夏目漱石年譜(β版)
1998.5.5
作成西暦 |
年号 |
年齢 |
事項 |
社会 |
1867 年 |
慶応3年 |
1月5日(太陽暦2月9日)誕生。父夏目小兵衛直克、母千枝の5男。出生地は江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)。兄弟は大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩)、久吉(3歳で没)の4兄と さわ、ふさの異母姉、ちか(1歳で没)の姉があった。生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。 | 1.9 明治天皇践祚4.14 高杉晋作没(29) 11.15 坂本龍馬(33)・中岡太郎(30)暗殺される。 12.9 王政復古の大号令 |
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1868 年 |
慶応 4/明治1年 |
1 歳 |
11 月 内藤新宿の名主、塩原昌之助(当時29歳)の養子となる。 |
1.3 鳥羽伏見の戦 戊辰戦争 3.14 五箇条の御誓文公布5.15 上野戦争9.8 明治改元10.13 天皇東京に移る |
1869 年 |
明治 2年 |
2 歳 |
名主制度が五十番組制度となり、塩原昌之助が四十一番組の添年寄と なったため、浅草三間町へ移転する。 | 6.17 版籍奉還 |
1870 年 |
明治 3年 |
3 歳 |
この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。〈彼は其所で疱瘡をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。〉「道草」(39)「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど,疱瘡跡は目立ったらしい。 | |
1871 年 |
明治 4年 |
4 歳 |
塩原昌之助が添年寄を免ぜられたため、内藤新宿に引き上げ、休業中の妓楼伊豆橋に留守番代わりに住む。 |
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1872 年 |
明治 5年 |
5 歳 |
塩原昌之助が、第3区14小区(現赤坂田町1丁目)の戸長となる。塩原家の長男として届出がだされる。 | |
1873 年 |
明治 6年 |
6 歳 |
塩原昌之助が第 5大区5小区(浅草諏訪町)の戸長となり、扱所の棟続きに移る。 |
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1874 年 |
明治 7年 |
7 歳 |
春頃塩原昌之助が旧幕臣の未亡人日根野かつと交渉をもったことから、夫婦間の不和が生じ、養母と共に一時生家に戻る。 12 月 公立の浅草寿町戸田小学校下等小学校第八級に入学する。 |
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1875 年 |
明治 8年 |
8 歳 |
5 月 第八級、第七級を修了。 |
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1876 年 |
明治 9年 |
9 歳 |
4月 塩原夫婦の間で離婚が成立。金之助は塩原家に在籍のまま、養母と共に夏目家に引き取られる。〈実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しにこんな出来損いが舞い込んで来たかといういう顔付をした父は、殆ど子としての待遇を彼に与えなかった。今までとは打って変った父のこの態度が、生の父に対する健三の愛情を根こそぎにして枯らしつくした。〉 5 月 市ケ谷柳町の市ケ谷小学校に転校する。 |
3.28 廃刀令 6.30 バルカン戦争10.24 神風連の乱10.27 秋月の乱10.28 萩の乱10.29 千葉の乱 |
1877 年 |
明治 10年 |
10 歳 |
2.15 西南戦争勃発4.12 東京大学開校8.21 第一回内国勧業博覧会開催9.21 西郷隆盛自刃(51)西南戦争終結 |
