「こゝろ」論ーー先生・Kの形象に関する一考察ーー


                                         

木村 功


   序

 本論では、「先生と遺書」における先生とKの人物像を検討する。先生とKは、「こゝろ」の研究史上最
も問題的に取り扱われてきた人物達であり、論考も多い。 だが「あえて言えば、彼らすべては一個の理念的
存在であり、時に象徴的な深い翳をさえ帯びる。」@という意見もあるように、「先生と遺書」の叙述内容
は先生の独白に基づく観念的なものであることから、いきおい二人に関係する論議も抽象的に流れる傾向が
あった。文明批評の一面を持つとされる漱石文学の作中人物として、特定の時代性や社会性と関連させた論
及が稀少であることは、珍しいことである。しかし私見によれば、漱石はさほど曖昧な人物像として、先生
やKを描いているのではない。とりわけKという人物には、明治時代のある時期における青年像の特徴が認
められるのである。同様に先生の形象についても社会性を考慮し、漱石の発言も参考にすることによって、
その人物像の輪郭をより明確にできると考える。先生とKを持代性・社会性の中に還元し直すことにより、
先生とKの人物像を再検討し、新たに提出することが本論の目的である。

   一 「先生と遺書」の時代設定について

 「こゝろ」の中には「私」は勿論先生自身によっても、世代の懸隔を指摘される場面が何箇所か認められ
る。例えば「私」の、「先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに
成人したために、さういふ艶つぽい問題になると、正直に自分を解放する丈の勇気がないのだらうと考へた。」
(上一二)という発言や、先生の「其倫理上の考は、今の若い人と大分違つた所があるかも知れません。」(
下二)と述べる様な箇所である。この様な発言は、単に先生と「私」がお互いの世代差を意識していたとい
うことのみならず、「こゝろ」の中で先生・Kと「私」を代表とするような二つの意識が共存することを示
唆しているように思われる。しかし「一時代前の因襲」を有する先生・Kを育てたものが一体何であるのか
という問題は勿論、「一時代前」の内容も全く不問に伏されたままで作品の解釈が行われている現状である。
この意味で「先生と遺書」中、先生・Kの青年期が明治の何時頃であるのか、研究史上ほとんど間題視され
なかったことは当然の帰趨であった。
 かつて先生が小石川へ下宿した年代について、「明治何年頃かわからないが、未亡人が日清戦争で夫を亡
くした軍人の遺族であることが、近隣に知れているところをみると、だいたいおそくとも明治三十年代のは
じめ頃であろう。日清戦争後数年ではないかと思われる。」Aという推定がなされた。これを受けて、「『
先生』の大学卒業は明治三三、四年頃」Bと述べられたこともあった。しかし以降の研究において、この指
摘を踏まえた時期推定への言及が試みられることは殆どなかったのであるC。先生については、「おおよそ
漱石の年齢になずらえて、明治の二十年代に大学教育を受けた人と見てよいのだろう。」Dという発言も、
依然として認められる現伏なのである。
 しかし「先生と遺書」には、人物像の形象化の一端として、具体的な社会の様相が作者によって如実に描
き込まれているのである。作中人物像以外に叙述された、周辺の事象に着目することによって、その人物が
設定された時代やその社会性を明らかにし、翻ってその設定から作者の意図を闡明する道が開かれるのでは
なかろうか。本節ではその試みの前提として先生の年齢の考究を行い、先生・Kの育った持代を確定する。
このことにより、次節以降の先生が語る個人的な体検と、その土壌となった精神的社会的風土を推定するこ
とが可能となる。
 結論を先に言えば、「先生の遺書」の背景となった先生の青年時代については、やはり明治三○年代を考
えるのが至当である。下宿人を探している家の「主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんが
云ひました。」(下一○)という叙述に鑑みるかぎり、明治二八年以降の日清戦争後の時期が、先生・Kの
悲劇の舞台となった時代であると読み取れる。この点を確認した上で、先生の年齢を考察したい。その際参
考になるのは、先生の在学した高等学枚に関する記述である。 先生は両親の死亡後、「私は其前から両親
の許可を得て、東京へ出る筈になつてゐました。」(下三)という事情と、母親の遺言もあって東京の高等
学枚に入る事になる。この高等学校という呼称が第一高等中学校に代って用いられたのは、明治二七年の高
等学校令の施行をふまえての事であった。あるいはここで、漱石がこの第一高等中学校を略して高等学校と
呼んでいなかったかどうかという事が問題となろう。しかしこの点については、第一高等学校が三年の修業
年数であるのに対して、第一高等中学校は予科三年本科二年の通年五年教育が施されていたE。この事実を
ふまえて作品の文脈に徴して見ると、第一高等学校である事が判明するのである。
 すなわち先生が高等学校時代、夏休み毎に郷里へ帰省している事がその証となる。第一回目の帰省時に結
婚を勧められ、二回目の時には従妹が相手の縁談を持ちかけられ、三度目に叔父の財産横領が発覚し先生が
故郷を捨てる仕儀となったのである。そして東京に帰ってから先生は下宿探しをし、その時「大学の制帽」
(下一○)を被っていた事を述ぺている。この記述から、在学期間が三年であることがわかる。さらにKに
関する記述でも、「学資の事で養家を三年も欺いてゐた彼ですけれども」(下三九)という一文があり、学
校生活が三年間であった事を傍証する。先生が故郷を捨てて九月に東京へ戻った時に、Kも養父に手紙を書
いて「自分の詐を白状」(下二○)していたことの結果であった。
 以上の検討から在学の期間が三年と決定づけられる。したがって先生とKが入学したのは、明らかに第一
高等学校なのである。
 さて、「東京へ来て高等学校へ這入りました。」(下四)という書き方から、既にこの頃には高等学校と
いう呼称が流布していたと思われるのだが、まず先生の入学を上限で考えて明治二七年の九月と想定する。
そうすると三○年夏に高等学校を卒業し、その秋には帝国大学文科大学に進んだ事になる。このように考え
ると戦後「一年ばかり前までは、市ケ谷の土官学校の傍とかに住んでゐた」(下一○)奥さん達の家に下宿
するという記述とも齟齬する事はない。そしてまた上限で考えて、明治ニ○年九月から三三年七月までの学
生生活を過ごして先生は大学を卒業した、という事になるF。勿論一・二年後という誤差を考える事も可能
であろう。そうすると、先生は両親が亡くなった時に数え年でまだ二○歳になつていなかったというのであ
るから、これも上限を取って一九歳として考えると、一九歳で高等学校入学となる。上限の明治二七年で一
九歳であれば、逆算すると先生は明治九年頃に生まれた人物という事になる。したがって大正元年九月の時
点では、上限で三七歳の人物であったと考えられるのである。そしてKと共に過ごした帝国大学在学期間は、
二二歳(明治三○年)から二五歳(明治三三年)にかけての三年間であった事になるであろう。勿論、この年
齢が数え年であることは言うまでもない。ちなみに小川三四郎が文科大学に入学したのは、数え年二三歳の
時であった。
 以上の考証から、先生とKは明治三○年代前半に青春期を過ごした青年であると判断できるのである。

