最 終 試 合
                                  野球評論家・堀内一三
 10月23日、時は午後2時、今年最後の阪急対ロッテダブルヘッダー第一試合は既に始まっていた。名古屋では中日西武の日本シリーズ第2戦が行われているにも拘らず西宮に3万7千人もの観衆が訪れたのは、つい3日前にオリエント・リース社がブレーブスを買収する事が発表されたからに他ならない。宝塚、東宝を従え、巨大な阪急デパートを有する大阪急の球団譲渡は突然発表された。何れ西宮第二球場にも合宿所にも再開発の運命が待っている。加えて王者阪急を支えてきた昭和44年入団組の内、既に加藤英が昨年限りで南海を以て引退、更にこの日限りで山田、福本が引退することは周知の事実となっていた。
 そんな感慨を打ち消すかの如く照りつける日中の日差しの中、前座と化した第一試合が終わる。第二試合は10分後に開始される。ブルペンに向かう山田に割れんばかりの大声援。踊るブレービーも来期はこのグラウンドにその姿を見ることが出来るのだろうか。

 阪急球団は昭和11年に巨人、阪神に継ぎ3番目の球団として誕生した。但し阪急ブレーブス50年史の冒頭の記述にある様に、阪急の野球事業への参画は日本初のプロ野球球団、芝浦野球協会(日本運動協会)が経営に息詰まった際これを引き継ぎ、宝塚野球協会として再興させた大正14年まで遡る。外遊中に阪急球団結成、西宮球場建設を決めた小林一三の中には、自らの阪急こそが正当なプロ野球の流れを引いているという自負があったのかも知れない。

 第二試合が始まった。引退する筈の山田は 131qのストレートにスライダー、シュートを交え、露払いを務めるロッテ打線を相手にしない。僅かに4回、久々に一軍に現れた高橋忠に右越の一発を浴びたのみ。一方6回には阪急打線に最後の灯がともり、試合を決めた。解雇が決まったマドロックの打席にはサザエさんのテーマが流れ、映画評論家水野晴郎氏にも似たその容姿、米大リーグでの首位打者4回という実績からは別人としか思えないその打撃と共に、寒さを増した西宮に微笑みを呼ぶ。
 8回裏、先頭打者は古巣の一番で第一試合から出場している福本、盗塁数世界一の男は二遊間にゴロの打球を放つ。これが通算2354本目にして最後の安打となり丈夫さが取柄の猿人衣笠と並んだ。走者一塁福本、次の弓岡の安打で盗塁への期待を打ち破られる。三拍子揃った選手ほど衰えは足と守りに適面に現れる。晩年の広瀬、柴田もそうだった様に。
 続く松永。高沢に一厘差と迫られてから11打席連続で敬遠され迎えたこの打席、遂に3回バットを飛ばして三振してみせた。その最後の抵抗には確かに男気を感じたが今期限りで引退する投手仁科には酷な仕打ちだった。ロッテでは4番に座った山本功、第一試合に出場した庄司、田野倉らも同じくグラウンドを去る。山本も庄司も巨人から都落ちしてレギュラーを獲得した。嘗ての国鉄岩下、西鉄船田らがそうであり最近では近鉄の淡口も同類だ。何時の日にか駒田にも同じ運命が待っているだろう。
 山田の華麗なピッチングが続く中、川崎にははまり過ぎていた森田のテーマ「サッポロ一番」に今のロッテが象徴されていた。近鉄V免の試合での有籐の9分間抗議、松永への敬遠など今期終盤何かと非難を浴びた上、最下位に沈んだロッテは、今真に名門2球団の買収で親会社の広告塔としての球団経営への危惧が叫ばれる中、ビジター、ホーム共にユニフォームにORIONSと書かないロッテ球団の存在価値が問われている。永田雅一が心血注いだ東京球場をただの軟式野球場に変えてしまった罪はまだ忘れる事は出来ない筈だ。

 9回表最後の打者が倒れるとマウンド上での山田の引退インタビュー、続いて支配下全選手・コーチを従えての上田監督の挨拶、最後に山田・福本の胴上げが行われた。南海最終戦の狂乱振りに比べ余りにも大人しい幕切れだったのは西宮球場が引続き使用されるからか、はた又沿線に高級住宅街を抱える阪急らしい土地柄からか。徐々に照明が落ちて行き観客が帰宅へと向かう頃、時間はまだ7時半を回ったところだった。静かに、余りにも静かにブレーブスは消えていった。
 最後に上田はこう言った。「ブレーブスは阪急の物でもありません。オリックスの物でもありません。此処にいるファン一人一人の物です。そして選手一人一人の物です。」

 来期、五十三年・最多試合数6362の歴史を誇るブレーブスはオリックス・ブレーブスとして帰ってくる。
                        (文中敬称略/初出:Tocafe2-88/11)
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