中国異質論
高橋 洋 2001年7月
1992年の中国
 私が生まれて初めて中国へ行ったのは、今から9年前の8月のことだった。生まれて初めての一人旅でもあったわけだが、生まれて初めて「面白くなかった」旅行となってしまった。中国人の拝金主義・自己中心主義と、公共道徳・公衆衛生観念の欠如に辟易し、挙句の果てにお腹を壊して24時間寝込むはと、もう散々な旅行だった。その結果中国と中国人は大っ嫌いになり、その後も中国語の勉強は続けるものの、旅行しようとは思わなかった。
 中国人は、その当時、どうしようもないカネの盲者であり、排他的・利己主義であり、他人や外国人への親切心が欠落していた。国際観光都市の桂林では、しつこく中国人が寄ってきて、「日本語を勉強しているのでガイドをさせて欲しい」と見え透いた嘘を言って来た。桂林で会った日本人は、全員何らかの形で中国人から金銭的被害を受けていた。レストランでもホテルでも、言葉が通じないと相手をしてくれないことが多かった。これらは、「社会主義から資本主義への移行期の混乱」のせいだろうと、私は考えていた。もともと商売上手である漢民族の魂が急に呼び起こされたため、過度な拝金主義に陥り、かつまだ社会主義の悪弊が残っているため、サービスという概念が確立せず不親切な面があったのではと。
 中国人は、その当時、公共道徳心が欠落しており社会には秩序がなく、かつ街中が汚く公衆衛生という概念がなかった。駅構内には用があるのか無いのかいつも群集で一杯で、とても列に並んでキップを購入できる状況ではなかった。道路でも車と自転車と歩行者が渾然一体となり、車線も信号も全く機能していなかった。鉄道に乗れば、他の乗客にお構い無しに通路に唾を吐くし、ゴミも好きな所に捨てていた。これらは、「貧しい発展途上国に共通の問題」だろうと、私は考えていた。当時の中国はまだまだ世界の最貧国の一つであり、先進国の感覚で秩序や衛生を確保できる水準ではなかったのではと。

2001年の中国(幻想)
 そんな中国に、2001年の6月にまた行こうと思った。あれから10年近く経ち、いろんな国に旅行したが、結局「嫌いな国」は、未だに中国しかない。しかし、最早中国外務省の官僚の友人ですら、「中国は資本主義だ」と認めるほどの資本主義国家に生まれ変わったし、内陸部・農村部を除けば物質的にも随分豊かになったという。ならばさすがに、今となっては余裕のある中国人は、他人を思いやる気持ちもあるだろうし、サービス精神も根付いているだろう。また、衛生水準や社会の洗練度も上がっているに違いない。
 選んだ先は、雲南省だ。9年前に行った中国南部諸都市の中で唯一快適であったのが、少数民族も多い昆明であった。雲南省はラオスやミャンマー、ベトナムと国境を接しており、長江、メコン川、サルウィン川など、各国の大河の源流が集まる山岳地帯であり、標高が高いため亜熱帯にも関わらず真夏でも涼しい。省都昆明へは大阪からJASが週2便直行便も飛ばしている。羽田を7時半頃出れば、午後1時過ぎには昆明に着いてしまう。今回は、昆明からさらに奥地に入った少数民族の街、麗江と大理に行くことにした。そこはもう殆どチベット高原であり、中国有数の少数民族ワールド。中国の中でも快適・好印象な地域を選ぶことにより、今回の中国旅行は心から楽しみにしていたのだ。

麗江へ
 6月10日(日)、JASの昆明直行便は、予定通り午後1時半に昆明国際空港へ到着した。昆明から大理へはバスで5時間、大理からさらに奥地の麗江まではバスで3時間もかかるため、昆明と麗江の間は飛行機を使おうと思っていた。午後2時半昆明発麗江行きの雲南航空の便があることは解っていたので、私はこれに乗ることを密かに狙っていた。
