シンガポールは面白い!
高橋 洋 1999年12月10日
 私がシンガポールへ行ったのは、今回で6回目であった。住んでいたアメリカを除くと、こんなに何度も訪れた国は他にはない。こてこての大和民族の私が初めて海外に足を踏み入れたのは1988年であるから、その後ほぼ2年に1回はシンガポールに行っていたことになる。その意味では私のお気に入りの国であることは間違いない。
 何故か?親友が住んでいるということが最大の理由であることは間違いない。APLDSその他で知り合ったシンガポール人達とは今でも大の親友で、彼らと会い、様々な話をし、一時を過ごすことは、大きな楽しみの一つである。しかし、それだけで6回も訪れているわけではない。一般的な印象として、シンガポールは人工的で画一的で面白みの無い国と思われているが、それだけではない面白さがあるから、シンガポールに何度も行きたいと思うのではないか。

○シンガポールはつまらない?
 シンガポールは人工的な国であると言われる。高層ビルの間をハイウェイが縫って走り、道端には等間隔に植えられたポプラ並木が続く。シンガポールの銀座であるOrchard Roadには高級デパートやホテルが立ち並び、屋外は赤道直下の熱帯でも屋内は寒いほどエアコンが効いている。淡路島よりも小さい島には熱帯雨林は殆どなく、MRTという近代的な地下鉄が東西南北を結ぶ。少し郊外に行けば、よく似た外見の公営の高層マンションが立ち並び、どこの街なのか迷ってしまうほど画一的である。
 観光の見所と言えば、やはり人工のSentosa島。ロープウェーで島に渡り、島内では観光列車が走り、ちょっとした水族館や博物館が並ぶ。やはり人工のビーチの傍に高級ホテルが立つ。その他、動物園にしろ植物園にしろ全て既製品という感じで、本当の自然に触れる機会は余りない。実際現地人に聞いても、シンガポールでは休日にやることは限られているという。全てが都会の島であるから、映画を観て、ショッピングをして、ご飯を食べるしかやることがない。少し長い休みの場合は、マレーシアやインドネシアへ国外脱出となるらしい。日本の休日事情が恵まれているとはお世辞にも言えないが、気軽に伊豆や軽井沢へ行くことは、シンガポールではできない。
 これでは日本人観光客が訪れてもそれほど楽しいものではない。Sentosa島を訪れて退屈し、Merlionを見てその予想外の小ささにガッカリし、後は美味しい中華料理に舌鼓を打って、Orchard Roadでショッピングをして終わり。しめて3泊4日のツアー。それほど発見はなかったものの、治安もいいし、気楽で手軽なツアーという所であろう。しかしこれでは1回行けば十分。シンガポールという国に対して魅力といった物を感じる人は余り居ないだろう。

○リー・クワンユーの実験国家
 少し歴史の勉強をしてみよう。シンガポールは最近まで英国の植民地であった。19世紀以前はただの漁村しかなかったというこの島も、1819年に大英帝国の総督Rafflesにその戦略的価値を見出されてから運命が変わることになる。東アジアとインド洋を繋ぐ中継地として、英国の東南アジア植民地経営の根拠地となり、さらには中継ぎ貿易で栄えた。
 第二次大戦後は、民族主義の高まりと共に、1963年に現在のマレーシアと共にマラヤ連邦を設立した。この頃からリーダーとして台頭したのが、人民行動党(PAP)のLee Kuan Yewである。結局マレー人中心のマレーシアとはやっていけず、1965年にシンガポールとして独立を果たすことになる。それ以降彼の「独裁的」リーダシップの下に近代化を推し進め、製造業・金融業・運輸業などでは世界有数の競争力を持つに至った。一人当たりGDPはUS$20,000を超え、先進国にも見劣りしない豊かな国となったのである。
 シンガポールはリークワンユーの実験国家と呼ばれている。人口も300万人で、サイズ的にも小さい都市国家であるため、氏のリーダーシップの下に、計画的に国家建設が行われた。だからこそ赤道直下の熱帯にしては信じられないほど近代的で快適な街が出現したわけだが、その反面規制・罰金が多いことでも有名である。ごみを捨ててはならない、唾を吐いてはならない、屋内でタバコを吸ってはならないなど、当たり前だが現実には破られている公衆道徳が、この国では厳しく徹底されている。実際にその取締りに遭っている場面は目の当たりにしたことは無いし、全ての人が完璧に守っていると言うわけでもないらしいが、確かに街は清潔である。さらに、交通量を規制するために、市街中央部に入るためにはお金を払わなければならなかったり、車を購入するには車体価格と同じぐらいする「保有権」を払わなければならないなど、確かにこの国ではルールが多いようだ。それがシンガポールへの「つまらない」というイメージの源にもなっている。

