果てしない大地・アフリカ
高橋 洋 2007年3月
 人生四度目の卒業旅行。バックパックを担いで一人で長期間旅をするのは、さすがにこれが人生最後になるだろう。その行き先は大学院に入学する前から決めていた。アフリカである。
 これまで数多くの発展途上国、一般の日本人は中々行かないと思われる「とんでもない所に来てしまった感」満点の僻地、想像を絶する壮大な自然と大地、見たことも聞いたことも無い異質な文化に触れる旅をしてきた。そんな中で未だ訪れていない大陸はアフリカである。オセアニアには行っていないが、年老いてからでも楽に行けるだろう。南極は・・・興味がないわけではないが、ちょっと想像がつかない。アフリカは実は行ったことがある。モロッコとエジプトだ。しかしそれらは、アラブ文化圏の北アフリカと呼ぶべき国々であり、真のアフリカとはやはりサハラ以南のいわゆるブラック・アフリカであろう。南米に行く時にも、地球の裏側に全く異質な世界が存在すること自体に強い憧れを持っていたが、地球上で同様の印象を持つ大陸はブラック・アフリカしか残っていなかった。
 このようなアフリカに対して日本人が想い描く典型的な情景とは、やはり野生の王国ではないか。富士サファリ・パークとは次元の異なる本当のサファリを体験したい。果てしなく続くサバンナを駆け巡るライオンやヌーの群れ、象やキリンを間近に見てみたい。そのようなことを夢見る日本人は少なく無いだろうが、何と言っても日本から遠いし危険、黄熱病やらエイズやら大変そう・・・そういうとんでもない所だからこそ、ずっと前から行ってみたかった。果てしないサバンナの上で躍動する野生動物を目の前に眺めること。これが、今回のアフリカ旅行にかける第一の目的であった。

@2月25日〜27日:日本から首都ダルエスサラームへ
 日本からアフリカへ行くにはいくつかの経路がある。サファリは南アフリカやザンビアでも体験できるが、大平原における本格的なものを望むならば、ケニアやタンザニアといった東アフリカだ。サファリ・ツアーで一番有名なゲート・シティーはケニアの首都ナイロビとのことだが、ナイロビは非常に治安が悪いとのこと、タンザニアにあるアフリカ最高峰のキリマンジャロも見たかったこと、更に第二の目的であるタンザン鉄道はタンザニアから出ていることから、ナイロビは避けて直接タンザニアの首都・ダルエスサラームに入ることにした。南ア航空、英国航空でも行けるようだが、今回はUAE・ドバイに住む松原夫妻にお会いするオプショナル・ツアーを付けるため、エミレーツ航空になった。ダルエスサラームIN・ヨハネスブルグOUTのオープン・ジョーで、空港税やら燃料税やらを入れて17万円。偶然だが、ダルエスサラームへの航空券の中ではエミレーツが一番安かった。今回はこれに、タンザニア国内線を二便、ザンビアのリビングストンから南ア・ヨハネスブルグまでの国際線一便を事前に予約し、合わせると航空券だけで20万円を超えた。
 2月25日の午後8時40分に日本航空のコードシェア便に乗って羽田空港を発ち、関空を経由して10時間少々でドバイへ。4時間半の乗り継ぎは快適な巨大空港にて寝て過ごし、26日午前10時ドバイ発、午後2時半にダルエスサラームに到着。全搭乗時間は17時間余りでタンザニアへ。さて、ここからが本番である。ダルエスサラーム空港は、ドバイ空港とは全く異なり、発展途上国の中規模都市のそれであった。搭乗口が片手で数えられるほどしかなく、空港内ですらエアコンが十分に効いていない。やや寒かったエミレーツの機内から降りただけで、東南アジアを思い出させる蒸し暑さが襲ってきた。入国審査を受け、税関を通って空港外のフロアに出ると、そこはいつものタクシー運転手の襲来である。荷物もあったためローカル・バスは諦め、素直にタクシーに乗ることにした。レートである10000シリング(=1000円)よりやや高い12000シリングで手を打つ。乗ったタクシーはトヨタのチェイサーだった。この国は、日本車が多いというよりもトヨタ車が多い。タンザニア人に言わせると、国土を走っている車の90%がトヨタ車とのこと。さすがに90%は誇張だろうが、本当にそうかもと思わせるぐらい多い。彼らによれば、第一に壊れない。その上必ずしも高価ではなく、かつこれだけ普及すると部品なども容易に手に入るからとのこと。今回の旅行ではタクシーに乗るたびに、こちらが日本人と分かってそのような話をされた。チェイサー、クレスタ、旧式のカローラやマークUが多く、日本から大量の中古車が輸出されているのであろう。「非常口」「輪島観光ホテル」などと書かれたままの業務用の車も多数見かけた。
 30分で市内に到着。一泊目ということで、自分としては比較的高級(朝食付き$65)なビジネスホテルに泊まることにした。私は海外を旅する場合、基本的に事前に宿の予約はせずに、その街に訪れてから自分で歩いて宿を探すことにしている。発展途上国の場合、宿泊費の目処は5000円以下。最低限の設備が揃った清潔なシングル・ルームで、やはり暑ければエアコンも欲しい。日本のビジネスホテルを想像していただければ良いのだが、途上国では$20〜40が相場である。ドミトリーやトイレ・シャワー共同といったバックパッカーの巣窟も何度か利用したことはあるが、さすがに自分で働くようになってからは避けている。体を酷使する旅行だからこそ、体を休めることは重要だからである。このHeritage Motelは、市街のど真ん中に位置し、ホテルの入り口を毎回ベルボーイが開けてくれる、エアコン付きの快適なホテルであった。40時間ぶりにシャワーを浴びてさっぱりしたら、もう夕方の5時になっていた。一先ず街の雰囲気を掴むため自分の足で歩いてみる。
 ダルエスサラームはタンザニアの首都である。厳密には政治上の首都は別にあるらしいが、事実上の首都(?)はここで、大統領邸や各国の大使館もダルエスサラームにある。が、得てして歴史の無い発展途上国の大都市は、特段見るものが無くつまらない上に治安が悪い。今回も観光というより飛行機の経由といった事務的な必要上からここに寄ったわけだが、その第一印象は、「開発中の地方都市」というもの。街中がぼろくて殺伐としており、開発中というよりも取り壊し中という方が相応しい。バンコクのような何でも飲みこみそうな活気ある大都市ではなく、マラケシュのような伝統に培われた魅力に溢れている古都でもなく、ビエンチャンのような落ち着きと温かさがある小都市でもない。第二印象は、やはり治安の悪さである。皆さんはどのような時に治安の悪さを感じるだろうか?。今回ダルエスサラームで改めて気付いたのは、昼間から大の大人が何をするでもなく道端にたむろしていること。要するに失業者が多いのであろう。次に彼らの目つきである。アジア人は少ないから目立つのか、じろじろ見られる上に、所々にいってしまったような目つきの男どもがいる。これは怖い。こういう人達が、「チェンジ・マネー?」、「タクシー?」、「サファリ・ツアー?」と、次々と声を掛けて近寄ってくる。しかしそれらは、ナスカのような受け流しやすいソフトな客引きではなく、カイロのような一般市民からの歓迎の挨拶の応酬でもない。黒人に対する偏見かもしれないが、何かしら不気味なものを感じてしまうのである。実際アジア人は殆ど見かけず、白人の観光客にもたまにしかすれ違わない。かと言って観光客がいないというのではなく、自分が泊っていたホテルのロビーでは何人も見かけた。いる所にはいるが、危険な街中をふらふら歩いていないのである。午後7時近くなると暗くなってきたので、晩御飯を食べて慌ててホテルの部屋に戻る。
 タンザニアの通貨はシリングだが、物価は日本の1/5〜1/10であろうか。上記の晩御飯は現地人用の小ぎれいなレストランだったが、4000シリング=400円。ここでビールを飲めば500ml瓶一本が1500シリング、ローカル・バスは200シリング、1.5?の飲料水は500シリング。面白かったのは両替である。外貨の中では米ドルが圧倒的に強く、ホテルの宿泊費や航空券代は米ドルで請求される。シリングが安定しないからか、観光客が多いからか、街中の至る所に銀行を含む両替所があったが、何と、$50・$100札とその他の小額紙幣とで為替レートが異なるのである。前者は$1=12700シリングが相場だが、後者は$1=12200シリング程度に落ちてしまう。米国本土では殆ど見かけない$50札や$100札だが、こんな所で重宝されているとは思いもしなかった。更に、クレジット・カードは受け付けてくれないことが多く、私が泊ったホテルですら4%の手数料を取られ、更にシリング立てのレートは6%程度悪かった。一方でT/Cで払えるかと聞いたら、手数料として別途$15がかかると言われた。ドル・キャッシュが強く、クレジット・カードやT/Cではレートが悪くなることは、南米で嫌と言うほど経験したので、今回は$1300の現金と$600のT/Cを用意した。しかし、空港で国内便の航空券代を払う際に、2000年以前に発行されたドル紙幣は拒否されるなど、初日から両替について悩まされることになったのである。
 海外を旅する際に、私はなるべく現地人と同じ目線で物事を見ることを心がけている。折角日本とは異なる文化や社会生活の国に行くのであるから、そこに住んでいる人々と同じ体験をしないことには何も理解できないと考えるからである。例えば、街中の移動はタクシーではなく自分の足で歩いて回りたいし、市場に行けば現地人の食生活が垣間見られるし、普通のスーパーに入るだけでも物価が肌で感じられる。一方でそのような場所は得てして観光客がうろつく場所ではなく、治安上の問題があることが多い。その最たる例はローカル・バスであろう。これまで、カイロやブエノスアイレス、北京といった中進国の大都市は勿論、治安の悪いリマですらローカル・バスに乗るという蛮勇を試みてきた。大抵のローカル・バスはぎゅうぎゅう詰めで、決して清潔でもなく、何処に行くのか何時降りれば良いのか解らないことも多い。しかしたとえ現地の言葉が十分に通じなくても、バスに乗ってきた外国人が聞き覚えのある地名を連呼していれば、そこに行きたいのだろうと解らないはずが無い。そうすれば車掌はここで降りろと知らせてくれるし、多くの地元の乗客を相手にしている車掌が料金をぼるはずが無い。そして周りの乗客は興味津々で何かと世話を焼いてくれる。
 今回、ダルエスサラームについては治安上の問題から迷ったが、昼間にローカル・バスに乗ってみた。地図で見れば非常に解り易い道筋だったし、行き先(タンザン鉄道のダルエスサラーム駅)は空港から来る時にタクシーから見届けていたため、降りる場所も分かるだろうと思ったのである。バスの行き先を確認して難無く乗車出来たが、まず満席だったため、ライトバンの中で腰をかがめて蛙飛びのような辛い姿勢を強いられた。もう限界に達して降りようかと思った瞬間に、隣の席が空いたのですぐに座る。これで一息が着けた。そこで車内を見まわすと、そのライトバンの中には20名以上の地元民がひしめいているではないか。大きさは日本のミニバン程度なので8名が適当な乗車人数なのかもしれないが、そこに小さな椅子をたくさん並べて15名ぐらい座れるようになっており、その他に背をかがめて立っている人が5名以上いるのである。窓は空いているが勿論エアコンは効いていない。私は大変な暑がりだが、近くにいたおじさんの額からも汗が噴き出していた。やはり赤道直下のダルエスサラームは暑いのである。その内行き先が心配になってきた。私が思い描いていた単純な経路ではなく、地元民の住宅街の中をくねくね曲がって行くのである。考えてみれば、地元民の生活の足なのだからそれは当然かもしれない。しかし、国道を一回曲がるだけで行けると踏んでいた自分は、タクシーから見た覚えが無い下町の景色ばかりが展開して行く中で、本当にダルエスサラーム駅へ行けるのか心配になってきた。しかし、隣に座ってきた恰幅の良いおばちゃんに聞くと、「問題無い。駅の前を通る」と言う。更に時間が気になってきた。タクシーでは15分ぐらいの道程であったため、30分あれば着くだろうと思っていたが、実際は1時間近くかかってしまった。それでもちゃんと見覚えのあるダルエスサラーム駅前でバスが停まり、車掌は「降りろ」と言ってくれた。一つ前の停留所で降りた恰幅の良いおばちゃんは、「次で降りるのよ」と言い残してくれた。目の前に座ってきたムスリムの女の子の三人組は、本当に愛らしかった。実はものすごい危険が隣り合わせになっていたのかもしれない。それでもやはり、ローカル・バスに乗ってみて良かったと思う。