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1878 年 |
明治 11年 |
11 歳 |
2 月 友人たちと回覧雑誌に「正成論」を書く。4 月市ケ谷小学校上等小学第八級を卒業。 神田猿楽町錦華学校小学尋常科二級後期を卒業し、一ツ橋中学(東京府立一中)に入学。 |
5.14 紀尾井坂の変、大久保利通暗殺(47) 6.10 陸軍士官学校開校 |
1881 年 |
明治 14年 |
14 歳 |
1 月21日 母千枝没。府立一中を中退。漢文を学ぶために二松学舎に転校。 |
3. 森林太郎下宿上条で罹災3. 露国アレクサンドル2世暗殺10. 明治14年の政変10. 国会開設の詔勅 |
1883 年 |
明治 16年 |
16 歳 |
9 月 大学予備門を受験するため、成立学舎に入学し英語を学ぶ。同級に橋本左五郎、太田達人がいる。新渡戸稲造とも席を並べる。 |
7. 「官報」第1号7.20 岩倉具視没 |
1884 年 |
明治17年 | 17 歳 |
小石川極楽水際の新福寺に下宿。橋本と自炊生活をする。 9 月 大学予備門予科に入学。同級に中村是公、芳賀矢一がいた。 |
8.24 森林太郎ドイツ留学10.31 秩父事件 |
1885 年 |
明治 18年 |
18 歳 |
橋本、中村ら約10人と神田猿楽町の末富屋に下宿。ボートレースを好んだ。器械体操が群を抜いて上手かったという証言(松本亦太郎)もある。
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1. 第1回ハワイ移民出発 2. 硯友社結成11. 大阪事件12. 太政官制を廃止,内閣制設置(初代総理伊藤博文) |
1886 年 |
明治 19年 |
19 歳 |
4 月 大学予備門が第一高等中学校と改称される。7 月 腹膜炎に罹る。進級試験を受けず、成績も悪くて落第する。中村と本所の江東義塾(私塾)の教師となり、塾の寄宿舎に転居。 午後二時間教えて、月給 5円。 |
3. 帝国大学令公布10. ノルマントン号事件 |
1887 年 |
明治 20年 |
20 歳 |
3 月21日 長兄大一没(享年31)6 月21日 次兄栄之助没(享年28)夏、中村らと富士山に登る。 7 月下旬急性トラホームを患い、江東義塾を辞め自宅から通学する |
4. 首相官邸で大仮装舞踏会5. 博愛社、日本赤十字社と改称。12.25 保安条例公布・施行 |
1888 年 |
明治 21年 |
21 歳 |
1 月 夏目家に復籍する。7 月 第一高等中学校予科を卒業する。9 月 同校本科英文科に入学する。 |
1. 和製自転車の製造開始4. 市制・町村制公布 |
1889 年 |
明治 22年 |
22 歳 |
1 月 正岡子規を知る。同級生に山田美妙9 月 「木屑録」(ぼくせつろく)を著す。 |
1.改正徴兵令 (国民皆兵化)2.11 大日本帝国憲法発布文相森有礼刺される。 7. 東海道線新橋神戸間開通 |
1890 年 |
明治 23年 |
23 歳 |
7月 第一高等中学校本科卒業。 9月 東京帝国大学文科大学英文科に入学する。文部省貸費生となる。 | 1.自由党結党 2. 米国よりインフルエンザが入り、全国的に蔓延
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1891 年 |
明治 24年 |
24 歳 |
7 月 特待生となる。7 月28日 兄嫁登世没(24)12 月 J.M.ディクソン教授に頼まれて「方丈記」を英訳する。
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5.11 大津事件 |
1892 年 |
明治 25年 |
25 歳 |
4月 徴兵を避けるため分家届を出し、北海道後志国岩内郡吹上町17 浅岡方に移籍し、北海道平民となる。 5 月 東京専門学校の講師となる。夏、子規と京都、堺、岡山、松山を旅行する。岡山では大洪水を経験する。高浜清(虚子)を知る。 |
5. 関東で天然痘大流行 |
1893 年 |
明治 26年 |
26 歳 |
