この「提言」は,信時哲郎氏と電子メールのやり取りを通して共同執筆したものです。同じ文書が信時氏のWEBでも公開されています。

 

近代文学研究に関するインターネットのインフラ整備を……

 

木村 功

http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura

mailto:kimutaku@edrsews1.okayama-u.ac.jp
信時哲郎

http://www.kobe-yamate.ac.jp/~tetsuro/nobutoki.shtml

mailto:tetsuro@kobe-yamate.ac.jp

                 

一、インターネットと近代文学研究をめぐる現状

 現在私たちが図書館を利用する場合、まずパソコンで蔵書を検索するのは常識になりつつある。そして研究論文もワープロで書く人が今や大半であろうし、たとえペンで原稿用紙に書く人であっても、いざそれが印刷されるとなると電算写植のお世話になっているはずである。まさかこれを「コンピュータによる非人間的な管理」だと言って糾弾する人は、もはやないだろう。それでもなぜここまでコンピュータ化されるのか不審に思う人もあるかもしれない。しかしもし自分の教育・研究環境が今よりも簡単で、便利で、早く、しかもより合理的、経済的になるとするならばどうであろう。インターネットはそれらを実現する技術として登場してきた。そして一九九五年以来、巷間で話題になっていたインターネットブームも、ようやく一段落を迎えた感がある。一部では手間がかかるわりに儲けが期待できないとして、インターネットから撤退する企業も出ているようだが、このことは淘汰の時期を経ていよいよ本格的な運用を念頭に置いた議論をする時期が来たことを示している。例えば、政府は二○○三年までに全国公立小中高約四万校でインターネット接続可能を目指した計画を推進しているし、自民党は総合経済対策の柱として全小中高への光ファイバー接続(全校T1接続計画)を打ち出して、学校から家庭・中小企業を視野に入れたインターネットの本格的な普及に向けた取り組みをはじめているのである。

 ではインターネットを活用している近代文学研究者が、一体どれくらいいるのかというと、研究目的でホームページを開設している研究者は、わずか二十六人でしかなかった(どこまでが研究者でどこまでが愛好家(?)か、見分けるのが困難なため、このデータでは日本近代文学会の会員に限っている。なおデータは全て六月十三日の調査による)。近年、近代文学研究者は明らかに増加しているし、発表する論文の数が増加の一途をたどっている事も、毎年厚くなっていく『国文学年鑑』を思い出してもらえば十分だろう。それに比べてホームページの数の少なさは、次世代メディアを意識した情報発信態勢が著しく立ち後れているという現実を物語っている(注)

 例えば国語学を例にとってみると、研究者だけに限っても五十五人、国立国語研究所をはじめとする十三の研究機関、四十四人(研究機関を含む)の論文、二十五の研究紀要・雑誌、七の方言地図などがホームページで公開されていることがわかる(弘前大学・小倉肇氏のホームページによる)。こうしたことからも、近代文学研究におけるインターネット活用の遅れは明らかであろう。

 これには、コンピュータやネットワーク利用が困難であるということから、インターネットの現状への不満にいたるまで、様々な要因が存在していることは想像に難くない。島村輝氏は、<当然すぎることだが、過去に遡ってわれわれが必要とするすべての資料が電文化され、データベースに蓄えられることはありえない。そしてかりにデータが揃えられたとしても、根本的な問題はそこにはない>として、<現在のところインターネットが直接研究に役立つ可能性はきわめて薄い>と結論づけている。<小規模で小回りのきくデータの媒体としてのネットワークこそ、活用の根本的な利点であるように思われる>(「ネットワークと文学研究と」『日本文学』四十六―七、一九九七・七)とインターネットの利用について辛い採点をされている。しかしインターネットに対する過大な思い込みに警鐘を鳴らすことの意義は認めるとしても、インターネット普及が遅れている近代文学研究者のなすべきことは、インターネットのプラス面の方を、まず正当に評価することではないのだろうか。氏が言う<たとえば複数の参加者が共同で注をほどこすような>小規模な利用形態も、もちろん有効だろう。しかし何もはじめから目標を低く設定する必要はない。例えば日本近代文学会がインターネットによる研究体制の整備を進めれば、氏が<夢想の産物>と言い捨てるところの大規模なネットワークも、それほど現実離れしたものにはならないはずである。