   二 Kの形象と明治二○年代前半の社会

 前節で考察したように、先生とKが学生時代を過ごしたのは、日清戦争後から明治三○年代前半にかけて
のおよそ六年間であった。その時期が近代日本社会にとってどういう時期であり、先生・Kをふくむ青年達
がその社会でそれぞれの青春をどのように送っていたのかを検討する。そしてそのことが作品にどのような
形で反快されているのか、菅見を述ぺたい。
 先生とKが、その学生特代を過ごした時代は、日清戦争と日露戦争の狭間である。米欧列強に伍していく
ための急速な近代化が展開され、同時に帝国主義の態勢を整えた国家の台頭期に、彼らの青春は位置してい
たともいえるだろう。当時の青春を、先生は自ら以下のように証言している。

  私は東京へ来て高等学校へ這入りました。其時の高等学校の生徒は今よりも余程殺伐で粗野でした。私
 の知つたものに、夜中職人と喧嘩をして、相手の頭へ下駄で傷を負はぜたのがありました。(中略)然し
 彼等は今の学生にない一種素朴な点をその代りに有つてゐたのです。(下四)

 日清戦争後政府は、軍事的、経済的、そして精神的な国カ増強に重点を置いた戦後経営を推進した。陸軍
の師団増設と海軍の軍艦建造のために、軍事予算は拡大され軍事税制が導入された。軍需物資の確保のため、
鉄鋼業も興された。国民の生活は、物価が上昇する一方で生活水準が低下するので苦しいものとなったが、
その不満の声をあらわした争議運動も「臥薪嘗胆」の合言葉にかき消されていったのである。民間では「尚
武の気象」という事が喧しく唱えられ、「武土遺」精神が盛んに鼓吹された。「それは『野蛮の気風』とも
いえるもので、町道場が繁盛し、やがて薩摩隼人の稚児さん趣味が流行り、バンカラが世を風靡するまでに
なった。」Gという。「殺伐で粗野」であったという先生の言葉は、当持の学生の雰囲気をたくまず捉え得
たものであった。しかし一方では「尚武の気象」の風潮に反発する学生達も存在し、娘義太夫に熱狂して寄
席を往復するドウスル連等が現われたりした。当局側の欲する「臥薪嘗胆」路線からのこの様な逸脱は、学
生の堕落問題してとして批判の的となったのである。
 学生達が夢中になったものは、娘義太夫ばかりではなかった。金子筑水によると明治三○年代は、青年層
に倫理的宗教的な傾向が認められた時代でもあったという。

 当持は高山樗牛等が、最初は日本主義を標榜し、後にはニイチエや日蓮主義をかざして、全思想界を風靡
 せんとした時代であつた。又伝統的な多少革新的な傾向は認められたが、学的な純哲学的た傾向よりも、
 むしろ実際的な人生観的傾向ーー新しい人生観に安心せんとする倫理的宗教的傾向が三十年代から明治の
 末期にかけて発達した風潮であつた。就中倫理的に新しい人生観に安住しようとする傾向は、当時の青年
 に殆ど一般的な傾向であつた。斯かる傾向を採つて進んだから、実際的な意味に於て宗教的情熱さへも高
 まり、其の情熱が可なりロマンチツクに傾いたことも争はれない。(中略)斯くて当時の哲学界ーー若し
 くこれを哲学界と言い得べくばーーは実際的な意味に於て可なり単純なロマンチツクな色彩を帯びた倫理
 宗教時代、又は実際的な人生観追及の時代であつた。H(後略)(傍線引用者)

