激動のパ・リーグ S48年
野球評論家・堀内一三
〜前文 1970年代初頭〜
昭和45年、東映永易投手の八百長発言を端緒に始まった俗に云う「黒い霧事件」が西鉄3投手(池永、与田、益田)、飛び火したオートレース八百長での中日小川、そして最後に東映森安の計5選手の永久失格処分を以てほぼ幕を閉じようとしていたパ・リーグ・ペナントレースは、ロッテオリオンズの優勝という結末を迎えた。
大映映画を一代で築いた永田”ラッパ”雅一率いる東京オリオンズが、東京オリンピックからの3Cのひとつカラーテレビの激増とそれに伴うTVの総天然色化の煽りを受けた映画界総体としての没落の波の中、ロッテ製菓との業務提携、球団名ロッテオリオンズとして再出発しての初めての優勝は、また永田にとっての最後の優勝の美酒となった。念仏を唱えて祈った巨人とのシリーズに敗戦後、年明け1月22日に「何時の日かオリオンズを買い戻す」という涙下る声明と共に球団経営を全面的にロッテ製菓に委譲、大映本社自体も同年末には倒産して仕舞う。大映の倒産は既に経営関係の切れていたロッテ球団にも衝撃を与えた。フランチャイズ東京球場も同時に倒産して仕舞ったのだ。同球場は小佐野賢治の国際興業下に移行し47年こそ球場使用は継続されたが不安定な状態のままであった。
一方黒い霧で壊滅的打撃を受けた西鉄ライオンズは嘗ての神様、稲尾を監督に迎えるも二度と蘇ることのないまま47年10月27日、株式会社福岡野球倶楽部に球団を譲渡する。球団を所有したのは飽く迄福岡野球倶楽部であり、スポンサーとして太平洋クラブを仰ぎ球団名としてその名を冠したに過ぎない。オーナーは中村長芳、前年迄のロッテ球団オーナーである。
前述の通りロッテ球団は43〜45年の大映、ロッテ共同経営時はオーナー永田、代行中村体制で、46年からは中村がオーナーとなっていた。が実質的な経営者はロッテグループの総帥重光武雄であり、中村は雇われマダムに過ぎずロッテから新興太平洋球団に乗り換えたのだった。この際球団フロントから青木一三(スカウト、後球団代表)、西三雄(スコアラー、後コーチ)、坂井保之(後西武球団代表、ダイエー球団代表)等を連れて引き抜き、更には元ドジャーズのラフィーバー内野手獲得でロッテと一戦交え敗れたことが後の両球団遺恨試合に大きく影響している。
川上巨人軍の連続日本一が続く中、黒い霧で打撃を受けたパ・リーグは人気面のみならず「実力のパ」というフレーズすら危うくなり観客動員の後退が真剣な危機感を伴って論じられていた。近鉄特急を走らせた三原がヤクルトに去り、鶴岡元老の消えた南海は低迷、阪急の王座が続く時代の中、パ・リーグは人気回復策として来る48年度からの「前後期2シーズン制」の導入を決定した。盛り上がりの波を2つ作り観客を呼び寄せるという意図の基である。
〜激動の S48年〜
太平洋球団の誕生、ロッテとの抗争で迎えた48年は2月7日、東映フライヤーズの日拓ホームへの球団譲渡で幕を開け、再び激動の日々に入る。松竹、大映に続く球団譲渡は映画界の衰退を如実に示すとともに太平洋、日拓といった田中首相の列島改造論によるレジャー産業の進出を表すものである。続いて金田監督が就任しラフィーバー獲得で意気上がるロッテに東京球場閉鎖という衝撃が訪れる。年間1億と云われる赤字経営の東京球場に小佐野が音を上げ、東京都に売却したのだ。この為ロッテは仙台をサブフランチャイズとする渡り鳥生活を余儀なくされる。
日拓、太平洋という新生2球団の誕生、2シーズン制の導入で巻き返しを図るパ・リーグ昭和48年度前期ペナントレースがスタートした。先ず太平洋が5連勝で飛び出す。東尾、加藤初両投手を中心に、打線をラフィーバーに代わる大物、元オリオールズのビュフォードが引っ張り「太平洋旋風」を巻き起こした。続いてカネやんロッテが開幕4連敗後の16勝1敗で追い上げ5月初頭の川崎首位攻防決戦ではロッテの大勝に怒る太平洋ファンの動向に金田の暴言が火を付け、「遺恨試合」が始まった。この後太平洋のフロントがファンを煽って騒ぎが拡大したと一般には云われるが、実際は太平洋側が金田に依頼し「遺恨試合」を演出したと後にその仕掛人、青木一三が著書にて述懐している。西鉄の凋落は「黒い霧」で福岡のファンが一斉にそっぽをむいた事に始まった。新生ライオンズとしては人気回復のため何か特異な策を行う必要があり、その際に前述の通り太平洋フロントの大半がロッテ出身であったという事態に目を付けたのは得策であったのだろう。
遺恨試合の中、野村南海がジリジリと調子を上げてきた。短期決戦は地力で阪急に劣る南海には好都合であり、巨人から移籍の山内新、松原、ヒゲの江本、救援エース佐藤等投手陣を中心に首位に躍りでる。南海の優勝がほぼ決まったかに見えてから3塁コーチャースボックスで「カネやんダンス」を踊る金田を中心に再びロッテが巻き返し、遂には7月11日、南海ホークスの優勝で幕を閉じた。
