夏目漱石年譜(β版)
2016.9.1.修正
西暦 |
年号 |
年齢 |
事項 |
社会 |
1867年 |
慶応3年 |
この年表では、満年齢で表します。 |
1月5日(太陽暦2月9日)誕生。父夏目小兵衛直克、母千枝の5男。出生地は江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)。兄弟は大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩 )、久吉(3歳で没)の4兄とさわ、ふさの異母姉、ちか(1歳で没)の姉があった。生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。 |
1.9 明治天皇践祚4.14 高杉晋作没(29) 11.15 坂本龍馬(33)・中岡慎太郎(30)暗殺される。 12.9 王政復古の大号令 |
1868年 |
慶応4/明治1年 |
1歳 |
11月 内藤新宿の名主、塩原昌之助(当時29歳)の養子となる。 |
1.3鳥羽伏見の戦(戊辰戦争) 3.14五箇条の御誓文公布 5.15上野戦争 9.8明治改元 10.13 天皇東京に移る |
1869年 |
明治2年 |
2歳 |
名主制度が五十番組制度となり、塩原昌之助が四十一番組の添年寄となったため、浅草三間町へ移転する。 |
6.17 版籍奉還 |
1870年 |
明治3年 |
3歳 |
この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。〈彼は其所で疱瘡をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。〉「道草」(39)「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど、疱瘡跡は目立ったらしい。
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1871年 |
明治4年 |
4歳 |
塩原昌之助が添年寄を免ぜられたため、内藤新宿に引き上げ、休業中の妓楼伊豆橋に留守番代わりに住む。
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1872年 |
明治5年 |
5歳 |
塩原昌之助が、第3大区14小区(現赤坂田町1丁目)の副戸長となる。塩原家の長男として届出がだされる。
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1873年 |
明治6年 |
6歳 |
塩原昌之助が第5大区5小区(浅草諏訪町)の戸長となり、扱所の棟続きに移る。 |
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1874年 |
明治7年 |
7歳 |
春頃塩原昌之助が旧幕臣の未亡人日根野かつと交渉をもったことから、夫婦間の不和が生じ、養母と共に一時生家に戻る。 12月 養母によって塩原昌之助の元へ帰される。 公立の浅草寿町戸田小学校下等小学校第八級に入学する。 |
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1875年 |
明治8年 |
8歳 |
4月 塩原夫婦の間で離婚成立。 5月 第八級、第七級を修了。 |
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1876年 |
明治9年 |
9歳 |
5月頃 金之助は塩原家に在籍のまま、夏目家に戻る。〈実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しにこんな出来損いが舞い込んで来たかといういう顔付をした父は、殆ど子としての待遇を彼に与えなかった。今までとは打って変った父のこの態度が、生の父に対する健三の愛情を根こそぎにして枯らしつくした。〉 5月 市谷柳町の市谷小学校に転校する。 |
3.28 廃刀令 6.30 バルカン戦争 10.24 神風連の乱 10.27 秋月の乱 10.28 萩の乱 10.29 千葉の乱 |
1877年 |
明治10年 |
10歳 |
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2.15 西南戦争勃発 4.12 東京大学開校 8.21 第一回内国勧業博覧会開催 9.21 西郷隆盛自刃(51)西南戦争終結 |
1878年 |
明治11年 |
11歳 |