 生方敏郎も、「日清戦争後には世間一帯の考えが精神的に趨り、宗教道徳問題が世に喧しかった。」と述
べている。学生についても、「その時分の学生は、宗教問題、倫理問題に没頭していた。そんなことの嫌い
な学生でもまたは宗教など柄にない人間でも、教会によく出入りした。時代精神と言おうか、とにかくその
頃の流行り物だった。」Iとしている。
 この指摘と関連して、大観音の傍らの汚い寺で数珠の輪を勘定しながら聖書を読み、先生にコーランも読
む積もりであると述べているKの姿が、自然に想起されてくる。
 寺に生れた彼は、常に精進といふ言葉を使ひました。さうして彼の行為動作は悉くこの精進の一語で形容
 されるやうに、私には見えたのです。(下一九)
 Kはたゞ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養つて強い人になるのが自分の考えだと
 云ふのです。(下一二)
 周知のごとくKは、「仏教の教養で養はれた」(下二三)人物であり、「道のためなら」(下一九)養父母
をだましても構わないとまで言う、強烈な求道精神の持ち主であった。「道のためには凡てを犠牲にすべきも
のだと云ふのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとひ欲を離れた恋そのものでも道の妨害に
なるのです。」(下四一)という一面もあった。
 この様なKの性向について、Kが「真宗寺の次男、養子縁組・離縁、実家との隔絶」という経歴を経て「『
家』という背景を失った人物」であるから、「その境遇ゆえに、現実から逃避」Jしたのだという指摘があ
る。しかし引用した金子築水や生方敏郎の指摘にもあるように、日清戦争後の青年層には宗教的倫理的な生
活傾向を有していた者の存在が認められるのである。何不自由のない真宗の寺に生まれ、財産家の医者に養
子に行ったKは、「普通の坊さんよりは遥かに坊さんらしい性格」(下一九)を持っていたことに加えて、
当時の学生を中心とする青年層に浸透していた倫理的宗教的雰囲気によって助長された結果、「道」への精
進に専念するようになって行ったのだと思われる。それは「その境遇ゆえに、現実から逃避」したものなど
では、決してないのである。日清戦争後の倫理的宗教的風潮と、Kが漂わすストイックで求道的態度は、同
時代的なものと考えなければならない。
 この点については、漱石の他の作品に於いても傍証される。求道的なKに似た人物として、「野分」の白
井道也が認められるのである。「人間は道に従ふより外にやり様のないものだ。人間は道の動物であるから、
道に従ふのが一番貴いのだらうと思つて居ります。」(八)と述べる白井は、「八年前大学を卒業してから」
(一)とある様に、帝大を出てから八年になる三二・三歳位の男と考えられる。当時大学と言えば、東京帝
大の他には、明治三〇年にできた京都帝大しかない。「野分」発表の明治四〇年にその年齢であるとすると、
逆算して明治三二、三年の卒業生と考えられ、これはほとんど先生やKと同期に重なる人間として断定してよ
い。白井が「道」に固執して云々するのも、先生・K同様に、日清戦争後の倫理的宗教的風潮の内にあった影
響が推定されるのである。
 以上の考察から、日清戦争後の倫理的宗教的空気を呼吸した青年像の典型として、Kが形象されていると指
摘できる。換言すれば、Kという求道的な青年像を描くために、日清戦争後の社会が作者によって選び取られ
たと言っても過言ではなかろう。
 それでは、このKを通じて漱石は一体何を描こうと企図していたのであろうか。
 漱石は明治四四年一月の「文芸と道徳」の中で以下の様に述べている。

 (前略)昔の道徳といへば維新前の道徳、即ち徳川時代の道徳を指すものでありますが、其昔の道徳はど
 んなものであるかと云ふと、貴方方も御承知の通り、一口に申しますと、完全な一種の理想の型を拵へて、
 其の型を標準として其型は吾人が努力の結果実現の出来るものとして出立したものであります。(中略)
  さて斯う云ふ風の倫理観や徳育がどんな影響を個人に与へどんな結果を社会に生ずるかを考へてみます
 と、まづ個人にあつては既に模範が出来上り又その模範が完全といふ資格を具えたものとしてあるのだか
 ら、どうしても此の模範通りにならなければならん、完全の域に進まなければならんと云ふ内部の刺激や
 ら外部の鞭撻があるから、模倣といふ意味は離れますまいが、其の代り生活全体としては、向上の精神に
 富んだ気概の強い邁往の勇を鼓舞される様な一種感激性の活計を営むやうになります。(中略)……、個
 人に対する一般の倫理上の要求は随分苛酷なものである。又個人の過失に対しては非常に厳格な態度をも
 つて居る。少しの過ちがあつても許さない、すぐ命に関係してくる。(後略)(傍線引用者)