 空港ではまず円を元へ両替しなければならなかった。空港構内には両替所が見当たらず、売店のお姉ちゃんに「銀行はどこ?」と聞くと、「ターミナルを出た所に中国銀行がある」と教えてくれた。走って外に出て見ると、あったあった中国銀行が。1元=15円。4万円(=今回の中国国内での全旅費)両替し、財布に詰め込み空港へ駆け戻った。国内線カウンターに行き、「今から麗江へ行きたい」と言うと、「2時半の便はもう間に合わない・・・6時半の便だ」と言われた。その対応が、9年前の無愛想な「没有:メイヨウ:中国語でありません」とは違ったので、「そこを何とかお願い」と頼み込むと、何と2時半の便を発券してくれた(420元=6000円)。やっぱり2001年の中国は違う!と感動しつつ構内へ進もうとすると、服務員が何か騒いで通してくれない。よおく聞くと、「空港税チケットは?」と言ってるらしい。そう、中国では国内空港を利用する度に、50元払わねばならない。もう2時15分だったが、何とか空港税を支払い無事搭乗できた。幸先から予想以上に調子がいい。
 結果的に、まだ明るい内に標高2400mの桃源郷麗江に着く事ができた。そこは、雨がしとしとと降って肌寒く(20度ぐらい)、5596mの霊峰・玉龍雪山も霧に覆われて全く見えなかった。ここではUNESCOの世界文化遺産にも指定されている少数民族納西族(なしずー)の古城(旧市街)を散策し、さらには玉龍雪山を中心とする絶景を満喫することが目的だった。
 1泊130元のホテルにチェックイン後、早速麗江古城に出向く。そこは瓦屋根の小さな家がびっしりと張り付いた、趣の有る古都だった(写真)。1996年の大地震のため、昔ながらの家並みも随分崩壊したとのことだが、それでも落ち着きがあり美しかった。中国では、社会主義の名残か、平日の日中にぶらぶら遊んでいる人が多く、前回も今回も、トランプや麻雀を道端でしている大人をたくさん見かけた。麗江古城では、納西族の民族衣装を着たお婆さんらが麻雀卓を囲んでいた(写真)。そばで眺めていると、一人のお婆さんが聴牌って(あと1回で上がり)上がり牌を待っていた。待ち牌は5と8であったが、何故かお婆さんは5だけが上がりだと勘違いしていた。その時、8の牌をツモって来たが、お婆さんはチェッという感じでその牌を捨てようとした。私が肩を叩いて、「自模了:ツモったよ!」と言うと、お婆さんは目を白黒させた後、にやっと笑い、その場に居た納西族の人々全員が爆笑した。

玉龍雪山
 この麗江から北に車で1時間弱の所にあるのが玉龍雪山だ。街中からでもその雄大で美しい山並みが見えるはずなのだが、二日目(月)も雨のため見えない。朝9時頃に街中の旅行社に行ってみたが、今日の玉龍雪山へのツアーは既に出発しているとのこと。仕方なく、この日は自分で公共汽車(バス)を使って玉龍雪山へ行こうと思った。
 旅行社を出ると、中での会話を聞いていたのか、中国人のオバサンがやってきて、名刺を出しつつ「玉龍雪山へ行かないか?」と誘って来た。タクシーを1台チャーターして行けというのだ。どっちみち天気も悪いし、バス(片道3元)でよかったが、納西族の運転手とお話が出来ることに惹かれ、1日120元で手を打った。すぐに携帯電話で自分の旦那を呼び出し、旦那がフォルクスワゲンのサンタナでやってきた。余談だが、中国での携帯電話の普及は目覚しい。普及台数では去年の時点で日本を追い抜いたらしい。未だ固定電話網が整備されてないため、固定電話を飛び越して携帯電話が普及しているのだ。こんな僻地でもみんな携帯電話を使っているし、街中でも「中国電信」の販売店が繁盛していた。
