江川の一番長い日
                                  野球評論家・堀内一三
 数日前から噂としては伝わっていた。普段朝刊で前日の野球の結果を再確認してスポーツ誌は見ない僕にも何処からか耳には入っていた。ただ文藝春秋社刊ナンバー等でその発言を見る限り、「現役生活10年間、ドームでの登板」を目標に掲げていただけにまさか本当にそのまま引退して仕舞うとは夢にも思わなかった。
 確かに9月22日、小早川にサヨナラ・ホームランを打たれた後、三塁側グラウンドを歩きながら号泣していた事は知っていた。けれどもTVのチャンネルを一寸ベストテンに切り替えた時知らぬ間に浴びた一発に、憤りこそ感じながらそれが江川が我々に呉れたたったひとつのサインだったとはその日まで少しも気付かなかった。

 僕は一度だけ江川のピッチングを見た事がある。好運にもそのたった一度が昭和59年オールスター第3戦、ナゴヤ球場での8連続奪三振だった。最後の大石が3球目のカーブをセカンドに転がした時は発狂しそうになったものだ。既にこの頃の江川は可成り衰えを見せ始めていてシーズン中は奮わず、現に球宴後の初登板でも5回1/3 で4点を奪われノックアウトされている。肩を痛め 100球肩と言われていたが本領を発揮出来るのは僅か3イニングに限られているオールスター位だったのだろうか。この日の江川は紛れも無く江川だった。

 肩を痛めたのは57年の球宴休みのCM撮影中とされており、記録もこれを証明している。56年には20勝をあげ史上六人目の投手五冠王(最多勝利、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、最多無点勝)を達成、翌57年前期には真に鬼神の如き活躍だった。この57年をトータルで見ると19勝12敗、防御率2位と確かに前年より劣ってはいるが、登板31試合全部が責任投手、19勝利は全て完投勝利という点は前年を遥かに超えた、常軌を逸した内容である。
 ただ終盤9月28日の中日戦には、9回裏に4点を奪われ10回代わった角が石井に押し出し四球を与え逆転負け、近藤野武士軍団の逆転Vの端緒と成ったのを始め、前半戦では9を数え新記録達成確実と見られた無四球試合(日本記録は54年日ハム・高橋直樹の11)も残り1つを追加しただけと明らかに後半戦での減退を示している。
 58年こそ無死満塁登場のセーブで胴上げ投手と相成ったが、60年には防御率も何と5点台に落ち11勝と転落の一途を辿った。引退記者会見で美談を作り針灸協会から抗議も来たという針治療を始めた61年に若干挽回してはいるが、「先発江川」と聞いた瞬間当然の様に巨人楽勝を連想し、8時にTVをつけたらもうお立ち台の上だったという江川は2度と帰ってはこなかった。
 とは言え62年も13勝をあげ現にシリーズ第3戦でも8回を2失点(但し打線が郭を打てず敗戦投手)に抑える好投をしている。V9エース堀内は敗戦処理で4試合しか投げられなかった翌年に最後の1勝をあげ最終戦で本塁打を放っている。心臓が悪く長いイニングを投げられなくなった江夏は救援投手として蘇り、その江夏をリリーフに転向させた野村は南海監督を首になってもロッテ、西武と渡り歩いた。一方で巨人軍前監督の藤田は最後の登板を完封で飾り突然引退、王は現役最後の年に30ホーマーを放っている。ボロボロになる迄やる、とは思えなかったが少なくとも二桁勝利を稼いでいる間は安心の筈だった。

 その年11月12日、江川卓は引退した。通算 135勝72敗、最多勝利2回、最優秀防御率1回、ベストナイン2回、そしてMVP1回。夜のスポーツ・ニュースは当然の様にどのチャンネルも「江川の足跡」で持ち切りだった。
 僕にとって江川ほどその動向に一喜一憂させられた選手は居なかった。江川が投げる時は何時も勝たなければ気が済まなかった。打たれると心底腹が立ち本塁打を浴びせた山本浩司は殺してやろうかと思った。2点負けていたゲームで同点適時打を打った平田と逆転3ランのスミスは神様に見えた。元々巨人ファンで今でも巨人を応援しているが、江川に対して抱いた狂気の沙汰の如き強い想いは西本や定岡が投げている時は少しも感じなかった。
 その江川が引退する。

 涙が止まらなかった。どうしてプロ野球チームのひとりのピッチャーが引退して僕が泣かなければならないのか解らなかったけれど、大学に落ちた時も千葉の疑似松田聖子にふられた時も涙のかけらすら無かったのにこの時は涙が止まらなかった。

 読売の系列局である日テレで急遽組まれた特別番組では、入団の際の名台詞「興奮しないで下さい」の代役として、フィルムに残っていた「ムキになられても困るんですけど」が映る。新人選手のトレードに付いては前セ・リーグ会長鈴木竜二も週間ベースボール連載「プロ野球裏面史」(後に「プロ野球再発掘」として刊行)の中で、「契約さえしていれば、トレードはできるのですよ。しかし契約しないで、トレードはできないです。」、「ドラフトの優先権というものを行使させなければいけないので、それから、のち法的に自分の所有権になってから、これをどうするということは自由です。」と明言しており、小林とのトレードには大前提として問題はない筈だ。が45年末の荒川尭の大洋→ヤクルト三角トレードが前例として叩かれ、協約により禁止されて仕舞ったのが痛かった。道義的に間違っているのではない。勿論「空白の一日」は弁明の仕様もないが。
 様々な記憶が通り過ぎていく。9回2死2ストライクから2球続けてきわどいカーブをボールとされ大杉に打たれた同点二塁打、6月に出た3号ホーマーと打率3割、 150キロの高めストレートで奪三振完封勝、マウンド上ですっ転んでとんでもない所に飛んでいったボール、そして自らピッチャーフライを取って決めた日本一。幾つもの江川が、私の涙と共にブラウン管上を踊っていた。

 11月20日、セ・リーグ公示、自由契約、江川卓。背番号30は永遠に消えた。そしてユニフォームを背広に着替えた稀代の偶像は再び我々の前に帰ってきた。野球評論家という凡庸な肩書きと共に。
                        (文中敬称略/初出:Tocafe18-90/6)

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