演歌の花道
音楽評論家・堀内一三
演歌についてよく取り沙汰される命題として、「日本人は年を取れば演歌を聞くようになる」というものがある。これは「日本男性は年を取ればクラブでお姉ちゃんと酒を飲むのが好きになる」という命題とは似て非なるものである。何故クラブでお姉ちゃんと飲むかと言うと、男性は年を取ると日常生活で若年の女性と話す機会が減るからという理由が大きく、恐らくその環境は今後も変わらない。だからと言って21世紀においてもクラブが繁盛を続けるかは分からないが、演歌については前提となる環境がこれまでと大きく異なってきている。詰まりかつては同時代のヒット曲には演歌があふれており、若者も好むと好まざるとに拘わず演歌に触れる環境があり、これが老成後の演歌嗜好を喚起した。然るに現代の若者は端から演歌が擦り込まれる時期もない。これでは幾ら演歌が日本人の「心のメロディー」であろうとも、やがて廃れるに違いない。なお「クラブ」とは若人の集う踊り場、ではなく、銀座方面に多数集結する飲み屋であることを念のため断っておく。
では「演歌の行く末」を見るに当たってまず、「演歌とは何か」を考えたい。演歌とは浪曲、都々逸などに源流を持ち、古くは艶歌、怨歌とも称された日本の民族歌謡である、といった解説は多いが、音楽的特徴から演歌を示せとなると難しい。例えば四七抜き(ヨナヌキ。ドから数えて四音目のファと七音目のシを除いたドレミソラドで構成)や男女間の恋愛、とくに破天荒な男と耐える女、男女の性交錯といった構図を基盤とする歌詞、など大きな特色を挙げることは出来ても勿論それが全てではない。
但しこうしたカテゴライズは演歌に類するとされる「歌謡曲」においてより難しい。歌謡曲には二つの解釈があり、ひとつは従来からの、演歌も含め日本のヒット歌唱全般を指すというもので、私も個人的にはこちらを採りたい。が一方で歌謡曲は、60/70年代からの「旧来のヒット曲」の系統にある今風でない音楽、という曖昧な解釈もあり、昨今はこちらが一般的な様だ。この場合、後者の解釈である狭義の「歌謡曲」は演歌を含むと見なすことも出来るし、言うならばニアリィ・イコール演歌であるとも言える。一方で旧解釈の広義の歌謡曲からこの狭義の歌謡曲( 演歌)を除いたものは今や「Jポップ」と呼ばれることが多い。TBSの「輝く!日本レコード大賞」では 〜 年に、表彰を「ロック・ポップス部門」と「演歌・歌謡曲部門」に分割した。これは上記の分類に則りJポップと歌謡曲( 演歌)に分割した実例だが、予想以上に「演歌」の衰退が激しく独立枠を設けることすら難しくなったか、2年で旧態に復している。以降演歌は大賞候補曲である「金賞」には1乃至2曲がノミネートされるが、番組内の金賞曲の披露で初めて当該曲を耳にするような程度の「ヒット」曲に過ぎず、勿論大賞受賞もない。
さて多少横道に反れたが演歌を示す指標のひとつがヒット曲−Jポップであることが分かった。論証するまでもなくこれは当たり前の結論に過ぎないが、同時に貴重な事実を現している。即ち、「演歌」のカテゴリーは時代とともに変化し、一定ではないということである。
例えば、68年のいしだあゆみのヒット曲「ブルーライト・ヨコハマ」は現在ならば演歌にカウントとされてもおかしくないが、当時は筒美京平作曲の最新のポップスである。また71年最大のヒット、小柳ルミ子の「私の城下町」も現代の若者が聞けば演歌と見なすであろう。詰まり演歌風の旋律を持ちながらポップスの言わば"最右翼"として登場した楽曲が、演歌本体の分量が減り、よりポップス色の強い楽曲が増えたために、演歌に含まれる様になった。これにより逆説的に演歌のカテゴリーが広がるという現象が生まれている。まるで社民連にいた田英男が社会党が右傾化したた結果、最左翼になってしまったように。
これとは別に、演歌歌手が歌う曲が演歌であるという分類もある。例えば71年の「よこはま・たそがれ」はバーのママである山口洋子の詞の斬新さとあわせ、往時ならば演歌と見られ難い楽曲だが五木ひろしが歌っているために演歌の新しい形とされた。「北酒場」(82年)も演歌風ポップスと聞こえなくもなかったが、細川たかしが歌うことで確実に「ポップな演歌」とされた。逆に宇多田ヒカルの「母は演歌歌手の藤圭子」との紹介に戸惑った向きもあろう。確かに藤圭子はいわゆる「演歌」も歌っているが、最大のヒット曲である「圭子の夢は夜ひらく」はブルースである。が藤圭子=演歌歌手というカテゴライズが定着したために今後はこの曲も演歌と扱われることになろう。