 ここで漱石が述べているのは、徳川時代の道徳についてであるが、この漱石の発言からは、Kの平生のスト
イックな言動が想起されはしないだろうか。房総地方への旅行中にKが先生に向かって発した、「精神的に向
上心がないものは馬鹿だ」(下三〇)と同じ言葉が、文中に「向上の精神」として述べられていることも見
逃すことが出来ない。Kの理想主義的な刻苦勉励の姿勢には、漱石の言う「維新前の道徳」観が顕著に認めら
れるのである。かてて加えて漱石が和辻哲郎宛書簡(大正二年一〇月五日)の中で、「私は今道に入らうと
心掛けてゐます。」と述べていることを考えあわせても、Kの形象には少なからぬ漱石の自己投影が認められ
よう。Kには、明治三〇年前半の特徴的な精神的風潮の他に、漱石自身が講演「文芸と道徳」で述べた「維新
前の道徳」観が体現されているのである。
 以上のKの形象に関する考察に基づいて、Kが物語の中で自殺をするに及んだ理由も検討しておきたい。
 先生自身は、その理由について「まさしく失恋のため死んだ」と考えていたが、その後「現実と理想の衝
突、ーー(中略)私は仕舞にKが私のようにたつた一人で淋しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決したの
ではなからうかと疑がひ出しました。」(下五三)というように考え直している。従来のKの死因に関する考
察も、大方この先生の意見を踏襲している。
 日清戦争後の倫理的、武士道的な風潮の強い帝都の中、Kが「道」に生きる事を第一義に置き、弱い自己を
鞭打ちながら偉い人間になるべく精進する、いうならば「維新前の道徳」に近い生き方をしていた事は先の
漱石の講演に徴しても明らかである。そして先生自身が証言している様に、その「精進」がにとっては恋す
らも妨げになるものであった以上、その恋に一度の事とは言え篭絡されたKは、理想からの乖離に苦悶を抱く
ようになっていたのであった。挙句にはその篤い友情を頼んで相談した先生にも、「向上の精神」の挫折を
手痛く指弾される事になり、Kの自責と煩悶はいやましに募ることになった。Kにとってはかつて軽薄と見な
した事もある先生から批判されたという事を含めて、この恋から生じた煩悶は、彼の矜持を打ち砕き堕落を
まざまざと認識させる体験であったに相違ない。「近頃は熟睡が出来るのか」(下四三)と先生に問うほど
に、Kの煩悶の度は深刻なものになって行ったのである。
 そして起死回生への手掛かりを必死で模索するKに、先生がお嬢さんと婚約したという話が奥さんから伝え
られるのである。Kはその瞬間、先生に裏切られたという事実を悟ったはずである。それからKの胸奥でどの
ような感情が渦巻いたかはつまびらかではない。一概には言い切ることの出来ない困難さがあるが、先生の裏
切りという事実は、親兄弟から絶縁された上に今また信頼していた友人からも背かれたということで、Kを孤
独感の中に突き落としていったのではなかろうか。他方では精進を重ねる程に、Kは自身の遅滞を自覚せざる
を得ず、挫折感を募らせるばかりであったのである。Kの遺書に認められる「自分は薄志弱行で到底行先の望
みがないから、自殺する」(下四八)という記述は、文字通りKが自分自身に深い絶望感を覚えているものと
受け取るべきであろう。自身への絶望感、そして誰からも見放されたという深刻な孤独感がKを死へと促した
契機であると思われる。
 この様にKの求道的態度とその死への経緯は、漱石の把握した把握した「維新前の道徳」観を体現するもの
であり、作者はその考えを具体化し普遍化するために日清戦争後の倫理的宗教的な青年層の中にKを位置づけ
たと推察される。Kはまさしく日清戦争後の煩悶する青年像として、形象されていたのである。

   三 先生の形象と明治の終焉

 本節ではまず先生の形象を本文を踏まえながら確定し、併せて、作者が明治の終焉という社会状況を設定
することで、先生の形象にどう役立てたのかを検討する。
 Kが「道」や「精進」という言葉にも窺えるように、明治三〇年代前半の時代的な雰囲気を強く漂わす人
物であったのと同様、先生にも「私は倫理的に生れた男です。又倫理的に育てられた男です。」(下二)と
いう叙述が認められる。明らかに先生も「倫理」的な青年であり、この点でKと同様と言ってよいのである。
しかし一方で先生には、「事実で蒸留して拵えた理論」(下三一)に基づいて言動をするような一面があっ
た。例えば叔父の財産横領事件に際して、仲介に入った親戚をも敵視するのだが。その理由というのが、「
父があれ丈賞め抜いてゐた叔父ですら斯うだから、他のものはといふのが私の論理でした。」(下九)とい
う具合である。先生はまた「事実で蒸留して拵えた理論」によって、下宿先の奥さんにも同様の冷やかな目
をむけていた。このように先生には、「事実で蒸留して拵えた理論」にしたがう論理先行型の性格があり、
この性向はKの自殺後に先生自身を苦しめる事にもなる。すなわち、「叔父に欺むかれた当時の私は、他の
頼みに鳴らない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取る丈あつて、自分はまだ確かな気
がしてゐました。(中略)それがKのために美事に破壊されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意
識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かして動けなくなつたのです。」(下五二)と、ある
様にである。先生の事実認識に基づく論理的な思考は、生来的な「倫理」観と合一する事で、「倫理」的に
許されない行動を批判し峻拒するが、今度は自らのKに対する裏切り行為がその論理の網の目に捕らえられ
てしまうことになる。この結果先生は、「私」に対して「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々」
(上一四)と述べているように、「自由と独立と己れとに充ちた」自分をまざまざと認識することになった
のである。恋愛事件は「倫理」的な先生を分裂させ、以後先生は、「人間の中に取り残されたミイラの様に
存在」(下一)していくことになる。
 したがって先生が、Kに代表されるような日清戦争後の宗教的倫理的な青年像に重なりながら、自らの「現
代」的な性格を自覚した人物であったという事実は看過できない点である。
 ところで「倫理」的な青年像と「己れとに充ちた」現代人というのでは、先生自身が語る先生のイメージ
が分裂しているように思われる。しかしこれを作者の錯誤であると考えてしまう事は、速断であろう。漱石
自身は前出の講演「文芸と道徳」の中で明治時代の道徳問題について論じ、「私は明治維新の丁度前の年に
生れた人間でありますから、(前略)中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のやうな怪しげなもの」である
と述べていた。道徳的に、「海陸両棲動物のやうな怪しげなもの」と、自身を評する漱石の言葉には、どの
ような意味が込められているのであろうか。
 漱石は前節でKに関連して引用したように、明治に残存する道徳の一つとして「維新前の道徳」について述
べ、更に続けて「維新後の道徳」について以下のように発言している。

