星の伝承研究室へようこそ

はじめに

 星の和名・伝承の調査記録及び話者の声を録音したテープ等を整理して保存することを目的に、1990年自宅の3階に星の伝承研究室を設置しました。反響は予想以上に大きく、スカイウオッチャー(1991年4月)等に掲載させていただくチャンスに恵まれました。しかし、同時に星の伝承研究室が公開されていないことが大きな制約となっていました。そこで、「星の伝承資料館構想」を天文教育普及研究会回報No.15に発表させていただいたのですが、その後、阪神大震災等もあり、当初の完成予定5年後?10年後?はさらに遅れそうな状況です。したがって、それまでは本コーナーにて「星の伝承研究室」からの情報発信をさせていただきたく思います。

愛媛県のすばる星の歌と楽譜を載せました。

  1. カノープス

      
  2. 北極星

     船を進める方向を正確に判断するために、欠かすことのできないのが北極星についての知識でした。
    1. 三重県阿児町Aさんにとっての北極星
       三重県阿児町のAさんを訪ねたのは、1984年11月でした。  北極星を見ることの重要性について、三重県阿児町安乗のAさん(明治35年生まれ)は、次のように語ってくださいました。
      「大事な星さんはキタノヒトツ。海上で生活する者には、いちばん大事な星さんやな。漁師で船頭しとる者とか主に責任ある人は、その星がひとつ見えとるだけでほかの星がかくれとってもな、あれはキタノヒトツやと勘で見るんやな」
       キタノヒトツは北極星のことです。北の空にまわりに明るい星もなくひとつ光っていることから「キタノヒトツ」と名付けたのですが、この星によりきっちりと判断して船を進めることが集団の命を預かる船頭さんの責任だったのです。
    2. 愛媛県魚島村魚島Kさんにとっての北極星
       愛媛県魚島村魚島のKさんを訪ねたのは、1984年2月でした。  愛媛県魚島村魚島のKさん(明治32年生まれ)は、13歳のときから、朝鮮まで玄界灘をこえて櫓を漕いでいったのです。魚島を出るのは旧の3月、島に帰れるのは12月に入ってからでした。Kさんは、北極星のことをキタノネノホシと呼んでいました。そして、その重要性について、次のように語ってくださいました。
      「沖を走るおりには、キタノネノホシを目標にして走りよった。ミツボシ、スマルボシよりキタノネノホシは、もう日和やったら目を離さない」
       ミツボシやスマルボシで時間を知ったのですが、何と言っても方角を知るために重要なキタノネノホシからは、目を離せばえらい目にあったのです。
    3. 人々の暮らしを豊かにした北極星
       北極星を目標にすることによって、人々は、船を進める方向を判断することができるようになり、目的地まで安全に航海することを可能になりました。また、行動範囲を広げることができるようになり、とれる魚の種類も増え、生活の安定に寄与しました。さらには、行動範囲が大きくなった結果、広範囲の地域の人々と魚の売買等を通して交流することが可能になりました。  昼間でも危険な海にましてや夜間です。とても一人の力と知恵では立ち向かえるものではありません。みんなで、北極星を観察し、学び、夜間の安全な航海が可能になったのです。
    4. 北極星の動き及びそれに関係する船乗りについての物語
      • 兵庫県相生市Tさんの語ってくださった物語
         1987年1月、1990年11月と、2回、兵庫県相生市のTさん(明治42年生まれ)を訪ねました。Tさんは、次のように天竺徳兵衛の嫁はんが、北極星の動きを発見したと伝えていました。
        「それも、うそかほんまか知らんで。昔、天竺徳兵衛いう高田屋嘉兵衛みたいなえらい船乗りがおったんじゃ。船乗りは、たいがい夜走りした。そうしたところが、またその嫁はんがえらかったんじゃ。婿はんが夜さり夜走りしよるから、自分も夜さり機織る。それでおやじさんと問答する。動かん星がネノホシさんだいうし、そしたら嫁はんの方がえらかったんや。ネノホシさんを障子の桟とあわしたんや。そして、三寸動くいうことを……」
      • 兵庫県北淡町富島KIさんの語ってくださった物語
         1984年4月、兵庫県北淡町富島のKIさん(明治30年生まれ)を訪ねました。KIさんは、次のようにトクゾウの嫁はんが、北極星の動きを発見したと伝えていました。
        「ネノホシは、ひと晩に屋根の瓦1枚だけ動くんだ。瓦1枚だけ。まあ動かんにしとんのや。トクゾウの嫁はんが、トクゾウが船乗りよんのにな。暗いときは、方角がわからないと思った。嫁はんは、機織り織り、じっとネノホシをねらっとった。そしたら瓦1枚分動いた」
      • 大阪府泉佐野市Tさんの語ってくださった物語
         1985年2月,大阪府泉佐野市のTさん(明治43年生まれ)を訪ねました。Tさんは、次のように北極星が動くことを船乗りとおくさんが両方とも発見したと伝えていました。そして、北極星のことをトクゾウボシと呼んでいました。
        「北極星いうのは、三寸あがって三寸さがったら夜明けるいうて……。あれ、トクゾウボシいうて、昔はクワナイトクゾウいう人があの星を見つけたいうんだ。ええ、トクゾウボシいうんだ。それがキタノヒトツボシなってやなあ。今の学問から言ったら北極星や。大阪の築港に松の木を植えて、北極星見て、北極星見ても位置わからない。かめあわして……、一晩に三寸動いた」
        「トクゾウのおくさんが針仕事してて、障子の破れたのを見て、障子の桟だけしか動けへんのやった。その星さん、それから三寸いうんかな」
    5. 北極星が動く!
       みなさんは北極星が動くことを知っていますか? 学校ではどのように習いましたか?
       実は、北極星…こぐま座α星は、現在、天の北極から1度弱離れているのです。従って、北極星は静止しているのではなく、半径1度弱の円を描いて動いているのです。  しかし、肉眼でこの小さな動きを発見することは困難です。
       ところが、こぐま座α星は、次のように時代とともに、天の北極との距離を変えていくのです。
    天の北極との距離天の北極との距離
    1900年1゜.21000年6゜.2
    1600年2゜.9700年7゜.9
    1300年4゜.5
     即ち、時代をさかのぼるとともに、北極星の天の北極からの距離が遠くなり、それに伴い動きも発見しやすくなるのです。例えば、伝承に登場する天竺徳兵衛の時代に近い1600年頃には、現在の約3倍、月が約6個並ぶくらい天の北極から離れるのです。また、伝説が伝えられていくなかで、後の時代の人物が新たに登場人物に加わっただけで、動きの発見は前の時代と考えると、さらに離れ、北極星の動きを観察し発見しやすくなるのです。従って、実際に北極星の動きを観察し、それをもとに北極星の動きの物語を創造して伝えたと考えることができるのです。
  3. 日食