 

ニ、インターネット利用の利点及び意義

 端的にいうと、コンピュータがインターネットに接続されるということは、自分のコンピュータに蓄積された論文や音声や画像を含む様々な資料などの情報と、世界中の研究者・大学・図書館等のコンピュータが接続されるということである。例えば北海道の漱石研究者の論文を、沖縄の研究者がまるで自分のコンピュータに向かうような気楽さで読むことができるようになる(もちろん公開したくなければしなくてよい)。同じように国会図書館や国文学研究資料館、学術情報センターなどに接続して、図書館の蔵書目録や、その年に出版された本の題名・著者名・価格などを、居ながらにして調べることもできるし、題名、筆者名、キーワードなどから論文を検索することもできる(ただしこれらの中には、いわゆるホームページの利用方法と違う場合がある)。図書館の蔵書も、データをコンピュータで扱えるようなファイルに入力し直してくれれば、いつでも閲覧可能になる(電子図書館)。また博物館や美術館等の門外不出の資料も、文字はもちろん、画像や音声もデータをコンピュータで読み出せる形式に直してくれさえすれば、いつでも閲覧可能である。必要なら自分のコンピュータに保存しておくこともできるし、印刷することも可能である(ただ誰がそれらを入力するのか、また著作権をどうするのか、といった未だ解決していない問題もある)。つまり図書館や書店、博物館などに行く手間暇と金とを節約できるのである。

 さらに電子メールを利用すれば、遠隔地同士でも文字データによる意思の疎通が瞬時に可能となる。もちろん電話でも用は足りるが、電子メールの利点は相手の時間を奪うことなく用件を伝達でき、相手が留守でも、たとえ何時であってもメッセージを瞬時に送信できるところにある。必要ならばファイル化した文書や画像・音声・プログラムなども添付することができる。手紙と比べても、料金や相手の元にとどくまでの時間を考えれば、電子メールの敵ではない。

確かに電話代やプロバイダ(電話回線からインターネットへの接続を行う業者)に払う金額も馬鹿にならない。しかし全国、全世界のどこのコンピュータを相手にしても料金は一律で、プロバイダにもよるが、例えば信時の場合、電話料金込みで三分間二十円である。また大学や研究機関はたいていインターネットの専用回線を引いているので、コンピュータさえ手に入れれば、何時間繋いでもタダである。

 これが近代文学研究者として私たちが「現在」利用しているインターネットの活用法である。現に山口県(執筆当時)と兵庫県という決して近くないところに住んでいる私たちが、実際に顔を合わせたのは数回しかないにも拘わらず、それでもこうした提言を共同執筆できるというのは電子メールで原稿のやりとりを繰り返したおかげなのである。 しかし私たちはインターネットの可能性が「この程度」に押し止められている現状にたいへん不満である。インターネットを活用して、より良い研究環境を獲得するには、まずインターネットのインフラストラクチャーを整備する必要がある。しかしそれは私たちだけでは手に余る仕事であり、一人でも多くの賛同者を得るために、今回の提言に至ったのである。

 ところで首都圏在住で近代文学研究のホームページを作っている研究者がどれくらいいるか、ご存知だろうか。開設者二十六人のうち、わずか七人である。日本近代文学会全会員の半数近くが首都圏在住者であることを考えると、これはあきらかに「地方偏重」であると言うべきだろう。このことは、一体何を意味しているのだろうか。

 例えば近代文学会の「例会」は常に東京で開催されているが、それでいて「東京支部会」では決してないのである。このような東京中心主義は、会員の比率から言っても仕方がないことかもしれない。しかし地方在住の研究者にとってみれば、ただでさえ研究仲間も少なく、古書店や図書館の整備も不十分であるうえに、中央の学会の活況を得にくいとなれば、こうした「地方在住」という悪条件を乗り越える方法の模索は必然的だったのである。そして起死回生のツールとして選ばれたのがインターネットだったということではないだろうか。