 ともかく、納西族の運転手と共に玉龍雪山へ向かって走り出したが、中国の少数民族との会話は、民族問題研究家の高橋には大変興味深い体験だった。中国は人口13億の多民族国家である。人口の93%が漢民族であるため、単一民族と言ってもよい比率だが、残りの7%に相当する55の少数民族が9000万人にも達するから侮れない。その内最大の少数民族は壮(チワン)族で1550万人。ここ麗江を本拠とする納西族は28万人、大理を本拠とする白(バイ)族は160万人だ。その他、泰(タイ)族、苗(ミャオ)族など、雲南省だけで25の少数民族が暮らしている。内蒙古自治区を中心とする中国に住む蒙古族(260万人)は、モンゴル人民共和国の総人口(241万人)よりも多いという、興味深いデータもある。
 納西族は、1000年前から東巴文字という象形文字を持っており、この文字で書かれた書物もある。今でも納西語を喋り、それは中国語の一方言などではない。彼らは小学校で北京語を普通話(標準語)として学ぶため、みんな北京語が通じるが、納西族の間では相変わらず納西語を話している。私が接した限りでは、納西族の人々は自分達が納西族であることに誇りを持っている一方で、支配民族である漢民族に対して特に敵対意識は持ってないようであった。
 タクシーは玉龍雪山の風景区(国立公園)に入り、さらにリフトに乗って標高3200mの高原、「雲杉坪」まで登った。そこはミニ尾瀬のような草原地帯だったが、雨のためTシャツ一枚ではかなり寒く、その向こうに見えるはずの玉龍雪山は勿論見えなかった。その代わり、この観光地は中国人で一杯だった。そう、9年前と大きく異なるのは、中国人国内旅行者の急増である。前回は観光地で見かけるのは日欧の外国人旅行者ばかりだったが、今回は全体の9割が中国人旅行者と言ってよい。
 それだけ所得水準が上がったのだから、それ自体は喜ばしいことだが、彼らが余りに傍若無人で大変不愉快な思いをした。中国人旅行者は、それぞれが首からカメラを提げ、旅行社の帽子をかぶり、ガイドに連れられて集団でぞろぞろと行動する。ここまでは日本人も同じだが、大声で喋り、大騒ぎをし、ルールを守らないなど、他人への迷惑を省みない。雲杉坪でも、静かな高原の中で、通路をはみ出して草地の中に入る人、やまびこが面白いのかずっと大声で吠えている人など、迷惑きわまりなかった。

大理へ
 明朝(火)9時にホテルを出、長距離バス停へ向かう。まだ麗江は2日間だが、天気もずっと悪いので、これ以上滞在を延期しても仕方ないと思い、大理へ移動することにした。すぐにチケットは購入でき、ミニバンのようなバスに乗り込む。大理まで約3時間で32元だった。保険が3元含まれていたのには驚いた。山に挟まれた棚田の田園風景の中を、バスはすごい速度で飛ばしていく。とにかく中国人は運転が荒っぽい。前方に車が視界に入れば、追い越すことを使命感のように思っているし、自分の感情表現のためにクラクションを使い続ける。はっきり言って怖い。それでもあっという間に標高400mを駆け下り、左手に湖が見え始めた。もうすぐ大理である。
 世界史を真面目に勉強した人は、「大理国」が記憶の片隅に残ってないだろうか。927年〜1253年まで現在の雲南省のエリアで王国として栄華を誇った、白族の国である。宋王朝とは平和的な朝貢関係を結んでいたが、1254年に元の世祖フビライに滅ぼされた。このエリアは、東側に248kuの縦に細長いアル海という大湖があり、西側には4000m級の蒼山の山並みが南北に続く。その間には標高2000mの高原にも関わらず、豊かな田園地帯が広がり、城壁に囲まれた大理古城があるのだ。