A2月27日〜28日:アルーシャ発のサファリ・ツアー
 アフリカ旅行の最大の目的であるサファリ・ツアーだが、今回は事前に地元の旅行会社と電子メールで連絡を取り予約した。これまでは現地に着いてから旅行会社を回り、翌日からのツアーに参加することが多かった。しかし今回は、愛用している「地球の歩き方」ですら十分な情報が載っていない。そもそもサファリ・ツアーとは、ダルエスサラームから出発するものなのか、国立公園の近くにある街から参加するものなのか、各公園の宿泊施設を自ら訪れるものなのか、「歩き方」には明示されていなかった。後で判った答えは「いずれも可能」なのであるが、日本人のサファリ客の多くは、日本から組まれているパック・ツアーに参加するため、現地での旅行手続きに関する情報が必要無いのではないか。日本からのツアーの場合、ダルエスサラームにしろナイロビにしろ、空港への出迎えから全てが含まれているため、現地で何もしなくて良いことになる。私はその積もりは無かったので、いくつかのガイドブックに紹介されていたタンザニアの旅行会社に直接電子メールを出し、二泊三日で主要な国立公園を回ることを条件として反応を待った。その中で、最も対応が良かったのがShidolya Safari and Toursである。
 シドルヤは、ダルエスサラームから飛行機で北西へ1時間の、ケニア国境に近いアルーシャという地方都市にある旅行会社である。アルーシャは、周りを国立公園・動物保護区で囲まれた、タンザニアにおけるサファリへの最大のゲート・シティーである。そこには数百もの旅行会社があるが、電子メールでやり取りをした結果判ってきたのは以下の三点である。
  ・タンザニアのサファリ・ツアーはアルーシャ発が最も多いこと
  ・4WDに乗車できる(運転手と助手を除いた)4人を基本単位としていること
  ・べらぼうに高価であること
 高価なのは、それがサファリという海外からの観光客のみが参加する特別なものであること、グループ単位当たりの参加人数が4人と少ないために旅行会社側の人件費や固定費がかさむこと、宿泊施設(ロッジ)の数が限られており高級ホテル並み(一人一泊$200〜400)であること、国立公園の入園料がそれぞれ$50と高いことなどによるようだ。例えば三泊四日で三つの国立公園を巡るというアルーシャ発の標準的なツアーの場合、一人当たり$1000が相場となる。これが高価であることは、貧乏旅行に縁の無い皆さんにも理解してもらえるだろう。東京発の8泊9日のサファリ・ツアーの場合、航空券なども含めた込み込みで40万円といった料金が一般的なようだ。決して安くはないが、場所が場所であるためか合計金額としては受け入れられるのかもしれない。しかし、私のようなバックパッカーが現地で参加するには、$1000はちょっと手を出し辛い料金である。
 この相場を下げる方法がある。それは、ロッジではなくキャンプ場に泊ることである。これらの国立公園には必ずキャンプ場が併設されているため、旅行会社が用意したテントに泊り、同行ガイドの手作り料理を食べることにより、一泊の料金を$50程度に抑えることができる。勿論このキャンプ泊にも様々なレベルがあり、ロッジではないものの小屋のような常設のテントで寝泊りし、食事はロッジにて同様のものを取るというスタイルでは、一泊$100程度するという。旅行会社と交渉した結果、私のサファリ・ツアーの見積もりは、原始的なキャンプ泊+三つの国立公園を巡る二泊三日の内容で、$450まで下がった。但し、そもそもテントで泊る経験をしたことが無い者としては、テントの連泊はきついこと、豪華ロッジにも泊ってみたかったことから、プラス$95で一泊をロッジにしてもらうことにした。
 このような木目細かな対応をしてくれたのが、シドルヤ旅行会社である。ツアーを手配するに当たっての最大の問題は参加人数であった。例えば上記の$450の見積もりも、参加者が4名なら$400、2名なら$500とのこと。最も割が良いのは4人のグループであるため、他の全ての旅行会社は、私のような一人旅の旅行客を相手にしてくれなかったが、シドルヤだけは同行者を探してやると言ってくれた。直前まで同行者が固まらなかったが、出発の3日前に上記のような最終の見積もりをもらうことができ、更に前泊を無料で付けてくれた。即ち、アルーシャ近郊のキリマンジャロ空港まで27日夜の到着に合わせて迎えに来てくれ、同社が保有するキリマンジャロ山麓のロッジに泊めてくれたのである。ここも二食付きで、周りを森に囲まれた快適なバンガローであった。嫌が応にもサファリへ向けて気持ちが高ぶってきたところで、28日午前8時半に送迎車でアルーシャ市内のシドルヤのオフィスに出向いたのである。そこで私を待ち受けていたのは、タンザニア人らしい笑みをたたえたジョシュアという信頼できそうなおじさんだった。
 ジョシュアはシドルヤの管理職(マネージャー)だと言う。私が事前に連絡を取っていたのはラザルスという会社代表だったが、結局本人には会えなかった。ジョシュアが言うには、二泊三日のツアーを三泊四日にして欲しいとのこと。私と同行する他のメンバーが是非ともセレンゲティ国立公園に行きたいと言っているが、セレンゲティは遠いので二泊三日では無理だという。セレンゲティはタンザニア最大の国立公園であり、「歩き方」を読んでも非常に魅力的に紹介されていた。それは知っていたのだが、三泊四日になれば更に$100以上高くなること、日程的にも余裕が無いことから諦めていたのだ。しかし彼は、「セレンゲティとンゴロンゴロ(動物保護区)の両方に行かなければ、タンザニアに行ったとは言えない」、「(私がサファリの翌日に訪れる予定であった)モシは大したことは無い」などと理詰めで淡々と説得した上で、予算は$480+ロッジ泊($95)だと言う。即ち、今回払う予定であった料金にプラス$30でセレンゲティまで行けるというのである。
 予定していたツアー開始時刻の30分前にこの話を断れば、そもそも私はサファリに行けなくなるであろうことは目に見えていた。と同時に、私はキリマンジャロを見るためにどうしてもモシに行きたかった。ここに来て解ったのだが、アルーシャからは、そして今回行く予定の国立公園からは、キリマンジャロは見えないのである。じっくり考える時間は無かったが、私は迷った。最後に止めとなったのは、この総額$575の旅行代金をT/Cで手数料無しで払えると言うのである。後で判明したことだが、国立公園はそのドル建ての入園料をT/Cで受け付けてくれるため、旅行客からのT/Cをこちらに回すことにより、旅行会社は一銭も損せずに済むのであった。そこで私は、モシから次の予定地であるザンジバルへの飛行機を一日遅らせることで、この魅力的なオファーを受けることにしたのである。
 こうして私は満面の笑みを浮かべるジョシュアと固い握手を交わし、「アサンテ(=スワヒリ語でありがとう)」と互いに連呼しあった。そして、シドルヤのスタッフに航空会社のオフィスに連れて行ってもらい、航空券の日程変更を無事済ませた上で、予定時刻の9時半にサファリカーが待機する駐車場へと向かったのである。そこには、アメリカ人のロバート、スウェーデン人のヨハンナとエミリーという三人の同行者、そして二名のタンザニア人ガイドが待っていたのである。

B2月28日:サファリその1・ボウボウに毛が生えたマニヤラ湖国立公園
 ツアー一日目はマニヤラ湖国立公園でのサファリであった。ここで同乗者の紹介をしておこう(写真1)。アメリカ人のロバート♂は31歳の弁護士。ワシントンD.C.在住だが、法律事務所を退職して現在長期旅行中とのこと。アメリカ人と言えばアメリカ人だが、それほど独り善がりな所もなく付き合い易い。彼とはテントも同室となった。スウェーデン人のブロンドの♀二人組みは、27歳で長身のヨハンナと25歳で陽気なエミリー。共に数年間働いた後に現在は看護学校に通っており、そこで知り合った同級生とのこと。北欧のバックパッカーだけあって愉快な常識人というところか。3泊4日寝食を共にしたため、みんなでいろんな話をして仲良くなった。日本人一人で飛び込んだにしては、まずまず仲間に恵まれたと思う。そしてタンザニア人のガイドは、運転手のピーターと料理人の・・・名前は忘れた。運転手は全行程を運転すると共にサファリにおいて動物を探す重要な役割を担う一方で、料理人はキャンプ地にてテントの設営や料理を主たる役割とする裏方だ。この二人で旅行客4名の全てのお世話をするわけだが、物理的に前者と一緒にいる時間が長いという理由だけでなく、ピーターの人柄の良さに魅かれ、大変仲良くなってしまった。
 我々の乗ったランドローバーは、昼前にマニヤラ湖国立公園に到着した。ここは、アフリカ大陸を縦断する大地溝帯の一部に出来た湖に沿った、比較的小さな国立公園である。アルーシャから車で二時間と近く、日帰りも可能とのこと。ガイドは早速ここのキャンプ場にテントを張ると同時にランチの準備を始めた。タンザニアにはトヨタ車が多いと言ったが、アルーシャを走っている車の半数はトヨタのランドクルーザーという印象であった。未舗装道路を延々と走るサファリに最適の車だと言う。その他街中では、スズキのエスクードや三菱のパジェロ、トヨタのRAV 4なども見かけたが、一歩郊外に出るとすれ違う車の9割はトヨタのランクルであった。我々の車はたまたま英国車のランドローバーだったが、運転手のピーターもいつかランクルを買いたいという。
 キャンプ場で昼食を済ませた後、早速サファリに出かける。因みに、英語ではこのように車でサバンナに分け入り動物を観察することを、Game Safariという。そもそもサファリとは、植民地宗主国であった欧州人が娯楽としてハンティングをすることを意味したが、現在では原則として禁止されているため、ゲーム・サファリと呼ぶ様になった。更に後に登場するタンザニア人のデービッドによれば、そもそもサファリとはスワヒリ語で「旅」を意味する言葉であり、それをイギリス人などが勝手に動物を追い回すことの意味として広めたとのこと。さて、マニヤラ湖国立公園に入る。未舗装の砂利道をランドローバーはゆっくりと進む。周りは潅木が繁ったちょっとした林だ。早速、キリンが見つかった。目が愛くるしい。続いて、ひひ、インパラと続く。更に象の登場。象は我々を全く恐れていないと見えて、鼻を使って土を自らに振り掛けつつ、道路にまで出てきた。これはでかい(写真2)。若干の緊張感が走る。
 このようなサファリは、人間が動物の保護区に分け入るため一定のルールがある。まず、車は決められた道路からはみ出てサバンナに入ってはいけない。草原を保護し、野生動物と一定の距離を保つためである。次に、人間は必ず車に乗っていなければならない。車から降りるのは危険だからである。しかし車の中にいる限りは、窓を開けようがルーフから身を乗り出そうが、基本的に安全だという。国立公園では野生動物も人間の行動に慣れており、襲う対象あるいは襲われる危険物とは認識していないものの、道路から離れていることが多いため双眼鏡を持っていった方が良い。ロバートが持ってきていたため何度も貸してもらった。自ら近寄ってきたのは、このアフリカ象ぐらいであった。その後、シマウマやヌーなども見られたが・・・何と言うか、やや物足りない。確かに目の前に野生動物がいるのだが、我々がアフリカにイメージするような大平原ではなく、草食動物の大群というのでもなく、肉食動物が一度も現れなかったからか、とんでもなく感動するには至らなかった。失礼を省みずに言えば、富士サファリ・パークにボウボウに毛が生えたという印象だろうか。それでも4時間程度をサファリに費やし、先程のキャンプ場に戻る。