以上の現象からふたつのことが言える。演歌は@古くからの演歌層が薄くなったために演歌調のポップスも演歌枠に加えられるという他律的、A演歌歌手が古くからの演歌でない楽曲に挑戦することで演歌のバリエーションを増やすという自律的、双方の要因からその範囲を拡大してきたということだ。
言わばかつての厚く凝縮された演歌に代わって、薄く長い演歌層が横たわっているということであり、古い物が生き永らえるためには必然の歩みと言えよう。それでも1980年代までは
散発的に演歌のビッグ・ヒットが生まれている。年間売上上位曲を見ても81年には「奥飛騨慕情」(竜鉄也)が2位、83年には「さざんかの宿」(大川栄策)、「矢切の渡し」(細川たかし)がワン・ツー・フィニッシュ、87年は「命くれない」(瀬川瑛子)、「雪国」(吉幾三)が1位と3位を占めている。但し重要なのはこれら楽曲は何れも「ド演歌」であることだ。
「ド演歌」とは古式床しい、演歌の王道の如きジャンルを示す。ヒット曲が「ド演歌」に限られるというのは保守本流に安堵し、これまでの「左にウィングを広げる」試みすら頓挫しつつある状況を示している。前述した様に、層が薄くなったがために枠が広がるという他律的作動が最早ポップスの側から演歌よりの楽曲が現れないために作動しなくなったのはまだしも、演歌の側から新規性を取り入れる試みが見られなくなってきたことは看過できない。
これまでも演歌は伝統を重視し固定的なファン層を維持する一方で、多くの野心的な取り組みを続けてきた。例えば「俺ら東京さ行くだ」に代表される吉幾三の初期のヒット曲は笑いの要素を重視した。次代を担う演歌の星として大きな期待とともに登場した坂本冬美は細野晴臣、忌野清志郎との異業種交流を試みる一方で、従来からの演歌の一翼を担ってきた祭りの要素をアレンジすることでこれまでとは異なった分野に挑戦した。また欧陽菲菲、テレサ・テンら台湾出身歌手は演歌と非演歌の中間を意図的に探っていたと思われる。より社会的に大きなインパクトを与えた例として美空ひばりのケースを挙げられる。戦後日本最大の歌手とも言える美空ひばりは笠置シヅ子の後継としてブギウギ歌謡からそのキャリアをスタートさせており、必ずしも演歌ばかりを歌っていたわけではないが、「柔」「悲しい酒」等の代表曲によって演歌歌手と認識されている。ブルー・ジーンズと組んだGS(グループ・サウンズ)歌謡「真っ赤な太陽」も現代の尺度では演歌の最左翼と位置付けることが出来る。しかし最後のヒット曲となった「川の流れのように」は秋本康作詞、見岳章作曲であり、曲相は明らかに演歌ではない。が、美空ひばりが歌うことで同曲はニュー演歌とされた。詰まり、美空ひばりは死の直前まで演歌枠の拡大に貢献したのである。
翻って現状はどうだろうか。確かにTBSのカウントダウンTVにも概ね30位以下には藤あや子や伍代夏子、あるいは北島三郎、五木ひろしといった当代のビッグ・ネームの新曲がランクインされている。がとくに月一度の51〜100位の発表に顕著であるが、そこに登場する演歌は丸でその瞬間だけ時代が30年程回帰して仕舞ったかのような古めかしい楽曲と映像に彩られ、全く眼を引き付ける要素がない。昨今の演歌はあたかも、既存の支持者を重視し過ぎるあまり、端から新ファン層へのPRを欠いているようにも見える。
本年話題を集めた氷川きよしの「箱根八里の半次郎」においても、北野たけしのバックアップにより男性演歌に若手スターを作るという試みこそ新規ではあるが、楽曲的には旧来の演歌、というより伝統芸能の様式に則った「演歌歌手」をパロディとして再構成させているようにしか見えない。
「演歌」は今や能や狂言の如く伝統芸能の世界に昇華して仕舞ったという認識はその通りだろう。が一方で、伝統芸能である歌舞伎が猿之助のスーパー歌舞伎によってそのファン層を広げたように、伝統に回帰するのみならず常に新機軸への挑戦を続けていかなければその「伝統芸」である部分をも生き永らえさせていくことは出来ない。
希代のビッグ・スターも次代を担う若手も、演歌歌手にはこれまで以上に「非演歌的世界」へのアプローチが必要ではないだろうか。これは勿論山本譲治が長髪にするとか、長山洋子が再び「ヴィーナス」を歌うといった、人目を引くためだけの珍奇な試みでもなければ、城之内早苗や中澤裕子のように二級アイドルにアクセントとして演歌を歌わせるといった小手先の戦術でもない。
