天文民俗学試論(21)


10,1999年の星の伝承−(2)広島県生口島(豊田郡瀬戸田町福田)A
 
                                               星の伝承研究室 北尾浩一

 Aさんにとって、20歳頃まで、星空は、海で働くときの心強い明かりであるとともに、時間や方角の目標であった。さらには、星ぼしをバックに流れる雲を観察して風の予測をした。

「雲が流れでるわね。雲が出てからその星がここにある。そこへもって、ここに星があるのに、雲がこの上を下を通るわね。この星との流れが速いとか遅いとかで風が吹くぞというような。今日は東風が吹いとるんじゃがいうたら星風やのうと…」

 板子一枚下は地獄というように、船乗りの仕事は危険であり、天候の変化を感じとる勘を身につけることが不可欠だったのである。

 また、磯があったりするのを知らない船に合図をした。

「それでね、ここに磯があるとして、こう迂回しな通られんところを知らん者がここを突破しよるとガチャンとやるわけ。そういう時分には、あかんぞ、あかんぞ言うて、夜やったら明かりをしてからこう合図してやるわけ。おまえらちょっと待て!こっちまわれーとか何とか言う。夜の波やからわりあいようとおるんです。非常の場合なんかバケツとかなんか叩いてやるわけです」

 危険だからこそ、海で働く者どうしの助けあいというものをたいせつにした。

 どこの港に行ってもよそから来た人は大事にしてくれた。飲み水をもらったり、港へとめてもらったりした。

「あんたらどこから来たんじゃよ。わしゃ瀬戸田だよ。瀬戸田だいうてどこらあるんじゃろいうぐらいから話がはずむ。人間は話をするほど和合していくのです。おまえらそこに船を置くのはいいけど、ここにいつもおる船が戻ってくるぞ。ちーとこっちつないどけよな−と」

 地域をこえて、人と人が話をすること、これは海で生きるために欠かすことのできないことだった。また、このようなつながりがあったからこそ、星の伝承も地域をこえて伝えられていったのである。

 Aさんは、20歳くらいまでの間に、様々な地域の人びととつながりができていた。

「船のことだから、魚がありゃ魚もたまにさげていく。そうすると、オカの人がダイコンをこれ食べやいうて、こういうあいさつ」

 Aさんは、「こういうあいさつ」と言った。魚と野菜の交換を「あいさつ」と表現した。食べるものをお金で買うしかない私たちの失ってしまったたいせつなものが、この「あいさつ」という言葉にはあった。

 Aさんは、「ひとつこれだけは覚えておいてください」と前置きして語りはじめた。

「船乗りいうのはね、昔やったら海落ちて死ぬでしょ。そしたら1週間ぐらいのうちには浮いてくるわけ。船に乗すのはいやじゃけど、これだけはほっとくわけにはいかなかった。仏を、船で持って帰ったり、綱かけて連れて帰ったりした。見放しは絶対にせん」

 裏のお寺にはそのようにして連れて帰った無縁仏がたくさんあるという。「自分たちの費用で?」と尋ねると、「そうです、自分たちもいつどうなるやわからん」という答がかえってきた。

人間が死んだら行くところ、それは、天の川だった。

「昔、賽の河原ってこう星がずーといっぱいようけ虹みたいになってたね。ああいうやつは見よった。死んだらあっこに行くんじゃ。賽の河原行くんだ」

                *                                   *

 Aさんは、20歳までの間、親から子へ親から子へと繰り返し伝えられた星の伝承を覚えた。しかし、学校を卒業して、「ここらにおったんじゃつまらんぞー」と神戸へ出た。そして、結果として、星の伝承をさらに若い人に伝える側になることができなかった。

 海で働き様々な地域の人びととのつながりを育んでいくこと、それを、学校がたいせつな価値のあるものとしてもっと高く評価していたら、「ここらにおったんじゃつまらんぞー」と思わなかったかもしれない。

「そやから今の世の中でも話し合いというのがいかに大事なもんかいうことよ」

 そう語るAさん。星との暮らしのなかで育んだたいせつなものは60年以上過ぎた今も価値のあるものだったのだから。

(東亜天文学会発行『天界』1999年12月号に掲載されました「天文民俗学試論(21)」のホームページ版です)


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