ベルベルの国
高橋 洋 1999年2月5日
 モロッコと聞いて、一体どのようなイメージが浮かぶだろうか? 北アフリカの西の端にあるイスラム国。カサブランカがある…とまあ、やはり印象が薄いことは否めないだろう。その日本人にとって訳の分からない国に、私はこの冬2週間旅行をしてきた。国としても地域としても文化としても初めての体験であり、去年の南米に引き続きなかなかのサバイバル旅行ながら、予想を上回って面白かった。このベルベル人の国とはどのようなものなのか、徒然なるままに書いてみようと思う。

○ベルベル人
 世界史を多少なりとも勉強した人なら、モロッコがイスラム国家であることは知っているだろう。7世紀以降アラブ世界は、イスラム教と共に爆発的に拡大を始める。所謂サラセン帝国は北アフリカを平らげ、さらにジブラルタル海峡からイベリア半島まで勢力を拡大してしまうのである。以降、現在のモロッコを含む地域は、イスラム王朝が勃興を繰り返すことになる。
 ここまでの歴史を少々注意して読めば気付くと思うのだが、従ってモロッコはイスラム国家でありながら、アラブ国家とは一線を画す。ある意味でアラブ民族は「侵略者」であり、現在の人口の2割少々を占めるに過ぎない。残りの大半は、このイスラム化以前から原住民族として生存する「ベルベル人」なのである。ベルベルとは、そもそも訳の分からない言葉を話す「野蛮人」を意味するギリシャ語「バルバロス」であり、征服者たるアラビア人が原住民を呼んだ蔑称であった。しかし、今では軽蔑の意味はなく、モロッコ、リビア、アルジェリア、チュニジアなどマグレブ地域の原住遊牧民族の子孫を指す言葉として、彼ら自身が誇りを持って自称している。現実的には混血も進み、より白人に近いモロッコ人、サハラ以南の黒人に近いモロッコ人など、多種多様な人種が混在しているのだが、大半の国民は自らをベルベル人として認識しているようである、
 では彼らベルベル人はアラブ民族を嫌っているのかと言えば、そうでもないらしい。アラブ民族と同居した多民族国家としての歴史は長く、かつアラブとイスラムはある意味で一心同体であるためか、対立が社会的問題となってはいないようである。実際少数派のアラブ人が支配階級についており、現在のハッサン二世国王もアラブ人なのだが、この国王に対して国民が向ける敬愛の情はかなりのものであり、両民族の統合は進んでいるようである。しかしながら、モロキャンと話してみると、「我々はベルベルである。アラブではない。」と強調したがる。アトラスの南にあるティネリールで知り合ったエルマムーン・カディおじさんは、「ベルベルはグッドで、アラブはバッド。アラブでもこの辺のアラブはグッドだが、マラケシュやカサブランカのアラブはバッド。(一番北にある)タンジェのアラブはベリーバッド」と言っていた。ベルベル人のアイデンティティーの模索が垣間見られて面白い。(写真はカディーおじさんとその子供たちと)

○イスラム国家
 そのアラブ民族がもたらした最大の遺産がイスラム教であるが、イスラム世界とはある意味で日本から最も縁遠い世界である。私としても、マレーシアやインドネシアなどとは異なる、初めての本格的イスラム国家であったが、モロッコは決してイスラム法に縛られているわけではない。確かに、イスラム教が深く生活に根づいているという印象は受けたが、同時に中東のイランやらサウジアラビアなどと比べるとずっと世俗国家である。
 街を歩いてみると、女性は半分近くが例のジュラバという目だけを出す服装をしている。しかし、大都市などでは特に若い世代は非イスラム世界と何ら変らない服装をしている人も多かった。至る所でモスクを目にするものの、1日5回の礼拝は、誰もが厳格に守っているという程ではないようだ。ある意味で、個々人の自由意志に任せた、より一般慣習に近い形で宗教が根づいているようである。イスラム教では飲酒を禁じているが、街によってはビールやワインも売っており、イスラム教徒は基本的には口にしないものの、アルコールを敵視しているという雰囲気ではなかった。モロッコ航空ではお酒の機内サービスもあるらしい。
 今回の旅行は、完全にラマダン・断食月と重なったのだが、これは大変面白い体験であった。日の出から日の入りまで、彼らは本当に一切の食べ物も水も口にしないのである。そのためか、午後3時頃を過ぎると、目が血走って危なそうな状態に近い人が何人か見受けられる。やはり慣れていても辛い物は辛いのである。しかし街は基本的に平常通り機能しており、市場も人で溢れている。逆に4時頃からは、パン屋や肉屋、果物屋は大繁盛する。そして5時を過ぎると店終いが始まり、5時半と共に先ほどまであれほどいた人や車が通りから消えてしまう。一方日中閉まっていたレストランは開店を迎え、モロキャンは一斉にご飯を食べるのである。5時半になった途端、両替屋の窓口は客が並んでいようがばたんと閉められるし、遠距離バスも屋台の前で一時停車するのである。
 彼らは外国人観光客に対して大変寛容である。歴史の教科書に書いてあったような、「右手にコーラン、左手に剣」ということは、今では有り得ない。旅行中一度もイスラム教を強制されたことはないし、日中こちらがご飯を食べていても嫌な顔を一切しない。実際観光地には、日中でも開いているレストランもある。ラマダン後の屋台に私が加わると、親切に席を空けてくれ、私のつたないアラビア語に付き合ってくれた。イスラム世界とは、驚くほど個人主義の、しかし人懐っこい世界であった。

