はじめに−星が創る時間
星の伝承研究室
北尾浩一
はじめに
これは試論である。思いつくまま書いたものである。天文民俗学を体系的な学問として構築するには、私自身あまりにも力不足であるにもかかわらず書きはじめた。人びとが星と暮らした20世紀が終わろうとしている今、何とかして21世紀へ星と暮らした人びとの言葉を伝えたいという思いから書きはじめた。
内容について会員のみなさまのお叱りとご批判を受けながら、21世紀に入った年、2001年12月に連載を完成し、1冊の小さな本としてまとめるのが目標である。私自身は力不足であるが、星と暮らした人びとの言葉の力はものすごい。そこには、自然認識の力、生きる力、的確な判断力…と、私たちが失ってしまったすばらしいものがいっぱいある。だからこそ、星の伝承を、今では役に立たないもの、非科学的なものとして捉えるのではなく、あるいは、ふるさと的なもの、ロマンを感じさせてくれるものとして捉える段階にとどまるのではなく、21世紀、人間の生き方を考えるときに大きな示唆となるものとして捉えていきたい。
本連載で掲載した星と暮らした人びとの言葉を、学校教育、社会教育のなかで、どしどし活用していただければこの上ない喜びである。そして、その言葉によって、21世紀にひとりでも多くの人が勇気づけられ、豊かになることができれば、そのことを、40年後くらいにはオリオン霊園で、野尻抱影先生、福島久雄先生、星の伝承を語ってくださったひとりひとりとささやかに祝いたい。
1.星が創る時間
もともと、人間の暮らしは、自然への依存度が高かった。人間は大自然を学びながら成長していった。そのなかに、星ぼしの輝き、動きがあった。
茨城県北茨城市大津町のAさん(注1)は、サンボシ(オリオン座三つ星)とムヅラ(プレアデス星団)になぜ注目して名前をつけて時間を知るようになったかについて、以下のように語った。
「ただ、少し格好がちがってるだけで。みな星はひとつずつこうなってるのが3つそろってね、また、そばにも小さな光で3つそろっている。こういう星はねえわけなんだね。ムヅラいうのも、ひとところにごじゃごじゃと、こう6つばかりかたまってる。それもねえわけなんだね。そういうねえものを名前つけて時刻をはかったりしたんだね」
昔は、今とちがって時間は、もっとゆっくりと豊かに流れていたにちがいない。学校に行ったら時計台があって、1時間目、2時間目と授業を受け、時計の時間のなかで大人になっていった私たちの感じることのできない時間が流れていたにちがいない。3つそろってる星、6つばかりかたまってる星ぼしの創る「時計で失われてしまった豊かな時間」があったにちがいない。
広島県竹原市二窓のBさん(注2)は、時計が普及しはじめてからも船に積まない昔人間について以下のように語った。
「ミツボシがあがったけん、何時頃なるのいうての、おやじら言いよった。うちのおやじが、おい時計がなきゃ便利が悪かろうよと聞くと、いや、時計はカチカチカチカチいうのが耳について夜でも眠れないから、船に積まんのじゃという昔人間がおったがのお、そういう人間は、星をたよりにして…」
二窓には家船がたくさんあった。船が住居になっていて船で生まれて育った人びとは、時計がなくても、星の創る時間のなかで、「学ぶ」「働く」「遊ぶ」という営みを世代を超えて継承していった。「学ぶ」「働く」「遊ぶ」というのは、今のように別々のものではなく、もっと近いものだった。遊ぶことが学ぶことで、学ぶことが働くことであった。人間が、いつかは止まるカチカチとうるさい時計を必要としたのは、たかだか20世紀に入ってからであった。
時間を知るのは、単に受動的なものではなかった。そこには、主体的な学びがあった。それを自信もって「研究」という言葉で語ったのは広島県福山市鞆町のCさん(注3)である。
「私らの商売は、夜の方が多いかったですよ。時計ないですよ。ないこともないけど、持っている人は少なかったですよ。晩に出たら、夜が明けるまで商売して戻ったりするけんのお、星さん見て、今何時頃じゃいうのを研究するわけですよ」
研究というのは、一部の学者のものではない。星と出会った人びとは、それぞれ自然の変化を観察し研究し、それぞれの生業のなかで的確な行動を起こす時間を知ることができるようになったのであった。
(注1)筆者による調査。調査年月:1985年5月、話者生年:明治29年。
(注2)筆者による調査。調査年月:1988年12月、話者生年:明治40年。
(注3)筆者による調査。調査年月:1988年11月、話者生年:明治33年。
(東亜天文学会発行『天界』1998年4月号に掲載されました「天文民俗学試論(1)」のホームページ版です)
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