 もちろん私たちは、インターネットの利用目的を地方での研究状況の改善に限定するのではない。研究におけるインターネット利用を推進する目的は、次節で述べるような「研究共同体」の早期確立のためである。

 インターネットによるビジネスを考えるわけでも、また論文の原稿料をあてにしているわけでもない(?)私たち研究者としては、インターネットの利用に「利」はあっても「害」はほとんどない。もちろんインフラ整備には多大な手間が必要とされるだろうが、インフラを整備するとはそもそもそういうことであり、一時の手間を惜しんで、期待される多くの可能性を封じ込めてしまうとするならば、これほど愚かなことはないのではなかろうか。

 

三、インターネットの研究利用における事例

 

 ではインフラの整備によって近代文学研究がどのように変わるのか、実現の容易なものから困難なものまで様々であるが、それは今後の検討に任せて、今は思い付くままに列挙してみることにしよう。

 

(1)作家全集・論文等のテキストデータ化

 作家の全集も、本文をテキストデータ化(コンピュータで文字を認識できるようにすること)することで、パソコンと電話線さえあれば、いつでもどこでも呼び出せるようになる(著作権の問題、出版社の利害との調整などは、最大の障壁だが)。面倒に思われる本文の入力もスキャナーとOCR(スキャナーで活字を画像として取り込み、その後で文字として再認識してくれるソフト)があれば簡単である。手元に保存して置きたければ漱石全集、鴎外全集でもフロッピーディスクで数枚、MOディスクなら一枚に収めることができる。

 ちなみに欧米の作家では、シェイクスピアを初めとする多くの作家の全テクストがWWW上で呼びだせる。日本でも一葉・漱石・鴎外・賢治等の多くの作品が、テキストデータとして部分的に公開されている(詳しくは福井大学・岡島昭宏氏のホームページhttp://kuzan.f-edu.fukui-u.ac.jp/bungaku.html参照)。こうして一度テキストデータとして処理されれば、索引がなくても語句の検索は簡単にできるようになるし、年代順・アイウエオ順などの並び替えも簡単にできるようになる。

 またこの流儀で様々な研究論文をWWW上に載せれば、資料探しにあちこち出歩く必要もなくなる。研究者のほとんどはワープロで原稿を書くようになっていると思うが、そうした原稿ならホームページにするのは簡単である(これは最も簡単にして有意義なWWWの活用法ではないだろうか)。さらに研究に必要な資料、写真、音声、直筆原稿などもWWWで見ることができるようになれば、言うことはない。

(2)論文発表機会の拡大

 雑誌や紀要は数々あるが、枚数の制限や、〆切日時、編集者の方針などでなかなか思うように発表できないのが現状である。しかしWWWを活用すれば、発表機会は無限に広がる。また紙を媒介としないWWW上の学会誌も可能となる。論文に音声や画像(もちろんカラーで)を豊富に取り入れることもできるし、誤字・脱字・誤記等も気がつけばすぐ修正することが可能である。

(3)研究者の交流

 例えば「論文の抜き刷りを送る」という手間も電子メールを使えば(尤も論文をホームページに載せたという報告だけで済む場合もあるだろう)、手間も省けるし、安上がりでもある。またそれに対する批評も電子メールなら手紙より簡単で、電話よりも気を遣わずに済む。また海外の研究者との交流もより簡単になるはずである。

(4)研究環境の変化

 ホームページや電子メールによって異分野間の交流が活発になり、他の研究分野の人も論議に参加しやすく、また近代文学研究者が他の分野に参加する道も開ける。国内外の研究者との共同研究も時間的・経済的にかなり自由が効くようになる。

(5)インターネット上での学会開催

 日本地理情報システム学会では、平成十年四月十三日から五月末日まで、インターネット上で二十六件の学会発表を行った。研究者は各自のホームページに研究成果を公開し、学会本部は「会場」にあたるホームページを作成して、各発表にリンクするのである。参加者は本部のホームページの目次からテーマを選んで、閲覧する。質疑応答や討論は、電子メールで行われる。開催者は、通常の学会の開催に比べ、労力・費用は百分の一程度ですむとコメントしている。同様のことは、当学会でも十分実現可能である。

