木村 功
(原文縦書き)
夏目漱石の伝記研究に関しては、すでに荒正人の『増補改訂漱石研究年表』(以下『研究年表』と略)が
あるが、『研究年表』の中に空白がないわけではない。『研究年表』中、明治四十三年五月九日の項目は、
〈五月九日(月)、吹田蘆風「新ロマンチシズム」〉@とあり、漱石に関する記載が認められない。また
網羅的に漱石関連の資料を収集した『新聞集成夏目漱石像』の第一巻にも、この九日ないし十日の漱石に言
及した資料が見あたらない。
ところが漱石はこの日、丸善の新社屋落成にちなむ一連の記念行事に参加していたのである。以下、丸善
の社屋建築に関して若干の経緯を述べた後、漱石が参加した披露会の様子を紹介したい。『丸善社史』Aに
よると、丸善の本店営業所は市区改正事業のため、明治四〇年六月に二一二坪を東京市に買収される事にな
り改築を余儀なくされた。一〇月二二日から工事に着手し、翌明治四一年一二月三日に棟上式を行うに至る。
この間旧営業所の北隣に仮営業所を設け、明治四一年一一月四日から営業を続けた。ところが、一年後の明
治四二年十二月一〇日午前四時半頃、隣家の富田合名会社から出火した火事が、仮営業所や近隣数戸に燃え
移り、結局丸善は帳簿の大部分と商品のすべてを焼失してしまったのである。被害額は、当時の金額で〈建
物が一万三千円、商品が約十三万円以上に達した〉という。しかし不幸中の幸いで隣接地に建築中であった
新社屋への延焼は免れたため、一八日には新社屋二階で営業を再開することが出来た。そして明治四三年、
災厄を乗り越えて丸善新社屋は竣工し、五月一日に落成式を盛大にとり行った。五月九日には、東京市内の
新聞記者三〇余名が新社屋に招かれ建物を見学したのである。以下は『丸善百年史』上巻に収められた、「
中村重久日記」による五月九日の様子である。
五月九日 市内新聞記者(三十余名)ヲ招キ新築建物ヲ一覧セシメ其ヨリ帝国ホテルニ昼餐ヲ供シ記念写
真一組及記念紙入ヲ贈ル参会者新聞記者ニハ三宅(雪嶺)徳富(蘇峰)夏目(漱石)石川(半山)等三十
名会社ヨリ小柳津山崎斎藤内田等九名小柳津謝辞ヲ陳ヘ三宅続テ石川答辞ヲ陳ヘ次ニ内田重テ謝辞ヲ述ヘ
午後二時三十分散会ス
この日記中、丸善が招いた〈新聞記者〉の中に漱石の名が確認できる。この招待については、翌日あるい
は翌々日に各新聞の東京版も報道している。例えば『読売新聞』(五月一〇日付)は、以下のようである。
●丸善の新築披露 九日午前十時半から丸善株式会社の新築披露会があつた▼先づ同社楼上の設備及幾千
種の書籍を縦覧し正午帝国ホテルの午餐会に導かれた▼卓上先づ同社支配人小柳津要人氏の挨拶あり次い
で起つたのは三宅博士である▼丸善は日本一の書籍会社と云ふけれども日本一にしては書冊数余りに尠き
は何が為だ、能く焼太りと云ふ事があるが勢力旺盛ならざる者は反対に焼細りをやるもの也国光社は即ち
それで秀英社は反対に却つて新設備の出来るのは天気のある為だ丸善も斯うあつて欲しい▼聞く小柳津君
は元武士也としからば茲に武士気質を出して寧ろ丸善の一部分を図書館とし之を解放されては如何と例の
口調で或は皮肉り、或は揶揄す、▼次で石河幹明氏は丸善は今日此盛大をなすも茲に至るには辛苦艱難の頗
る大なるものがあつた、▼嘗ては書店の傍銀行を営んでゐたが慶應義塾の預金など支払停止を喰つて酷ひ目