例えば、森進一は82年に松本隆作詞、大滝詠一作曲の「冬のリビエラ」を歌いスマッシュ・ヒットを飛ばした後も、不定期に非演歌作曲家の楽曲をシングルとして発表しており、前川清にも同様の試みが見られる。また小林旭の「熱き心に」(86年)のケースもある。演歌ではないがフランク永井が山下達郎作の「WOMAN」を歌ったのもアプローチとしては同じであろう(直後にフランクが再起不能となったのは大変惜しまれる)。これらの楽曲は必ずしも演歌と認識された訳ではないが、準演歌的位置付けとなり「演歌」枠の拡大、少なくとも世相の演歌への注目には貢献していたと思われる。
さしずめ現在で言えば、五木ひろしがTAKURO作の楽曲を歌う、といった冒険だろう。あるいは石川さゆりが広瀬香美の楽曲を歌う、でもいい。実際、五木ひろしはコンサートでGLAYの曲も歌っているようだが、これは「当代のヒット曲を持ち歌に拘らず歌う」という従来からの演歌的アプローチであり、書き下ろしの新曲を発表するのとは意味が違う。あるいはこうした冒険は演歌歌手の日和見としてやゆされる危険性を内包しているものの、その分十分に野心的な試みとなるだろう。もっともこれでTAKUROの楽曲が元来演歌風であったことが判明した、というオチでは意味がない。かつて加橋かつみ、真木ヒデトら元GS歌手が続々と演歌に転身する傾向が見られたし、最近でも堀内孝雄のように「私は本来演歌歌手でした」とカミングアウトするケースがある。これは「日本人は年を取れば演歌を聞くようになる」命題を歌手自ら実証して見せたとも言えるが、元来GSもアリスに類するフォーク・ロックも演歌的要素を大きく持っていたがための現象であり、その場(ポップスの枠)に留まり演歌支持層との橋渡しを務めるのでなく、絵に書いた様な演歌に「転向」するのでは、単に人気演歌歌手が一人増えたという以上の効果は期待出来ない。その意味では演歌歌手とのコラボレーションはTAKUROの側により危険であるかも知れないが、それはそれで面白いとしてTAKUROが演歌歌手に転ずるとは思い難いし、加齢により現在のGLAYを維持出来なくなった際に天性のメロディー・メーカーに作曲家という職域を拡大するという意義も生まれよう。また「夜はヒッパレ」等の番組に演歌歌手が出演するのも一策ではないか。これは笑われる対象に堕するということではない。演歌歌手の歌唱力を世に再認識させるとともに、非演歌の「Jポップ」を歌うことにより彼らの可能性を広げ、引いては演歌枠の拡大を目指す試みである。幾ら売上が如実に伸びるとはいえNHKの「のど自慢」に出ているだけでは新しい世界は生まれない。待たれるのは「古内東子作の新曲を引っ下げ都はるみ、今夜うたばんに出演」といった果敢な挑戦である。
CDの廉価化、音楽の多様化に伴い最早国民全世代にとってのヒット曲は存在しなくなった。その中で演歌が確実に支持年齢層を上昇させているのは、若〜熟年層への幅広いアピールを狙うために演歌、のみならず全世界のヒット曲殆どの代表的モチーフであった「男女間の恋愛」を捨て、老齢層にターゲットを絞った大泉逸郎の「孫」が99年に演歌として約10年振りのビッグ・ヒットになったことに如実に現れている。これを裏返せばテレビ東京の長寿番組「演歌の花道」すら打ち切りになった今では、国民全体にとって演歌は最早紅白歌合戦の世界にしか現役の歌として生きていないということだろう。更に言えばその紅白においても演歌歌手がその年のヒット曲を歌うことは希であり、紅白は決まった演目を何如に解釈し後代に残していくかという、真に伝統芸能の世界に入っている。
従って演歌はこれからも旧来からの様式美を伝来していく一方で、演歌枠を広げる試みによって若年層へのアピールを図らない限り、21世紀の展望は暗いと言わざるを得ない。あるいは新劇や新派、またテレビ時代劇のように細々とその命脈を保つかも知れないが、その際には現在の演歌に与えられている、かつてはヒット歌唱を包含した名称である「歌謡曲」という呼称は剥奪され、固定化した「演歌」という新たな芸能分野になるだろう。現在、まだ「演歌のビッグ・ネーム」が人々の口端に上る内に、彼らの大いなる奮起を期待したい。(00.12.15)
○参考文献:「歌謡曲は死なない」(青弓社)
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