○フランス植民地
 さて、世界史の教科書の近世を良く読むと、北アフリカは基本的にフランスの植民地であったことが解る。1912年に保護国化された後1956年に独立するまで、モロッコは植民地支配を受ける。このためモロッコでは、公用語のアラビア語と同程度にフランス語が通用する。街並みはフランスとは似ても似つかないし、彼らの喋るフランス語は、少なくとも素人の私が耳を傾ける限りでは、決してフランス語らしくない。しかし、看板にはかならず二つの言葉が併記されているし、街にもルノーやらシトロエンが走り回っている。
 最もフランスの爪痕を感じたのは、皮肉にもフランス人観光客の多さであった。現地人の観光客は殆ど見当たらないため、基本的に観光客は外人ということになる。その内8割ぐらいがフランス人ではなかろうか。フランス人のおじちゃんおばちゃんが、団体でわっと押しかけて、街中でもフランス語を喋り捲って次の目的地へ去っていく。付き添いのガイドのみならず、一般に言葉が通じてしまうのだから、こんなに楽なことはあるまい。次に多いのは、意外にも日本人である。その他イギリス人やドイツ人などが散見された。さすがにここまで来るとアメリカ人は殆ど見受けられず、植民地支配の根深さを感じてしまった。モロッコは今でも、旧宗主国のフランスが落としていく外貨に頼らなければやっていけないようである。

○もろきゃん・ほすぴたりてぃ
 日本人のモロッコ旅行は困難か? そうでもないと思う。確かに英語は、一部のホテルなどを除けば殆ど通じない。しかし、モロキャンはフランス語を理解するため、あのミミズの這ったようなアラビア文字を使わずにアルファベットを使った地名などの筆談はできる。また、幸い治安がいいので、騙されたりぼられたりということは茶飯事であるが、身に危害が及ぶということはまずない、というのが印象である。マラケシュなどの大観光地を歩いていると次から次へと自称ガイドやら客引きが寄ってくるが、彼らを適当にあしらう事、値段交渉をゲームと思って楽しむことさえ覚えてしまえば、こんなに楽しい国はないだろう。
 実際モロキャンは非常に人懐っこい民族である。道などに迷っても親切に教えてくれるし、そもそも東洋人に興味があるのか次から次へと寄ってくる。今回は男二人の旅行であったが、特に女性は年齢外見に全く拘わらず、信じられないような扱いを受けるらしい。イスラム教の男性にとっては、結婚にお金がかからない(実際にはそうでもないのだが…)ということは、とてつもないメリットらしい。うっそ〜と思っているあなた、是非自分の商品価値に挑戦してみたらどうでしょうか?
 さらにすごいのは、「もろきゃん、ほすぴたりてぃ」などと言いながら、すぐに家に誘うことである。多少常識のある人なら、海外旅行で現地人からいきなり家へ招待されても絶対に付いては行かないだろう。私もこれまでそんなことをしたことはなかったのだが、モロッコでは2度も体験してしまった。家の中へ案内され、ミントティーやお菓子をご馳走になり、何事も無く帰って来るのである。勿論彼らは純粋な親切だけで家に誘う訳ではない。必ず家では手織りのカーペットのオンパレードが始まる。しかし、丁寧に断れば別に危害を加えられるということはなかった。商売根性だけではなく、やはりそもそも遠方の客はちゃんともてなさねば、という親切心があるのは否定できないと思う。
 現地人の家を訪問するというのは中々できない貴重な体験である。外から見ればみすぼらしく見える赤土の家も、中に入ると意外としっかりしていてかつ暖かい。綺麗なベルベル絨毯が敷き詰められており、思った以上に快適であることもわかった。そして何よりも、子供なども出てきて一緒にラマダン明けの夕食をご馳走になるのである。本当に本当に面白い体験であった。
 モロッコは観光立国だけあり、旅行もしやすいように出来ていると思う。鉄道やバス網も整備されており、時間も意外に正確である。ホテルはどこへ行ってもピンからキリまで山の数ほどあるし、物価も安い。日本人が違和感なく泊まれる中級ホテルが2人で3000円程度、バス・トイレが共有の安ホテルになると1000円以下である。市場で売っているみかんは1個3円、モロッコ・パンは1個20円、1.5リットルのミネラルウォーターは30円などである。貧乏学生にはありがたい限りであった。

