J「とんでもない所に来てしまった」感
 ティティカカ湖。皆さんはこの湖を知っているだろうか。名前ぐらいは聞いたことがある人が多いと思うが、場所を正確に言える人は少ないのではないか。南アメリカ大陸を南北に8000kmに渡って縦断するアンデス山脈の中央部、ペルーとボリビアの国境をまたいで横たわる、海抜3890mに位置する湖である。富士山より高いところにあるその湖は、何と面積が琵琶湖の12倍(8300ku)もあり、汽船が航行する湖としては世界最高地点にあるという。それだけの大きな湖だから古代より神聖視され、かのインカ帝国の発祥の地とも言われている。今回の旅行に当たって私が一番惹かれていたところは、マチュピチュの空中都市でもナスカの地上絵でもなく、実はこのティティカカ湖だったのである。
 芸術に関心がありルーブル美術館に行く人、遺跡が大好きでルクソールへ行く人、大自然に憧れてグランドキャニオンへ行く人、それぞれよおく理解できるが、私を旅へと突き動かすものとは、「とんでもない所に来てしまった」感である。普通の日本人なら一生かかっても行くことができないであろう、地図の上でしか訪れることができないであろう、とんでもない所に自分が来てしまった、その大地の上に実際に自分が立っているという、心からふつふつとこみ上げてくる感動を味わうために、私は旅をする。
 これを生まれて初めて強烈に感じたのが、平田泰隆と二人で訪れたパタゴニアだった。パタゴニアとは、南アメリカ大陸の最南端、南緯50度前後の荒野のことを言う。子供の頃から地図を眺めるのが大好きだった地図オタクの私は、その地の果てまで続きそうな単調な地形と、「パタゴニア」という独特の響きを持った地名に理屈抜きで惹かれていた。そして実際に97年の12月にマゼラン海峡がすぐそこという最果ての地に降り立ち、木も林も何も無い、どこまでも続く荒野に言い様の無い感動を覚えたのである。寂しい、ひたすら寂しいとしかいいようの無い過酷な大地を訪れた、数少ない日本人の一人であるという事実に、熱い想いがこみ上げてきたのだ。
 ティティカカ湖とは長らく私にとって、そのパタゴニアに勝るとも劣らない、「とんでもない所に来てしまった」感が満点の地だった。南米大陸の地図を是非じっくり見て欲しい。アンデス山脈が大陸の西の端に細長く横たわり、そこには6000m級の山々が連なっている。それだけで神秘そのものであるが、その中央の、地図で見れば真茶色に染まっているところに、「ティティカカ」という名前の大きな湖があれば、地図オタクとしては黙っていられない。そのとんでもない湖をこの目で見たい、触れたい、制覇したいという憧れが、ずっと以前からあったのである。この気持ち、解ってもらえるだろうか??。

 さて能書きが長くなってしまったが、12月26日朝8時、混沌のラパスを出発してティティカカ湖畔のペルー側の街、プーノへ向かう。アンデス高原での生活も3日目となると体が随分慣れてきて、今日は調子が良い。これをかの南アフリカ系イタリア人はClimatizeと表現していたが、この英単語を耳にしたのは受験勉強の時のシケ単(デル単)以来である。いずれにしろ、憧れのティティカカ湖を前にして自ずと気分も高揚してくる。
 ラパスのすり鉢を徐々に上っていくと、周りは赤レンガのぼろ家ばかりになってくる。そしてすり鉢を上りきると、憧れのアンデス高原が目の前に広がっていた。更に1時間程走ると、いよいよティティカカ湖が見えてきた。一見単調で飾り気はない。でも静かな、落ち着いた、母のような湖。その湖が横たわっているアンデスの大地。ただの大きな湖と言えばそれだけである。でも、よく考えて欲しい。それは富士山より高い所にあるのだ。果てしなく続く高原の上に、蒼く静かに水をたたえたその湖は、圧倒的な存在感で私に迫ってきた(写真)。
 途中、一時的に船に乗り換えて「湖峡」を越え、再び国境を越えてペルーに入り直す。目の前に広がる風景は進行方向によって変わるものの、基本的には草地にアルパカが放牧されている寂しくものどかな景色であり、アドベで造られた家が散在する。そしてティティカカ湖は、ある時は湿原を、ある時は大海原を見せてくれる。ランチ休憩を挟んで8時間のバスの旅は、心が落ち着く包容力のある景色をどこまでも見せ続けてくれ、とうとうティティカカ湖へ来てしまったという高い満足感と安心感を残して、16時にプーノへ到着した。

Kティティカカ湖畔の街:プーノ