 然らば維新後の道徳が維新前とどういふ風に違って来たかと云ふと、かのピタリと理想通りに定つた完全
 の道徳と云ふものを人に強ふる勢力が漸々微弱になる許でなく、昔渇仰した理想其物が何時の間にか偶像
 視せられて、其代り事実と云ふものを土台にして夫から道徳を造り上げつゝ今日迄進んで来たやうに思は
                                              モトヅ
 れる。人間は完全なものではない。初めは無論、何時迄行っても不純なものであると、事実の観察に本い
 た主義を標榜したと云つては間違になるが、自然の成行を逆に点検して四十四年の道徳界を貫いてゐる潮
 流を一句につゞめて見ると此主義に外ならん様に思はれるから、つまりは吾々が知らず\/の間に此主義
 を実行して今日に至つたと同じ結果になつたのであります。(傍線引用者)

 「維新前の道徳」即ち徳川時代の道徳は、理想を基準において人間の行動の一切を律し、それにたがう時
には死を以て処罰されるようなリゴリスティックな道徳であった。これに対し明治以降の道徳は、「自我か
らして道徳律を割り出さうと試みる」のであって、「我が利益の凡てを犠牲に供して他の為に行動せねば不
徳義であると主張するようなアルトルイスチツク一方の見解は何うしても空疎になつて来なければならない。」
(「文芸と道徳」) という、利他主義を排する姿勢があった。言い換えれば、「維新後の道徳」は「自我」や
「事実と云ふものを土台にして」造り上げられて来た、自己本位の道徳なのである。
 そして漱石は、明治維新を前後とする日本の道徳の変遷を「維新前の道徳」と「維新後の道徳」という二
極面で捉え、自らをその二つの道徳にまたがる「海陸両棲動物」と見なしていたのである。この事実は「倫
理」的でありながら「自由と独立と己れとに充ちた現代」に生きる先生像の分裂の理由を解き明かしてくれ
る。
 すなわち、先生の「倫理」的な面は「維新前の道徳」に対応し、「自由と独立と己れとに充ちた現代」人
の一面は「維新後の道徳」にそれぞれ対応しているのである。したがって作品中の分裂した先生像と、「海
陸両棲動物」という漱石の発言は通底していると見なし得る。換言すれば、漱石が大きくは、Kと先生に代表
される二つの道徳を描き分ける事が出来たのはそのためであるし、先生の内部での二つの道徳の共存も、漱
石の「海陸両棲動物」としての立場が投影されたものであったと推察できる。
 この様な漱石の道徳観の反映は、漱石の他の作品にも認められる。例えば「三四郎」では広田萇が、「我
々の書生をして居る頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかつた。凡てが、君とか、親とか、国
とか、社会とか、みんな他本位であつた。それを一口にいふと教育を受けるものが悉く偽善家であつた。其
偽善が社会の変化で、とう\/張り通せなくなつた結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度
は我意識が非常に発展し過て仕舞つた。」(七)と述べている。明治時代における道徳の変遷が、「他本位」
から「自己本位」への変化として捉えられている事は明らかである。続く「それから」でも長井代助は、友
人平岡への義侠心から三千代を諦めるが、後には「自然」なる自己の欲求にしたがって三千代との愛を成就
するように変化していったのである。ここでも同じように「他本位」から「自己本位」への移行が看取され
る。
 したがって先生は、上述した漱石の道徳観上の人物に連なるのであり、漱石が認識していた明治の道徳的
な二極現象を、その分裂した性格として体現していたわけなのである。その意味で先生は明治の道徳的な問
題、明治の精神の問題を背負わされた人物として形象されていたと言えるだろう。言い換えれば先生の性格
の分裂は、漱石の目から見た「明治」人ならではの特徴的なものであったのである。
 以上の先生の形象の基部を踏まえた上で、先生の死に至るまでの現状を確認しておきたい。先生のKの墓詣
でが「私」の目に写る如く依然続いている以上、先生がKを自殺に追いやった自分に対して「倫理」的な呵責
を長く感じていることは明らかである。先生の「倫理」的呵責はその鋭利な論理の力と相俟って過去の「自
己本位」の所業を責め、先生に「御前は何をする資格もない男だと抑え付けるやうに云つて聞か」(下五五)
せるのであった。「人間の罪というものを深く感じ」(下五四)た先生は、次第に人間社会から離れて「死
んだ気で生きて行かうと決心」(下五四)し、無為の遊民となり自らを時代の中に放下することなく、「人
間の中に取り残されたミイラの様に存在」(下一)していたのである。先生は罪悪感と孤独感にさいなまれ
る「苦しい戦争」(下五五)を、その内面で十二年余繰り返している間に、遂行できるものはもはや自殺し
か残っていないと考えるところまで追い詰められてしまっていた。しかしそれも奥さんへの顧慮から、自殺
に踏み切ることができなかったのである。
 先生はこのように、自らの内面の分裂を見据えるがために世の中に出ることも出来ず、宙ぶらりんの状態
にあったわけである。そして漱石は、明治天皇の崩御と乃木夫妻の殉死事件という明治の終焉を対峙させ、
先生の立場を変え得る契機とする。明治天皇の死と乃木夫妻の殉死事件の中に含まれる一体何が、先生に自
殺への覚悟を固めさせたのであろうか。従来の研究においては、「先生自殺の理由は『こゝろ』論最大の問
題であり、『明治の精神』の意味がそのことにかかわっている。」というように、先生の自殺と「明治の精
神」との関係が主題的に取り扱われている。しかし、自殺への契機となったものは、果たしてこれであった
のだろうか。
 ここで注意したいのは、「両親と私」の以下の記述である。
 私の想像は日本一の大きな都が、何んなに暗い中で何んなに動いてゐるだらうかの画面に集められた。私
 はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都会の、不安でざわ\/してゐる中に、一点の灯火
 の如くに先生の家を見た。私は其時此灯火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐることに気が付
 かなかつた。(中五)(傍線引用者)
 「私 」が捉えていた、帝都の「不安でざわ\/してゐる」状態の中で、灯火のように輝いていた先生の家
も、その内に含まれていることは文脈上明らかである。そして先生すらも、「音のしない渦の中に、自然と
捲き込まれて」行ったという記述内容には、注意せねばなるまい。しかし、まず「私」が指摘する、「不安
でざわ\/してゐる」状態や「音のしない渦」の内容について検討を加える必要があろう。大岡昇平は、こ
の問題点に有効な示唆を与えている。