 予定より早く3日目には大理へ来てしまったが、相変わらず天気は良くない。この日はホテルにチェックイン後、翌日のアル海ツアーの予約をした。私の中国語が下手なためか、対応した服務員は露骨に不親切だった。その夜は大理名物の「砂鍋魚」を食べた(写真)。これは、豚骨系のさっぱりしたスープの中に、鮒3匹、豚肉、レバー、湯葉、豆腐、白菜、きのこなど、多くの具が入っている、まさしく鍋である。非常に美味しい。二人分はある鍋を一人で食べた。30元。街中には、白族料理の他、回族(イスラム)、蔵族(チベット)、などの店もある。いわゆる中国料理の店はわざわざ「漢菜」と表記してある他、「川菜」と表記される四川料理もよく見かけた。

アル海ツアー
 翌日(水)、朝起きたら快晴だった。今回の旅行で初めての晴天。これはついてると思い、ツアーを予約した旅行社に出向いた。白族の民族衣装を着たお嬢さんガイド(20歳ぐらい)を紹介され、付いて行く。別のホテルの前に着くと、中国人5人と英国人老紳士2人に合流させられた。今日はこの7名と一緒に1日周るらしい。午前中はミニバンで大理古城の名所などを巡る(写真)。ガイドは北京語でいろいろ説明しているが、早口なこともあり余り聞き取れない。これは承知の上であったので、穏やかな英国人と喋ったりする。英国人は、「国際旅行社」を通じてこのツアーを予約したが、まさか中国語のガイドとは思ってなかったと呆れていた。
 途中、名産の大理石を使ったアクセサリーの即売所に寄った。ガイドは「10時半に集合です」と言ったが、そもそも買う意志が無い私や英国人は時間を持て余してしまう。しかし、中国人は購買力があり、かつ旅行に言ったら必ず多くのご近所にお土産を買わなければならないのだろう。中国人夫婦が随分ねばっていくつものアクセサリーを購入していた。バスに戻ってきたのは11時だったが、何も謝らなかった。
 昼食後、いよいよ遊覧船に乗ってアル海に繰り出す。アル海は広く、ここから眺める大理古城、そして蒼山の山並みは美しい。しかし、ガイドに案内された大型遊覧船(200〜300人程度の客がいた)の中の席とは、エンジン音がやたらに煩い、倉庫のような部屋だった。仕方なく、最上階の甲板まで上がり、直射日光の下でぼ〜っとしていた。とにかくこの日は暑く、亜熱帯の太陽が眩しい。1日で真っ黒になった。(今でも左手首には時計の跡が残っている)因みに、中国人は老若男女を問わず日光は嫌いなようで、多くの人が「雨傘」を差していた。これがまた、狭い道ですれ違う時に邪魔でしょうがない。
 翌日(木)、古城から北方へ公共汽車で20分程度の所にある白沙という街へ行ってみた。観光化された品の良い古城に比べ、ここは昔ながらの白族の街である。狭い通りの両側に屋台がずらっと並び、白族の生活が垣間見られる。民族衣装を着ておしゃべりしているお婆さん、通りに向けて赤ん坊におしっこをさせているお母さんもいる。この日も直射日光が痛い。お昼は、市場の片隅で炊き出しをしている汚い屋台で食べた。丼に山盛りのご飯に辛い野菜炒めを汁だくでぶっかけたようなもの。価格は3元=45円。安い。が、正直言って、日本のマクドナルドも頑張ってるな、と思った。
 その後疲れを感じたので、ホテルへ戻り昼寝の後、3時頃今度は大理古城の南方を目指した。そこには、大理の主要市街である「下関」がある。大理古城が観光客用の旧市街であるのに対して、「下関」は高いビルが立ち並ぶ現代の大理の中心地だ。が、やはり中国は都会がどうしようもなくつまらない。人が多く、車が多く、無愛想な顔ばかりで、見るべきものが無い。ビエンチャンで見たような好奇心にあふれる純粋な目や、カイロで出会った陽気な歓待、バンコクの屋台の躍動する活気も見つけられなかった。
 一通り歩き回り疲れてしまった。夕方再び公共汽車に乗り大理古城に戻る。すると、大きな荷物を抱えた中国人5人組が乗り込んできた。2人はビール瓶を握っており、酔っ払っている。車内でも唾を吐き、大騒ぎをし、さらに飲み終えた空瓶を窓から反対車線側へ投げ捨てた。瓶は派手な音を立てて割れ散ってしまった。運転手も含め他の人は笑っているだけだった。