○Multi-ethnic
 さて、「シンガポールは実は面白い国だ!」ということを言いたいのでるが、そのトップバッターは、Multi-ethnic:多民族国家であるということだ。シンガポールは華人の国であるというイメージが強いが、中国系78%の他、マレー系14%、インド系7%と、一種の多民族構成になっている。これは宗教の多様性にも反映され、道教31%、仏教28%、イスラム教18%、キリスト教10%、ヒンズー教4%と、さらに複雑である。
 国家の政策としては、基本的にこれら複雑な民族構成を有りのままに受け止め、一民族への同化ではなく、シンガポールとしての国民統合を果たすことを目指している。マレーシアのようにブミプトラ(現地民)優遇政策は採らないし、インドネシアのように国民全てにインドネシア系名称を押し付けたりもしない。異なる民族が、それぞれのアイデンティティーを維持しつつも、新たな中立的なアイデンティティーとしてのシンガポールを確立しようとしている。確かに空港の職員には肌が浅黒く顔の彫りが深い人も多いし、街を歩いていると体を隠したイスラム教徒の女性もよく見かける。街中の広場でマレー系の人々がマレー式の結婚式で一日中騒いでいるし、インド人街に行くとインド系が圧倒的に多く、市場にはカレー屋が軒を並べる。
 ここまでならアメリカなどでも見られることだが、私が現地人の友達と話していて感じいったのは、シンガポール人としての民族主義である。華人は世界各国に散らばっているとは言えど、人口的にはいずれの地域でも少数派に過ぎない。しかしこの国では、多民族国家ながら、華人の国といっても差し支えないぐらい中国系が圧倒的多数を占める。しかし彼らの頭の中には、中国への帰属意識・同胞意識は全く無い。彼らは人種的には明らかに漢民族であり、中国語も大抵複数の方言を見事に操る。しかしながら、自らを中国人ではなくシンガポール人として定義しているのだ。
 例えば、「中華人民共和国に対して親しみを感じるか?」という問いに対して、私の親友たちは、「全く無い。自分達の祖父・祖母の世代では、自分たちの故郷は中国だという人も多いが、我々の世代にはそんな意識は無い」というのである。去年のインドネシアでの暴動で華人が標的にされた際に中国政府が遺憾の意を表明したが、「あれも我々(親友の一人は中国系インドネシア人)から見れば、『何を言っているんだ部外者が』、という感じだった」と言うのである。
 この立場の特異性は、アメリカと日本という民族主義に対して両極端の立場にある両国と比べると解りやすい。まず単一民族国家の日本では、実体としての人種的・民族的繋がりを時には国籍以上に重んじる。日本人としての顔貌をしている人が「日本人」であり、例えば白人のデーブスペクターは、いくら日本語が完璧に話せてあそこまでこてこてのギャグを連発しても、誰も日本人だとは思わない。そのため「外人」が日本に住んだり国籍を取ることは非常に難しくなるのだが、変なことに、日系ブラジル人は容易に日本で働けたり、日系ペルー人の大統領を特別扱いしたりもする。これも、血統として日本人であることへの意識が強いからであろう。
 一方、世界の代表的な多民族国家であるアメリカでは、そもそもアメリカなる物理的実質が存在しない。敢えて言えばインディアンと呼ばれている原住民がそうであるが、彼らは現代のアメリカを何ら体現していない。また、確かに白人は政治的・経済的権力を支配しているものの、2000年には非白人の人口が白人のそれを上回るという統計もある。さらに、WASP(White Anglo-Saxon Protestant)という言葉もあるが、現実的に白人の中の特定民族がアメリカを支配しているとも言えないだろう。このように、アメリカではアメリカなる物理的実質がないが故に、理念に頼って国民統合を推進する必要があった。それは清教徒にとっての信教の自由であったり、経済的成功のAmerican Dreamであったのだ。この点は、やはり多民族国家でありながら中核民族を持つ中華人民共和国や、ロシア連邦とは根本的に異なるアメリカ独自の特徴である。
 さて、日本と異なり多民族国家であるシンガポールは、複数の民族をどう扱うか、という問題を突き付けられた。しかし、漢民族が圧倒的多数を占めるにも関わらず、マレーシアのように主要民族中心主義も採らず、逆にアメリカのように実体無き概念である「シンガポール」への帰属を目指した。これは理想的にはそうあるべきだろうが、現実的には難しいはずである。それが何故できたかと言えば、第一には主要民族たる華人が政治的経済的実権をそもそも握っていたことが挙げられるだろう。マレーシアにしろインドネシアにしろ、経済的には豊かでない多数民族が政治的実権を握った場合、自民族優先の政策を断行することを妨げるのは難しい。そして第二にはその小さいサイズであろう。これは、旧ソ連が同様の理想を掲げながら、結局はロシア中心主義で崩壊したことを見ても、大帝国を維持することが如何に困難かが解る。現在の中国政府が、多民族国家の維持のために共産党による中央集権体制を正統化していることも一面では頷ける。それでも第三には、やはリー・クワンユーの指導力は否定できないであろう。小さい国家にあれだけの理想主義的独裁者が居たから夢が実現されたのである。現に、小学校の教師をしている親友によると、小学校でも各民族への隔離的帰属ではなく、あくまでシンガポールとしての団結を教えているらしい。確かに未だに華人とマレー系では所得水準も教育水準も明らかな差があるのだが、表面的には複数の民族間での差別はないことになっている。