 明治天皇崩御も、当時の大事件でして、日露戦争に勝ったけれど、賠償金が払われなかったから、十億円
 以上の外債だけ残ってしまった。一般的に不景気なうえ、幸徳事件なんてものが起こる。外国への借金は
 増えるばかりです。そこへ国民の信頼していた明治天皇が死んでしまった。大正天皇が病弱で、明治天皇
 のような指導力を発揮できないだろう、とみな思っていたんで、いまでは想像できないような衝撃があっ
 た。(中略)日本の昇り坂の時代は終ったので、これから衰亡に向うのではないか、という予感を持った
 のは、「先生」だけではないので、この感情は大正三年にヨーロッパで第一次世界大戦がはじまるまで続
 いたのです。L(傍線引用者)

 大岡の述べる「衝撃」の内容を、さらに同時代人の証言を援用して検討する。「維新の革命と同時に生ま
れた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。」(「マードツク先生の日本歴史」) と語る漱石自
身、森次太郎宛書簡(大正元年八月八日)の中で、「明治のなくなつたのは御同様何だか心細く候」と心境
を漏らしているのだが、例えば伊藤左千夫は以下のように発言している。

 先帝御登遐の事誠に意外の事にて世の中俄に変り候様に感ぜられ候。何となくなつかしく親しく思はれ候
 明治の御代が今になつて著しく感ぜられ候。訳もなく神とも親とも頼み居し百姓の心持が崩御後明かに相
 成今更の如く/先帝に思慕し奉る感情を強く自覚致され恐多き事に存候。M(傍線引用者)

 さらに明治元年生まれの徳富蘆花は、次のように述べている。

 余は明治の齢を吾齢と思い馴れ、明治と同年だと誇りもし、恥もして居た。/陛下の崩御は明治史の巻を
 閉じた。明治が大正となって、余は吾生涯が中断されたかの様に感じた。明治天皇が余の半生を持って往
 っておしまいになったかの様に感じた。N(傍線引用者)