 プーノはペルー南部アンデス高原の中心都市である。ティティカカ湖へのツアーの拠点になっている他、クスコとラパスの中間にあり、太平洋側のアレキパにも道が通じているということで、交通の要衝でもある。特に派手さの無い地方都市だが、ティティカカ湖に面しているこの街に来ることを、私は大変楽しみにしていた。この日の夕方は、翌日からの一泊二日のティティカカ湖へのツアーの予約をした上で、街中をぶらつく。観光客が多いためみやげ物屋も多い。やはりアルパカのセーターや民族的な装飾の絨毯などが目に付く。ボリビアからペルーに戻ったため街行く人々が人懐っこく、店員のお姉ちゃんも可愛い。そうしてとあるアルパカ製品店で品定めをしていると、見覚えのある二人組みにばったり出会った。そう、ナスカの遊覧飛行で一緒だったドイツ人夫妻である。アレキパ行きのバスでも一緒になりその後の行程も似ていたので、またどこかで会えたらいいねとは話していたが、こうしてまた偶然にも再会できるとは!。早速三人でご飯を食べに行く。
 このドイツ人夫妻は、旦那は物理学者で奥さんは心理セラピストとのこと。年齢は45歳前後で、相当金も持っているのだろうが、いかにもドイツ人という質実剛健さが微笑ましい。毎年年末に1ヶ月ぐらいかけていろんな所を旅行しているようだ。彼らはアレキパで、私も行きたかったコルカル渓谷の一泊二日のツアーに参加したらしい。標高が4000m以上の所へ泊った時には寒くて凍え死ぬかと思ったようだが、二日目はお目当てのコンドルも見られてまずまずだったとのこと。しかし、予想通り25日にバスが動いていなかったので、飛行機でプーノまできたようだ。
 酒は呼吸を抑制して高山病を発症させ易くするとのことだが、ドイツ人が飲まないはずがない。私も一緒に、ペルー名物のピスコ・サワーというマルガリータのようなカクテルで再会を祝い、さらにクスコのビール:クスケーニャを2本空ける。食事はティティカカ湖名物のトゥルチャ(鱒)のから揚げ。日本の鱒より随分大きく油も乗っていて美味しい。高学歴夫婦だけあって、話は自然と政治経済へ。彼らはとにかくアメリカの一極支配を危険視しており、イラク戦争の例をあげつつ、アメリカは世界で独裁者の如く好き放題していると強く批判。冷戦が終わったことによりドイツの戦略的価値が下がり、アメリカの奴隷に成り下がってしまったと、将来を悲観視している。いやいや、ドイツやフランスの政府は随分と頑張ってアメリカに反対しているではないかと慰めてあげたが、結局何も止められなかったと、特に英語が苦手な奥さん側の憤懣がすさまじい。日本にいると中々伝わってこないが、欧州の人々は傍若無人な米国を相当嫌っているようである。
 今回旅行して面白かったのは、こちらで出会う(自由)旅行者は殆どが欧州人だということである。東南アジアを旅行すると数多くの欧州人に出会う。彼らは本当に旅慣れており、3週間、1ヶ月、2ヶ月と少数民族の村へのツアーやビーチリゾートを楽しむ。アメリカ人に会わないのは遠いからであり、その分ペルーでは数多く会うのではないかと予想していた。ところが、ここでも出会うのは欧州人ばかりである。彼らはスペイン語を巧みに操り、東南アジア同様軽快に大人の旅行を楽しんでいた。結局アメリカ人にとっての海外旅行とは、欧州のパリやロンドンなど主要都市へのパックツアーか、それこそ属国と思っているカリブ海の国々への避寒ということなのだ。クリスマス休暇には国民揃って大移動するのだが、確かに行き先と言えば、カンクン、ジャマイカ、ナッソーなど、英語が不自由なく通じ、自国と何ら変わらない便利な生活ができるところばかりだった。「国際的に見えて最も国際的でない国民とはアメリカ人」ということを、ここでも痛感した。

Lティティカカ湖の島々へのツアー
 12月27日、満を持してティティカカ湖の島々へのツアーに出かける。今回の旅行で一番期待していたティティカカ湖でのウルルン滞在記。アマゾンツアーはやや期待はずれだったが、今回は島に渡り、本当にインディヘナの家に泊るのである。8時半にティティカカ湖畔に停泊しているモーターボートに集まったのは、イギリス人カップル、ドイツ人カップル、オランダ人Xスウェーデン人のカップル、イスラエル人の老夫婦、ノルウェーの男二人組み、それからオランダ、イギリス、アメリカ、ドイツ、カナダの女性が一人ずつと、日本を代表して私である。今回は多数が英語を得意とするので、ペルー人ガイドによる説明も英語中心になった。
 まずボートに乗って40分ぐらいでウロス島に着く。ここは本当の島ではなく、ティティカカ湖名物のトトラ葦で造られた浮島である。何軒もの家が並んでいるその島に早速上陸する。確かに島だ(写真)。が、所によっては強く踏むと水が溢れてくる。そういう所には、また葦を束ねたものを重ねて行くとのこと。このような島が40ほど浮いており、合計700名が生活している。大きな島には学校や教会もある。島と島との移動に使われる船もその葦で出来ているというから驚きである。