 この夜はここに泊る。私にとって初めてのキャンプ体験だったが、これはかなり辛かった。テントそのものはそれなりにしっかりしており、マットレスの上に寝袋が与えられた。しかし、この夜は蒸し暑かったこともあり殆ど眠れなかった。また、キャンプ場にはトイレやシャワーがあったが、お世辞にも清潔とは言えない。晩御飯はガイドの手作りだったが(写真3)、これもキャンプ場の炊事場でこしらえたものであり、まあ、その程度のものである。翌朝の正直な感想は、これが続くとちょっと苦しい・・・というものだった。

C3月1日〜2日:サファリその2・果てしない平原のセレンゲティ国立公園
 7時に起床し、朝食後に早速次の国立公園へ向けて出発する。いよいよ大本命のセレンゲティである。セレンゲティはマニヤラから更に車で西方に6時間走った所にある。9時には出発したのだが、途中マサイ族の村やアウストラロピテクスの骨が発見された所に寄ったため、到着は夕方になってしまった。この間、全て未舗装道路である。といっても日本の田舎にあるような整備された砂利道ではなく、石がごろごろして穴ぼこもかしこにある。雨が降った後は大きな水溜りができており、そんな中を4WDは最高時速80kmで突っ走る。これには高度な運転技術が要求されると共に、ただ座っているだけでも相当辛い。すれ違う度に砂埃が巻き上がるため、車内や服の上には黄砂のような砂がたまっていく。しかしこの間の景色は雄大にして荘厳であった。
 「セレンゲティ」とは、スワヒリ語で「果てしない平原」とのこと。面積は14763 ku。このような天文学的(?)数字を言われてもピンと来ないと思うが、東京都・千葉県・埼玉県・神奈川県を足し合わせたても足りないとのこと。その名の通り、360度遮るものが無いどこまでも広がる大平原なのである(写真4)。大海原が全て草原になったような印象で、所々に潅木が生えている。まさにこのサバンナこそ、日本人が想像する野生の王国である。その舞台の上にヌーやシマウマが群れている。ここセレンゲティには草食動物が3万頭棲息し、その1/3がヌーであるとのこと。私が見られたのはそのほんの一部に過ぎないが、やはり大草原にはヌーの群れが似合う。ヌーは12月から5月にかけてここセレンゲティで草を食べ、6月から11月にはその北方に隣接するケニア側のマサイ・マラ国立公園に移動するという。これが有名なヌーの大移動である。従って、3月にタンザニアの国立公園を訪れるならば、セレンゲティに行かなければもったいないという訳である。
 到着した時にはもう暗くなりかけていたので急いでテントを張る。二日目ともなると、我々お客様もテント張りを手伝うようになった(写真5)。今晩もキャンプ場だが、ここは昨夜のマニヤラとはかなり違う。シャワーも無ければ洗面所も無い!。トイレはあったが私は使わなかった!。シャワーを使わない代わりにウェットティッシュで体中を拭いたらさっぱりした。昨夜のキャンプ場は厳密には国立公園の外にあり、更にその周りには柵を張り巡らせて野生動物が入って来られないようにしてあった。しかしここは柵も何も無く、ただサバンナのど真ん中に「キャンプ場」と称されているエリアがあり、そこにテントを張って寝ただけ、ただそれだけである。余りにも潔いではないか!。実際夜になると、周囲10mの所まで多数のハイエナが寄ってきていることが、懐中電灯を照らすと判った。サバンナの夜は明るい。何故だか解らないが、漆黒の闇ではなく、月や星は勿論、地平線までよく見える。そして天の川が見えるほど快晴なのに、空の一部では雷が断続的に光っていた。このような壮大な「夜景」を私は見たことが無い。私の技術ではこの夜景を上手く撮影する事が出来なかったのが残念でならない。その夜私はぐっすり眠れた。文明的な施設が何も無いが故に開き直ったからか、セレンゲティの果てしない大地に温かく包まれたからか、この夜の壮大なサバンナの情景は、野生動物との遭遇以上に忘れられない思い出となった。
 翌朝は6時半に起き、簡単な朝食を済ませてすぐにサファリに向かう。朝こそ肉食動物が動き出す時間帯なのである。果てしなく続く平原をランドローバーでゆっくり進む。すぐに日の出に遭遇した。セレンゲティのサバンナは本当に素晴らしい・・・のだが、広すぎるが故に逆に野生動物には余り遭遇できない。遠くにキリン、トムソンガゼルなどは見られるのだが、肝心の肉食動物は一向に現れない。せっかちなエミリーが、「ここにライオンはいないのか」などと運転手のピーターを急かすが、「目の前にいてもおかしくないのだが・・・」と申し訳なさそうに答える。その内、前を進んでいたランクルが急に引き返してきた。ピーターがスワヒリ語で会話を交わす。他の車から無線で連絡が入り、近くでライオンが見つかったという。我々もその車の後を追う。5分ほど疾走し、既に3台の車が集まっている所に到着。確かに草原の中にライオンがいた!。雌の子供が4匹ほど。残念ながら小さい。そしてすぐに見えなくなった。ここの草原は幼稚園児ぐらいの丈があるため、この程度の大きさのライオンが身を潜めると見えなくなるのである。ピーターが言う通り、これまで走ってきた道路のすぐ側にもライオンが潜んでいたのかもしれない。
 その後、シマウマなどの草食動物はぱらぱらと見られるのだが、中々大物が現れない。今回動物の英単語を随分と学んだ。よく考えてみると、これまで自分が知っていた動物の英単語は、そのものであるLionやBuffaloを別にすれば、Elephant、Hippo、Zebraぐらいであった。皆さんは、Giraffe、Rhino、Wildebeest、Warthog、Ostrich、Vultureといった英単語を知っているだろうか?。因みにサファリではBIG 5という言葉があり、ライオン、ひょう、象、バッファロー、サイという人気者の動物を指すのだが、この中でも最も遭遇することが難しいのがひょう:Leopardらしい。ところがそのひょうが見つかった!。ここも既に5台の車が停まっていたが、我々も割り込む。ひょうは木の上で寝そべっていることが多いので見つけにくいとのことだが、その通り木の上にいた。遠くからではあったが認識できた。その後沼地に群れているカバなどを見てキャンプ場へ戻る。もう12時を過ぎていたので急いで昼食を食べ、みんなでテントを片付け、セレンゲティを離れる。

D3月2日〜3日:サファリその3・クレーターのンゴロンゴロ動物保護区
 夕刻到着した最後のサファリ会場はンゴロンゴロ動物保護区である。セレンゲティから見れば、アルーシャへ向かって戻る途中にある。ここは、太古の時代に大きな火山が爆発して出来たカルデラである。日本では阿蘇山のカルデラが有名だが、ここは噴火口の中全てがきれいな平原になっており、264kuの広さがあるという。この中には様々な動植物が固まって生存しているため、観察には格好なのである。クレーター内部の標高が1800mあり、それを囲む外輪山の標高は2400mにもなる。我々はその外輪山の一角にあるキャンプ場に泊ることになった。セレンゲティから随分と登ったため、ここはかなり涼しい。ここの設備もかなり原始的であったが、シャワーがあったので二日ぶりに使う。お湯が出ただけ感謝しなければならない。
 尚、この時点でお気づきかと思うが、事前に望んだ高級ロッジでの一泊はキャンセルとなった。今回の旅程の中で、私一人だけのためにロッジ泊を組み入れることが出来なかったからであった。確かにテントの三連泊はきつく、ロッジも体験してみたかった。とは言え、既に他の三人とも仲良くなっていたし、ここまで来て一人だけでロッジに泊まる積もりもなかったので、特に異存は無かった。勿論、事前に支払った+$95はアルーシャに戻った時に返金された。尚、アフリカに発つ前に、軽部拓氏(TO87)から強く勧められたのはバルーン・サファリであった。その名の通り、早朝に気球に乗って上空からサファリを楽しむというものである。これをケニアにて経験した氏によれば、気球は殆ど騒音がせず超低空飛行のため、野生動物を間近から見下ろすことができ、4WDの車窓とは全く異なる幻想的な情景が展開するとのことで、絶賛していた。事前にシドルヤに問い合わせたところ、この1時間のオプショナル・ツアーは$450とのこと。これだけでもう一回ツアーを楽しめそうな料金だったが、師として仰ぐ軽部氏にそこまで言われたからには、私としてはやる気満々だった。が、このような状況ではこちらも実現しなかった。残念。
 その夜は非常に寒かった。標高2400mなのだから、朝の最低気温は10度ぐらいになったのではないか。持っていった衣類を全て着こんだ。それでも6時半に起きて最後のサファリに向かう。まず外輪山からクレーターの中にゆっくりと下りていく。セレンゲティとはまた趣が異なり、きれいな草原の奥を取り囲むように整った外輪山が並んでおり、これもまた絶景である。これまでに見られなかった、バッファロー、チーター、ダチョウが早速見つかった。やがて進んで行くと、車が10台集まっていた。そこにはたてがみを靡かせた雄のライオンがいた。それも大きな二匹が道端に寝そべっている。かなり近い。やがて草原から道路に出て我々の車の方へ寄って来た(写真6)。手を伸ばせば届く位置まで来て寝転んだ(写真7)。思わず身を車の中に潜めてしまった。ライオンがジャンプすれば、窓から車の中に入りこめることは確実だった。これは圧巻だった。その後20分程度もライオン達はその辺りでごろごろしていたが、我々は満足して離れることにした。
 更に、ヌーやシマウマの大群を見る(写真8)。やはり草食動物は草食動物で素晴らしい。その後別の車から、先程のチーターが狩りをしてガゼルを食べているとの情報が入った。我々が着いた時には既にその肉を食べ終えた後であったが、その代わりに雄ライオンを見られたと思うとやむを得ない。その後も12時頃までクレーター内をうろちょろし、象やフラミンゴ、ハゲワシを眺め、外輪山上のキャンプ場に戻る。結局サイだけは見られなかった。しかし我々は十分に満足した。一番見にくいひょうを見られたことと、目の前で雄ライオンを見られたこと。これはかなり幸運な部類に属するらしい。更に個人的には、セレンゲティの大平原とヌーの大群が気に入った。マニヤラ、セレンゲティ、ンゴロンゴロと、それぞれ景色や見易い動物が異なる三つの組み合わせは正解だったと言えよう。
 運転手のピーターとの交流も、忘れられない思い出となった(写真9)。彼は、アルーシャから東に車で1時間のモシの出身で、年齢は20代後半といったところだが、サファリのガイドの仕事を始めて10年になるという。4日間の運転を全て一人でこなし、かつサファリにおけるガイドを担ってくれた。これは、知識と経験に基づいて動物を探し、見やすい所に停車し、我々旅行客を満足させるという難しい仕事である。「ライオンはどこだ」、「狩りは見られないのか」と勝手なことを言っても、嫌な顔一つ見せなかった。更に非常に人懐っこい性格で、二人で息投合していろいろ語り合った。モシに妻と子供二人を残していること、サファリの仕事のために二週間に一度しか家に帰れないこと、将来は自分でサファリの旅行会社を始めたいこと。そして私だけにこっそりと家族の写真も見せてくれた。
 3月3日の夕方にアルーシャに戻ってきた。3日ぶりの文明社会である。ピーターとの別れに胸に込み上げるものがあった。これでサファリは終わったが、この夜はツアー仲間四人で素敵なギリシャ・レストランで夕食を共にし、久々にビールで乾杯(写真10)!。ヨハンナとエミリーも女性らしいお洒落をしてきた。その後更に11時半からクラブに行こうというので、本当はホテルに帰って寝たかったが付いて行く。クラブに行くのは10年ぶりぐらいだろうか。昔懐かしいユーロビート系の曲をガンガンにかけ満員で多いに賑わっていた。そこで踊っていたのは半数以上が現地のタンザニア人だったのが意外だった。入場料は4000シリング=400円。仕方なく一頻り踊っていたが、着飾った10代の少女が擦り寄ってきたので、午前1時前に一人でクラブを後にする。