○メディナとカスバ
 さて、肝心の何を観光するか?である。モロッコと聞いて、誰でも最低限思い付くのはカサブランカであろう。私の2週間のモロッコ旅行も、カサブランカでソニーの元上司とクリスマスに再会する所から始まった。しかし、カサブランカは最もモロッコらしくない街である。世界中どこの発展途上国にも存在する騒がしい大都会なのである。騒音と排気ガスに彩られ、人々も普通の格好で忙しく歩き回っている。家並みも大きな特徴もなく、そこにはモロッコらしさは見られない。モロッコらしさを見事に体現しているのは、古都マラケシュの旧市街メディナと、アトラス山脈以南の砂漠地帯の旧要塞村カスバではないか。
 マラケシュと言われても、松田聖子が唄っていた覚えがあるぐらいで、名前以外大した知識は無かった。場所的にはモロッコのほぼ中央に位置し、すぐ南にアトラス山脈を控える乾燥地帯のオアシスの古都である。マラケシュは北部のフェズに次いで2番目に古く、モロッコの様々な歴史、遺跡、自然、そして人間が見事に集約された街である。モロッコの最もモロッコらしい所を1日で見たいならば、やはりマラケシュの市場に行くことをお勧めする。あらゆるモロッコの都市がそうであるように、このマラケシュもメディナ(旧市街)とギリーズ(新市街)とに二分される。ギリーズはフランスの統治下に建設された新しい街で、従って何の面白味もない。面白いのは、イスラム王朝時代から続くメディナである。基本的に城壁に囲まれたその旧市街の中は、迷路のように入り組んだ狭い道々に商店がずらりと軒を並べ、買う方売る方の人々でごった返している。モロッコ人のパワーと日常生活が垣間見られる、本当にエキサイティングな世界なのである。
 特にマラケシュでは、そのメディナの中心にジャマ・エル・フナ広場がでんと居座っている。小学校の運動場ぐらいの広さのこの広場には、怪しげな大道芸人、入れ歯売りのじじい、ヘビ使いなどが人垣を作り、何時間もボーッと座って眺めているだけでも飽きない。この広場には、目の前でオレンジジュースを作ってくれる店が軒をならべ、1杯半で25円。ここのオレンジジュースの味は忘れられない。さらに5時を過ぎると大道芸人は退散し、その後に屋台が次から次へと開店し出した。ハリラ、タジンなど通常のモロッコ料理のみならず、魚のフライ、羊の頭の煮込み、エスカルゴなど、何でも美味しかった。
 さて、モロッコを南北に分けるのがアトラス山脈。世界五大山脈の一角を占めながら最も知られていないが、それでも最高峰のツブカル山は富士山よりも高い。地中海世界からそのアトラスを越えると、そこには砂漠の世界が広がっている。砂漠というと、さらさらの「砂・砂・砂」の世界をイメージしがちだが、実際には世界の大半の砂漠は所謂礫砂漠であり、沙漠と表記するのが正しい。英語のDesertが本来「不毛の土地」を意味するように、アトラス山脈以南には、岩と土の荒野の大地が広がっている。アメリカの国立公園評論家を自認する私は、こんな所に岩と土の芸術が広がっているとは知らず、腰を抜かしてしまった。グランドキャニオンもびっくりという山並み・岩並みが続き、その中にぽつりぽつりと城壁で囲まれた要塞であるカスバが残っている。さらに、点在するオアシスには必ず緑が棲息を許され、そこには自然と人家が集まる。水のありがたさを実感する瞬間である。土色の埃っぽい街中にいると、果てしなく平和的な気分にさせてくれる。

