今日の「笑い」を考える
                                           評論家・堀内一三
 我々の「笑い」の原体験と言えば、「ゲバゲバ90分」や「噂のチャンネル」はもう少し上の世代で、勿論、牧伸二の「大正テレビ寄席」や南伸介司会の「笑点」も見ていたし、関西方面なら吉本や松竹の新喜劇も含まれるのだろうが、まずドリフの「8時だよ!全員集合」を挙げることに異論はないだろう。
 が恐らく現在の我々が「全員集合」を見ても回顧趣味以上の可笑しさを感じ得ないのは、ひとつには全盛時から既に先達のクレージーキャッツに比べドリフの笑いは子供向きと言われたが故ではあるが、同時にハプニング性の少ない笑いが今日の我々から遠いものになってしまったからではないか。
 現在「全員集合」の映像が紹介される段には必ず、会場が停電し懐中電灯でゲストを紹介するいかりや長介が見られるが、これは数少ないハプニングに他ならず、例えばゲスト出演した加藤茶や志村けんがちっとも面白くないことに気付く時、いみじくも綿密な打ち合わせと大掛かりなセットで完璧な「演劇」を作り上げる「全員集合」の非ハプニング性を再認識させられる。

 ドリフは元来、ビートルズ日本公演の前座でも「ズッコケ」ギャグを披露した音楽バンドであり、素の言動が異様に面白くて笑いの世界に登壇した人々ではない。彼等は笑いを「作り込む」ことでは超一流であり、それは志村けんのバカ殿シリーズが、子供向きとはいえ現在も隆盛を誇っていることからも明らかだが、そこには日常の会話の中に即興で笑いを組み込むことは要求されていない。

 振り返って今日の「笑い」はTVで見る限り、殆どが笑いタレントのアドリブ会話の集積である。
 それはタモリに代表されるバラエティー番組の司会への登用に留まらず、昨今はダウンタウンら唄番組の司会にも起用されるケースが増えてきた。昨年のレコード大賞で木村拓哉が司会の楠田枝里子にしきりに絡むシーンがあったが、かつてならタレントの傲慢と見られた映像に、楠田の旧態依然たる司会、即ち即興性と笑いに欠けた司会に不快感を覚えるほど視聴者の感覚が様変わりしたのは、如何に「お笑い司会」が定着したかを証左したものだろう。

 勿論、今日の「アドリブの笑い」は突発的に誕生した訳ではない。「全員集合」の裏番組として誕生し、遂にその死命を制した「俺たちひょうきん族」は、80年代初期に突如発生した、花王名人劇場に端を発する漫才ブームの流れを引くものであり、元来が「作り込む笑い」を基盤としている。番組の長期化に伴い現在の笑いにつながるアドリブの要素が増えてはいくが、それは舞台(全員集合)とスタジオ(ひょうきん族)の違いによる要素が大きい。
 然らば、アドリブ若しくはハプニングに大きく依拠する今日の笑いの端緒はと問えば、それは萩本欽一氏の存在に溯ることが出来るのではないだろうか。

 氏の最盛期とされる「コント55号」を、不幸にして私はリアルタイムで知ることは出来なかったが、単純化を恐れずに述べれば、コント55号は坂上二郎氏の天然ともいえるボケを利用して、萩本氏が当意即妙な突っ込みを入れるものであり、後年、坂上氏の役割に複数の笑いの"素人"を見立てて拡大再生産を目指した成れの果てが、「欽ドン」なり「欽どこ」なり、愚にもつかない氏の一連の看板番組だったろう。
 萩本氏が「動き」を捨て司会役に座ることで負担を減らしたこのスタイルは、類似番組の大量生産を可能にした。つまり、ドリフがワンクール1回の「大爆笑」を除いてほぼ「全員集合」に全精力を注いでいたのに対し、氏の番組はあたかも容易に、民放各局のゴールデンタイムに溢れたのだ。

 そして今日の「笑い」番組は、かつて萩本氏の突っ込まれ役だった素人を、芸能プロの系列等で看板を張る主役と関係の深い若手笑いタレントに代え、彼等の会話を長時間録画し、面白い部分を放映する。更に「面白い」部分を視聴者に自動認識させるために、画面に字幕として見せる。この方式により例え、唄番組でゲストの歌手が、本来笑いを生業とするタレントが喋ったのならそれ程面白い筈のない言葉でも、字幕によって面白いと錯覚させることすら可能となった。
 取り巻きとして出演した若手笑いタレントは、そこでアドリブ会話の上手さを認められると深夜に看板番組を持ち、更に出世してゴールデンに進出する。その時にはもう「司会」に鎮座在し、自ら主体的に笑いを生み出すことはしない。
 数年前までは、例えばCX系「夢であえたら」で見られたの様に「ネタ」の披露会の感のあった深夜番組も現在はアドリブ全盛であり、「電波少年」の如く「ハプニングの笑い」からこれを通り越して単にハプニングを放映すればそれでこと足りるとするものまで現れた。

 畢竟、私は「アドリブの笑い」を否定している訳ではない。昨今の志村けんの番組を見ても全く面白くないのは事実であり、同時に、今日の笑いに当意即妙、洒脱な会話技術が求められるのも必定である。
 ただ一方で、賢明な萩本氏が氏の生み出した「素人芸」方式が、結果として笑い番組を安直にする"元凶"となったことを自認している様に、アドリブ会話のスピード感を活かした「作り込んだ笑い」、例えば書籍「爆笑問題の日本原論」の様なゲラゲラ笑えるTV番組をもう一度求められているのではないかとふと思う時がある。  (ご感想は是非掲示板へ)

Back
Copyright (c)1999 K.Horiuchi Allright reserved