6.星と人びととのかかわりの多様性−七夕
星の伝承研究室
北尾浩一
(3)七夕
兵庫県高砂市戎町のAさん(注1)は、七夕の星の思い出を語った。
「ヨアサになってタナバタさんがいっしょに入るとき七夕。夜明ける時分にいっしょに入ってタナバタさんはひとつになる」
タナバタさんは、織女と牽牛のこと。七夕の夜明け頃に、織女と牽牛がいっしょに低くなっていくのを見て織女と牽牛がひとつになって会うという思いが育まれた。(注2) 織女と牽牛は、出るときは約3時間も間隔があいているのに、沈むときはずっと間隔がちぢまるのである。
愛媛県伊予郡双海町上灘のBさん(注3)も、織女と牽牛を2つあわせてタナバタボシと伝えていた。織女の方は、子どもを連れているという。おそらく、こと座のε、ζを観察して織女の子どもと想像したのだろう。
「昔の人は、七夕さんに古いものを洗う。漬け物桶だとかいろいろなものを七夕さんの頃に洗う。七夕はん越したらあかん言うて、洗ってきれいにしよった」
そう語るBさん。暮らしの様々な場面で、七夕に関する伝承が生まれたのである。
群馬県利根郡水上町藤原・山口のCさん(注4)は、「天の真ん中に、こう白くいくぶんかあれだよね。でるんだよね、天の川。白く、こういうふうに雲の流れほどでるけど、その両側にお星さまがあって、それが会うなんてね言ったけどもね。そんなこと見たこともないから」と語った。会うのは見たこともないが、織女と牽牛を会わしたいという気持ちでいっぱいだった。Cさんの話は続く。
「午前中降らなければ会うことができて、それから午前中降らしたくねえなんてね」
7日の午前中雨が降らないように祈った。水がでて雨が降らないように胡瓜畑には入らなかった。
栃木県塩谷郡栗山村川俣のDさん(注5)は、七夕の昔話を伝えていた。
「天竺からきれいな衣を着た女の人が3人ばかり来て水浴びしてた。しかし、魚釣りに来てた男が、いちばんきれいな人の着物を隠してしまったので、天竺に帰ることができなくなった。結局、その女の人−七夕さまは魚釣りの妻になった…」(注6)
群馬県佐波郡赤堀町 (七夕の竹を 川に流さずに畑に立てた)
昔話では、「月に一度」を「年に一度」と聞き間違えたので、年に一度しか会えなくなってしまったと伝えられていた。それにしても年に一度とは長い。だから、兵庫県明石市東二見のEさん(注7)は、遠いところに行って会えない人のことを「七夕さんやのおう」とたとえた。
さて、七夕の竹の処理方法であるが、Bさん(愛媛県伊予郡双海町上灘)は、七夕の夕方に海に流した。兵庫県加古郡播磨町古宮のFさん(注8)は、浜に穴を掘ってたてた竹を提灯で赤くともした。子どもたちが浴衣を着て集まり、夜10時頃に海に流したのである。
愛媛県越智郡魚島村魚島のGさん(注9)は、「泳いで沖にあます」と語った。「あます」とは「供える」という意味で、若い者が沖まで泳いで流しに行ったのである。沖まで泳いで行って鱶(ふか)におそわれることはないのだろうか。同じく魚島のHさん(注10)は、「その日にはね、伝説じゃけど、昔の言い伝えじゃけど、鱶はタナバタさんがちゃんと縛って来ささん言うてね。で、私ら、ずーと沖の方まで泳いで行きよった」と語った。
ひとりひとりの七夕があった。そして、ひとりひとりの願い、祈りがあった。
星との暮らしのなかでのこのような主体的な営みが、今、失われようとしている。
(注1)筆者による調査。調査年月:1984年6月。話者生年:明治30年。
(注2)福井県小浜市では、夜明け頃に織女と牽牛が沈む時季に天候が悪くなると伝えられていた。(天文民俗学試論(10)参照) 沈むのは、七夕より少しあとで、七夕のときはいっしょに低くなっていく様子を見ることになる。しかし、歳差の影響で、時代をさかのぼると七夕の頃に沈むことになる。
(注3)筆者による調査。調査年月:1984年3月。話者生年:大正元年。
(注4)筆者による調査。調査年月:1981年3月。話者生年:明治35年。
(注5)筆者による調査。調査年月:1983年5月。話者生年:明治32年。
(注6)昔話の全文は下記の文献を参照。
(北尾浩一「栃木県下に於ける星の民俗調査報告」『天界
700』東亜天文学会、1983、pp.240-241。)
(注7)筆者による調査。調査年月:1984年3月。話者生年:明治33年。
(注8)筆者による調査。調査年月:1984年3月。話者生年:明治43年。
(注9)筆者による調査。調査年月:1984年2月。話者生年:明治32年。
(注10)筆者による調査。調査年月:1984年2月。話者生年:明治39年。
(東亜天文学会発行『天界』1999年3月号に掲載されました「天文民俗学試論(12)」のホームページ版です)
|