 その後更に3時間ぐらいボートに乗り、今度は本当の島に上陸する。ここが今晩の宿があるアマンタニ島。周囲6kmで4000人が住んでいる島だが、船着場にホストファミリーが迎えに来てくれている。ここで16人のツアー客を2、3人ずつ割り振るのだが、私はボートの中で仲良くなったノルウェー人二人組みに入れてもらう。エルダという民族服を着た40歳ぐらいのいかにもインディヘナというおばちゃんに連れられて、すぐ近くの家に行く(写真)。赤土で造られた見なれた家の一室が、我々ツアー客にあてがわれる部屋になっている。トイレもシャワーも無いものの、意外にもちゃんとした部屋であり、ちゃんとしたベッドが4つあった。
 そこでランチを食べるということで、エルダが用意をしてくれている間に、5歳ぐらいの娘のマデバネッサと遊ぶ。と言っても向こうはスペイン語を勉強している最中だし、こっちはスペイン語が更にできないので、全く会話にならない。それでもこちらに関心をもってくれているようで、スペイン語のワークブックを見せたり、その家で飼っているアルパカをわざと追い回してはしゃいでいる。ランチは、島の人々が食べているであろう質素なものだった。ぱさぱさのご飯に芋をゆでたようなものと、何とチーズまで乗せてある。混ぜて食べるのだが、余り美味しいとは言えない。その他、やはり芋が入ったチキン風味のスープも付いていた。ノルウェー人は半分以上残すが、私は頑張って食べる。
 その後ツアー客全員が集合し、島の頂上に向けてトレッキングする。大きな山ではないが、海抜3890mの上の+300mである。相当辛かったがそこはガイドも心得ていて、休み休み登る。頂上からは360度ティティカカ湖が一望でき、夕日は最高だった。ツアーの仲間とは一通り話をして仲良くなるが、やはり同部屋のノルウェー人二人組みと息が合い、基本的に彼らと行動を共にする。ヤコブとトーライフ、35歳のスマートだけど気さくなお兄ちゃんという感じ(写真)。スカンディナビア人らしく、人当りがよく、冗談を飛ばしつつでもしっかりしているやつらである。ノルウェー語ができない日本人がくっついて回ったらうっとうしいであろうに、さりげなく気を使って仲良くしてくれる。仕事の話、生活の話、お互いの国の話、いろいろ語り合った。
 その後ホストファミリーの家へ戻り、夕食をご馳走になる。殆ど昼食と同じようなメニュー。ノルウェー人がビールを飲もうと言い、ホストファミリーから買う。大瓶一つが7ソル(=210円)と、プーノの二倍。冷蔵庫なぞあるはずもないが、高い標高のため十分に冷えていた。ティティカカ湖に乾杯!(右写真)。21時頃にポンチョに着替えて再度ツアー客が集まり、ホストファミリーも交えてダンスパーティーが始まる。島唯一の集会所のような建物で、アンデス情緒たっぷりのフォルクローレの生演奏に合わせてダンスが始まる。島民からツアー客を誘い、男女が組みになって踊る。正面を向き合って手を握り、前後にステップを踏む単純なものだが、標高のせいか結構疲れる。でもかなり盛り上がり、全員で集合写真も撮った(下写真)。
 22時頃になり、そろそろ我々三人組も帰宅することにする。ホストファミリーも一緒だ。島には電灯が無く夜になると真っ暗になるので、先導がなければ家まで辿り着けない。勿論懐中電灯が必携で、マデバネッサの手を引くエルダを先頭に、我々も斜面を下りて行く。何の煌びやかさもない島だ。しかし、ティティカカ湖に囲まれた星明りしかない暗闇とはこういうものかと、ふつふつと感動が込み上げて来る。目が慣れてくると、湖や家々がうっすらと見えてくる。家の側まで来た所でホストファミリーにはおやすみを言って先に帰ってもらい、男三人で湖岸へ向かう。ティティカカ湖に向かって並んで立小便をし、ポンチョを着たまま草地の上に川の字に寝転ぶ。こんなにきれいな星空を見たことはない。真上にオリオン座が瞬いている。天の川も流れている。ナスカの地上絵よりもずっとはっきりと!。ひと頻り三人で喋った後で家へ戻りそのままぐっすりと眠る。この夜の情景は、一生忘れられないだろう。
 ツアー二日目。パンの朝食を食べ、8時にアマンタニ島を出発する。ホストファミリーが波止場まで見送りに来てくれる。何をしたという訳でもないが、熱い想いが込み上げてきた。その後ボートで別の島へ向かい、ひと頻りトレッキングしてランチを食べ、プーノへ戻る。これで一泊二日、三食、交通手段、ガイド付きのツアーは、一人40ソル(=1200円)。物理的サービスの質が違うとは言え、アマゾンのジャングルツアーの1/7。しかしこちらの方が比べものにならないぐらい楽しく、ティティカカ湖を肌で感じることができた。優しいホストファミリーや最高の仲間にも恵まれ、想い出に残るウルルン滞在記になった。

Mアンデス版・てっちゃんの旅
 さて、私は(元)てっちゃんだが、てっちゃんであれば海外でも鉄道に乗りたくなるものだ。バスで行ける所でも、多少お金がかかっても鉄道があればそちらを選択するのだが、欧州を除けばなかなか海外で快適な鉄道の旅は期待できない。ここペルーも例外でなく、バス網に比べて鉄道網は殆ど発達していない。しかしながら、この憧れのアンデス高原を縦断する鉄道があるという。かつて「世界の車窓から」で見て以来絶対に乗ってやるぞと固く誓っていたこの高原列車に、いよいよ12月29日に乗ることになった。