 他に今はまだ技術的に多少煩雑だが、小型カメラをパソコンに取り付けると映像や音声を生中継でWWWに載せることができるので、居ながらにして学会に参加することもできるようになる。離れた場所からでも、会場へリアルタイムに発表・質問ができるので、複数の遠隔地の会場を結び、海外から発表者が報告をすることなども将来的には実現可能である。これはテレビ会議や遠隔会議システムと呼ばれるものの一貫で、電子会議システムと総称される。シンポジウムも電子会議システムを利用すれば開催可能であり、委員会の会議などでの移動も一切不要になる。

(6)学会事務の簡略化

 『日本近代文学』や「会報」・「名簿」・「大会案内」等をWWW上で公開すれば、印刷代・紙代・送料がかぎりなく無料に近くなる。その他の事務的な連絡や原稿の投稿・依頼、種々の打ち合わせ等も電子メールや掲示板の活用で経費節減、事務手続きの簡略化が望める。(5)と併せれば学会の中央偏重志向も緩和されるはずだし、運用次第では学会費の値下げも可能。

(7)教育環境の変化

 研究からは遠ざかるが、教育環境にも大きな変化が生じている。電脳キャンパスでつとに有名な慶応大学湘南藤沢キャンパス(SFC)を例に出すまでもなく、ある大学ではWWW上で試験・レポートの掲示をし、電子メールでレポートの提出と返却を行っている。こうした傾向が更に進めば、受講生は質問やレポート、テストの答案などを全て電子メールで教員に送るようになるだろうし、教員の側も電子メールで受講生に、質問に対する回答やアドバイス、採点済みのレポートやテストを送ることになるだろう。電子会議システムを利用して、研究室や自宅にいながらWWW上で講義を行う教員も出てくるかもしれない。また教育形態においては、レクチャー中心の放送型学習から、学生個人の学習体験(調査・執筆・発表・討論)を重視したインタラクティブ型学習に移行すると考えられている。

 

 ただし、インターネットに特有の問題点数多く指摘されているのも事実である。たとえば、(1)著作権問題として、テキストデータ化された論文の盗用や、著作権の切れていない作品のテキストデータ化、無断公開のケースがある。編集権を主張してテキストデータ化を認めない出版社もある。(2)所属組織のネットワーク管理システムの構築が安易だと、WWWサーバとなっているコンピュータに侵入されてホームページを勝手に改竄されたり、第三者が機密情報へ侵入することも起こり得る。学会で会員名簿を作成した場合は、悪意を含んだメールや思わぬところからのダイレクトメールが届いたり、種々のハラスメントが生ずる可能も無いとは言えないだろう。(3)またそこまでいかなくても、文字によるコミュニケーションであるため、言葉の行き違いによる軋轢も生じないわけではない。そのためにネットワーク上のエチケット(ネチケットという)を、十分弁えることが求められる。(4)最後に、「第四世界」と呼ばれる、インターネットの非ユーザーの存在であるが、彼らの能力と情報をいかにネットワークに接続し、次世代のネットジェネレーションの育成に役立てるかは、我々に課された最大の問題であろう。

 

四、まとめ

 

 私たちは「本の消滅」を本気で信じているわけではないし、図書館や学会、学校など消えてしまえなどと言いたいわけでもない。前節ではインターネットの未来像を少々大袈裟に書いてみたまでであって、私たちは全ての本がインターネットで読めるようになるというほどの「進歩主義者」ではない。開架式の図書館で、目当ての本を探している最中に、たまたまその本の脇にあった本から大きな示唆を受けることがあったり、学会に出席しても、研究発表より、懇親会でさまざまな研究者と話をする時の方が知的刺激に満ちている場合があることも知っている。ただ、これらはインターネットという新しいコミュニケーションの手段を全否定するほどの根拠は持ち得ないということが言いたいまでである。C・ストールが『インターネットはからっぽの洞窟』(草思社)で言うように、インターネットは万能のツールなどではない。しかしたいへん有能なツールであることは確かなのである。万能ではないことを以て、無能であるかのごとく誤解されてはたまらない。自動車の普及を訴えることは、自転車の全廃を意味しないし、また自転車にメリットがあるからといって、自動車を全否定する根拠にはなり得ない。