に逢つた事があると語る▼内田不知庵君、店員を代表して挨拶して曰く、私は勿論丸善も一体に広告術の拙
な方であるが、大方諸君が我々の微力を助けて下されなば書店の繁栄は文明の進歩、国家の利益と一致する
訳で、何うか皆様にも機敏に来て戴き度いとて、仲々巧妙に広告をした
所々意味のとりにくい所もあるが、午餐会でのスピーチがどのようなものであったか髣髴させる。三宅雪
嶺の〈皮肉〉な挨拶を、同席した漱石はどんな顔をして聞いていたのであろうか。
次の『東京朝日新聞』(五月一一日付)は、「中村日記」が記載した以外の文学者名を伝えているので、
内容的に『読売新聞』と重複する部分もあるが併せて引用する。
●丸善の落成披露会 丸善では、一昨九日午前十時半より市内の新聞雑誌記者並に文士連を招待して落成
披露会を催した、定刻に及んで御客様は続続と詰懸る、小柳津社長を始めとして役員連ズラリと居並んで
丁重に三階の休憩室に導く、一通り顔が揃ふと小柳津氏先導となつて案内する、電話室には二人の交換手
が五つの電話器を忙しさうに扱つて居る、四階の物置にはギツシリ洋書が詰まつて居る、三階は事務室で
百名余の店員がタイプライターやカード式簿記帳に対して機敏に働いて居る、二階は陳列室で名も知らぬ
幾百巻の書冊が新式の書棚の中に金文字の背を光らして居る四階は文房具室や西洋小間物の陳列品室であ
る、一覧相済みますれば一同の車は帝国ホテルへと飛ぶ、宴半ばにして小柳津氏来賓総代として雪嶺博士
の答辞、石川氏の乾杯辞、内田魯庵氏の丸善の来歴談ありて二時半散会、当日の客人は総数三十名の上に
出で、蘇峰、漱石、水哉、松魚、秋骨、孤蝶、小波、天渓等の諸文星も見えた、工事は凡て佐藤工科大学
助教授の設計になつて高さが避雷針の頂まで九十と八尺、工費概算二十余万円に上るさうだ
『東京朝日新聞』の記事の中にも、徳富蘇峰や戸川秋骨、馬場孤蝶、巖谷小波、長谷川天渓といった人々
に混じって、漱石の名前が認められる。この丸善の新築披露会に関しては、漱石自身の日記や書簡といった
身辺資料に言及が認められない。しかし上記した中村日記と新聞の記載から、明治四三年五月九日の午前一
〇時半から午後二時半までの丸善新築披露会に、漱石が出席していた事は明らかである。翌日一〇日は、明
治四二年五月一〇日に病没した二葉亭四迷の一周忌追悼会の日である。この追悼会がよく知られている反面、
丸善に集った文学者達については一会社の記念行事ということもあって、社史の一頁に埋もれるしかなかっ
たのである。
註
@ 荒正人・小田切秀雄監修『増補改訂漱石研究年表』昭和五九年六月二〇日、集英社。
A 司 忠『丸善社史』昭和二六年九月一五日、丸善株式会社。
B 飯泉新吾『丸善百年史』上巻 昭和五五年九月一八日、丸善株式会社。
C 『學鐙』編集室所蔵『中村重久氏日記抄』本文には、姓名の後の括弧内の記載がない。担当執筆者木
村毅の補記と思われる。また、〈石川答辞ヲ陳ヘ〉とある箇所で、〈石川(半山)〉とされているが、
後掲の『読売新聞』の記事では〈石河幹明〉となっている。『東京朝日新聞』には、〈石川氏の乾杯辞〉
とあるだけで、石川半山か石河幹明なのか、判然としない。
なお末尾ではあるが、貴重な資料を見せていただいた『學鐙』編集室に御礼を申し上げる。