 左千夫にしろ蘆花にしろ、明治天皇に対する一体感・共生感には、現代の我々を瞠目させるものがある。
「訳もなく神とも親とも頼み居し」と言い、その死に当たっては「余の半生を持って往っておしまいになっ
たかの様に感じた。」 と述べるパセティックな調子には、胸奥から発せられる深い哀切感がこもっている。
翻って、「最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時代遅れだといふ感じが
烈しく私の胸を打ちました。」(下五五)と先生が遺書の中で述べていることを、上述の同時代証言の文脈
において見比べても、その内容が当時の民衆の意識と乖離しない、共通の感慨であったと判断できるだろう。
先生の心情は、当時の民衆の心情と同じ土壌にその根をおろしているのである。
 したがって如上の発言は、天皇個人の生涯に自らの生涯を重ね合わせ、激動の時代の苦楽を天皇と生き抜
いてきたという連帯感に貫かれていた、民衆の共生意識を最大公約数的に表現したものと考えられる。それ
ゆえに民衆の統合的カリスマの喪失というこの事態が、「明治天皇が余の半生を持って往っておしまいにな
った」という言葉に見られるような、深甚な衝撃を伴って、明治人の共生意識を根源から解体していったこ
とは想像に難くない。当時の社会不安と相俟って、「危機意識」(前出大岡)が醸成されていったと言う指
摘は傾聴すべきである。このように考えると、「私」の帝都への遠望が捉えた、「黒いなり」で「不安でざ
わ\/してゐる」状態と「音のしない渦」というものは、明治天皇を失った民衆の「危機意識の」象徴的表
現であったと読み取れるのである。明治の終焉に際した民衆の「危機意識」の動きを、「私」は証言してい
たのである。
 そして先生もその中に巻き込まれていったという先の叙述は、先生の運命に対する伏線として述べられて
いたことになるだろう。すなわち明治の終焉は、「たつた一人で淋しくつて仕方がなくなつた」(下五三)
という程、人間社会から離れ深甚な孤絶感家に囚われていた先生に対して、明治社会への共生意識を揺さぶ
りその孤絶感を一層助成させるかたちで作用することになったのである。「時勢遅れ」(下五五)という先
生の慨嘆は、まさにその事実を述べている。先生の自死への急激な傾斜の原因は、明治の終焉によって当時
の民衆が等しく抱いた不安や「危機意識」に触発され、社会との共生意識を失ったことにあったのである。
 したがって、先生の自死が明治や「明治の精神」に殉じたものであるというように考えることは出来ないO。
先生は遺書の中で、「殉死」という言葉を乃木大将以外では自分に対して一度用いただけであった。それも
「無論冗談に過ぎなかつた」(下五六)と、自ら語っているのである。先生の自死を「明治の精神」と関連
付ける根拠は、「先生と遺書」本文の文脈上からはどこにも見出せないのである。
 むしろ重視すべきは、崩御に続いて発生した、大喪の夜の乃木大将の殉死事件が、先生の心理的動揺に追
い撃ちをかけた点である。先生はその時、「乃木さんの死んだ理由が能く解らない」といいながら、「乃木
さんは此三十五年の間死なう\/と思つて、死ぬ機会を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、
生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだらうと考へま
した。」(下五六)と述べている。感想をのべる先生の言葉が、将軍の生涯に自分の来し方を自然重ねてい
ることに着目する必要がある。「それは先生の半生になんと酷似していることか。先生は〈自己本位〉のは
らむ暗黒によって親友を死に追いやって以来十数年、これまた死ぬことばかりを考えて生きて来たものだっ
たといってよい。」Pという指摘もあるように、先生も乃木同様「死なう\/と思つて、死ぬ機会を待つて
ゐた」人物なのであった。そして先生が自殺の決心を固めた記述が、殉死事件への感想の直後に続くのは、
先生が殉死事件に触発されたことを何よりも有力に物語っている。かくして「死ぬ機会を待つてゐた」先生
は、ようやくにその機会を得て自ら死に赴くわけである。
 ここまで縷述した先生の死への経緯についてまとめると、以下のようである。明治の終焉に際して民衆が
抱いた動揺と不安と「危機意識」を背景に、過去に友人を裏切った罪悪感、そこから生じた自己不信と孤独
感等の煩悶を自殺によって解体しようとして先生は死を選ぶにいたったのである。そしてそういう先生の覚
悟に至る「倫理」的心性にこそ、「明治の精神」と名付けられる、明治時代に生まれた人間の「心ノハタラ
キ、タマシイ。」Qが存するのではないだろうか。
 以上の検討を通じて、漱石が自らの道徳観に基づき先生の形象をおこなったこと、先生の自殺に至る煩悶
の経緯を描写する過程で、明治の終焉という事実を作中に導入し、先生の自死の外在的背景として説得的に
利用したことが指摘され得る。
 「こゝろ」の「先生と遺書」は、漱石の把握していたと思われる明治時代の社会的風潮・道徳的特性に基
づいて構築され、それを踏まえて先生とKが形象されていた。彼等は一見確かに観念的な肖像として読者の前
に現われるが、実際は当時の社会に根を下ろした、確固たる人間像として描かれているのである。読者が「
こゝろ」に魅力を感じ続ける所以は、ここにあると言えよう。