E3月4日〜5日:母なるアフリカ最高峰・キリマンジャロ
 キリマンジャロを見てみたい。これはずっと前からの強い想いであり、今回のアフリカ旅行、その中でもタンザニアを選んだ裏の目的であったかもしれない。しかし、サファリを楽しんだサバンナからはキリマンジャロは見えなかった。それならば見える所まで行くしかない。それがピーターの故郷でもあるモシである。モシはキリマンジャロの中腹にある標高800mの小さな村で、キリマンジャロ登山ツアーの基地として有名らしい。キリマンジャロ・コーヒーのー産地でもあるという。この村から出発して4泊5日で標高5895mの登頂を目指すツアーが人気とのこと。さすがにそこまでやる気は無かったが、このアフリカ大陸最高峰にして富士山に勝るとも劣らない綺麗な円錐形をした独立峰を、どうしてもこの目で拝みたかったのである。
 クラブに行って遅くなった翌朝、11時に私が泊っていたホテルで再び4人で待ち合わせることになっていた。彼らもキリマンジャロを見たいというのである。しかし11時にはロバートしか来なかった。ロバートによれば、エミリーとヨハンナに集合時間を念押ししたか自信ないという。仕方ないので二人でローカル・バスに乗ってモシへ向かう。2000シリングで1時間半走ってモシに着いた。そこは、アルーシャを更にのんびり垢抜けない感じにした田舎町だった。外国人旅行者に声を掛ける人の数はアルーシャより圧倒的に少なく、その目つきも鋭くない。英語で場所を尋ねても、ちゃんと通じていない人もいる。アルーシャほど観光化されていないのだろう。
 因みに今回の旅行で一番ありがたかったのは、どこでも英語がほぼ完璧に通じることである。タンザニアもザンビアも旧英領植民地であり、現在でも英語は公用語になっている。ホテルのフロントだけでなく、街中の普通のおばちゃんまでが英語を普通に喋れる。彼らはタンザニア人同士ではスワヒリ語を使っているが、バイリンガルなのである。印象としてはシンガポールやマレーシアにいるような感じか。それでなくても治安が悪く、情報も限られている国を旅行する上で、これは大変心強いことだった。勿論、それだけでは面白くないので、「ジャンボ:こんにちは」、「アサンテ:ありがとう」、「カリブ:どういたしまして」といった単語は連発した。英語で喋っていた相手も、最後に一言「アサンテ」と加えるだけで、顔がほころぶものである。
 さて、モシに到着すると、そのバスターミナルで例のスウェーデン人二人にばったり出くわした。11時に集まることは知っていたが、5分ほど遅れたとのこと。結局4人でとあるホテルの5階にあるレストランでランチを食べる。しかし残念ながらキリマンジャロは見えなかった。明らかに目の前に存在するはずなのに、雲がかかっているのである。昼食後、私だけはその夜モシに泊る予定だったため宿探しをせねばならず、みんなと別れることにした。「もし明日の朝にでもキリマンジャロが綺麗に見られたら、写真を撮って送るからね」と約束した。
 この日で全行程のほぼ半分を終えた。一度ぐらいは日本へ電話をかけようとしたのだが・・・これが思ったより大変だった。まずこの日は日曜日であったため、電話局は閉まっていた。売店のおばちゃんに、「公衆電話からテレフォン・カードで国際電話をかけられないのか?」と聞いたところ、訳のわからないことを言う。「私の携帯電話を貸してやるから、これでかければいい」。これは新手のサイドビジネスかと思いきや、そうではないらしい。「フォカッチャ」、「フォカッチャ」と連呼していたので、恐らく “Phone Card”のことだと思うが、これは日本にある通常のテレフォン・カードではなく、非常に小さい親指の爪ぐらいのICカードのようなもので、携帯電話の内部にはめ込むことにより、前払いの一定金額の通話が可能になるとのこと。従って、その端末の持ち主に課金されることなく、フォカッチャを買った者が料金を支払うことになるらしい。日本ではこんなサービスは聞いた事が無かったので早速利用させてもらったが、5000シリングで5分ぐらい話すことができた。
 因みに、タンザニアでもザンビアでも、エリートビジネスマンでなくても、普通に働いている人ならおじさんでもおばさんでも、誰でも携帯電話を持っているという印象であった。このような変わったサービスだけでなく、電子メールも使っている。タンザン鉄道で隣り合わせになったザンビア人に、「これからビクトリアの滝に行く」と言ったら、携帯電話で撮った滝の写真を見せてくれた。固定電話は十分に普及していないようだが、だからこそ携帯電話が爆発的に普及しているのである。
 翌朝、一日遅らせたザンジバル往き飛行機に乗るために8時頃にホテルを後にする。すると、目の前にはキリマンジャロがその勇姿を見せてくれていた。早速ホテルの最上階に登って写真を撮る(写真11)。やはり美しい。富士山のような鋭角的な美しさは無いが、その分ゆったりどっしりした母親を思わせる。目の前にあるため、これが富士山よりも2000m以上も高いという実感が湧かない。キリマンジャロ空港へ向かうバスからもよく見えた。これこそが、ピーターが自慢していたキリマンジャロなのである。

F3月5日〜6日:ムスリムのリゾートアイランド・ザンジバル
 ザンジバルは、牧野卓司氏(NA87)に強く勧められた島である。大きさは淡路島ぐらいしかないが、元々一つの独立国であり、18世紀から19世紀にかけてはアラブのスルタンが住み、インド洋海岸地域一帯を支配したという。東アフリカの奴隷貿易の根拠地にもなり、内陸から集められたアフリカ人はここで売買され、アラブやインドへ運ばれて行った。この小さな島にはアラブの文化が色濃く残り、住民の殆どをムスリムが占め、ストーン・タウンと呼ばれる石造りの迷路のような複雑な街並みが世界遺産に指定され、今でも現地の人々が暮らす城壁都市として残っている。更に、周りはインド洋の綺麗な砂浜と珊瑚礁に囲まれてダイビングのメッカでもあるという。本来の予定では、サファリで疲れた体を休めるために二泊するはずだったが、一泊になったためにストーン・タウンの観光のみとなり、ビーチ・リゾートまで足を延ばせなかったことが残念であった。
 12時過ぎにザンジバル空港に到着。翌日はタンザン鉄道に乗るために必ずダルエスサラームに戻らなければならないので、まずフェリーのチケットを買いに港へ向かう。事前に調べたところでは、12時半発のフェリーに乗れば、14時半にダルエスサラーム港に到着し、15時にはタンザン鉄道の駅に到着すると読んでいた。しかしザンジバル港で聞いてみると、ダルエスサラーム港への到着は15時だと言う。「歩き方」にはこのフェリーはよく遅れると書いてあったので、15時50分発のタンザン鉄道はかなり危うい。一週間に火曜日と金曜日しか走っていないので、万が一これに乗り遅れると全ての予定が狂ってしまう。仕方なく、唯一の午前便である7時発のフェリーのチケットを買おうとすると、明日は欠航であるという!。一瞬頭の中が真っ白になると共に、もしかしたらこの後すぐにザンジバルを脱出しなければならないのか、などという最悪の考えも駆け巡ったが、気を取り直して港を後にし、航空会社のオフィスを回った。すると、今回既にお世話になったプレシジョン航空が、12時半ザンジバル発・12時50分ダルエスサラーム着の便があるという。これが56000シリング。フェリーが$35なので悪い話ではない。こうしてザンジバルからの脱出手段を確保し、一安心。この間ずっとバックパックを持ち歩いていたので既に汗だくになっていた。もう午後2時を過ぎていたので、まず海が見える洒落たレストランでランチを済ませてから、ホテル探しをすることにする。
 一泊$45のインターナショナル・ホテルにチェックイン後、ムスリム色たっぷりのストーン・タウンを観光する。この迷路のような市街はすごい。私は地理感覚だけは相当な自信がある。初めての街に行っても、事前に「歩き方」の簡単な地図をちょっと頭の中に入れておけば、大抵の必要な所にすたすた歩いて行ってしまう。東西南北の方角を常に把握する習性が付いているのと、こっちにマーケットがありそうか、こっちにバスターミナルがありそうか、こっちが中心街か、自然と嗅覚が効くのである。と、自画自賛したが、そんな私の自信はもろくも砕かれてしまった。この1km四方ぐらいの街の中には、メインストリートと呼ぶべき真っ直ぐで太い通りが全くなく、全ての路地がすぐに角にぶつかり、見通しが悪く、道そのものがくねくね曲がっている。かつ白壁の建物が続く街並みも似ているため、歩いても歩いても方向感覚が全く掴めないのである。
 ストーン・タウンには今でも多数の現地人が普通の生活を営んでいるが、彼らは非常に親切で、道に迷って困っている外国人旅行者を親切に助けてくれる。自信を打ち砕かれた私は、現地の人々に何度も何度も道を聞いたが、子供達は興味津々で世話を焼き、大人達は親切に教えてくれた。それでも、少し歩くとまた判らなくなり、また道を聞いてしまうのだった・・・。また、そもそもダルエスサラームと比べると旅行者の数が多く、洒落たレストランやみやげ物屋も目立ち、非常に開放的な雰囲気が漂っている。その上ビーチ・リゾートと来ているわけで、まさに旅行者天国と言えよう。マラケシュやクスコで感じられた自由で洗練された観光地の雰囲気を、今回の旅行において初めてここザンジバルにおいて感じることができた。旅行者が多く、現地人がそれらに慣れているということは、安全ということでもある。治安が悪いようでは旅行者が集まらず、地元の商売も上がったりになるからである。その一方で、彼らはやはり敬虔なムスリムであった。とあるスーパーで買い物をしている時、まだ明るい内に店を閉めようとしている。「ここは午後4時に閉店なのか?」と店主に聞いたところ、「また5時に開ける」とのこと。お祈りの時間なのだ。
 旧アラブ砦や奴隷売買市場を一通り見て周り、蒸し暑い中迷路を彷徨って疲れ果てたので、ビーチに面した素敵なレストランで、インド洋に沈む夕日を眺めながらビールを飲む(写真12)。ふう。これも、今回の旅行で初めて味わったのんびり感、贅沢感ではなかろうか。地元で一番のビールは、その名もキリマンジャロ。タンザニアはかつて一時的にドイツ領であったため、ビールは美味しいのである。これが500ml瓶で2000シリング。更に、デザートとしてアップルパイのココナッツアイスクリームがけを頼んだ。これが美味い!とてもタンザニアで食べたとは思えない繊細な味。こちらは3500シリングだったが、全く惜しいとは思えない。メリーさんとハリーさん。たまにはこれぐらいの贅沢をしなければ。
 夜7時を過ぎ、そろそろ周りが薄暗くなってきたので、すぐ近くの海沿いの公園に移動する。ホテルで聞いた所、夜になるとこの公園に屋台が並び、目の前で焼いてくれるシーフードが美味しいとのこと(写真13)。そこをうろついていると・・・ばったり出くわした。ロバートである。彼とは昨日モシで別れたきりであったが、今日からザンジバルへ行くと言っていたので、「会えたらいいね」と話していた。それにしても、そんなに小さな街でもないのにこんなところでばったり会えるとは・・・二人で再会を祝し、屋台でイカや魚のつみれのBBQを食べる(写真14)。腹いっぱい食べて4000シリング。これで今日は終わりとする。既に真っ暗になっていてとても一人でホテルまで帰れる状況には無かったが、見知らぬ現地人に道を聞いて、結局ホテルまで送ってもらった。ロバートはザンジバルに一週間滞在し、ダイビングなども楽しんでからアメリカに帰るという。羨ましい。

G3月6日〜8日:アフリカ版てっちゃんの旅・2泊3日のタンザン鉄道