7 月 英文科を卒業.立花政樹(24年卒)に次いで2人目の卒業生.帝国大学大学院に進学する。指導教官は,ウッド(9月21日以降は神田乃武〈ないぶ〉の指導も受ける).8月 学習院大学英語教師の就職話があったが,重見周吉に決まり,不調に終る. 10月 東京高等師範学校の英語嘱託となる.年俸450円(月額37円50銭). |
1. ハワイで王政廃止、米国保護領に
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1894 年 |
明治 27年 |
27 歳 |
10 月 小石川の尼寺法蔵院(現小石川3丁目)に下宿する。12 月 鎌倉円覚寺で参禅。神経衰弱になる。 |
5.16 北村透谷自殺 (27)8.1 日清戦争 9.17 黄海海戦 |
1895 年 |
明治 28年 |
28 歳 |
4 月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任。8 月 子規が松山に帰り、漱石の下宿に住む。俳句に熱中する。12 月 縁談がおこり、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合いをし婚約する。 |
3. 日清講和条約調印4. 独仏露三国干渉8. 大阪で活動写真興業10. 京城事変 |
1896 年 |
明治 29年 |
29 歳 |
4 月 熊本県の第五高等学校講師として赴任する。6 月 熊本市下通町に家を借り、結婚する。7 月 教授となる。9 月 同市合羽町237(現坪井2丁目)に転居する。 |
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1897 年 |
明治 30年 |
30 歳 |
6 月 父直克没。9 月 大江村401に転居。暮れから翌年正月にかけて、山川信次郎と小天(おあま)温泉に行く。「草枕」の素材となる。 |
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1898 年 |
明治 31年 |
31 歳 |
3 月 同市井川淵8に転居。鏡子のヒステリー激化。6 月 寺田寅彦が初めて訪問する。7 月 内坪井町78に転居。 |
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1899 年 |
明治 32年 |
32 歳 |
5 月 長女筆子誕生。6 月 英語科主任となる。9 月 山川信次郎と阿蘇山に登る。 |
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1900 年 |
明治 33年 |
33 歳 |
6月 同市北千反畑町の旧文学精舎跡に転居。 5 月 文部省から英語研究のため満二年の英国留学を命ぜられる。7 月 帰京。9 月8日 横浜出航。 |
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1901 年 |
明治 34年 |
34 歳 |
1 月 次女恒子誕生。4 月25日 5 stella Road,Tooting Graveney,London,S.W. に移転。5 月 池田菊苗が来て二ヵ月間同宿する。池田の影響を受けて「文学論」の著述を計画する。 7 月 81 The Chase,Claphmam Common,London,S.W.4に移転。この下宿にこもって帰国まで「文学論」の著述に没頭する。留学費の不足と孤独感から神経衰弱に陥る。 |
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1902 年 |
明治 35年 |
35 歳 |
夏頃強度の神経衰弱に罹る。 9 月19日 正岡子規没(享年36)。10 月 スコットランドを旅行。12 月5日 ロンドンを発ち帰国の途につく。 |
12.24 高山樗牛没(32) |
1903 年 |
明治 36 |
36 歳 |
1 月20日 朝長崎港着。1 月21日 熊本に入る。1 月24日 9:30新橋着。3 月 東京市本郷区千駄木57(第二高等学校教授斎藤阿具の持ち家)に転居。4 月 第一高等学校講師(年俸700円)、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学文科大学英文科講師(年俸800円)となる。6 月4日 文科大学学長に大学図書館の教職員閲覧室の隣室事務員が騒がしいと書面で訴える。 10 月 三女栄子誕生。11 月 神経衰弱再発。 |