 大変気に入った心の故郷プーノを午前8時に出発する(写真)。ペルー鉄道のディーゼル機関車が牽引する客車は、一等車と二等車が一両ずつ。それ以外に荷物車と乗務員が食事の準備をする車と、更に最後尾のラウンジカーの5両。これだけ短いということは、バスに押されて人気がないということか。クスコまで10時間の旅であるし、できれば一等車に乗りたかったのだが、これは$84というのでさすがに諦め、$14の二等車に乗る。二等車と言っても観光車両であり、日本の一昔前の急行列車のような4人対面式の座席で、背は倒れないものの不自由はない。席は半分も埋まっておらず、私は1ボックス(4人分)で一人だった。
 プーノを出発すると、1時間ぐらいはティティカカ湖から続く湿地帯だったが、フリアカという街で停車してからはいかにもアンデス高原という草地が続く。海抜4000mの高原でありながら果てしなく草地が続き、その向こうには緩やかな稜線を描く丘陵が広がっている。勿論、草地ではアルパカやリャマが放牧されている。まさに、「とんでもない所に来てしまった」感でいっぱいだ(写真)。列車は最高時速50kmぐらいで、ゆっくりゆっくり進む。何せ1日一往復しか列車が走らない路線である。線路の柵も無ければ踏み切りもない。だから列車が道路などと交差する時にはしつこいぐらい汽笛をならす。街中では、線路の上が市場になっていたりするので、列車が通過する時には一騒動だ。露店などにすれすれになりながら、列車はそろりそろりとすり抜ける。
 そうしてアンデス高原を少しずつ上って行く内にお昼頃になる。一等車はさすがにフルコースの食事付きだ。私が乗っている二等車には付いてないが、車掌がオーダーを取りに来た。同じものが$10とのこと。食糧を持ちこんであったのでこれは断り、私の昼食は1ソル(=30円)で済ませた。この頃になると、草地の丘陵の後ろに雪を頂いた山脈が見えてきた。そうこうしている内に、午後13時半頃に標高4319mのラ・ラヤ駅に到着した。ここはこの路線の最高地点であり、今回の旅行の最高地点でもあるのだが、いくつか赤土の家が見えるだけで、別に何があるというわけでもない。10分間の停車だということなので、慌てて列車から降りて写真を取る(写真)。さすがに空気が薄い。このわずかの時間のために、近郷の村々からは物売りが大勢詰め掛けている。
 列車が走り出すと、比較的大きな川が現れた。しかも川の流れが逆になっている。風景もこれまでの高原の草地から、川沿いの畑や村に変わった。とうもろこしなどがしっかりと栽培されていることが見てわかる。列車が大きな汽笛を鳴らして通ると、インディヘナの子供達は大喜びで手を振る。放牧されているアルパカは怖がって少しでも線路から離れようとするが、牛などは気にもかけずにむしゃむしゃと草を食べ続けている。家々からは犬が勇ましく走り出て、ワンワンと吠え掛けてくる。その内ふと気付いたら、プーノで乗ったときから目の前に置いていたミネラルウォーターのペットボトルが凹んでいた。触ってもその凹みは直らない。標高が随分と下がってきたのである。
 こうして18時、列車は標高3360mのクスコに到着した。400kmを10時間であるから、平均時速は40kmになる。途中、並んで走るバスや車に次々と追い抜かれていった。これでは乗客が減るのも無理もないかもしれない。しかし、私にとっては忘れられない鉄道の旅のひとつになった。景色が次々と多彩に変化していったわけではない。対向列車とすれ違ったのは1回だけだし、停車駅も二つしかなかった。風景は始めから最後まで基本的にアンデス高原であった。しかし、時間をかけて少しずつ顔色を変え、列車を温かく見守り続けてくれたところに、アンデス高原の懐の広さとこの路線の面白さがあったのではないかと思う。

Nペルー最大の観光地:クスコ
 クスコはペルー最大の観光地である。インカ帝国の古都として美しい街並みを誇り、かつ郊外に様々な遺跡を持つ。その中でも、1911年に発見されたマチュピチュの遺跡は世界的に有名だ。ラパスで会ったイタリア人も、「クスコは最高だ、旅行者天国だ」と言っていた。12月29日の夕方、鉄道駅からタクシーに乗って目当てのオスタル・ビレイへ向かう。クスコの中心地であるアルマス広場に面したそのオスタルは、何と満室とのことだった。今回の旅行ではオフシーズンのためかどこの宿も空いているようで、通常価格よりも安く泊れることも多かったが、満室とは初めてのこと。焦らずアルマス広場から歩いて2,3分のオスタル・サンイシドロ・ラブラドールへ向かう。そこはチェックインできた。一泊$25。ここもほぼ満室だったようだ。やはり年末ということで旅行客が多いのか、それともクスコだからか?