 東アフリカ旅行の第二の目的、それはタンザン鉄道に乗ることだった。皆さんはタンザン鉄道をご存知だろうか?。確か中学生の地理の授業で教わったのが最初だった。タンザニアのインド洋岸とザンビアの内陸部を結ぶ鉄道であり、海に接していないザンビアの銅の輸出に重要な役割を果たしているという。独立直後の両国は社会主義路線での国家建設を目指したため、中国の援助で山岳地帯の難工事の末に開通したのである。鉄道少年としてはその頃から興味を持っていたが、「歩き方」によれば、国立公園内を通るため車窓から象やキリンを眺めることが出来、即席のサファリ・ツアーを楽しめるという。ここまで言われれば乗らない手はないではないか。前回のペルーに続く、「アフリカ版・てっちゃんの旅」は、ダルエスサラームからザンビア中部のカピリムポシまで、約2000kmを二泊三日の40時間で走り抜けるという。毎週火曜日と金曜日の二便しか運行されておらず、3月6日15時50分発でカピリムポシ着は8日午前8時の予定。さすがに今回は一等寝台車を予約した。それでも55000シリング=5500円。二等車が6人用のコンパートメントであるのに対して、一等車は4人用でエアコンも完備されているという。二泊三日同じ列車に乗り続けるのは初めての体験だが、これならば快適な旅ができるだろうと、アフリカへ行く前か大いに期待していたのだ。
 3月6日、前述の通りわざわざ航空券を予約し直すことにより、14時過ぎにはダルエスサラーム駅に到着。まず1.5?の飲料水2本を購入する。既に駅構内は乗客でいっぱいだったが、一等車の乗客には専用の待合室が用意されていた。そこは一応ソファが並べられていたものの、エアコンもなく非常に蒸し暑い。ここはやはりインド洋に面した赤道直下なのだ。出発予定時刻の20分前になったところで駅係員がやってきて、出発は50分遅れるという。「歩き方」にもタンザン鉄道はよく遅れると書いてあったが、その後待てど暮らせど出発する様子は無い。周りのザンビア人やタンザニア人は黙って待っているので、こちらも諦めて待つしかない。ようやく19時過ぎに改札が開き、満を持して列車に乗り込む(写真15)。
 と・・・、一号車のコンパートメント5に入り、呆然としてしまった。目に飛び込んだ情景とは、開けっ放しになった列車の窓である。それは、「引いた」という言葉が最もぴったりするのではないか。何故開けっ放しかと言えば、それはエアコンが無いからに他ならない。電源が入ってないのではない。設備自体が無いのである。ということは、蚊が入り放題ということである。タンザニアなど東アフリカを旅行するに当たって何を一番注意すべきかと言えば、治安と共に黄熱病やマラリアといった風土病である。そしてそれらは蚊が媒介となるため、今回は日本から虫除けスプレーを持参して頻繁に吹きかけると共に、ホテルには蚊帳がかかっている所が多かった。しかしこの列車では防ぎようが無いではないか・・・それだけではない。とにかく車両がボロイ。30年ぐらい前に作られたのであろうか。古くてみすぼらしく読書灯も点かない。昔病院のロビーにあったような長椅子=ベッドの上には、毛布が二枚=敷布団と掛布団と囚人服のような青い布=シーツが二枚、そして枕が転がっているだけだった(写真16)。更に・・・である、自分が入ったそのコンパートメントでは、タンザニア人と見られる中年のおっちゃんが早くも寝ていた。それが、派手な赤いシャツに真っ黒なおやじズボン、そして金のじゃらじゃら時計をしており、日本なら「やの付く自営業」としか見えないような、ふてぶてしい顔=真っ黒なつや光りのしたアフリカ人で、頭はパンチパーマ(?)である。彼は眼をつぶったままこちらを見ようともしない。つい先ほど改札が始まった発車前の列車の中で、薄明るい19時にこのふてぶてしい態度は大胆である。私は、“Hi...”と一声かけるのが精一杯だった。
 どうすべきか・・・?。このような環境で、このような隣人と共に、果たして二泊三日無事に過ごせるのか?。既に汗をたっぷりかいているのに、エアコンすら効いていないこの劣悪な衛生環境・・・たとえ肉体的には我慢できたとしても、これで本当に楽しいのか??。私はてっきり、一等車とは欧州のバックパッカーでいっぱいだと思っていた。彼らは非常に旅慣れており、常識的で付き合い易いので、ザンビアの情報などを交換して楽しく過ごせるものと思い込んでいた。しかし一等車の乗客の大半はタンザニアやザンビアの現地人だった。それは、このボロさと安さのためだろうか?。既に外は暗くなり始めていたが、今ならダルエスサラームに戻り、一泊目と同じ快適なホテルに泊ることもできよう。明日以降、飛行機でビクトリアの滝まで行けばいいのだ。いや、それだけのお金はあるのか?。今残っているドルは・・・これだけのことをわずか10分の間に頭をフル回転させて考えた。しかし無情にも汽笛が響き、列車はガタっと音を立てて前へ進み始めた。こうなれば、開き直って現実を受け入れるしかないではないか。
 すぐに車掌がやって来た。検札である。私の切符を見せると難しい顔をして、"Problem”と連呼している。何が問題かと言えば、私は終着のカピリムポシまでの切符を購入したのに、この一号車は途中で切り離されるという。すぐに別の車両に移ることになった。「そっちはエアコンが付いてたりしないだろうか・・・」と虫の良い期待を抱きつつ、三号車のコンパートメント5に移ると・・・そこには満面の笑みをたたえたタンザニア人が一人座っていた。それがデービッドである(写真17)。彼は、スカニアというスウェーデンの大手トラック会社のタンザニア支社に勤務しており、出張でザンビアを経由してコンゴへ行く途中であるという。つい先程の「やの付く自営業」氏から一転して、今度のタンザニア人は非常に紳士的な「外資系多国籍企業のエリート・サラリーマン」であった。そして何よりも私と馬が合った。さすがに知識や教養があると見えて、タンザニアのいろんなことを教えてくれたし、日本人の援助関係者と働いたことがあるとのことで、日本にも好意を持ってくれている。話せば楽しいし、話さなくても気まずくない。適度な「間:ま」を保てる、まさに二泊三日同じ車中で過ごすには最適のパートナーと言えよう。勿論、貴重品の心配といった安全面からも、信頼できる人物であることは言うまでも無い。
 実際彼からはいろんなことを教わった。例えば、スカニアはタンザニアのトラック市場の八割を占めているが、それはタンザン鉄道を建設する際に、中国が何十台ものスカニア・トラックを持ちこんだことに始まるらしい。従って、彼はタンザン鉄道に乗るのは初めてだったが、スカニアで働いている者としてタンザン鉄道には因縁を感じずにはいられないとのこと。「タンザン鉄道が建設されなければ、僕は今の仕事に就いていなかったと思う」。また、チップについても面白い話を聞いた。「歩き方」によれば、タンザニアにはチップの習慣が無いと書いてあり、私はチップを払ってこなかった。しかしアルーシャでスウェーデン人らと夕食を食べた際に、彼らがチップを払おうとしている。聞いてみると、「チップが必要なのは当たり前よ。この国はどこだってチップで成り立っているのよ」と、馬鹿にされてしまった。しかしデービッドによれば、タンザニアにはチップの習慣は無いという。「そりゃあ、チップをあげると言われれば受け取るさ。でも本来タンザニアでは、サービスをしても『アサンテ』で終わりのはず。気持ちの問題なんだ。欧米人がチップなどという無用な習慣を持ちこむのがけしからん」と。更に面白かったのは、タンザニアの隣国であるザンビアに対する意識である。両国は共に1960年代に英領植民地からの独立を果たしたが、その後の発展の歴史は異なったという。「タンザニアは社会主義路線を基本にして、全て自分たちの力で国家建設をしようと努力してきた。しかしザンビアではこれまで通り白人の力に頼るばかりで、黒人は何もしようとしなかった。我々から見ればザンビア人は怠け者という印象だ」。これは、今でも典型的な銅のモノカルチャーであるザンビアの経済構造のことを指しているのであろうか。これら意見がどこまで正しいかはともかくとして、このような知的刺激を受ける会話をタンザニア人と数多くできたことは、大変幸せであった。
 朗報は続いた。この車両にはシャワーが付いているという。サファリのキャンプ場のような原始的な設備で当然水のみだったが、無いよりはましである。早速浴びてすっきりし、蒸し暑い夜を凌ぐことができた。更に翌朝起きてみると、高度が上がったため随分と涼しくなった。最早エアコンなど必要無く、窓を開け続ける必要もない。また車両は確かに古くてボロかったものの、各号車に担当係員が待機し、定期的にトイレや通路の清掃をしてくれた。食事は毎回注文を取りに来てくれ、2000シリングで各コンパートメントまで運んでくれた。これが、200円の割にはちゃんとしたものだった。客車は旧式だけあってよく揺れて音も煩かったが、そこはてっちゃんであるためか疲れていたからか、横になるとよく眠れた。何度も目が覚めたが、寝つけず困ったことは一度もなかった。夜10時には就寝して、朝7時頃に起きる。二泊目には、朝食の注文を取りに来たウェイターに起こされたぐらいだった。ということで、出発直前に想像したよりは随分と環境が改善されたのであった。
 二日目には国境を越える段になった。国境を越える二つ前の駅から出入国審査官が列車に乗り込み、各コンパートメントでパスポート・コントロールを行っていく。従って、列車を下りることも長い列を待つこともなかった。と同時に非合法(?)の両替人も列車に乗りこみ、ザンビアの通貨カワチャを買わないかとうろつき始めた。レートが悪いのでこれは相手にしない。国境を越える瞬間はあっけなかった。というより、いつ越えたのかよく判らなかった。しかし、その後の駅から今度はザンビアの出入国審査官が乗りこみ、入国審査を行う。やはりコンパートメントにてビザを取得することすらできた。これで一件落着。日本人にとっては陸路での入国はわくわくするものである。
 結局、車窓は期待したほどではなかったが、それでも鉄道少年にとってはあっという間の楽しい旅だった。「鉄道サファリ」については、出発が遅れたため国立公園の中を通過した時は既に真っ暗であり、何も見えなかったようだ。二日目以降は基本的にのどかな草原が続く。所々に民家があり、さとうきびやひまわりが栽培されている畑が続き(写真18)、田んぼも見られた。駅に停まると物売りが列車に群がった。ちょっとした食べ物ならともかく、ベルトや野菜を売っている人もいた。誰が買うのかと思っていたら、隣のコンパートメントのザンビア人のおねえちゃんが、窓からじゃがいもを50kg分ぐらい買っていた(写真19)。10kgで2000シリングだという。やはり需要があるから供給もあるのだ。
 3月8日の午後1時半に列車は終着のカピリムポシに到着した。予定より5時間半遅れだったため、出発時より更に2時間遅れたことになる。これが夜なら困るところだったが、まだ十分に明るいので良しとする。デービッドとはここで別れる。タンザン鉄道の旅は肉体的には決して楽ではなかった。もう一度乗りたいかと言われれば否であるし、余程の鉄道好きでなければ他人には勧められない。しかし、当初の想定外の最悪な環境からは随分と改善され、想定以上に楽しく過ごすことができた。二泊三日という人生最長乗車記録だったが、退屈だと思ったことは一度も無かった。それはデービッドというパートナーに恵まれたことが一つと、やはり自分がそもそも鉄道好きだったからだろう。随分前から憧れていた「アフリカ版・てっちゃんの旅」を無事終えられたこと自体が、この上ない喜びだった。

H3月8日〜9日:カピリムポシから首都ルサカを経てリビングストンへ