2月 友人たちと回覧雑誌に「正成論」を書く。 4月市谷小学校上等小学第八級を卒業。神田猿楽町錦華学校小学尋常科二級後期へ入学 |
5.14 紀尾井坂の変、大久保利通暗殺(47) 6.10 陸軍士官学校開校 |
1879年 |
明治12年 |
12歳 |
3月 東京府第一中学校正則科乙へ入学 |
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1880年 |
明治13年 |
13歳 |
1月 牛込区馬場下で火災が発生し、実家焼失 |
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1881年 |
明治14年 |
14歳 |
1月9日 母千枝没。 春頃 東京府第一中学校を中退し、漢文を学ぶため二松学舎に転校。
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3. 森林太郎下宿上条で罹災 3. 露国アレクサンドル2世暗殺 10. 明治14年の政変 10. 国会開設の詔勅 |
1882年 |
明治15年 |
15歳 |
春頃、二松学舎を中退 |
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1883年 |
明治16年 |
16歳 |
9月 大学予備門を受験するため、成立学舎に入学し英語を学ぶ。同級に橋本左五郎、太田達人がいる。新渡戸稲造とも席を並べる。 小石川極楽水の新福寺に下宿。橋本ら友人たちと翌年にかけて自炊生活。 |
7. 「官報」第1号7.20 岩倉具視没 |
1884年 |
明治17年 |
17歳 |
9月 大学予備門予科に入学。同級に中村是公、芳賀矢一がいた。 橋本、中村ら約10人と神田猿楽町の末富屋に下宿。ボートレースを好んだ。器械体操が群を抜いて上手かったという証言(松本亦太郎)もある。 |
8.24 森林太郎ドイツ留学 10.31 秩父事件 |
1885年 |
明治18年 |
18歳 |
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1. 第1回ハワイ移民出発 2. 硯友社結成 11. 大阪事件 12. 太政官制廃止,内閣制設置(初代総理伊藤博文) |
1886年 |
明治19年 |
19歳 |
4月 大学予備門が第一高等中学校と改称される。 7月 腹膜炎に罹る。進級試験を受けず、成績も悪くて落第する。 9月 中村と本所の江東義塾(私塾)の教師となり、塾の寄宿舎に転居。 午後二時間教えて、月給5円。 |
3. 帝国大学令公布10. ノルマントン号事件 |
1887年 |
明治20年 |
20歳 |
3月21日 長兄大助没(享年31) 6月21日 次兄直則没(享年28) 夏、中村らと富士山に登る。 9月下旬急性トラホームを患い、江東義塾を辞め自宅から通学する
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4. 首相官邸で大仮装舞踏会5. 博愛社、日本赤十字社と改称。12.25 保安条例公布・施行 |
1888年 |
明治21年 |
21歳 |
1月 夏目家に復籍する。 7月 第一高等中学校予科を卒業する。 9月 同校本科英文科に入学する。 |
1. 和製自転車の製造開始 4. 市制・町村制公布 |
1889年 |
明治22年 |
22歳 |
1月 正岡子規を知る。同級生に山田美妙 9月 「木屑録」(ぼくせつろく)を著す。 |
1. 改正徴兵令(国民皆兵化) 2.11 大日本帝国憲法発布 文相森有礼刺される。 7. 東海道線新橋神戸間開通 |
1890年 |
明治23年 |
23歳 |
7月 第一高等中学校本科卒業。 9月 東京帝国大学文科大学英文科に入学する。文部省貸費生となる。 |
1. 自由党結党 2. 米国よりインフルエンザが入り、全国的に蔓延
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1891年 |
明治24年 |
24歳 |
7月28日 兄嫁登世没(享年24) 12月 J.M.ディクソン教授に頼まれて「方丈記」を英訳する。
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5.11 大津事件 |
1892年 |
明治25年 |
25歳 |
4月 徴兵を避けるため分家届を出し、北海道後志国岩内郡吹上町17 浅岡方に移籍し、北海道平民となる。 5月 東京専門学校(現・早稲田大学)の講師となる。 7月 文科大学特待生となる。 夏、子規と京都、堺、岡山、松山を旅行する。岡山では大洪水を経験する。高浜清(虚子)を知る。 |