3. 専門学校令公布5.22 藤村操、華厳の滝に投身自殺
10.30 尾崎紅葉没(37) |
1904 年 |
明治 37年 |
37 歳 |
4 月 明治大学講師となる。12 月 高浜虚子の勧めで、文章会「山会」で「吾輩は猫である」を発表する。 |
3. 東京市街鉄道、浅草まで貫通。馬車鉄道廃止 |
1905 年 |
明治 38年 |
38 歳 |
1月 「吾輩は猫である」(「ホトトギス」) 「倫敦塔」 (「帝国文学」)「カーライル博物館」(「學鐙」)4 月 「幻影の盾」(「ホトトギス」)5 月 「琴のそら音」(「七人」)9 月 「一夜」(「中央公論」)11 月 「薤露行」(「中央公論」)12 月 四女愛子誕生。 |
1. 旅順開城 2. 奉天大会戦勝利 5.27 日本海海戦。連合艦隊、バルチック艦隊を破る。9.ポーツマス講和条約調印 日比谷焼き討ち事件 |
1906 年 |
明治 39年 |
39 歳 |
1 月 「趣味の遺伝」(「帝国文学」)4 月 「坊っちやん」(「ホトトギス」)9 月 「草枕」「新小説」10 月 「二百十日」(「中央公論」)中旬頃から面会日を毎週木曜日午後 3時以降と決める(「木曜会」)。12 月 本郷区西片町10のろの7号(現・文京区西片1丁目)に転居。 |
1.日本社会党結成 3. 国有鉄道法公布 |
1907 年 |
明治 40年丁未 |
40 歳 |
1月 「野分」(「ホトトギス」) 2 月 朝日新聞社入社の話が起こる。3 月 池辺三山の訪問によって入社を決意する。月給200円。年一度100 回ほどの長編小説を書くことが条件となる。東京帝国大学と第一高等学校に辞表を提出する。月末から4月にかけて京都・大阪を旅行する。5 月3日 「入社の辞」(「東京朝日新聞」)5 月4日 「文芸の哲学的基礎」第1回〜第27回(〜6/4まで)5 月7日 『文学論』大倉書店6 月 長男純一誕生。「虞美人草」(〜 10月)総理大臣西園寺公望から文士招待会雨声会に招かれるが断る。「時鳥厠半ばに出かねたり」の一句は,有名。 9 月 早稲田南町7へ転居。胃病に苦しむ。 |
2. 足尾銅山暴動 4. 南満州鉄道株式会社開業 |
1908 年 |
明治 41年 |
41 歳 |
1 月 「坑夫」(〜4月)4 月 「創作家の態度」(「ホトトギス」)6 月 「文鳥」(「大阪朝日新聞」、後10月「ホトトギス」に一括転載)7 月 「夢十夜」(〜8/5)9 月 「三四郎」(〜12月)12 月 次男伸六誕生 |
1. わが国初の経済恐慌起こる。3.22 出歯亀事件10.13 戊申詔書発布 |
1909 年 |
明治 42年 |
42 歳 |
1 月 「永日小品」(〜3月)3月『文学評論』春陽堂 6月 「それから」(〜10月)9 月10月 中村是公の招待で満州(当時)と朝鮮(当時)を旅行する。10 月 「満韓ところ\/」(〜12月)11月25日 「朝日文芸欄」を創設する。 |
3.日糖事件 10.23 伊藤博文ハルピンで暗殺(69) |
1910 年 |
明治 43年 |
43 歳 |
3月 「門」(〜6月) 五女雛子誕生 6 月 胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院。8 月 転地療養に修善寺温泉菊屋旅館に滞在する。24日大量吐血し危篤状態に陥るが、次第に回復する。10 月 帰京し、長与胃腸病院に入院する。「思い出す事など」(〜明治44年2月) |
4.「白樺」創刊 5. 〜6. 大逆事件発生8.22 日韓合併条約調印朝鮮と改称 |
1911 年 |
明治 44年 |
44 歳 |
2月21日 文学博士号辞退。退院。帰宅してきて家の照明が電燈に切り替わっているのに驚く。それまで漱石は贅沢を理由に電燈を引こうとしなかった。 6 月 長野へ夫人同行で講演旅行。8 月 関西へ講演旅行。胃潰瘍再発し、大阪で入院する。9 月 帰京、痔疾を手術する。11 月1日 池辺三山、朝日文芸欄の廃止によって辞表を提出するが慰留される。11 月29日 雛子突然死(死因が不明であり、その時の後悔が後年漱石の遺体解剖に繋がる)。 |