人生2度目の・・・
 夕方ホテルに戻った時には、体が相当重かった。しかし暗くなってきたので、ご飯を食べに出た。とある白族料理屋に入るが、言葉が不自由なこともありオーダーに手間取る。すると店員は機嫌が悪くなる。それでも何とか適当に頼み、無理にお腹に押し込み部屋へ戻る。その時にはもう体が動かなくなっていた。体中が痺れている。重い。熱っぽい。気分も悪い。死んだように眠ったが、喉がやたら渇き、その度に目が覚める。幸い部屋にはお湯とお茶っ葉が常備されていたので、1時間ごとにお茶を飲む。
 夜が明けた。ホテルは今日(金)チェックアウトする予定だったので、まずはその延長をし、ふらふらした体を引き摺って薬を買いに行く。歩いて2分の所に薬屋があった。「頭が痛い。熱がある」というと、7元の薬をくれた。さらに、何か口に入れるものが必要だと思い、そばの果物屋台ですももを買う。ビニール袋一杯、30個ぐらいで2元。てことは、1個1円。さすがに安い。そのままホテルへ戻り、すもも4個を口に入れ、薬を流し込み、また眠りに着く。
 土曜日の朝。体の痺れは大体取れ、熱も下がったようだが、昨日からお腹の調子がよくない。すももしか食べてないのに、数時間に一度トイレに通っている。しかし、そろそろ昆明に移動しないと、翌日には日本へ帰らなければならない。いや、何が何でも帰りたい。万全の準備の上、昆明行きのミニバスに乗り込む。大理を出て5時間半で無事昆明に到着し、1泊100元のまずまずのホテルへチェックインする。便利な場所にあり、清潔で快適な部屋だったが、夜はホテル内のカラオケバーの騒々しさに閉口した。同じことは大理のホテルでも遭った。あれで宿泊客から苦情は寄せられないのだろうか?
 こうして日曜日、何とか中国を脱出し、深夜無事東京へ帰り着いた。その後も1週間お腹は壊れていた。現地で寝込んだのは2度目だったが、帰国後も体調を崩していたのは生まれて初めてだった。

2001年の中国(幻滅)
 このように、9年ぶりに期待に胸膨らませて訪れた中国の大地は、必ずしも私を温かく、優しくは迎えてくれなかった。中国人は、他人に対して親切でなく、関心が薄い。そう感じた。困っている外国人を助けようとか、他人に迷惑をかけることは控えようという気持ちが見られない。社会の中で、集団としてより快適に暮らすための、ルールや気遣い、秩序という観念が育ってない。これまでいろんな国に行き、いろんな人に会い、いろんな体験をしたが、旅行全体が楽しくなかった、不愉快だった経験は2度しかない。それらが共に、2度しか行ったことがない中国である。これも何かの因縁なのだろうか。
 それは、中国が物質的に貧しいからではない。ラオスでも、モロッコでも、生活水準は低かったが、人々は優しく、親切だった。商魂逞しい人も見かけたが、多くの人は素朴であり、子供達の目は輝き、損得抜きで見知らぬ世界から来た友人に好奇心を持っていた。確かに交通ルールなどは厳格ではなかったが、それでも一定の秩序があり、現地人への安心感・親近感が沸いてきた。
 批判を承知で感じたままに言えば、私は中国と言う国が、中国人が恐ろしくなった。自分達とは異なる大衆道徳、衛生観念、秩序感覚を持つ、13億もの人々が、すぐ隣りの大陸で暮らしている。こちらには理解しづらい行動原理で、勝手気ままな方向へ他人を押し退けてがむしゃらに駆けて行く。彼らと政治やビジネスで向き合い、その果実を分け合おうと言う時、果たして日本は、日本人は上手くやっていけるのか?さらに、中国人民が暴走し、この社会が海外へ向けて暴発した場合、日本社会はどうなるのか?