 ここクスコの最大の目玉であるマチュピチュ観光は、クスコから鉄道で1日がかりで行くことになっている。片道4時間(と言っても114km)の往復チケット$54(一等車は$90)と、終着駅からマチュピチュの遺跡までの往復バス(片道20分)$9、そして入場料が$20である。ペルー観光のハイライトでありかつ独占状態であるためべらぼうに高い。これらに英語ガイドと宿から駅までの送迎を付ける旅行会社の1日ツアーは$110〜だ。金額はともかく、現地で4時間しかない滞在時間を有効に使うため、私はツアーではなく独りで行動したかった。そこで30日の朝、鉄道駅へとチケットを買いにいく。問題無く1月1日・元旦の窓際の席が取れた。これで一件落着。元旦までの二日間はクスコ市内と郊外の観光に費やす。
 クスコは前記の通り、いかにも外国人観光客好みのする街である。アルマス広場の周辺には、旅行会社、おしゃれなレストランやカフェ、ショップ、手ごろな宿などが集中している。すり鉢状の街には石畳の道が広がり、こぎれいな上に開放的な雰囲気で、必然的に外国人観光客がたむろし易い(写真)。するとさらに集積度が増し、政府も治安に力を入れるということで、クスコが気に入って何週間も滞在する欧米人も珍しくないという。欧米人旅行者も多かったが、ここでは日本人にもかなり出会った。今回の旅行ではここまで日本人には殆ど出会わなかったが、クスコではそれらしき人々をよく見かけたし、日本からのパックツアーの集団にも遭遇した。年末だからということもあるだろうが、かつクスコだからであろう。ペルーへのツアーでクスコ(マチュピチュ)へ行かないことはまず有り得ないからである。

Oペルーの「食」は最高!
 さて、この辺りで旅行の大きな楽しみのひとつである「食」についてまとめておきたい。ペルーの「食」は、はっきり言ってレベルが高い。アルゼンチンより全然美味しいし、モロッコより種類豊富で、味付けについてもアメリカとは違い繊細で日本人の口によく合う。太平洋の鰯やイカなどの魚介類、アルゼンチンから輸入される牛肉に鶏肉、アマゾンの巨大魚パイチェ(ピラルク)にティティカカ湖のトゥルチャ(写真)。淡水魚でも育つ器が大きいからか、魚もグランデで味もさっぱりしていた。調理法としては、日本と同じようなから揚げが多いが、焼いたり蒸したりもある。味付けは塩や鶏がらっぽいものが中心で、特別辛かったり突拍子もないものはない。魚介類のシチューやニンニクのスープも、なかなか奥の深い味で感心した。
 主食は米と言って良いのではないか。メイン料理が米に乗っかって出てくることが多く、長粒種でパサパサしているが、やはり日本人にとってはありがたい。その他、芋やとうもろこしもよく食べる。パンも勿論食べられており、ホテルの朝食は大体コンチネンタル式だった。またペルーは華僑が多いため、中華料理も人気だ。どの街にも中華料理店があるし、チャーハンはChaufaと呼ばれて普通のペルー料理店でもメニューにある。リマの中華街では飲茶もした。
 ペルーならではの名物としては、セビーチェという魚介類と紫玉葱にレモン汁をかけたマリネのような料理。私は酸っぱいものが苦手なので余り好きにはならなかったが、どこの街でも見かけた。それからクイ・チャクタードというモルモットの空揚げ。もともとが小さい動物なので骨と皮ばかりで食べづらかったが、姿焼き状態で味付けは良かった。アンデスに放牧されているリャマのステーキも食べた。やや硬い肉だったが、これも味付けはよかった。
 更に飲み物やデザートも舐めてはいけない。果物が豊富で、目の前で絞ってくれるオレンジジュースとパパイヤジュースには本当にお世話になった(左写真)。名物の焼きバナナも甘くて旨みたっぷり。海岸沿いの砂漠のオアシスでは、チリと同じ気候を活かしたワインが有名だし、ビールも美味しい。特にクスコの黒ビールはコクと適度な苦味があって大変気に入ってしまい、高地にも関わらず毎晩飲んでいた(右写真)。高山病に効くと言われているコカ茶(コカの葉のお茶)もよく飲んだ。観光客用のお洒落なレストランのディナーは飲み物込みで800円〜1200円、街の食堂なら200円〜400円、道端の屋台なら100〜200円程度。旅行中軽い下痢はしたが、全般的に食生活は満足できた。

Pマチュピチュの空中都市
