプセン」「漱石研究」第2号、1994年5月20日。
 G 村岡勇『漱石資料ーー文学論ノート』1976年5月31日、岩波書店。
 H Eに同じ。
 I 岡三郎『夏目漱石研究』第1巻 1981年11月15日、国文社。
 J ちなみに、赤い傍線部が確認できるのは、本文中2カ所ある。一つは51頁6行目7行目のヘッダの科白
  と12行目から14行目にかかるヘッダの科白である。

HEDDA.
One can well understand that. And yourhusband! I suppose that he is often awaytravellimg!

Mrs.ELVSTED.

 
Yes.You can imagine that as sheriff hehas to travel a good deal round the district.

HEDDA.

 
[Leans on the arm of the chair.]Thea,--poor sweet Thea,--now you must tell me every-

thing--just as it is.

   二つ目は、96頁である。前頁からのヘッダの科白の続きの1行目から3行目にかけてと、7行目から9
行目のヘッダの科白に赤い傍線が引かれている。
  
Tesman, poor fellow, he was at his wit'send to know what to talk about. So I took pity on this

 learned person--
BRACK.

 
[Smiling dubiously.]Did you? H'm!--

HEDDA.

 
Yes, I positively did. And so,in orderto help him out of his misery, I happened,quite thought-

 lessly,to say that I should like to live in this villa.
 K Fに同じ。
 L 秋山公男「『三四郎』小考ーー『露悪家』美禰子とその結婚の意味ーー」「日本近代文学」第24集、
  昭和52年10月1日。

本稿を成すに当たって、東北大学付属図書館の御世話になった。記して御礼申し上げる。