中国異質論
 文化の違いと言ってしまえばそれまでかもしれない。それほど大袈裟に騒ぐ事ではないのかもしれない。しかし、このような事を考えていて、数年前までよく言われた「日本異質論」を思い出した。日本人は、日本企業は、欧米の企業と比べて異なる(アンフェアな)ルールでビジネスを行い、世界の市場シェアを根こそぎ奪っていく。だから日本は異質であり、世界(欧米)とは相容れない特殊な国だと敵視された。この種の見方の中には、当時敗者に堕しつつあった覇権国家米国の嫉妬心と人種差別的敵対心があったことは間違いないが、その一方で「日本=訳の解らない国」という純粋な違和感があったことも事実だろう。同じことを、今私は中華人民共和国に対して感じてしまっている。ブエノスアイレスでスノビッシュな人々に面食らった時にも、マラケシュでムスリムのラマダンを垣間見た時にも起こらなかった感情である。ただ「異なる」というのでなく、尊重できない、受け入れられないと言う拒否感。
 勿論、私が訪れた中国の地とは、南部のほんの一部だけだし、接触した人々の数も、13億の総人口から見ればたかが限られている。北京や上海は、東京にも匹敵するほど洗練されている部分があり、中国の他都市よりずっと秩序があると聞いたこともある。中国を訪れて、私とは全く異なる印象を持った人もきっといるだろうから、是非その意見を聞いてみたい。
 私の中国語学校の先生にこの疑問を投げかけて見た。彼は上海出身の中国人で、日本に暮らしてもう10年近くにもなるが、彼も私の感じたことを理解でき、かつ同じような外国とのギャップを、長年海外で暮らした中国人は、帰国時に感じることが多いらしい。中国人が、自己中心的で、他人に対する配慮が欠ける理由として、彼は文化大革命を挙げた。彼によると、文化大革命とは想像に絶する社会的混乱・無秩序状態だったらしく、その中で中国人は、何よりも自分のことだけを考え、これまでのルール・秩序を無視することにより、必死になって生き抜いてきたらしい。その経験がトラウマとして残っており、今でも自己中心的な人が多いのでは、と言う。
 一方シンガポールの大親友は、中国の経済的発展が余りにも急激だったことを挙げ、そもそも中華思想に見られるような排外的な中国人が、この結果自信過剰に陥り、失礼を省みない嫌な国民になったのではと言う。この中国系のインドネシア人は、中国人のことを"they"と表現しつつ、中国人女性がシンガポールにおいて"gold diggers"(=「玉の輿」)として暗躍しており、シンガポール人男性を誘惑し、大変評判が悪いことを紹介してくれた。経済発展は成し遂げつつあるものの、社会の洗練度・成熟度という意味ではまだまだ前途多難であり、国際社会の中で中国人自身が意識改革をしなければ、真の経済大国にはなれないだろう、と締め括っている。
 別のシンガポール人に聞いてみても、同様の反応だった。彼女は特に中国の衛生状態が悪いことを問題視し、公衆便所はとても我々が使える状況ではないと言う。上海のショッピングコンプレックスのトイレですら、個室の中が外から丸見えだったらしい。私が雲南省で使った公衆便所は、ちょっとこの場で表現できる状況ではなかった。また、広東省の深せんではブティックの店員にしつこく付きまとわれたようで、「同じ中国系からもお金をもぎ取ろうとしている」と怒っていた。
 中国に対する同様の見方は、台湾人と話していても伝わってくる。以前にもエッセーを書いたが、彼ら台湾人がどうして同じ血族である中華人民共和国との統一を望まないのか?それは、自らとは異なる文化を感じてしまうからである。台湾よりも洗練されていない、秩序の乱れた、人に優しくない、混沌とした社会文化を。例え中国の経済水準が台湾に近づいてきたとしても、台湾人は大陸の人々に対して心からの親近感を見出せないため、一つの中国として同化することには抵抗するのではないか。

 皆さんのご意見はどうだろうか?中国と言う国に対して、中国人に対して、どのようなイメージを抱いているだろうか?実際に大陸に足を踏み入れた人は、何を感じただろうか?私はここで悪意的に中国異質論を展開したかった訳ではない。私が過去二度中国を旅行しながら感じ、考えたことについて、皆さんと意見交換をしたかったのであり、その上で何らかの解決手段があれば見出したいとも思う。さらに10年後、中国が、中国人民が、どのような常識と姿勢で国際社会に対峙しようとしているのか、興味を持って眺めて行きたい。

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