正岡子規年表
1998.4.20
作成,5.18更新ワード98・一太郎8ファイルのダウンロード 別途解凍用ソフトが必要です |
西暦 |
年号 |
年齢 |
事 柄 |
社 会 |
1867 |
慶応3 |
1 |
9.17 (旧暦) 伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町3番5号)で,父正岡常尚(35歳)・母八重(大原氏23歳)の長男として出生。本名常規,幼名処之助,のちに升(のぼる)。 |
大政奉還 |
1868 |
明治1 |
2 |
湊町新町(現湊町 4丁目1番地)に転居。 |
9 明治改元 |
1869 |
2 |
3 |
失火により家が全焼。 |
遷都・廃藩置県 |
1870 |
3 |
4 |
10.1 妹律,誕生。 |
|
1871 |
4 |
5 |
廃藩置県 |
|
1872 |
5 |
6 |
1 家督相続。3.7 父死亡(40歳) 父の兄佐伯政房(半弥)のもとへ手習いにかよう |
|
1873 |
6 |
7 |
祖父大原観山の私塾へ素読に通い始める。末広小学校入学。 |
|
1874 |
7 |
8 |
「読売新聞」創刊 |
|
1875 |
8 |
9 |
勝山学校に通学。 4 観山死去(58)。土屋久明に漢学を学ぶ。 |
|
1876 |
9 |
10 |
||
1877 |
10 |
11 |
景浦政儀の夜学に通い,軍談に興味をもつ。 |
西南戦争 |
1878 |
11 |
12 |
夏,土屋久明から漢詩の手ほどきを受ける。『画道独稽古』を作る。 |
|
1879 |
12 |
13 |
回覧雑誌をつくる。全国的にコレラがはやり,子規も疑似コレラに罹る。貸し本に熱中。 12 勝山学校卒業。 |
|
1880 |
13 |
14 |
3 松山中学入学,三並良,竹村鍛らと「同親会」を結成。河東静渓(竹村鍛・河東碧梧桐の父)に指導を受ける。翌年にかけて詩稿・文稿・回覧雑誌を多く作る。 |
国会期成同盟結成 |
1881 |
14 |
15 |
詩会・書画会をさかんに催す。 |
|
1882 |
15 |
16 |
9 県会を傍聴・自由党員訪問など,政治への関心が強まる。12 北予青年演説会で演説。翌年まで熱中。 |
外山正一『新体詩抄』 |
1883 |
16 |
17 |
東京遊学の希望を持つ。 5 松山中学退学。6 叔父加藤拓川より,上京に同意する旨手紙をもらい上京。陸羯南を訪問。須田学舎に入り,従弟藤野潔(古白)と同宿。10 共立学校入学。 |
鹿鳴館開館 |
1884 |
17 |
18 |
2 随筆「筆まかせ」起筆(明治25年まで)。3 旧藩主久松家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。9 東京大学予備門入学(同級生に芳賀矢一・夏目金之助・山田美妙・菊地謙二郎がいた)。 |
|
1885 |
18 |
19 |
春,哲学への関心を募らせる。 7 妹律,結婚。夏,帰省中に桂園派の歌人井出真棹に歌を学ぶ。 9 『当世書生気質』に感動。俳句を作り始める |
尾崎紅葉ら「硯友社」結成 |
1886 |
19 |
20 |
1 予備門の友人たちと「七変人評論」を作る。4 清水則遠の葬儀執行。予備門が第一高等中学校と改称。この年から 3年間,ベースボールに熱中 |
コレラ大流行 |
1887 |
20 |
21 |
7 大原其戎(きじゅう)(明治22年4月死去)のもとで俳諧を学び始める。「虫の音を踏み分け行くや野の小道」(「真砂の志良辺」明20.8)が活字になった最初の句。9 第一高等中学校予科進級。 |
「国民之友」創刊 |
1888 |
21 |
22 |
7 第一高等中学校予科卒業。8 鎌倉江の島で2度喀血。9 本科へ進級,常盤会寄宿舎に入る。 |
|
1889 |
22 |
23 |
1 夏目金之助(漱石)と落語を介して交遊を始める。5.9 夜喀血,時鳥の句を作り子規と号す。 |
2 「大日本帝国憲法」発布2 羯南「日本」創刊 |
1890 |
23 |
24 |
4 碧梧桐の句を添削,文通をはじめる。 7.8 第一高等中学校卒業,式を欠席して帰省。9 東京帝国大学文科大学哲学科入学。 |
「教育勅語」発布 |
1891 |
24 |
25 |
2 国文科に転科。 3 房総地方を旅行,高浜虚子と文通始まる。6 木曽路を経て松山へ帰省。試験放棄。12 駒込追分町へ転居,小説「月の都」執筆。冬, 「俳句分類」に着手。 |
「早稲田文学」創刊 |
1892 |
25 |
26 |