 各大学・短大がコンピュータ室を設置し、学生の端末利用が日常的な風景となりつつある今日、コンピュータをあたりまえのように使いこなすネットジェネレーションが次々に姿を現しつつある今日、こうした現実を前にして教員たちが「文系」であることを理由に知らん顔をしつづけていていいのだろうか。私たちが恐れるのは、日本の近代文学研究が他の研究分野に比べて、効率の悪い制度をいつまでも取り続けて、情報革命と電子文化への転換の圏外に止まるばかりでなく、研究成果を大学・研究機関の孤塁のなかに封じこめ、近代文学研究そのものが社会から認知されなくなるような末路をたどることなのである。

 現在、インターネットのインフラ整備は個々の研究者が細々とやっているに過ぎない。これでは確かに先に挙げた島村氏のいうような小規模な形態でしかネットワークは機能しないだろう。必要なのは、こうした小さなネットワークを連携させる<主体>、情報の収集や公開に努めてくれる<主体>なのではないだろうか。そうしてその<主体>こそが、「日本近代文学の研究を推進することを目的(会則第二条)」とした日本近代文学会であって欲しいのである。そもそも「日本近代文学会」とは、個々の研究者あるいは個々のサークルが細々とやっている研究活動を取りまとめる<主体>だったのではないだろうか。今ここで研究活動のさらなる推進のために、日本近代文学会はパワーアップするべき時を迎えているのではないだろうか。

 そこで最後に我々は、以下の五項目を日本近代文学会に提言したい。(1)まずは会員の電子メールおよび研究を目的とするホームページのURL(データを保存してある場所のこと)を「会員名簿」に記載することである。これだけでも研究者相互の交流をはじめとした学会への貢献ははかりしれない。(2)続いては近代文学会のホームページを作ること。学会案内をはじめとした『会報』にあたるものをホームページとして公開すること。(3)そして『日本近代文学』本文のホームページ掲載(バックナンバーも同様)と、名簿の掲載を求めたい。ただしこの段階になると、会費納入の意味が疑問視されかねないし、学会の名簿が他に漏れることにもなるので、ホームページを見るためになんらかの制限(たとえばパスワード、つまり銀行の暗証番号にあたるものを作るなど)をつける必要が出てくるだろう。(4)商業ベースにのりにくい作家や研究者のテキストを、少しずつテキストデータ化する事業の推進。(5)「場所」の制約をなくすためのインターネットによる学会、シンポジウム、種々の会議の開催。そして会報や雑誌の郵送を希望しない会員に対しては、学会費の減額措置なども将来的な検討課題となるだろう。

 (1)(2)(3)については、将来もたらされるメリットに比べて、今かかる労力はさほどのものではない。研究体制を変革して行く研究方法の開発は勿論大切なことだが、同様に、今こそ次世代への生き残りを意識したメディアの選択をすべき時である、と強く主張して擱筆したいと思う。会員諸氏のご理解とご協力を望みたい。

 

) 近代文学研究に関するホームページは少ないが、近代文学や作家・詩人等に関するホームページは増加しており、例えばgoo(http://www.goo.ne.jp)というホームページ検索エンジン(キーワードを入力すると、日本中のホームページから該当するものを探し出してくれる)で、「夏目漱石」を検索すると三○八一件、「宮沢賢治」は四六一九件、「村上春樹」は三四○五件…… という結果が出てくる。もちろん「漱石」「宮澤賢治」「賢治」「春樹」で調べる必要もあるし、それでも全てのホームページが検索されるわけではないので、このデータはあくまでも一つの目安でしかない。

 なお、日本近代文学研究者によるホームページ情報としては、渡部芳紀氏の「インターネットにおける近代文学情報」(『国文学 解釈と鑑賞』連載中)の案内を参照されたい。また、中村三春氏は、「新しい情報システムをどう利用するか」『近代文学現代文学論文・レポート作成必携』(平成十年七月十日 學燈社)で、近代文学研究に必要なコンピュータリテラシーやURL情報などを提示されている。

初出『日本近代文学』59.1998.10