 私は、海外旅行に行く際にはいつも「地球の歩き方」をバイブルとしている。対象国によって若干の当たり外れはあるが、日本で手に入るガイドブックの中では圧倒的に情報量が多く、バックパッカーの経験に基づいた情報が満載であり、私のような行き当たりばったりの個人旅行者にとっては非常に利用価値が高い。ところが今回ザンビアを旅行するに当たっては、これは殆ど無力であった。ザンビアについては、「南アフリカ編」の中に収録されていたが、わずか5ページしか割かれていないのである。しかもその内3ページは国全体に関するジェネラル・インフォメーションであったため、各地に具体的に触れているのは2ページ。その内首都のルサカについて1パラグラフ、ビクトリアの滝に近いリビングストンについてやはり1パラグラフのみであった。街の地図も無ければ、ホテルのリストも無い。こんな国にこんなに無防備で旅するのは初めてだった。
 ザンビアについては、北東から入って中央までのタンザン鉄道と、南西の端に位置するビクトリアの滝(リビングストン)以外に用は無かった。と言うより、どこに行けば良いか全く情報が無かったため、一先ずこの日はカピリムポシから首都ルサカまで移動したかった。この間の移動手段については、タンザン鉄道の中で欧州人バックパッカーのガイドブックを読ませてもらおうと目論んでいたが、それは適わなかった。同乗したザンビア人から若干の情報を収集したところ、カピリムポシ駅は市街から離れているので、まず市街へ移動した上でルサカへのバスに乗るのが良いという。と言ってもカピリムポシの市街のどこに何があるのかは全く知らない。そのような丸腰の状態で駅を下りてみると、タクシーやローカル・バスに混じってルサカ往きのマイクロバスが停まっていた。その中に欧州人が座っていることを確認すると、迷わず乗り込む。直行ならばこちらの方が速く好都合だろうと思ったのである。そして、同じタンザン鉄道に乗っていた見覚えのあるイギリス人カップルの後ろに座り、「ロンリー・プラネット」を貸してもらう。これは欧米版「地球の歩き方」(こっちが本家本元だと思う)だが、さすがに詳しい。ルサカについてもリビングストンについても、それぞれ数ページを割いて地図付きで解説してある。日本版「歩き方」の情報が余りにも足りなかったので、出発前にインターネットを検索して両都市のごく簡単な地図だけは手に入れていた。その地図の中に、目ぼしいホテル、バスターミナル、レストランなどを必死に書きこむ。1時間ぐらい熟読し、深くお礼を述べて欧米版を返す。
 そのマイクロバスは、タンザン鉄道からの車窓と変わり映えのしないのどかな高原の景色の中を、ルサカへ向かって走る。敢えて言えば、相変わらずのさとうきび畑や牧場がより大掛かりなものになっている印象を受けた。いわゆるプランテーションというやつだろうか。このルサカ往きバスの料金は30000クワチャ=1000円だったが、クワチャは持っていなかったのでドルで払いたいと言っておいた。そしたらバスが途中で両替屋の前で停まってくれた。結局、14時前に発車したバスがルサカに到着した時には夕方の18時を過ぎ、その殺伐としたザンビアの首都は薄暗くなりかけていた。初めての国、その中でも最大の都市である。緊張感が走る。
 まず、欧米版「歩き方」にて「ルサカ最古のホテル」と書いてあったその名もルサカホテルまで、バスターミナルから5分ほど歩き、チェックインする。先ほどのイギリス人カップルは、タクシーでドミトリーへ行くが一緒に行くかと親切にも誘ってくれたが、これは丁重にお断りする。タンザン鉄道二泊の後であるから、しっかりしたホテルでゆっくり体を休めたかった。ルサカホテルは確かに設備にガタが来ており、一泊$62は高い。一方でさすがに格式は高そうで、レセプションもしっかりしていたが、何よりも立地条件で即決。すぐに荷物を置いて別のバスターミナルに走る。これも欧米版に書いてあった、インターシティー・バスターミナル。翌朝のリビングストン往きのチケットを確保するためである。ルサカホテルから徒歩15分の所にあり、何とか午前10時発の便を確保できた。75000クワチャ=2500円。ここまでを終えてホテルへ戻ると、日はとっぷりと暮れてしまった。今日はランチを食べられなかったのでお腹が空いていた。更に欧米版には、ルサカホテルから2ブロックの所に美味しいザンビア料理店があると書いてあった。しかし・・・そこまで歩く度胸は無かった。ルサカホテルのすぐ隣には、チェーンのファストフード店が三つほど軒を並べていたため、そこで済ますことにする。普通のセットで19500クワチャ。何と650円である。これでは日本より高いではないか。
 翌朝8時にホテルを出て、両替などを済ませてからバスターミナルへ向かう。ルサカホテルの周辺はルサカの中心的なビジネス街であり、スーツにネクタイ姿のザンビア人も歩いており、昨夜よりはずっと安心できる。とは言え、ダルエスサラーム同様の、あるいはそれ以上の殺伐とした雰囲気は変わらない。外国人観光客とは全くすれ違わない。とっとと予約しておいた大型バスに乗り込み、予定より20分早い9時40分に出発。ルサカを脱出できただけで一安心である。日本版によればリビングストンまで6時間とのことだったが、バスターミナルで聞いてみたら5時間であった。とにかく今日は、明るい内にリビングストンに到着できれば十分だ。リビングストン、即ちビクトリアの滝が、アフリカ大陸の最後の目的地であり、ここまで来ればこの過酷な旅もほぼ終わりと言えよう。幸先の良い出発に安堵していたら、やはりアフリカは甘くなかった・・・時速100kmで飛ばしていたバスは、1時間程走ったところで突然「バン」という鈍い音を立てた。私の席のすぐ下辺りからである。悪い予感の通り・・・パンクであった。英語ではタイヤに小さな穴が開いて空気が抜けることを“get flat”という。初めてアメリカで車を運転した時に、アメリカ人に自分の車が“punctured”したと言ったらびっくりされ、語彙を直されたが、今回は完全に“punctured”だった(写真20)。タイヤ交換のために40分間の停車。
 こうしてリビングストンに到着したのは、午後4時半だった。早速欧米版に書かれていたこの街唯一の中級ホテル、フェアーマウントホテルへ向かう。リビングストンではここしか選択肢が無かったため、このホテルが存在しなかったらどうしようかとひやひやしたが、バスターミナルから5分も歩くと見つかった。一泊朝食無しで130000クワチャ=4300円。ややくたびれているが、プールやカジノもある大型ホテルである。ビクトリアの滝を擁するリビングストンはザンビア最大の観光都市だが、海外からの贅沢パック旅行客はビクトリアの滝近くの豪華ホテルに泊まるため、リビングストンの街中までは来ない。これでも街中では一番のホテルなのだ。

I3月10日〜11日:雷鳴の轟く水煙・ビクトリアの滝
 わざわざタンザン鉄道に乗ってザンビアに入国しようと思ったのは、てっちゃんの夢だけではない。好都合なことに、その奥に世界三大瀑布の一つ、ビクトリアの滝があったからである。既に私は、ナイアガラの滝、イグアスの滝を訪れている。これで世界三大瀑布の完全制覇となるのだ。これら三つの中でナイアガラは明らかに世界三大ガッカリの一つであった。イグアスの滝は、滝幅4km・最大落差80mであるのに対して、ナイアガラの滝は、滝幅0.9km・最大落差54mしかない。幸いナイアガラを一番目に見たためその時はそれなりに感動したが、イグアスを見てしまうと余りに小ぢんまりとしている上、周辺は派手に観光化されて大自然の迫力に欠けていた。しかしこのビクトリアの滝は、噂によればイグアスに迫る豪快さであると言う。そもそも場所が場所である。ザンビアとジンバブエの国境。一体それはどこなんだと突っ込みたくなるではないか。こんな「とんでもないところに来てしまった感」満点の世界三大瀑布の最後の一つが、タンザン鉄道の先にあるとすれば、行かざるを得まい。
 3月10日の朝、満を持してホテルを後にする。リビングストン市街からビクトリアの滝までは10km程度。バスターミナルからミニバスが多数出ている他、複数の客で一台のタクシーをシェアすることも可能とのこと。タクシーが集まっている所に行くと、そのshared taxiはすぐに見つかった。一台20000クワチャだが、4人でシェアすれば一人5000クワチャ=170円。お手頃である。客が4人集まるまで運転手のオヤジと雑談をする。
  高橋:「今からビクトリアの滝まで観光に行くんですが」
  ザンビア人:「そりゃあ旦那、すごい水しぶきですぜ。ビクトリアの滝は現地語では『雷鳴の轟く水煙』と呼ばれているんですよ」
  高橋:「らしいですねえ。だから、この防水のコートの上下を持ってきたんですよ。わざわざザンビアのビクトリアの滝のために東京で買ったんです」
  ザンビア人:「へええ、お似合いですぜ。これはいくらしたんですか?」
  高橋:「上下で$300かな」
  ザンビア人:「旦那、それはすげえや。とてもおらには買えねえ。折角この滝のために買ってきてくれたんなら、観光が終わったらおらに下せえ」
 ルサカでは怖い思いをしたザンビア人だが、中々面白いではないか。
 タクシーに乗って10分でザンビアの出入国管理所に到着した。ここで手続きを済ませ、手続きの際に世話を焼いてくれたザンビア人のおやじと一緒に徒歩で国境に向かう。このおやじは、ジンバブエの方が酒類が安いので、買い物に行くとのこと。ザンビアにも寡黙ながら親切なおやじがいるものである。既に滝の轟音が聞こえ小雨のような水煙が舞っているが、完全防水のコートのお陰で何ともない。すぐに国境にかかる橋が目の前に見えてきた。橋に差し掛かると、右手に滝が見えるではないか。これがビクトリアの滝か…!!。おやじは自慢げに見ている。しかし、その橋から見た滝とは、滝壷から下流に流れ出る「出口」という、全体から見ればほんの一部に過ぎなかった。逸る心を抑えつつ一先ずそのまま橋を渡り、ジンバブエに入国する。ここでおやじと別れ、自分はジンバブエ側の国立公園に入場する。入場料は$20。
 この辺りからビクトリアの滝の全貌が肌でつかめてきた。この瀑布は、ザンベジ川というザンビアの国名にも使われているアフリカ大陸第四の大河の上流域に位置し、その滝上の川幅は1.7kmある。これはナイアガラの二倍、イグアスの半分だが、最大落差は110mでイグアスをすら凌ぐ。イグアスの滝口は複雑に曲がりくねっており、それがまた野性味を増しているのに対して、ビクトリアのそれはナイアガラのように平板である。しかし、しかしである。その全貌をこの目で捉えることは容易ではない。何故か?。それが「雷鳴の轟く水煙」のなせる業である。ビクトリアの滝の滝壷は横幅1.7kmに対して縦幅50m程度しかなく、大地の裂け目のような滝壷に膨大な量の水が吸い込まれていく地形になっている。通常、ナイアガラにしても華厳の滝にしても那智の滝にしても、滝を見る場合には対岸から正面に滝や滝壺を眺めるものである。ビクトリアの滝上は横一直線であり、滝壺の幅が狭いのであれば、国立公園になっている対岸から目の前に迫力ある滝の全景が拝めそうなものだ。しかし、その狭い狭い滝壷に落ちていった水はすぐに水煙として天高く巻き上がってしまうため、滝に近づけば近づくほど水煙は多くなり、遂には集中豪雨のように視界が皆無になってしまうのである(写真21)。
 上下完全防水のコートに身を包んでいたものの、その集中豪雨は凄まじく、写真を撮ろうと手を上げようものなら、手首からコートの内部に水が逆流する。轟音や暴風も凄まじく、滝の中央部では歩行困難にすらなり、迫りくる台風を室戸岬から実況中継しているアナウンサーの状態であった。靴もこの日のために防水を用意したが、足首から靴の中に水が浸入してはどうしようもなかった。国立公園を一時間程度徘徊したが、入口に戻って靴を脱いで靴下を絞ると水が滴った。すごい。この「雷鳴の轟く水煙」こそが、ビクトリアの滝の真骨頂なのである。しかしこれでは大雨を被るばかりで、イグアスの半分しか川幅が無いにも拘らず、靄が一面に掛かって滝の全景を掴むことができない。そこで急遽ジンバブエ側の旅行会社に飛び込み、遊覧すること13分で$100のヘリコプター・ツアーを予約した。高級ホテルのレストランでランチを取り、ビールを飲み、ツアーの時間までのんびりと過ごす。ビクトリアの滝まで1kmという絶好の位置にあるそのレストランからも、水煙が舞い上がっているのがよく見える。つい先日(4月始め)の新聞記事では、ジンバブエのインフレ率は1760%で失業率は80%とのことだが、ここにいる限りそんなことは信じられないほど静かで平和的であった。午後3時になり旅行会社の送迎車で近くのヘリポートへ向かう。到着後すぐに四人乗りのヘリコプターに乗り込み、離陸。