2 露伴を訪問。「月の都」を見てもらうが評価低し。上根岸(羯南宅西隣)へ転居。6 「獺祭書屋俳話」(38回「日本」6.26〜10.20)学年試験落第,退学を決意する。7 帰省,漱石も松山を旅行。10 退学。11 母と妹を呼び寄せる。12 日本新聞社入社,月給15円。福本日南,三宅雪嶺,千葉亀雄,佐藤紅緑,長谷川如是閑などがいた。 |
「万朝報」創刊 |
1893 |
26 |
27 |
2 俳句欄を「日本」に設ける。2.14 血痰あり,宮本仲来診(以後主治医)5 『獺祭書屋俳話』刊7 〜8 東北旅行。俳諧宗匠を歴訪する。11 「芭蕉雑談」(25回,「日本」11.13〜翌1.22) |
「文学界」創刊 |
1894 |
27 |
28 |
2 上根岸82番地(羯南宅東隣へ転居)2.11 「小日本」創刊,編集責任者となり,月給30円。3 中村不折をしる。7 「小日本」廃刊,「日本」に戻る。 |
日清戦争 |
1895 |
28 |
29 |
3 日清戦争への従軍許可がおりる4.7 従弟藤野潔(古白)ピストル自殺。4.10 宇品出港,近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。4.28 「陣中日記」(「日本」),金州で森鴎外を訪問。5.17 帰国途上船中で喀血。5.23 県立神戸病院に入院,重態。7.23 須磨保養院へ移る。8 退院し松山に戻る。8.27 松山中学教員夏目金之助の下宿に移る。10.31 東京に戻る。10 「俳諧大要」(27回「日本」10.22〜12.31)12.9 道灌山で虚子に文学上の後継者となることを要請するも,断られる。 |
三国干渉 |
1896 |
29 |
30 |
1.3 子規庵で句会。鴎外・漱石が参集。2 左腰が腫れ以後臥床の日が多くなる。3 カリエスと診断され,手術を受ける。4 「松蘿玉液」(32回,「日本」4.21〜12.31)8 「文学」(7回,「日本人」8.5〜11.20)9.5 新体詩人の会に人力車で参加。 |
|
1897 |
30 |
31 |
1.15 柳原極堂,松山で「ほとヽぎす」創刊3.27 腰部手術。4 再手術。4.13 「俳人蕪村」(19回,「日本」4.13〜12.29)5 病状悪化,重態。5.28 『古白遺稿』刊。8 月給37円。9 臀部2ヶ所の穴があき,膿が出始める。 |
|
1898 |
31 |
32 |
1 月給40円。2.12 「歌よみに与ふる書」(10回,「日本」2.12〜3.4)を発表し,短歌の革新運動に着手する。3 子規庵ではじめての歌会。3.30 『新俳句』刊。10 「ほとヽぎす」を東京発行に切り替える。 |
徳富蘆花「不如帰」 |
1899 |
32 |
33 |
1 『俳諧大要』刊。3 歌会再開,以後定期的に開催する。5 病状悪化秋,不折からもらった絵の具で水彩画を描く。人力車で友人宅を訪問。 12 『俳人蕪村』刊,病室の障子をガラス張りにする。 |
11 与謝野鉄幹「東京新詩社」 |
1900 |
33 |
34 |
1.2 伊藤左千夫来訪,短歌会の常連となる。1.29 「叙事文」(「日本」),写生文を提唱。3.28 長塚節来訪。4 第1回万葉集輪講会8 ,9 「鉄幹子規不可併称論議」が起きる。8 大量喀血。8.26 漱石,留学前に来訪。9 文章会「山会」を開催。12.23 蕪村忌,参加者38名。写生文集『寒玉集』刊。 |
パリ万国博覧会 4 「明星」創刊9 漱石,ロンドンへ発つ |
1901 |
34 |
35 |
1.26 「墨汁一滴」(164回「日本」1.26〜7.2)5 下 病状悪化。9.2 「仰臥漫録」を書き始める。10.13 母と妹の不在中に自殺を思い見る。 時々絶叫号泣する。11.6 漱石宛書簡に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書く。 |
|
1902 |
35 |
36 |
1 中 容態悪化,麻痺剤を常用する。2 下 碧梧桐・左千夫・虚子などが交替で夜伽の看護にあたる。4 自選句集『獺祭書屋俳句帖抄上巻』刊5.5 「病牀六尺」(127回,「日本」5.5〜9.17)6 「菓物帖」「草花帖」「玩具帖」の写生を行う。9.14 随筆「九月十四日の朝」を口述筆記。9.18 朝から容態悪化,午前中絶筆三句(「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をととひのへちまの水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」)を詠む。以後,昏睡。9.19 <あまり蚊帳の中の静かなのを怪しんで居士の名を呼んだ時は,手は已に冷え渡って,僅に額上に微温を存するのみであった。>(『評伝正岡子規』)午前1時頃絶息が確認される。9.20 通夜9.21 午前9時出棺,田端・大竜寺に埋葬する。会葬者150余名。戒名「子規居士」。 |
日英同盟 |
◆参考文献◆
|