1.大逆事件判決 1.24 幸徳秋水ら処刑 6.1 青鞜社結成 |
1912 年 |
明治 45年/大正1年 |
45 歳 |
1 月1日 「彼岸過迄」(〜4月29日)2 月 池辺三山没3 月 「三山居士」(「東京・大阪朝日新聞」)12月 「行人」(〜大正2年4月) |
2.12 宣統帝退位、清朝滅亡 4.13 啄木石川一没 (27)4.21 タイタニック号沈没 6.26 富山県で米騒動。全国に拡大。 7.30 天皇崩御(61)9.13 明治天皇大喪。乃木希典大将と夫人静子殉死 |
1913 年 |
大正 2年 |
46 歳 |
1 月以降数ヶ月間強度の神経衰弱となる。3 月末 胃潰瘍のため病臥。9 月 「行人」の続編「塵労」を発表(11月完結)。この年に北海道から移籍して、東京府平民に戻る。 |
8.東北帝大に初の女子帝大生 3名合格。11.22 徳川慶喜没(77) |
1914 年 |
大正 3年 |
47 歳 |
4 月20日 「心 先生の遺書」(〜8月31日、のち「こゝろ」と改題)9 月 4度目の胃潰瘍で1ヶ月病臥。11 月 講演「私の個人主義」(学習院輔仁会)
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1.12 桜島大噴火、大隅半島と地続きとなる。7.28 第1次世界大戦勃発12. 対華21ヶ条の要求 |
1915 年 |
大正 4年 |
48 歳 |
1月13日 「硝子戸の中」(〜2月23日) 連載 3 月末 京都旅行。5度目の胃潰瘍で病臥。異母姉高田ふさ没。4 月 帰京。6 月 「道草」(〜9月)11 月 芥川龍之介・久米正雄が木曜会に参加する。中村是公と湯河原温泉に行く。 |
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1916 年 |
大正 5年 |
49 歳 |
1月1日 「点頭録」(〜1月21日まで) リューマチ治療のため湯河原温泉へ行く。 4 月 糖尿病の診断下る。真鍋嘉一郎の治療を受ける。5 月26日 「明暗」(〜12月14日未完のまま連載終了)11 月22日 胃潰瘍再発し臥床する。容態は次第に悪化した。12 月9日 午後7時前、胃潰瘍により死去。夜、森田草平の発案で新海竹太郎がデスマスクを取る。夫人から解剖の発議があり、決定される。12 月10日 遺体の解剖が東京帝国大学医科大学で行われる。執刀は長与又郎。脳の重量は1425g。平均よりやや重いとされる。脳と胃を医科大学に寄付。12 月12日午前 8時出棺。午前 10時青山斎場で葬儀。導師は釈宗演がつとめた。戒名「文献院古道漱石居士」。落合火葬場にて荼毘に付す。12 月13日 骨拾い。12 月14日 「明暗」の連載が終了する。12 月28日 雑司ヶ谷墓地で埋骨式。漱石の墓の位置は1種14号1側3番である。舗装路の交差点近くにあるが、背面を向けているため、特徴のある墓石であるにもかかわらず案外見つけにくい。 |
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1917 年 |
大正 6年 |
1 月 『明暗』岩波書店11 月 『漱石俳句集』岩波書店 |
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1919 年 |
大正 8年 |
6 月 『漱石詩集 印譜附』岩波書店 |
◇ 参考文献 ◇
夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思ひ出』昭和
3年11月23日 改造社小宮豊隆『夏目漱石』第
1巻〜第3巻 1993年11月16日第4刷 岩波文庫小田切進「略年譜」『新潮日本文学アルバム
2夏目漱石』1987年6月5日8刷 新潮社朝倉治彦・稲村徹元編『明治世相編年辞典』平成
7年6月30日 東京堂出版特装版『漱石全集』第
18巻 補遺 昭和61年3月20日 岩波書店市古貞次等編『日本文化総合年表』
1990年3月8日 岩波書店岡 三郎「新資料・漱石の『英国留学始末書』その他をめぐって」『青山学院大学文学部紀要』第
25号 昭和58年