 注
 @ 佐藤泰正「『こゝろ』ーー〈命根〉をもとめてーー」『夏目漱石論』昭和61年11月27日 筑摩書房
 A 桶谷秀昭「淋しい『明治の精神』」『増補版夏目漱石論』昭和58年6月20日 河出書房新社
 B 遠藤 祐「夏目漱石集W補注」『日本近代文学大系27 夏目漱石集W』昭和49年2月20日 角川書店
 C 水川隆夫は『漱石「こゝろ」の謎』(1989年10月31日 彩流社)中、先生の年齢について以下のよう
  に指摘された。「『先生』は、一八八九(明治二二)年(推定)生まれの『私』より十四歳年長であり、
  一八九八(明治三一)年に数え年三十四歳で『私』と知り合い、一九一二(大正元)年に数え年三十八歳
  で死んだことになる。」と。しかし、氏の「今、仮に『先生』の下宿を一八九六(明治二九)年、数え年
  二十二歳のときとして逆算すると」という仮定の仕方には問題があろう。なぜ「数え年二十二歳のとき
  として」考えるのか、その根拠が述べられていないからである。また中島国彦は、「漱石作中人物事典」
  (三好行雄編『別冊国文学・夏目漱石事典』平成2年7月10日 學燈社)の「先生」の項目で、「日清戦
  争直後に大学生なので、自殺時は四十数歳となる。」と述べておられる。「日清戦争直後」が戦争の始
  まった直後か判然としないが、とまれ「日清戦争直後に大学生」であれば、先生が両親の死後上京して
  入学したのは、「高等学校」(下四)ではなく、高等中学校になるはずである。
 D 古井由吉「解説」『こゝろ』1989年5月16日 岩波文庫
 E 明治一九年七月一日公布の「文部省令第一六号」に以下のようにある。「第二条 高等中学校ノ修業
  年限ハ二箇年トス。(中略)第七条 高等中学校ニ於テハ予科ヲ置クコトヲ得」(『官報』第899号 明治
  19年7月1日 内閣官報局)。これに基づいて「数え年十五歳の時に、私は郷里の岩国学校(それは高等
  中学校の予備門となっていたもの)を卒業して、山口高等中学校の予科(高等中学校は当時本科二年、
  予科三年であった)に入学した。」(河上肇『自叙伝』5 1976年11月16日 岩波文庫)とあるように、
  予科三年本科二年の五年制で運営されていた。それが明治二七年六月の「高等学校令」をふまえた、明
  治二七年七月一二日公布の「文部省令」第一六号によって、「第一条(前略)大学予科ノ修業年限ハ三
  箇年トス」(『官報』第33010号 明治27年7月12日 内閣官報局)と、修業年限が改正されたのである。
  大学予科は帝大進学希望者のために設けられたものだが、高等学校に入学するものは、当然帝大進学を
  志望するので、実質的に「高等学校」は「大学予科」となった。
 F 先生達の大学在学期間が三年であることは、「二学年目の試験が目の前に逼つてゐる頃」(下二七)
  とあり、その試験を無事に済ました時、「二人とももう後一年だと云つて奥さんは喜こんで呉れました。」
  (同)という叙述から推察できる。また「文科大学通則」の「第三 試業及卒業証書」中、「第十一 
  毎学年ノ終リニ於テ法工文理大学第三年生及ヒ医科大学第四年生学期評点平均数及ヒ学年試業評点数ト
  モ第七項ノ昇級ノ格ニ合フモノハ帝国大学令第三条ニ依リ分科大学ヨリ卒業証書ヲ与フ」(東京大学百
  年史編集委員会編『東京大学百年史』資料T 昭和59年3月30日 東京大学)とあることからも、文科大
  学が三年で卒業できることが分かる。
 G 大濱徹也「臥薪嘗胆」『明治の墓標』1990年4月4日 河出文庫
 H 金子筑水「明治大正の哲学」『太陽』第33巻8号 博文館創業40周年記念号「明治大正の文化」昭和2
  年6月15日 博文館
 I 生方敏郎「明治大正の学生生活」『明治大正見聞史』昭和62年8月30日 中公文庫
 J 丸山典子「夏目漱石『こゝろ』小論ーーKの自殺をめぐってーー」『岡大国文論稿』第14号 昭和61年
  3月1日
 K 平岡敏夫「『こゝろ』ーー『明治の精神』を中心にーー」『漱石研究』1987年9月1日 有精堂
 L 大岡昇平「『こゝろ』の構造」『小説家夏目漱石』1988年5月20日 有精堂
 M 大正元年8月12日石原純宛書簡。土屋文明・山本英吉編『左千夫全集』第9巻 昭和52年9月28日 岩波
  書店
 N 徳富健次郎「明治天皇崩御の前後」『みみずのたはこと』下 1986年6月16日 岩波文庫
 O 秋山公男は「『こゝろ』の死と倫理ーー我執との相関ーー」(「国語と国文学」昭和57年2月、のち『
  漱石文学論考ーー後期作品の方法と構造ーー』昭和62年11月10日 桜楓社)の中で、「先生の死を説明
  するに『明治の精神』を過大視するのは適切であるとは言い難い。乃木殉死に触発され『殉死するなら
  ば、明治の精神に殉死する積だと』(下五十六)静に告げているにしても、それは当初『笑談に過ぎな
  かつた』(同)のであり、その遥か以前に死への傾斜は決定的に深まっていた。」と指摘されている。
  氏の示唆に負うところが多い。
 P 梶木 剛「即自的な自己の死・『こゝろ』その二」『夏目漱石論』昭和51年6月20日 勁草書房
 Q 大槻文彦『言海』(明治41年9月20日 吉川弘文館)の「精神」の項目より。

 ※@引用文の旧表記は現行表記に改め。ルビも適宜省略した。
  A漱石の作品及び講演等の本文引用には、『漱石全集』(全一八巻 昭和59年10月〜昭和61年3月 岩波
   書店)を使用した。なお、引用した書物の刊記はその奥書の書式にしたがっている。