 2004年の元旦。朝5時に起き、タクシーで鉄道駅へ向かう。いよいよマチュピチュ観光の日である。6時15分の定刻通りに、アグアス・カリエンテス往きのその名もバックパッカ−号は出発し、渓谷に沿って下って行く。列車は満員ではなくボックスに私一人だったが、同じ車両にこてこてのアメリカ英語を喋る20人ぐらいの集団が乗り合わせていた。その集団は朝っぱらからみんなで大声で喋り、けたたましく笑い、真に元気が良かった。そのうち45歳ぐらいのおやじが私のボックスまで来て、斜め前の空席に無言でどっかと座った。さらに靴を履いたまま足を私の隣の席にのせ、そこから他のメンバーと大声で話し始めた。
 面白いのは、このアメリカ人が私には全然話し掛けないことである。アメリカ国内では、ちょっとエレベーターに乗り合わせただけでも、すぐに"Hi, how are you?"と初対面の相手に気軽に声をかける文化を持っている国民が、国外では「外国人」に喋りかけないのだ。欧州人旅行者は、やや儀礼的なこともあるが声をかけるし、いきなり靴を履いたまま足を投げ出したりはしない。ラパスからプーノへのバスでも、隣の席があいていたのでカバンを置いていると、後ろに座っていたアメリカ人がそこにきて、椅子をドンドンと叩いてカバンをのけろという仕草をしている。のけてやると、黙ってどっかと座り、その後もこちらに顔を向けもしない。そういうことがあった。結局終着駅まで、その集団は楽しく会話を続け、それ以外のイギリス人やドイツ人の乗客は迷惑そうな顔をして黙っていた。
 午前10時過ぎに列車はアグアス・カリエンテスに着いた。この駅はその名も「お湯」であり、温泉が沸くマチュピチュの遺跡への入り口となる小さな村だが、ここでバスに乗り換えなければならない。私は列車を降り、メンバーが集合するのを待っている他のツアー客を尻目に、一人でとっととバス乗り場へ歩いていった。私が乗るとすぐにそのバスは出発し、日光のいろは坂もびっくりのつづら折りの坂道を登って行く。このいろは坂はマチュピチュが発見されたから造られたのであり、そうでなければこんな坂を作る必要はなかったという程急峻である。アグアス・カリエンテスは海抜2280mだが、そこは中国の桂林を思わせるような釣鐘状の山に周りを囲まれた谷間である。いや、山の集積度から言えば、桂林以上に深い谷底という印象だ。そこから400m登ったところに、かのマチュピチュの遺跡はある。即ち、鋭く尖った山の上に遺跡があるのであり、谷底からはいくら上を見上げても全く見えない。だからこそ、マチュピチュは400年間も眠ったままだったのである。
 10時半頃、バスがマチュピチュの入り口に到着した。ここもまたとっとと降りて、入場券を買っていよいよ遺跡の中に進入する。10分ほどかけて熱帯雨林の中を高台に上って行くと、突然目の前に視界が開けた。そこにはペルーの観光案内に必ず掲載される写真通りの、マチュピチュの遺跡が広がっていた(写真)。これは・・・すごい。山の頂きにある猫の額のような狭い平地に、びっしりと石が積み上げられている。これがマチュピチュの遺跡だ。その周囲、即ち山の斜面には段段畑が連なっており、その下は先程自分がこの足で立っていた川までず〜っと断崖絶壁が続いている。そしてこちらの山は・・・川を挟んで同じような絶壁の山々に囲まれているのである。「どうしてこんな所に?」、「どうやってこの石を??」。そう溜息をつかざるを得ない。まさに遺跡全体が、空の上に浮かんでいるように見える。だからマチュピチュは、「空中都市」と呼ばれるのである。
 10分ぐらいその高台に立ったまま、眼下に広がる光景に呆然と見とれていたが、遺跡の方へ道を下り、ゆっくり遺跡を見て回る。「太陽の門」、「3つの窓の神殿」、「日時計」、「王女の宮殿」、「太陽の神殿」、「水汲み場」、「貴族の居住区」、「庶民の居住区」、「牢獄」など、様々な遺跡が残っており、これらの周りに広がる段々畑と併せて都市機能を構成していたことが解る。中央の広場にはリャマやアルパカが放牧されており、今はのどかな雰囲気であるが、昔はここに1万人もの人々が生活していたのだと言う。何とインカ帝国の文明は偉大なことか!!。