    東京都奥多摩の郷土資料館の前で日食供養塔に出会いました。奥多摩には、「日食は村に疫病のはやるのをお天道さまが代わりに病んでくださったものだ」という伝承が伝えられています。村人の代わりに病気になった太陽を供養してつくられたのが日食供養塔なのです。 日食供養塔には、寛政11(1799)年とありますが、その年には東京付近から見られる日食は起こっていません。その前に起こった次の日食を供養した可能性があります。
    年月日食分(江戸)
    1786年1月30日 10
    1789年11月17日
    1795年1月21日
    1796年7月5日
    1798年11月8日
    (内田正男氏編「日本暦日原典」に掲載されている「日食表」より)

    日食供養塔は、もともとは東京都奥多摩字大原の恵日山門覚寺の前にあり、ダム建設のために水没するところでした。
    しかし、幸いにも、出野バス停付近に移動させ、さらに保存のために、奥多摩郷土資料館の前に移転させられました。
    天体に関する民俗文化財をたいせつにする地域の人々に感動させられました。


星の伝承研究室のページに掲載させていただきました調査記録については、社会教育、学校教育などにぜひご活用ください。どのような形で引用していただいてもOKです。星の伝承をひとりでも多くの人に伝えることができれば、という願いからです。「資料提供、星の伝承研究室」とご記入いただき、事後でもよろしいので、ご連絡いただければ幸いです。今後の参考にさせていただきます。

東亜天文学会民俗課ホームページへ

葛飾区郷土と天文の博物館のホームページへ

星の民俗館の三上晃朗さんのホームページへ

茨城県日立市の川崎寿則さんのホームページへ

小惑星Kitaoの発見者円舘金さんのホームページへ

大阪市立科学館の「なにわの科学史」のページへ

ドリーム21のページへ


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