○サハラ砂漠の初日の出を求めて
 アトラスを無事南に越えた後、我々はカスバの沙漠地帯をさらに南東に進んでいた。アトラス以南の世界の入口であるワルサザードを出て中部のティネリールに到着したのが12月30日。もう少し南下すると、そこには正真正銘の砂漠が待っている。そう、ここはサハラ砂漠の北西の端なのである。しかしここからはバスの本数も限られ、乗り換えも不便になってくる。どうしたものかと思って居ると、たまたま寄ってきたモロキャンじじいにレストランへ連れて行かれた。初めはティネリルの近郊のトドラ渓谷へ行くタクシーの交渉をしていたはずなのに、いつのまにか話しはタクシーをチャーターしてモロッコ最大の砂丘メルズーガへ行かないか、という話になっていた。勿論我々はそこへ行く積もりで居たのだが、相棒はこんな話に飛びついたら痛い目に遭うと初めは全然相手にしていなかった。しかし素直な私はその人の良さそうなじじいの話に耳を傾け、かなり信頼できる、かつ決して悪い話でないと思い始めていた。これがエルマムーン・カディおじさんとの出会いである。
 カディおじさんは英語を流暢に操り、そのレストランがカディさんの知り合いの店であること、その店は「地球の歩き方」にも掲載されている、従って信頼できる店であること、などを一生懸命説明していた。タクシーは6人まで乗れて、1台\15,000。6人で割れば、僅か2,500円である。翌日ティネリルから直接メルズーガへ行き、その翌日にはアトラスを北へ抜けるためのゲートシティーであるエルラシッディアまで運んでくれるという。砂漠のガイドも強要しないし、砂漠のホテルも自由に選んでいいと言う。金銭的な問題はいいとして、この話の最大の魅力は、確実に大晦日にサハラ砂漠へ到着でき、従って初日の出を拝めるということである。一つ引っ掛かっていたのが収容人員である。6人というが、これは普通のメルセデスに前2人(除く運転手)と後ろ4人という、かなりハードなものである。2日間で乗っている時間は約7時間であるため、これは楽ではない。いざという場合は、2人だけで \10,000という代案も考えていたが、結局日本人の3人組みが見つかり、5人でその話を受けることとなった。
 この選択は大正解であった。その夜、カディさんの家にも招待され、ラマダン明けの夕食を家族と一緒にご馳走になった。翌日10時にティネリルを出発し、決して快適なタクシーの旅ではなかったが、何と1998年の大晦日にサハラ砂漠の中の小さな小さなオアシス村:ハッシ・ベンディに到着することができた。そこには一応「ホテル」があったのだが、それはホテルというよりも「小屋」に近い。とにかく質素この上ない部屋に汚いベッドが2つ置かれている。裸電球は朝には点かず、相棒が気温を計った所、外も室内も同じ氷点下であった。三十歳を迎えようというこの年の最後の就寝場所がこんなあばら屋であることを、私は散々愚痴っていた。(ちなみにその元上司はやはり独身で三十八歳)しかしそのすぐ側にあるサハラ砂漠がそれを帳消しにしてくれた。そう、砂の山並みが波打っている、あのお望み通りの景観の中に私は居たのである。前日1年ぶりの雨が降ったという大晦日の日の入りは雲勝ちであったが、翌日の元旦朝6時に慌てて目を覚まし、早速駱駝に乗って最大の砂丘の頂上を目指す。7時頃に頂上につくと、そこには何と、クレージーなフランス人が寝袋で極寒の夜を明かしていた。そして7時20分。見事な初日の出だった。その場には10人程度の人々がいたが、半数は日本人であった。通常なら神をも畏れぬぐうたら者の私は寝正月と相場が決まっているのだが、さすがにこの時ばかりは日本人に生まれてきたことを感謝した。太陽が上がると共に、暗黒の砂漠は紅く輝き出した。
 初日の出を仰いだ後、エルラシッディアまで運んでもらい、ここでタクシーの旅は終りを告げた。丁度バスの乗り継ぎがあり、再度アトラスを越えて地中海側のマラケシュと並ぶ古都フェズを目指した。ティネリール以降何とスムーズに事が運ぶのであろう、と二人で感動していたのだが、アトラスはそんなに甘くはなかった。3時間ほど走った所で、山中にて大雪でバスの中に閉じ込められたのである。サハラ砂漠と大雪を同じ日に体験できるという、モロッコの偉大さに感服しつつ、命からがら逃げ込んだのが、山間の町・ミデルトであった。それでもそこでは一番のホテルに宿を取り、暖房で冷えた体を温め、とにかく今晩は砂漠の砂を落としてゆっくりしようと部屋の中で話していた。そしてベッドでくつろいでうとうとしかかっていると、突然停電に襲われた。何だ何だ、とびっくりして階下に下りてみると、既に廊下にはろうそくがずらっと並べられ、大騒ぎの宿泊客に対してホテルマンは冷静に対応していた。こんな(しっかりした)ホテルで停電が頻発するのか?と思いつつ、慌てて窓の外を見ると、町中真っ暗だった。それでもその日の夕食は、ちゃんとしたレストランでろうそくを点しながら食べた。何とかなるもんである、モロッコという国は。