○Multi-lingual
 次に、Multi-ethnicの一つの帰着でもあるのだが、さらに面白いのがMulti-lingualということである。複数の民族が共存する国では、国語をどうするかと言う問題に必然的に直面することになる。そこでは多民族の言語を採用するか、民族融和のために第三国の言葉を公用語とするか、という選択肢が一般的であり、シンガポールは後者を選んだ。これは、マレーシアやインドでも見られる状況であり、特筆すべきことではない。
 この国の面白い所は、国民が国民同士で多数の言語を当たり前のように操る、という点である。
 まず、公用語は英語である。学校でも第一言語として教えており、国民の多くが英語を完璧に話せる。その他民族によって、中国語、マレー語、タミール語(インド)と各民族が自民族の言葉を喋る。しかし、中国語と言っても多数の方言があり、その家系の出身地域に応じて、広東語、福建語、上海語に北京語と、「母国語」は異なる。こうなってくるとどういう現象が起きるかと言うと、私が友達と一緒にChina Townに買い物に行った時には、友達は店のおじいさん相手にまず英語で話しかけ、向こうが北京語で返せば北京語で対応し、広東語で返せば広東語で対応するのである。その友達が自宅に電話をすると、母親とは英語と福建語のチャンポンで話していた。言っておくが、中国語の方言とは英語とフランス語ぐらいの差があり、ちょっと北京語を勉強したぐらいでは、他の方言は全く理解できない。こんな頭が狂いそうな状況に日本人の私が発狂していると、彼女いわく、「どれかが通じるから何とかなるよ」、というのである。
 アメリカでは英語が公用語であり母国語である。国籍付与の条件に英語を読み書きできることがあるように、国民として英語を話せることは当たり前のことである。最近ヒスパニック系が増えてきて、Miamiなどではスペイン語が至る所で聞かれるが、それでも英語の通用度は圧倒的であり、かつ複数の言語を操れる人は決して多くは無い。居たとしても、英語が一番話せることには代わり無い。マレーシアはかなりシンガポールの状況に近いが、それでも英語はあくまで母国語ではない。日本人よりは比べ物にならないほど多くの人が上手く喋れるが、あくまで母国語はマレー語なり中国語であり、英語は異民族間の意思疎通のための「公用語」に過ぎない。
 果たして彼らシンガポール人の母国語は何なのか?友達によると、「祖父母の世代は明らかにその家系の出身地の中国語方言だった。でも僕ら友達同士は基本的に英語でやっており、僕らの子供達は生まれてからずっと親から英語で話し掛けられるだろうから、完全に英語が母国語になるだろうね」というのである。この国では、世代を経るに従って母国語が変化しているのである!実際小学校では英語を国語とし、その他に出身地母国語の授業があるらしい。中学校以降では「外国語」の授業が始まり、そこで「他民族」の言葉を選択する者もあれば、日本語など第三国の言葉を勉強する者もあるらしい。これは、英語すらろくに喋れない日本人の常識から考えれば、途方も無いことである。
 日本にもBi-lingualはいる。しかし絶対数が少ない上、一部の帰国子女を除けば彼らは日本人同士で日本語以外を使わない。あくまで日本語以外の言語は全て自動的に「外国語」であり、それは「外国人」との意志疎通のために必要なのである。しかしシンガポールでは違う。国民同士が、同じ漢民族同士が、複数の言語で話し合う。複数言語を操る国民が普通なのである。友達いわく、「複数の言語を話せるからAIESECでも友達が作りやすかったし、仕事でも有利だ。」確かに欧州でも複数言語を操る人が多いが、国内では普通その国語を使うはずだし、どれが母国語か解らないという人は少ないはずである。その意味で、シンガポールは我々の想像を絶するとんでもない世界なのだ。

 とまあ、パック旅行でやってきて、決まり決まった観光地しか行かなければ解らないが、街行く人々を観察していると、シンガポールは何と面白い国なのだろうか、ということになってくる。このMulti-culturalの国で、インド人街の市場を探検し、China Townでおじいちゃんに話し掛けると、未だに壮大な実験を続けている稀有な国なのだということが解る。確かに、「リー・クワンユーが黒と言えば白でも黒くなる」国である。シンガポール人も、規制の多さや強権的政府を心から支持しているわけではなさそうだ。しかしその一方で、「それでも国民が反乱を起こさないのは、まだまだ現状に満足しているから」ではなかろうか。アジア危機の際にも、インドネシアのように民族間の緊張が高まったと言う話は全く聞かなかった。そこには民族を超えた国民融和という理想があり、人々が快適に暮らせる秩序がある。法律を破った罪人に法律に従って鞭打ちの刑を与える国が野蛮なのか、国内法で制裁を加えられない国外の主権国家に爆弾をぶち込む国が野蛮なのか?世界の中に、このような「面白くない」国が、一つぐらいあっても面白いのではなかろうか?  以上。

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