天文民俗学試論(18)


10,1999年の星の伝承−(1)広島県尾道市@
 
                                               星の伝承研究室 北尾浩一

 1980年頃に、あと10年ぐらいで星の伝承は失われてしまうと考えたことがある。しかし、それは誤りだった。伝承の力は、予想以上に大きかった。1999年、星の伝承に、まだまだ出会うことができるのである。21世紀を目の前にして星と暮らした人びとが語る言葉を、ここに記録したい。

(1)広島県尾道市正徳町吉和

「あの頃は、みなここらもうきれいな砂浜じゃったんだな」

 Aさん(注1)から、港のできる前の話を聞く。いきなり星のことを尋ねるのではなく、順に、「私らが二十歳代、全部沖の延縄じゃったな。ハモとかアナゴとか…」と、当時の夜の仕事の話題にもっていく。すると、星と暮らした日々について記憶をたどりはじめた。

「オオボシさんが出たとかいうて、ヒトツボシな。それで時間をあわしよった」

「ミツボシがあって、この上へこういうふうに来たら何時じゃいうて言いよったな」

「どう言うたらいいかな。ここじゃったらね、こういう具合になってね、こうなって、カジボシじゃいうて言いよった星がずっとあるんだな。それを見て昔の人は。うちらもうおやじにそういうことおそわっとるけんな」

 オオボシは明けの明星、ミツボシは、オリオン座三つ星のことである。カジボシについて聞く。

「あれが、ここの人で、昔の人は船のカジ(舵)とるでしょ。あれじゃ言いよったんじゃ。あれにたとえて、舵みたいにこういうふうになっとるけんな。カシラ(頭)が細うてあとの方が広うて、テンテンテンとこうあるけん、カジボシ(舵星)じゃいうて言いよったんじゃ。ここの人は」

 北斗七星を船の舵に見たのである。北極星の方は、次のようにネボシ(注2)と呼んでいた。

「1個、そっちあがるな。それは昔の人はネボシやいうてた。コンパスたてたら、北がこっち、子(ね)がな。それをたとえてネボシや。大きい星で、それは。ネボシや言いよった」

「ネボシいうのは、星が太いだな。あまり動かんで。コンパスたてたらな、やっぱり子の方にあるのですわ、その星は」

 かつて人びとの行動力を支えてきたのは、このネボシだった。

「その頃はね、ここの人はね。上(カミ)の岡山の方へ行ったり、豊後の方行ったりな、四国の方へ行ったり、北の北前の方へ行ったりしよったんです。櫓でな。北の方へ行っとる人は半年ぐらい帰らん。向こうで漁したらそこで魚販売しよった」

 ところが、子どもも長期間船に乗ることになり、学校へ行けなかった…。

「釣りの人は、おくとこもなし、おじいさん、おばあさんがおらん人は子どものときから船に乗りよって行った。だから、結構、ここの人が学問知らん。あれが何年前かな。シナ事変の頃、ここに託児所いうものが小学校にこしらえてあづかって、その時代の子どもは、学校行っとる。それがないまでの子どもは、ここの人は誰も行っていない」

 正月には、沖に出ていた船が戻ってくる。

「その頃は、家がないから、船でお正月しよった。船つないでな、川へ。こっちの川へな、船つないでな。正徳橋いうでしょ、あの辺につないでな。船をかこうてな、テントで。テントいうても、その頃、テントなかった。茅で編んでな。それをかこうて正月しよった」

 当時は、船住まいといって、船に住んでいる人が多かったのである。

 お餅をついたのか尋ねると−。

「お餅は、みんなつくけどな、自分で。家のあるとこの親戚か、そこでいっしょに餅つきよった。そのころはね、たいてい、どうじゃこうじゃ食べられんじゃどうじゃ言いよっても、家1軒に2斗の餅はつきよった。その頃はね。船の神さまに供えたりしよった」

 正月が終わると再び沖に行く。学校に託児所ができるまでは、何を学ぶのも学校ではなく、船だった。そして、一人前の仕事ができるようになるのは、早かった。6年生、即ち12歳ぐらいになったら、食べるだけの魚が釣れるようになったのである。

(注1)筆者による調査。調査年月:1999年4月。話者生年:大正13年。

(注2)北極星を十二支での真北の方角−子にある星と考える系統に属する呼び名には、ネボシ、ネノホシがある。ネボシという呼び名は、愛媛県南宇和郡西海町内泊、城辺町深浦等に伝えれられている。

(東亜天文学会発行『天界』1999年9月号に掲載されました「天文民俗学試論(18)」のホームページ版です)


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