 遺跡の奥に、ワイナピチュと呼ばれる小高い丘が控えている。丘と言ってもそれは切り立った崖であり、マチュピチュの全景写真の背景の中心になっている山である。この頂上からは、別角度のマチュピチュが見られるということで、登ることにする。距離にすれば片道1〜2kmぐらいだと思うのだが、とにかく切り立った斜面で足元も危ない。その上マチュピチュは大変暑く、汗が噴出してきた。それでも休み休み、1時間近くかけてその頂上に立った。そこから眺めるマチュピチュもまた圧巻であった(写真)。
 マチュピチュは熱帯雨林の中にあり、標高2700m程度である。非常に天気が変わりやすく、15分おきぐらいに霧がかかってはまた晴れていた。霧がかかっている時には視界が全く無くなるが、それが移動すると徐々に隠れていた遺跡が浮かび上がってくる。ワイナピチュから下山して遺跡に戻ってきてからも、そんな幻想的な光景をしばらく眺めてぼーっとしていたが、15時前にマチュピチュを跡にしてアグアス・カリエンテスに戻り、列車に乗り込んだ。
 こうして20時半にクスコ駅に到着。ちょっとラーメンでも食べて宿へ戻りたい気分だったので、先日見つけた中華料理店に寄ってみる。窓に貼られているメニューを外から眺めていると、窓越しにすぐ目の前の客が窓をドンドンと叩き始めた。何と、ナスカで一緒になりプーノで再会した、あのドイツ人夫妻ではないか!。プーノの後クスコへ行くとは言っていたが、こんな大きな街で出会うとは!。その夜もビールを飲んで熱い議論の続きをした(写真)。

Qペルーの観光名所とインカ文明
 こうしてペルーの最大の名所・マチュピチュの観光は終わった。それは、今回の3週間に亘るペルーの旅の最後の締めだった。クスコに限らずアレキパやリマにおいても、ペルーの市内観光と言えば、カテドラル(大聖堂)やサンxx寺院、修道院ばかりである。確かにそれらは美しく豪勢だが、征服者スペインがもたらした建築物であり、中に飾ってある絵はいかにも中世ヨーロッパと言う宗教画ばかりである。何よりも、それらの大元であるキリスト教自体が、スペインより強制的にもたらされたものであることは言うまでもない。即ち、16世紀にフランシスコ・ピサロがここペルーに侵入し、当時のインカ皇帝を騙し討ちにしてインカの偉大な文明を破壊し尽くし、膨大な金銀を奪って欧州へ持ち帰った。その破壊の上に新たな建造物や宗教をもたらしたのであり、市内観光ではそれら16世紀以降の芸術・文化しか見られない。インカ時代の建造物や芸術は殆ど残ってないのである。
 そして今、市外にあるスペイン侵略前のいくつかの遺跡、即ちマチュピチュなどが観光の最大の吸引力になっているというのは、真に皮肉としかいいようがない。外国人がわざわざペルーまで行って、いくら壮大な中世ヨーロッパ風の教会を見せられても面白くも何ともないのは当然であり、だからこそみんなバスや鉄道で何時間もかけて、クスコの郊外へとインカの遺跡を見に行くのである。そして、国民の半数以上を占めるインディヘナ、即ちインカの末裔達は、今でも国内の貧民層を形成しており、それら自らの祖先が残してくれた偉大な遺産(観光資源)からの恩恵を十分に受けていないのが現実である。
 この地域ではたびたび地震が起き、その度にインカ時代の石組みは崩れず、その上に立てた欧州式の建物は崩れ去ってきたとのことだが、どうしてそれほど偉大なインカ帝国が、僅か200人のピサロ率いるスペイン軍に負けたのか?。当時インカ帝国では後継者争いが起きておりそこに付け込まれた、またインカ軍は夜戦わないなど戦争に対する考え方が異なっていた、などいろいろな解釈があるらしい。これについて例のドイツ人夫妻は、「それは軍事技術の水準の差が原因であり、まさにアメリカによるイラク爆撃と同じ構図だ」と断言した。即ち、スペインは火器というインカが持たない兵器を持ち込んだ。また、インカには軍隊用の馬が存在せず、騎馬隊による攻撃に恐れをなしたという。
 いずれにしろ、一つの大きな文明が根底から滅び、全く異なる文明に同化させられ、言語から人種構成、民族文化まで大きく変えられ、今でもその子孫たる多数の人々が従属的な地位ながらも大地に根を張って生きているという、そのような恐ろしいことが何世紀にも亘って実行され、その結果それ以前とは全く異なる現実が目の前に存在している。それが南米世界である。確かに人類の歴史は侵略と戦争の歴史であった。しかしそれは、国境を接している多少なりとも近隣の民族同士が、領土を奪い合うというものが多かったのであり、かつそれは長い歴史の中で繰り返され、長期的に少しずつ文明や文化に影響を及ぼすものであろう。その意味では、この南米における16世紀以降の歴史とは、