後期に入ると前期には新美、高橋直の2つの無安打無得点のみであった日拓が監督を田宮から土橋に交替させ、「7色のユニフォーム」を携えて現れた。通常各球団は本拠地とビジターでは別のユニフォームを着るがこれを更に拡大しデーゲームとナイター、ダブル第一と第二という様にユニフォームを細分化し話題作りを図ったものである。しかし張本、大杉、白等嘗ての「駒沢の暴れん坊」が揃って真っ黄色のユニフォームで登場した時は世にも奇妙な構図であったに違いない。黄色い大杉の放つ6試合連続本塁打(パ・タイ)に関係なくペナントは地力に優る阪急の独走に終わった。
結局の所観客動員面に多大なる伸びを見せた前期戦もその殆どは「遺恨試合」のロッテ、太平洋絡みの結果であり、盛り上がりを二つ作るニシーズン制は一方で消化試合期間も二つ作るものに他ならないという課題は既に採用一年目のこの時点で張っ切りと表れていたのだ。
さてパ・リーグ初のプレーオフの前評判は圧倒的に阪急有利だった。これは後期阪急が対南海を12勝1分けと一蹴していたことに依ろう。しかしながら蓋を開けてみると野村の"偶数戦を捨てる"作戦で10月24日、南海の3勝2敗で幕を閉じた。その為後期阪急戦の結果は「死んだふり」との風評も立ったが果たして野村の策略であったかは定かではない。ただ前期を制した球団が後期序盤に不利を悟るといち早くプレーオフに備えペナントを放棄するという、後に広岡西武の叩かれた傾向がここに早くも顔を見せていたとは云えよう。実際前後期共に制覇したのは51、53年の阪急のみという結果も出ている。
一方この年セ・リーグに於いては驚異的な激戦が展開され阪神がマジック1で迎えた中日戦を江夏で落とし、更にはこのゲーム中、翌日の甲子園決戦に向かう巨人ナインを乗せた新幹線ひかり号がナゴヤ球場横を通り過ぎるという絶好の絵柄が生まれた。阪神は勝った方が優勝という最終戦に高橋一三に完封を許し、9−0で巨人V9に怒り狂ったファンがグラウンドに雪崩込み胴上げは宿舎に帰ってからという劇的な結末であった。がセに於いて66勝60敗という史上最低勝率で辛くも逃げきった巨人に、パ・リーグの覇者南海は堀内、高橋一三、倉田の3投手のみに1勝4敗という屈辱的な敗戦を帰して仕舞った。太平洋の前年36万→86万の観客動員増大に象徴された激動のパもV9巨人には歯牙にも掛けられなかったということだろうか。この点から見れば嘗てない程の注目を集めたパ・リーグ・ペナントレースの熱狂も、飽く迄パの世界のみに起きた”コップの中の嵐”に過ぎなかったということになる。
が果たしてシーズン終了後も激動の嵐は治まらなかった。事態は日拓が突然ロッテとの合併、1リーグ制への移行をブチあげた事に始まる。7色のユニフォームで話題を呼んだ日拓の西村オーナーがこの首謀者であったが、ロッテ本社社長としてこの年から正式にオーナーとなっていた重光も東京球場の閉鎖が本格化しながらも球場運営には消極的で、取り壊しに反対するファンのロッテ球団への非難が高まった事から「球団経営に興味無し」と見なされ、一方で関西スポーツ紙が”南海と近鉄も合併、10球団・1リーグ化へ”と先走った事から、パ・リーグ存亡の危機に発展して仕舞った。結果的には11月19日、日拓ホームが日本ハムにあっさり球団を売却した事で決着が付き1リーグ問題も集束、継続する不安定状態から再び攻めに転じたパ・リーグは、次なる打開策として指名打者制の採用を決定するのだが、2シーズン制に続き新し物を次々に取り入れざるを得ないパの苦悩が伺える。この中でプレーオフに敗れた阪急では西本監督が責任を取って辞任、シーズン中に休養した岩本尭に代わり近鉄監督に就任し(阪急監督は上田コーチが昇格)、いよいよビスタカーが本格的に動き出すこととなった。12月には日本ハム球団が前ヤクルト監督三原修を球団社長(事実上の総監督)に仰ぎ愛称をファイターズと改めここに昭和49年を迎える新体制が固まった。こうして激動の昭和48年は終わった。
〜強者どもが夢の跡〜
平成と元号が改まった現在では昭和48年は既に遥か昔という印象すらある。パ・リーグが揺れた48年は王者巨人とそれを取り巻くセ5球団、そして対峙する豪族集団パ、という構図の最後の年であった。翌49年には金田ロッテが中日を下し日本一となり、長島巨人の没落から戦国時代の50、60年代、さして平成の御代をを迎える。
永田ラッパ既に亡く閉鎖された東京球場は現在では東京都の軟式野球グラウンド兼緊急避難場となっている。ロッテは渡り鳥生活を続けた後、大洋の去った川崎に安住の地を求めたが現在千葉移転に揺れている。太平洋は52年にスポンサーを廣済堂(球団名は傘下企業の「クラウンライター」)に変え54年西武ライオンズとして所沢に新天地を求めた。その後の発展は云うに及ばない。南海ホークスはこの48年を最後に二度と優勝を果たすことなくダイエーホークスに姿を変えライオンズの去った平和台に訪れた。西本の後を次いだ上田の下阪急王国を継続させたブレーブスもオリックスを経営母胎とし来期より西宮を去り愛称もブルーウェーブと変更される。
遺恨試合も二シーズン制も今はもうない。
(文中敬称略/初出:Tocafe21-90/10)
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