○右手にタジン、左手にクスクス
 旅の楽しみの半分近くは食に在ると思う。その意味でモロッコはどうか? 砂漠の民の食生活が余り豊かであるとは思えない。そのご多聞に洩れず、モロッコ料理も決して多彩で華やかな物ではない。しかし、味はなかなか日本人の口に合うのではないかと思う。選択肢が余り無いものの、少なくとも去年のアルゼンチンなどと比べると、私は2週間の間決して不満を感じなかった。
 選択肢は2つである。タジンかクスクスか。まずタジンとは、モロッコ風煮物である。基本的にニンジンやじゃがいもなどの野菜にマトンやチキンを加えて、ハクション大魔王の壷のような容器でじっくり煮込んだものである。サフランやコリアンダーなど複数の香辛料が入っているようで、中々奥の深い味がして、日本人の舌も満足させてくれる。これがモロッコ人の主食で、毎日食べているようである。もう一つのクスクスは、小麦粉を蒸したものに、マトンや野菜を煮たシチューをかけて食べる、リゾットのような物で、モロッコのみならず北アフリカで広く食べられている。私のお気に入りである。こちらはどちらかというとモロッコではご馳走のようで、モロキャンはお休みの日などにしか食べない。レストランでも、作るのに時間がかかり、予約でないと受け付けない所も多かった。
 その他に、ハリラというスープも私の大好物であった。これはマトン、豆、玉ねぎ、トマトなどを細かく刻んで煮込みに煮込んだ、とろみのあるミネストローネのようなスープである。店によって味も異なるが、一般的には高級レストランでは薄めの上品な味で 300円程度。一方屋台ではこくのある濃いめの大衆の味で僅か25円。私はカサブランカやマラケシュの屋台でこれにモロッコ・パンをつけつけ食べるのが大変気に入った。これだと、他にフルーツやティーを付けても食事は 100円程度で終ってしまう。焼き鳥が好きならば、中東で広く食べられているカバブを頼んでもいい。モロッコ・パンは、フランスパンを円盤状にしたようなパンで、最近日本でも流行り出したらしいベーグルに味が似ている。プレーンもあれば、砂糖がまぶしてあるものなどもある。必ず食卓に登場し、地中海ならではのオリーブの塩漬けなどをつまみながら食べる。
 飲み物はどうするか? お酒は基本的に期待できないこの国では、カフェオレなどが飲まれているが、それ以上に特徴的なのはミントティーである。銀色のアラビア・ポットに緑のミント葉を何枚も入れ、お湯で満たしてから一気に高い位置からコップに注ぎ込む。こうして泡立てるのがポイントらしく、ミントの香りが立ち込める。砂糖を入れ過ぎるので日本人にはかなり甘いが、それも慣れてしまった。またかりんとうのような甘いお菓子や、ナツメヤシの実を干した干し柿とマロングラッセの中間のようなこれまた甘いフルーツも良く食べた。
 普通のレストランでは、 700円〜1000円程度のコースを用意している所もある。その場合は、まず前菜として普通の野菜サラダかハリラかを選び、次にメインとしてクスクスかタジン、そしてデザートが付くことになる。ワルサザードで、たまたま現地人に連れて行かれた高級そうなレストランで、コースの料理を食べた。店の雰囲気が非常によく、ウェイターも丁寧で、その時食べたクスクスは今回のモロッコ旅行で一番であり、大変盛り上がった。そしてデザートになり、私は「ヨーグルト」、相棒は「フルーツ」を選択した。すると、白い小皿に「皮のままのバナナが1本」、「ダノンのヨーグルトがそのまま」出てきた時には、我々関西人二人は机をひっくり返してずっこけそうになった。愛すべき国である。

 とまあ、わずか2週間程度でモロッコの全てを語ることなぞ到底不可能な話なのだが、いずれにしろ私がかなりモロッコを楽しんだということだけは伝わってくれたのではないだろうか。それだけ奥が深い、面白い国であった。スペイン旅行のついでにちょっとジブラルタル海峡を越えて寄る、という人も多いようだが、(実際我々も始めはその積もりであった)折角ならちゃんと時間を取って、地中海側とアトラス以南の両方を訪れて欲しい。それだけの価値がある、なかなか愛すべきベルベルの大地が歓迎してくれると思う。  以上

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