  ・近代において白人の侵略を受けて現在でも経済的支配を間接的に受けているが、
   文化的・民族的にはそれなりの独自性を維持しているアフリカ
  ・近代において白人の侵略を受けて全てが破壊・否定され、
   ついには大陸そのものを奪われてしまい、拠って立つものを全く失ってしまったアメリカ(原住民)
 とはまた異なる、世界的にも特異なものであると言える。
  ・中世においてアラブ民族の侵略を受け、その宗教に同化させられつつも、
   文化的・民族的にはそれなりの独自性を維持している北アフリカ(ベルベル人)
 に近いような気もするが、アラブ人とベルベル人は人種的にも民族的にも比較的類似しており、ベルベル人の現在の生活様式は短期間で侵略以前のものと完全に異なってしまったとも言い難い。ペルーのインディヘナの人々は、スペインの侵略やその後の植民地支配、そしてその強要された宗教や経済的構造の中で暮らしている現在の自分たちのことを、一体どのように考えているのだろうか?。そこまでの語学力が無く、現地の人々と話が出来なかったことが、大変残念である。

Rリマから東京へ
 1月2日、クスコからリマへ戻る。16日の夜に初めて見たリマは、噂でしか知らなかった治安最悪のペルーの首都であり、不安で一杯だった。しかし、3週間ペルーというものを、ペルー人というものを知った自分にとって、もうリマは怖くはなかった。ボロボロの市バスに乗り込み、危険と言われたセントロも自分の足で歩き回った。確かに日が暮れてくると雰囲気は悪くなってきたが、人が大勢いて活気のある街中では、殆ど身の危険は感じなかった。
 1月3日の夜、オテル・サンアントニオ・アバドのペドロおじさんの車でリマ国際空港へ向かう。このホテルはクスコから帰ってきた今度も泊まったのだが、出迎えは無料だが送りには$10かかる。これは相場の二倍近い値段であり、今となってはこの1/20の値段でバスに乗って空港まで行くことも怖くなかった。しかし、一番初めにお世話になったペドロおじさんに「是非とも送りたい」と言われると断れず、最後も送ってもらうことにした。
 22時半過ぎに空港に着いた。夜の空港は相変わらず人でごった返しているが、全ての人に警戒心を抱いていた12月16日とは、明らかにこちらの気持ちが違う。恐らくここにいる人々の多くは、16日の夜にも同じ所にいたであろうが、その彼らの顔が今では人懐っこく見えるから不思議だ。こうして翌日の0時20分にコンチネンタル航空はペルーの大地を後にした。4日の朝にNYに着き、更に飛行機を乗り換えて東京に到着するのは5日の午後になる。

 ペルーはやはり遠い。だからこそ、そこには日本人が日本にいては想像できないような、興味深い世界が広がっており、「異なるもの」に溢れている。そこには独自の歴史や文化があり、そこにいる人々にも独自の生き方や考え方がある。そういう、自分とは「異なるもの」に触れるのは面白い。実際にそこに行ってみれば、そこにいるのは自分と変わらない普通の人々であり、異国人に対して敵意を抱いているどころか、心から歓迎してくれることに気付いたりもする。そして人々に魅力がある大地は、世界中から魅力ある人々を惹きつけ、そこではいろんな人々に出会うことができる。
 これは、私が大学時代にアイセックを通して学んだ、最も大切なことだったと思う。それを、恐らくここ数年余り意識していなかった大切なことを、改めて肌で感じることができた。それがこのペルー旅行で得た最も大きなものではなかったかと思う。アンデスという日本では考えられない空間を旅し、いろんな人々と出会って様々な話しをし、自分自身のことを考えた日々。ペドロおじさん、スイス人二人組み、イタリア人夫婦、ドイツ人夫婦、ノルウェー人二人組み、ユーラ温泉のペルー人家族、そして私に声をかけてくれた全てのペルー人やボリビア人に、心からグラシアスと言いたい。

皆様の感想をお寄せ下さい。
掲示板、並びに高橋洋arnie@pf6.so-net.ne.jpまで。
Back to 投稿-index
Copyright (c)2004 K.Horiuchi-H.Takahashi Allright reserved