5. 関東で天然痘大流行 |
1893年 |
明治26年 |
26歳 |
7月 英文科を卒業し、大学院に進学する。10月 東京高等師範学校の英語嘱託となる。 |
1. ハワイで王政廃止、米国保護領に
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1894年 |
明治27年 |
27歳 |
10月 小石川の尼寺法蔵院(現小石川3丁目)に下宿する。 12月 鎌倉円覚寺で参禅。神経衰弱になる。 |
5.16 北村透谷自殺(27) 8.1 日清戦争 9.17 黄海海戦 |
1895年 |
明治28年 |
28歳 |
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任。 8月 子規が松山に帰り、漱石の下宿に住む。俳句に熱中する。 12月 縁談がおこり、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合いをし婚約する。
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3. 日清講和条約調印4. 独仏露三国干渉 8. 大阪で活動写真興業 10. 京城事変 |
1896年 |
明治29年 |
29歳 |
4月 熊本県の第五高等学校講師として赴任する。 6月 熊本市下通町に家を借り、結婚する。 7月 教授となる。 9月 同市合羽町237(現坪井2丁目)に転居する。 |
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1897年 |
明治30年 |
30歳 |
6月 父直克没(享年81)。 9月 飽託郡大江村401に転居。 暮れから翌年正月にかけて、山川信次郎と小天(おあま)温泉に遊ぶ。「草枕」の素材となる。 |
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1898年 |
明治31年 |
31歳 |
3月 熊本市井川淵8に転居。鏡子のヒステリー激化。 6月 寺田寅彦が初めて訪問する。 7月 内坪井町78に転居。 |
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1899年 |
明治32年 |
32歳 |
5月 長女筆子誕生。 6月 英語科主任となる。 9月 山川信次郎と阿蘇山に登る。 |
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1900年 |
明治33年 |
33歳 |
3月 同市北千反畑町78の旧文学精舎跡に転居。 6月 文部省から英語研究のため満二年の英国留学を命ぜられる。 7月 留学準備のため帰京。 9月8日 横浜出航。 10月21日 パリ着。万国博覧会見物。 11月 大英博物館、ウェストミンスター寺院、ナショナル・ギャラリーを見学。 |
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1901年 |
明治34年 |
34歳 |
1月 次女恒子誕生。 2月 ヴィクトリア女王の葬儀を見る 4月25日 5 stella Road,Tooting Graveney,London,S.W. に移転。 5月 池田菊苗が来て二ヵ月間同宿する。池田の影響を受けて「文学論」 の著述を計画する。 7月 81 The Chase,Claphmam Common,London,S.W.4に移転。この下宿に こもって帰国まで「文学論」の著述に没頭する。留学費の不足と孤独感から神経衰弱に陥る。 |
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1902年 |
明治35年 |
35歳 |
夏頃強度の神経衰弱に罹る。 9月19日 正岡子規没(享年34)。 10月 スコットランドを旅行。 12月5日 ロンドンを発ち帰国の途につく。 |
12.24 高山樗牛没(32) |
1903年 |
明治36 |
36歳 |
1月20日 朝長崎港着。 1月21日 熊本に入る。 1月24日 9:30新橋着。 3月 東京市本郷区千駄木57(第二高等学校教授斎藤阿具の持ち家)に転居。 4月 第一高等学校講師(年俸700円)、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学文科大学英文科講師(年俸800円)となる。 6月4日 文科大学学長に大学図書館の教職員閲覧室の隣室事務員が騒がしいと書面で訴える。 7月 神経衰弱再発。鏡子、一時実家に帰る。 10月 水彩画をはじめる。 11月 三女栄子誕生。神経衰弱再発。