 空から見るビクトリアの滝は、優美で完成された容姿を誇っていた(写真22)。横一直線の滝口をザンベジ川の水が流れ落ち、水煙として巻き上がり、狭い滝壷を覆い隠している。曲がりくねったイグアスのような獰猛さは無く、寧ろ優美さが際立っているものの、それはナイアガラのような小さくまとまった程度のものではない。瀑布の豪快さが細長い滝壷の中に綺麗に包含されているのだ。そしてそれでも有り余った豪快さは水煙としてのみ表現される。近付こうとする人間を容易には寄せ付けないその神々しさは、イグアスに勝るとも劣らないのではないかと思ってしまった。  16時過ぎにジンバブエを出国してザンビアに戻る。すぐにザンビア側の国立公園に入り、再度滝壷への接近を試みる。こちらの入園料は$10だったが、水煙はジンバブエ側以上だった。靴の中を除けばほぼ乾いていたが、すぐに再度びしょぬれになった(写真23)。その中を開き直って進んで行くと、目の前に人一人がやっと通れる幅の橋が現れた。これは、Knife edge bridgeと呼ばれる滝を目の前にしたザンビア側の名物の橋なのだが、水煙に霞んでどこへ繋がっているのか見えない。近くにいたザンビア人のお嬢さん二人組みに、「これは向こう側に繋がっているの?」と聞いたら、「そうだ」と言う。しかしその細い橋の上は台風の時のように水が流れており、余りの恐ろしさに退散しようとしたら、その二人は「一緒に渡ろう」と言って手を引っ張って行くではないか。日本男児としてこれを断るわけにはいかない。開き直って渡る。どっちみち下も横も見えないのだ。意地になって渡った所は更に激しい集中豪雨状態で、すぐ目の前にあるはずの滝はさっぱり見えなかったが、滝の凄まじさだけは実感できた。水煙がかからない所まで戻って一休みする(写真24)。夏や秋にはザンベジ川の水量が少なくなるため、先程の橋からも滝がきれいに見えると言う。しかしながら、滝の本当の凄さを味わうのなら、やはり春から夏にかけての時期に来て欲しいとのこと。ずぶぬれになってこその、「雷鳴の轟く水煙」なのだ。
 18時の閉園までビクトリアの滝を満喫し、リビングストンの街へ戻る。復路は国立公園の出口の前に停まっていたローカル・バスに乗る。2000クワチャ。タクシーよりは安いものの、この距離で70円は決して安くはない。ザンビアに滞在すること3日目だが、ここの物価は全般的にタンザニアの二倍程度に感じた。飲料水は500mlで1500クワチャ、ネットカフェは30分で4500クワチャ。その夜はアフリカ最後の夜だったので、街中で一番と思われるレストランにて、ビールを2本飲み、巨大なステーキを食べ、デザートも注文した。〆て60000クワチャ=2000円。アフリカの食事は全般的に魅力に欠けた。肉類、魚、野菜と一通りあるものの、これと言った特徴ある絶品には出会わなかった。アフリカらしいと言えば、「ウガリ」と呼ばれるとうもろこしや小麦の粉を蒸したものが、日本の米に当たる主食だが、「味のしないマッシュポテト」という印象だった。米も栽培しており、「ピラウ」と呼ばれる焼き飯、あるいは白米にカレーのような煮物をかけたものはよく食べた。ホテルの朝食は欧州スタイルで、各種のパン、目玉焼き、果物など。果物で美味しかったのはバナナである。焼きバナナもあったがこちらはいまいちで、地元で採れたであろう生のバナナは甘かった。その他、フライドポテトやインドのサモサもよく見かけた。全般的に、特段不味いというわけではないが、特段美味いということもない。現地人の家庭では地元特有の美味しいものを食べているのかもしれないが、やはり彼らの歴史が示す通り、欧州やアラブ、インドの影響を強く受けていると感じた。前述のビールの他に嬉しかったのはミルクティーである。インドの影響だと思うが、彼らのミルクティーは、出来上がったストレートティーの上から冷たいミルクを注ぐような邪道なことはしない。必ずお湯と温められたミルクの双方が出てくるので、即席で大好きなロイヤル・ミルクティーが作れる。インドのチャイと同じだが、「チャイ」とだけ言えば「紅茶」を指すので注意が必要だ。

J3月12日〜13日:ドバイ・松原邸訪問
 3月11日の昼過ぎにリビングストンを発ち、ヨハネスブルグを経由してエミレーツ航空に乗り込んでドバイへ向かう。遂にアフリカ脱出だ。エミレーツ航空がヨハネスブルグ空港を離陸した時には、無事日本に帰ることが出来るんだという実感が沸いてきた。その帰路に立ち寄ったのが、アラブ首長国連邦(UAE)の首長国の一つであるドバイである。ここ数年豪華リゾート地として俄かに脚光を浴びているが、特にリゾートしたいわけでもなく、既に二度訪れたアラブに興味があるわけでもなく、ただ松原夫妻に会いたいがために一泊二日の時間を割くことにした。
 12日午前5時半にドバイに到着し、空港から松原家へタクシーで向かったが、その車窓からの景色にはたまげてしまった。工事中の、あるいは工事を待っている更地が延々と続いているのである。その所々に、あるいは更地の遥か向こうに摩天楼が蜃気楼のように見えるものの、更地の面積の方が圧倒的に広い。そして「住宅地」や「市街地」に当たる、現地人臭のする景色は全くお目にかかることが無かった。午前8時半に松原家に到着。それは勿論、超高級マンションの29階の素敵な部屋だった。バルコニーからは近隣の摩天楼の向こうにペルシャ湾が見えるものの、反対側に目を向ければ広大な更地が横たわり、そこにはクレーンが立ち並び、その間をダンプカーが走り回っている(写真25)。何と言えば良いのだろう。縁起でもないが、東京都全域が大地震に遭った数ヵ月後に、大規模再開発をしている途上という印象である。
 午後には松原直美ちゃん(JO87)に連れられて観光に出かけた。まずはお上りさんツアーということで、超高級ショッピング・モールである「マディナ・ジュメイラ」へ。様々なお洒落なショップが整然と並んでおり、従業員も礼儀正しく申し分ない。一番安い部屋でも13万円するという、有名な超高級ホテル「バージ・アル・アラブ」も目の前に聳え立っている(写真26)。広々とした敷地内にはディズニーランドのジャングルクルーズのような入江も作られている。つい昨日までいたアフリカのような粗野さ、垢抜けなさは全くなく、衛生や治安に全く気を使う必要もない。しかし、しかし、である。どうもしっくりこない。アラブっぽさを出すために土作りの建築物で、伝統的なスーク(迷路のような市場)を模しているものの、全てが最近できた人工物なのである。いくつかのショップを覗いてみるが、価格がべらぼうに高い。確かに品質は良いのだろうが、東京よりも遥かに高い。行き交う人々は欧州人ばかりで、観光客向けだからであろう。イラン料理店でランチをする(写真27)。メインとサラダと水で、一人130ディルハム=4000円。確かに味は悪くはなかったが、東京ですらあり得ない価格である。一緒にいる直美ちゃんも、「だからドバイは嫌なのよね」と愚痴をこぼしている。現地人が普通に行き交う生活臭のある場所に行き、地元ならではのショッピングや料理を楽しむことができないと言う。その後、カルフールから高級ブランドショップ、更には人工スキー場まで入っている巨大ショッピング・モールや、「イブン・バトゥータ」というアジアの各地域を模した高級ショッピング・モールにも行ったが、基本的には同じであった。全て壮大、豪華、便利、整然としているが、人工的、よそ行き、高価なのだ。これなら東京で同じ生活を半分の出費で出来るのではないかと思ってしまう。
 この国は、観光客として短期間訪れるだけならばそれなりに楽しめるのかもしれない。しかし住み続けるならば、特に女性にとっては、非常な困難を伴うという。ドバイはサウジアラビアなどと比べればずっと異教徒に対して寛容である。開放的でなければ国際観光都市としてやっていけないからである。とは言え日本人女性は、高級ショッピング・モールでは東京と同じような振舞いが出来るかもしれないが、アラブ人と友達として触れ合い、アラブらしい昔ながらの市場で自由に買い物をすることもできない。街中を自分の足で歩くという習慣がないため、出歩く時はお抱えの車かタクシーを使うしかない。そしてこの国では日本人を始めとしたアジア人の存在感が極端に小さく、アラブ人はみんな旧宗主国のイギリスを向いているという。商社マンの夫人として高級マンションに住み、常に車で移動し、限られた日本人コミュニティーの中だけでのほほんと暮していられる女性ならば、大きな不満は無いかもしれない。しかし直美ちゃんは、バンコクにおいてタイ語を完璧にマスターし、日本語教師として現地の中学校で教えていたほどの猛者である。だからこそ、ここに来てから苦労の連続であったという。自分の足で出歩けない、現地の人やモノと自由に触れ合えない、触れ合えるものはお仕着せで人工的なものばかりで、その上高価。だからこそ、自宅で日本人駐在員夫人を対象にして新たに茶道教室を開き、最近はようやくアラブ人に対する日本語教師も始めたという(写真28)。ドバイ二日目の13日には、観光客が余り行かない旧市街を二人で探検し、現地人しか入らない街の食堂でご飯も食べた。昼はインド料理で夜はソマリア料理だったが、気取ったイラン料理店の1/10の値段にも関わらず本当に美味しく、かつそれぞれの国の出身である店員は親切だった。直美ちゃんによれば、本当はこの手の店をどんどん開拓したいのだが、ドバイでは女性が一人で観光客を対象としていない店に入るには大きな抵抗があるとのこと。勿論店の中には他の女性客は一人もいなかった。アラブ人以外に100万人が住んでいるからには、このような「地元の」店もあったのだ。
 12日の夜、仕事から帰ってきた商社マンの松原夫氏も交え、深夜まで熱くドバイ論を交わす(写真29)。ドバイという国のカラクリを一言で言えば、アブラヒモビッチが東京都知事となり、都全体でディズニーリゾートを経営している。これであろう。ディズニーランド、ディズニーシーに加え、京都を模した日本庭園や厳島神社、更には登別温泉やミニ富士山を人工的に再現し、都内のあちこちに配置する。その周りには大規模なディズニーストアやアンバサダーホテルを並べる。これらのことをカネに物を言わせて、わずか10年の間で急ピッチかつ同時並行的に進めていると思えば良い。だからこそ、世界中の重機の半分がここドバイに集められているという状況になる。しかし東京との大きな違いはその需要者となる後背地である。東京都だけでも1000万人が住み、そのすぐ周辺には数倍の日本人が住んでいる。名古屋や阪神圏まで含めれば1億人近い中流の所得層が存在するからこそ、東京の各種娯楽サービスは成り立つのである。しかしここドバイには、アラブ人は20万人しか住んでいないという。ドバイの開発されている地域の外には、今でも広大な砂漠が果てしなく広がっている。UAE全体でも人口は400万人だ。アラブ人がいくら大金持ちでも、彼らだけではこのような膨大な供給量を消費できない。だからこそ、この国の人口に不釣合いな24時間営業の巨大空港を作り、エミレーツが世界の85都市に飛行機を飛ばし、世界中から富裕層をドバイの地に集めようとしているのだ。その結果、ペルシャ湾に開発されたド派手な別荘地をベッカムが購入し、ここで開催されたゴルフ・トーナメントにはタイガー・ウッズが出場することになるのだ。
