天文民俗学試論(6)


星が創るもうひとつの時間(2)沖縄県八重山−群れ星に祈る                   
 
                                               星の伝承研究室 北尾浩一          (2)沖縄県八重山−群れ星に祈る
 
 群れ星(プレアデス星団)を観察し播種の時季を決定し、群れ星の歌を創造する。観察という星と暮らした人びとの「科学(生活知)」と「歌い表現する文化・芸術」が全く別のものではなく、連続したものであった。そして、一部の人が観察者、歌い手になるのではなく、全ての人が観察者、歌い手であった。  

 以下のような群れ星の歌も、八重山で広く歌われている。

@与那国島(注1)

「テンヌ、ブリフシヤ、ユミバ、ユマリシガ、ウヤヌ、ユシグチヤ、ユミヌナラヌ」
(天の群れ星は読もうと思えば読まれるけれど、親が教えた一言一言は読むこと ができいない)

「ユルハラス、フニヤ、ニヌハフシ、ミアティ、ワンナチヤル、ウヤヤ、バヌド、ミアティ」
(夜、航海する船は、北極星が目当てである。私を生んだ親は私を目当てに生きている)

A鳩間島(注2)

「テンヌ、ムリプシヤ、ユミバ、ユマリスヌ、ウヤヌ、ユンクトヤ、ユミスナラヌ」
(天の群れ星は数えれば数えられるが、親の教え事は数えられない)

「ユウルパラス、フニヤ、ニイヌパプシ、ミアテ、バンナセル、ウヤヤ、バンド、ミアテ」
(夜走らす船は北極星を目標にして走らす。私を生んだ親は私を目当て)

 そして、群れ星と生きてきた人びとは、もうひとつ基本的なもの−群れ星に対する感謝、祈りを忘れなかった。

 石垣市川平のAさんは、ムリブシオガン(群れ星の御嶽)(写真参照)に伝わる物語を語ってくださった。(注3)

                                                 
「南風野家の女の子がナベに煮るものは食べないで精進ばかりやっていた。女の子が夜中に必ずしっこしに行ったら、ちょうど向かいの山の中にムリブシ(群れ星)と通ずる火があったので、火をよく見ると、提灯が火をとぼしておりたりのぼったりこうして…。何かこりゃ妙な不思議なもんだ、自分ひとり心配してはいけないと思い、おうちの人に話したら…」

 女の子が家族に話したところ、今度見えたとき家族を起こして確かめることになった。Aさんの話は続く。

ムリブシオガンの石を積んだ門

「女の子は、見えたときには家族に知らせようと注意したところが、ちょうどまた例のとおりしっこしに行くと、提灯が上と下にいったり来たり上下していたので、家族の人を起こしてきた。これは確かに何か神からの知らせかもわからない、だから、よく場所を注意して記憶しておけよ、と言って、翌日、山の中に提灯がおりたところを見ると、お米の粉で机をしるしてられていた。これは確かにここに神さまがおりてこられたからお宮にせんといかん、というので、そこではじめて神さまのオガンをたててもらった」

 Aさんによると、ムリブシオガンは川平で最初に建てられた御嶽で、司(つかさ)は、必ず南風野家の女の子から出している。

(注1)アンケート方式による調査
 (北尾浩一「アンケート調査による南西諸島の星の民俗」『天界 706』東亜天文学会、1984、pp.68-69。)

(注2)アンケート方式による調査
 (北尾浩一「[続]アンケート調査による南西諸島の星の民俗」『天界 711』 東亜天文学会、1984、p.218。)

(注3)筆者による調査。調査年月:1979年3月。

(東亜天文学会発行『天界』1998年9月号に掲載されました「天文民俗学試論(6)」のホームページ版です)


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