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3. 専門学校令公布5.22 藤村操、華厳の滝に投身自殺 6.29 滝廉太郎没(25) 10.30 尾崎紅葉没(37) |
1904年 |
明治37年 |
37歳 |
9月 明治大学講師となる。 9月26日 ラフカディオ・ハーン没(享年54) 12月 高浜虚子の勧めで、文章会「山会」で「吾輩は猫である」を発表する。 |
3. 東京市街鉄道、浅草まで貫通。馬車鉄道廃止 |
1905年 |
明治38年 |
38歳 |
1月 「吾輩は猫である」(「ホトトギス」) 「倫敦塔」(「帝国文学」)「カーライル博物館」(「學鐙」) 4月 「幻影の盾」(「ホトトギス」) 5月 「琴のそら音」(「七人」) 9月 「一夜」(「中央公論」) 11月 「薤露行」(「中央公論」) 12月 四女愛子誕生。 |
1. 旅順開城 2. 奉天大会戦勝利 5.27 日本海海戦。連合艦隊、バルチック艦隊を破る。 9. ポーツマス講和条約調印 日比谷焼き討ち事件 |
1906年 |
明治39年 |
39歳 |
1月 「趣味の遺伝」(「帝国文学」) 4月 「坊っちやん」(「ホトトギス」) 9月 「草枕」「新小説」 10月 「二百十日」(「中央公論」) 中旬頃から面会日を毎週木曜日午後3時以降と決める(「木曜会」)。 12月 本郷区駒込西片町10のろの7号(現・文京区西片1丁目)に転居。 |
1. 日本社会党結成 3. 国有鉄道法公布 |
1907年 |
明治40年丁未 |
40歳 |
1月 「野分」(「ホトトギス」) 2月 朝日新聞社入社の話が起こる。 3月 池辺三山の訪問によって入社を決意する。月給200円。年一度100 回ほどの長編小説を書くことが条件となる。東京帝国大学と第一高等学校に辞表を提出する。月末から4月にかけて京都・大阪を旅行する。 5月3日 「入社の辞」(「東京朝日新聞」) 5月4日 「文芸の哲学的基礎」第1回〜第27回(〜6/4まで) 5月7日 『文学論』大倉書店 6月 長男純一誕生。 「虞美人草」(〜10月) 総理大臣西園寺公望から文士招待会雨声会に招かれるが断る。 「時鳥厠半ばに出かねたり」 9月 早稲田南町7へ転居。 胃病に苦しむ。 |
2. 足尾銅山暴動 4. 南満州鉄道株式会社開業 |
1908年 |
明治41年 |
41歳 |
1月 「坑夫」(〜4月) 4月 「創作家の態度」(「ホトトギス」) 6月 「文鳥」(「大阪朝日新聞」、後10月「ホトトギス」に一括転載) 7月 「夢十夜」(〜8/5) 9月 「三四郎」(〜12月) 12月 次男伸六誕生 |
1. わが国初の経済恐慌起こる。 3.22 出歯亀事件10.13 戊申詔書発布 |
1909年 |
明治42年 |
42歳 |
1月 「永日小品」(〜3月) 3月 『文学評論』春陽堂 6月 「それから」(〜10月) 9月10月 中村是公の招待で満州(当時)と朝鮮(当時)を旅行する。 10月 「満韓ところ\/」(〜12月) 11月25日 朝日文芸欄を創設する。 |
3. 日糖事件 10.23 伊藤博文ハルピンで暗殺(69)
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1910年 |
明治43年 |
43歳 |
3月 「門」(〜6月) 五女ひな子誕生 6月 胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院。 8月 転地療養のため修善寺温泉菊屋旅館に滞在する。24日大量吐血し危篤状態に陥るが、次第に回復する。 10月 帰京し、長与胃腸病院に入院する。 「思い出す事など」(〜明治44年2月) |
4.「白樺」創刊 5.〜6. 大逆事件発生 8.22 日韓合併条約調印朝鮮と改称
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1911年 |
明治44年 |
44歳 |
2月21日 文学博士号辞退。退院。帰宅してきて家の照明が電燈に切り替わっているのに驚く。それまで漱石は贅沢を理由に電燈を引こうとしなかった。 6月 長野へ夫人同行で講演旅行。 8月 関西へ講演旅行。胃潰瘍再発し、大阪で入院する。 9月 帰京、痔疾を手術する。 11月1日 朝日文芸欄の廃止に伴い、池辺三山へ辞表を提出するが慰留される。 11月29日 ひな子突然死(死因が不明であり、その時の後悔が後年漱石の遺体解剖に繋がる)。 |