 ドバイにはアラブ人が20万人しか住んでいないといったが、その他100万人の外国人が住んでいるという。インド人、パキスタン人、中国人の順で多いとのことだが、英語が話せるインド人はタクシー運転手、中国人は建設労働者、フィリピン人女性はホテルのメードとして活躍している。これら外国人の出稼ぎ労働者が存在するからこそ、短期間でこれだけの規模のリゾート建設・運営が可能になるのだ。ヒト・モノの次はカネである。それはドバイの隣のアブダビに水のようにある。言うまでもなく、水ではなく石油である。この国では、水を精製するよりも石油を精製する方が安いという。1バレル$6程度で掘り出すことが出来、それ以上は全て利益となる。しかもアブダビの石油の埋蔵量は今後100年は持つと言われており、その膨大な資金を投資するのがドバイの役目とされている。何とも良く出来たカラクリではないか。
 しかし、これはバブルではないか。誰でも思い当たるであろう疑問に私もすぐに行き当たった。投資が投資を呼び、値上がりが値上がりを呼ぶ。別荘地は直ぐに売り切れたとのことだが、それはこんな暑い国に永続的に住むためではなく、値上がりを期待した投資目的が多いに違いない。実需に支えられていない短期的な投資の繰り返し、その結果としての株価や地価の高騰は、膨れ上がった泡が破裂した途端に跡形もなく消えてしまうように、いつかは消滅してしまう。これがバブルである。ドバイのディズニーリゾート経営がこのままの勢いで続くためには、投資規模に比例して海外からの観光客が増え続けなければならない。確かに一度や二度は良いだろう。高級ホテルでの豪華リゾート。ペルシャ湾の浜辺でのんびりし、砂漠ツアーを満喫し、ブランド品を買いあさる。しかし、もっと美しいサンゴ礁の海は他にいくらでもあるし、砂漠ツアーはトヨタのランクルに乗って走り回るに過ぎない。海外のブランド品はブランドであるが故に世界中同じ上に、決してお得なわけではない。このような急ごしらえの人工的な観光資源に対して、世界中の目の肥えた富裕層が集まり、その上にリピーターが増え続けるだろうか?。私はこの独創的な国家経営に対して大きな興味を持ったが、観光地としてのドバイには全く魅力を感じなかった。サンゴ礁ならマレーシアの離島、アラブ文化ならマラケシュ、砂漠ならエジプトのギザ、豪華リゾートならカンクンの方が、ずっと正真正銘であるし、尚且つ低価格で楽しめると思う。
 現地に住んで半年になる松原夫妻はこう言う。確かにドバイの状況は砂上の楼閣であるかもしれない。一方で、アラブ人は日本人よりもリスクを取る気概があり、最低限の大まかな計画の上を勢いで突き進んでいるのではないか。少なくとも原資が尽きる恐れは無い。そして欧州人は世界で無類の太陽光線好きであり、彼らが避寒地としてドバイを高く評価しているのは間違いない。年間の殆どが晴れで海と砂漠に恵まれたドバイは、欧州人が訪れるには十分に快適で清潔で治安が良いのだと。中東の他の産油国がこれを真似しようにも、とても追いつかない勢いでドバイは突き進んでいる。寧ろこの国を脅かすとすれば、それはイスラム原理主義者によるテロではないか。治安が崩れれば一気に観光客は来なくなる。そのためにドバイの有力者は、アルカイダとすら手を握っているのではないかと。

Kアフリカの民族論
 これまでいろんな国を旅する度に、その国の成り立ちというものを民族論から考えてきた。国家は人々の意思とは無関係に存在する自然の造形品でもなければ、永遠不滅の拠り所でもない。国家が一つの組織として成立するためには、その構成員である国民の多くがその組織の一員であろうという意思を持つこと、即ち国民が国家に統合されていることが不可欠である。このような国家統合を考える際には歴史的な民族問題を避けては通れない。それは、日本のような(事実上の)単一民族国家で生まれ育った我々には簡単に理解できないことである。しかし世界においては、寧ろ日本のような強固な国家統合が容易に維持されている国家が例外的なのであって、その他殆どは国家統合に不安定要素を抱えた多民族国家なのである。
 今回旅行したアフリカ諸国は、このような多民族国家の中でも、核となる民族が存在しないという点で特異な国家である。例えばタンザニアは約130の部族から成るが、その内最大勢力のスクマ族ですら全人口3500万人の3%に未たない。ザンビアや今回訪れなかったケニアも同様であるという。これら部族とは、日本における関西人や津軽人のような違いに過ぎないかもしれないが、現地人に聞いてみると強く部族の違いを意識しており、顔つきの違いも識別できると言う。だからこそ、国語としてのスワヒリ語が幅広く話されている一方で、公用語は英語である。日本には日本語、少数民族9000万人が住む中国には中国語、典型的な多民族国家であるマレーシアにはマレー語があるが、タンザニアにはタンザニア語というものがそもそも存在しない。その上宗教的には、旧宗主国の影響でキリスト教徒が40%を占める一方で、インド洋沿岸地域にはほぼ同数のムスリムがいるという。それら、異なる宗教を信じる多数の部族が寄せ集められて、一つの国家を形成するには大きな困難を伴うわけだが、それが歴史的な植民地支配の遺物であることは言うまでもない。
 サファリを楽しんだセレンゲティには、ジャンプで有名なマサイ族がたくさん住んでいた。彼らは昔から果てしない大地における家畜の放牧によって営みを立ててきた誇り高き部族であり、今でも昔ながらの生活を維持している。一方で彼らの先祖伝来の土地は、ありがたくも国立公園に指定されて国家によって保護された上に、外国人観光客を乗せたランクルが我が物顔に走り回っている。国立公園は外国人入園者一人当たり$50を徴収し、アルーシャの旅行会社は多くがマサイ以外の部族による経営とのこと。当のマサイは、サファリ観光客が気まぐれで立ち寄る際に民族衣装やお得意のジャンプを見せて、ちょっとした現金収入を得ているのみである。この状況に対して彼らがどう思っているのかは分らない。昔ながらの生活習慣を守ることに誇りを感じているのか、他の部族から搾取されていると怒っているのか、このような状況を招いた根源である欧州人を憎んでいるのか。ペルーでも似たような構図は見られたが、アフリカでは支配民族と被支配民族が複雑に入り組んでいるように感じられた。そしてその裏で経済を牛耳っているのは、未だに英系資本やアラブ系商人なのだろうか。そして複雑な民族構成に起因する国家統合の亀裂は容易に拡大する。タンザニアの政情は比較的安定しているようだが、隣国のルワンダでは民族対立から大量虐殺が行われたことは記憶に新しい。
 このようなアフリカで典型的に見られる、西欧から移入された近代的な民族問題に対して、中東のドバイの例は世界的に見ても特異であろう。20万人の大金持ちが生活していくために、100万人の外国人を雇い入れている国など、聞いたことがない。民族間で政治的・経済的階級を形作っているわけだが、それは歴史的経緯の中で漸進的に形成されたものでなく、アフリカのようにここ数世紀の間で圧倒的暴力によって強制されたものでなく、ここ数十年間で自らの意思によって移住してきた結果なのである。中世ヨーロッパには外国人の傭兵という制度が存在したが、外国人労働者を使い、外国人観光客を対象にしたドバイの国家経営手法は、究極の多国籍国家(?)の経営であると言えるかもしれない。それは特定民族の出身者しか就けない経営層が莫大な資金を持ち続け、その一部を外国人労働者に還元し続けられれば、存続できるのだろうか?近い将来、外国人労働者がドバイに長期間定住した結果、自らの政治的地位向上を叫ぶことは無いのだろうか?。その際、アラブ人は一気に少数民族の地位に堕することは無いと言い切れるのだろうか?。あるいは、燃料技術の革命的進歩により石油価格が暴落することがあれば、ドバイのリゾート経営はどうなるのだろうか?。世界中どこに行っても固有の民族問題が存在するものだが、アフリカとドバイには、これまで見たことも聞いたことも無いような、複雑ながらも興味深く現代的な問題が横たわっていたのである。
 最終的に、アフリカとは多様性ではないか。我々日本人は、アフリカをアフリカとして一括りにしがちである。多少地理に詳しい人でも北アフリカを除く程度で、ブラック・アフリカをそれ以上分解して認識できる人は殆んどいない。しかしそれは、アジアを一括りに考えることが不可能であると言うに等しく、甚だ偏った、あるいは誤ったものの見方と言うべきであろう。アメリカ人が日本と中国を区別できないと馬鹿にされることがあるが、同様に日本人はアフリカの内部の区別が出来ない。実質的には二カ国しか訪れていない者が言うのもおこがましいが、タンザニアはザンビアと違うし、タンザニアの中にも様々な部族が同居している。さすがに部族を見分けることは出来なかったが、2週間とはいえ旅行をすると、黒人と総称されるアフリカ人の顔つきや体つきにもいろいろあることがおぼろげながら解ってきた。そして自然環境や経済状況は更に多様である。日本から見て遠くて遠い大陸、アフリカ。一足飛びに全てを理解することは難しいが、その中での多様性に注目し、素直に受け入れるところから始めるべきではないか。

L3月14日:ドバイから東京へ
 13日の深夜、正確には14日の早朝2時50分発のエミレーツ航空で日本へ向かって飛び立つ。チェックインの際にオーバー・ブッキングを宣告された時には焦ったが、何とか席を確保できた。満席の飛行機は9時間半で関空に到着し、14日の19時半には羽田に戻ってきた。これほど日本に戻ってきて嬉しかった、ほっとしたのは、初めての体験であった。
 果てしない大地・アフリカへの18日間の旅行は、やや駆け足であったかもしれない。世界第三位の大きさを誇る淡水湖にしてナイルの源流であるビクトリア湖を見ることは叶わなかったし、南アフリカの喜望峰での岬めぐりもできなかった。マダガスカルやセーシェル、ボツワナやナミビアといった秘境もまだまだある。更に西アフリカには、全く異なるフランス語文化圏も広がっていると言う。一方で、アフリカ大陸の大きさと奥の深さ、多様性を考えれば、タンザニアのサファリとザンビアのビクトリアの滝は、第一回目の今回において適当な組み合わせだったのではないか。
 18日間の旅行は、肉体的にも精神的にも非常にタフなものであった。それは、アフリカという未開の大地を旅したことの他、サファリ・ツアーでのキャンプやタンザン鉄道というスタイルを選択したことも影響していよう。治安が必ずしも良くなかったことも大きいが、それはアフリカが我々を拒んでいるということでは決して無い。日数を重ねるに従って、実際の危険度合いが肌で理解できるようになり、不気味に声をかけてくるタンザニア人やザンビア人も、例えばペルー人と同様に人懐こい人が多いことがわかってきた。もっとお金をかければ楽な旅行も出来ただろう。しかし私にとっては、サバンナのど真ん中で自ら張ったテントに泊まり、少しでも街中を自らの足で歩いてローカル・バスに乗り、また現地人の足であるタンザン鉄道に40時間以上も乗り続けるというスタイルは、やはり必要なものであったと思う。その意味では、このようなスタイルの旅行が、年齢的・体力的に限界に来ているということなのかもしれない。
 それでも18日間の旅行は、数多くの人々と知り合う機会を与えてくれた。サファリで四日間寝食を共にしたスウェーデン人とアメリカ人、親切で温和なタンザニア人ガイド、タンザン鉄道で語り合った理知的なタンザニア人エリート・サラリーマン、ザンビアのタクシー運転手やお嬢さんにもお世話になった。ドバイの松原夫妻とは久々に熱いアラブ論を語ることもできた。世界遺産に指定されるような絶景や野生動物、遺跡、そしてそこでたくましく生きる人々、そしてそれら全てを包含する果てしない大地が、アフリカの大きな魅力なのだろう。

以上
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