1.大逆事件判決 1.24 幸徳秋水ら処刑 6.1 青鞜社結成 |
1912年 |
明治45年/大正1年 |
45歳 |
1月2日 「彼岸過迄」(〜4月29日) 2月 池辺三山没(享年48) 3月 「三山居士」(「東京・大阪朝日新聞」)
12月 「行人」(〜大正2年4月) |
2.12 宣統帝退位、清朝滅亡 4.13 啄木石川一没(27) 4.21 タイタニック号沈没 6.26 富山県で米騒動。全国に拡大。 7.30 天皇崩御(61) 9.13 明治天皇大喪。乃木希典大将と夫人静子殉死 |
1913年 |
大正2年 |
46歳 |
1月以降数ヶ月間強度の神経衰弱となる。 3月末 胃潰瘍のため病臥。 9月 「行人」の続編「塵労」を発表(11月完結)。 この年に北海道から移籍して、東京府平民に戻る。 |
8. 東北帝大に初の女子帝大生3名合格。 11.22 徳川慶喜没(77)
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1914年 |
大正3年 |
47歳 |
4月20日 「心 先生の遺書」(〜8月31日、のち「こゝろ」と改題) 9月 4度目の胃潰瘍で1ヶ月病臥。 11月 講演「私の個人主義」(学習院大学)
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1.12 桜島大噴火、大隅半島と地続きとなる。 7.28 第1次世界大戦勃発 12. 対華21ヶ条の要求 |
1915年 |
大正4年 |
48歳 |
1月13日 「硝子戸の中」(〜2月23日) 連載 3月末 京都旅行。5度目の胃潰瘍で病臥。 異母姉高田ふさ没。 4月 帰京。 6月 「道草」(〜9月14日) 11月 中村是公と湯河原温泉に行く。芥川龍之介・久米正雄が木曜会に参加する。
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1916年 |
大正5年 |
49歳 |
1月1日 「点頭録」(〜1月21日まで) リューマチ治療のため湯河原温泉へ行く。 4月 糖尿病の診断下る。真鍋嘉一郎の治療を受ける。 5月26日 「明暗」(〜12月14日未完のまま連載終了) 11月22日 胃潰瘍再発し臥床する。容態は次第に悪化した。 12月9日 午後6時45分、胃潰瘍により死去。夜、森田草平の発案で新海竹太郎がデスマスクを取る。夫人から解剖の発議があり、決定される。 12月10日 遺体の解剖が東京帝国大学医科大学で行われる。執刀は長与又郎。脳の重量は1425g。平均よりやや重いとされる。脳と胃を医科大学に寄付。 12月12日 午前8時出棺。 午前10時青山斎場で葬儀。導師は釈宗演がつとめた。戒名「文献院古道漱石居士」。落合火葬場にて荼毘に付す。 12月13日 骨拾い。 12月14日 「明暗」の連載が中絶する。 12月28日 雑司ヶ谷墓地で埋骨式。(漱石の墓の位置は1種14号1側3番である。舗装路の交差点近くにあるが、背面を向けているため、特徴のある墓石であるにもかかわらず案外見つけにくい。) |
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1917年 |
大正6年 |
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1月 『明暗』岩波書店 11月 『漱石俳句集』岩波書店 |
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1919年 |
大正8年 |
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6月 『漱石詩集 印譜附』岩波書店
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◇ 参考文献 ◇
夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思ひ出』昭和3年11月23日 改造社
小宮豊隆『夏目漱石』第1巻〜第3巻 1993年11月16日第4刷 岩波文庫
小田切進「略年譜」『新潮日本文学アルバム2夏目漱石』1987年6月5日8刷 新潮社
朝倉治彦・稲村徹元編『明治世相編年辞典』平成7年6月30日 東京堂出版
特装版『漱石全集』第18巻 補遺 昭和61年3月20日 岩波書店
市古貞次等編『日本文化総合年表』1990年3月8日 岩波書店
岡 三郎「新資料・漱石の『英国留学始末書』その他をめぐって」『青山学院大学文学部紀要』第25号 昭和58年