Post-PC
高橋 洋 2000年2月11日
 昨年来のIT業界のトレンドを眺めていると、これまでには無い一定の潮流が明瞭に成ってきていることが見て取れる。それは人によって、"Post-PC"だの"PC Plus"だの様々な呼び方がされているが、いずれも過去10年間以上に渡って高成長の栄華を誇ったPC:パソコンの時代が終わりに近づきつつあることを認め、21世紀の初頭には、これまでのPCとは異なる商品やアプリケーションを中心とした、新たな市場が生まれるのでは、ということである。
 1990年代のPCと言えばWindowsであり、そこにはWintel支配という2社が牛耳る構造が存在した。彼らはCPUとOSというPCの両輪でデファクトスタンダードを握り、その栄華は揺るぎ無いものと思われていた。しかし、一方の雄であるIntelがPCのCPU依存のビジネスから脱皮すべく、ネット時代のインフラと言えるデータセンター事業に参入した。他方の雄はMicrosoftである。司法省との戦いはともかく、こちらもサーバーOS重視へと転換する一方で、ネットワークへの窓口として携帯電話やゲーム機などにも関心を示している。ハード優良メーカーであるDell Computerも、2001年のパソコン産業市場の内ハードの比率は僅か30%で、残りはシステム管理・保守サービスが占めると語っている。
 これらPC単体の販売を取り巻く巨大産業の衰退の例は枚挙に暇が無いが、それに置き換わるものとして異口同音に挙げられているのが、ネットワーク/インターネットであり、かつそれにまつわる具体的なサービスやアプリケーションである。OSやCPU、メモリーやHDDから成るPCを出来るだけ安く組み立てて、世界の市場で大量に裁くという、規格大量生産時代最後の大型商品の寿命は最早長く無く、このPCという商品で扱える無数のアプリケーションの一つに過ぎなかった、「ネットワークへのアクセス」という機能がここに来て俄然脚光を浴びるようになった。「PCというハードウェア単体を売って儲ける」というビジネスモデルは最早昔のものとなり、この「ネットワークを利用する、楽しむ」というサービス自体がビジネスの主流として置き換わり、主客逆転が起きているのである。

@ PCとは何か?
 そもそもPersonal Computerとは何であったのか?私なりに定義してみると、「何でも出来る情報処理のブラックボックスで、事実上オフィス用途に利用されてきた」ものではなかったか?
 まず、PCとは情報処理をする計算機(CPU)を頭に頂き、情報を扱うための記憶装置(HDD)を持つブラックボックスである。所謂アプリケーションソフトは、バンドルされているPCがあるとは言え、特定のものを想定しておらず、ソフトさえインストールすればどのような用途にも使える。この点これまでの家電は違った。20世紀後半の最大の家電と言えばテレビであるが、これはその使用方法(=アプリケーション)が固定されていた。地上波から流されてくるテレビ番組を受動的に「見る」ということである。後にビデオ(VCR)がこれの幅を広げたが、基本的な使い方は映像を見るということであった。1980年代に日本で一世を風靡したワープロも、この意味からすればやはり家電の一種である。PCと外形的には似た構造をしていながら、用途はあくまで文章作成に限定されていた。だからこそワープロにはプリンターが付属していた。しかしPCはこれら家電とは根本的に異なり、何でも屋のブラックボックスなのである。
 ブラックボックスであるからにはどのような場面でどのような用途に使われてもよかったのに、使う方も作る方も何故かオフィス用途を暗黙の前提として考えた。科学者が膨大な計算をするためにコンピューターを使う所から始まり、オフィスで表計算やワープロ、データベース管理をするためにPCは多いに広がった。オフィスで使うものであるから、デザインには余り気を使う必要がなく、各社そろって地味なグレーで、形状的には何の個性もないでかい直方体の箱に統一された。
 そして、「何でも出来るということは、結局何も出来ない」、という事態に陥るに至る。何でも出きるためには、設計はオープンでなければならず、ユーザーがそこに手を加えないと具体的なアプリケーションの段階へ落としこめない。それが、アプリケーションソフトのインストールであり、外部記憶装置(例えばCD-ROM Player)を使う時も、カードモデムを使う時にも、いちいち面倒な設定を経なければ何も出来ないのである。また情報処理能力についても、「何でも対応」であるが故に、結局ゲーム専門のマシーンには対価格性能比でも絶対的性能でも勝てない。結局PCとは、「何かをしてやらなければ何も出来ない」機械であり、「何かをするには中途半端」な能力しか発揮できなかったのである。

ATV vs. PC
 以前、PCが世界を席捲し始めた時、「TV vs. PC」という議論が盛んになされた。即ち、これまでの最大の家電であるTVにPCが取って代わるのではないか、それともTVが更なる進化を遂げてPCを取りこむのか、という未来予想である。確かにTVとPCは外形的には良く似ている。どちらもブラウン管を使ったディスプレイを必要としたし、そこに何等かの映像を映して使う。同じようなディスプレイを使う以上、PCがTVと言う娯楽を飲み込むか、それともTVがPCの機能のいくつかを取りこむか、はたまたメーカーはどこが生き残るか、ということが議論の的になったのである。
 TVの普及の過程では、RCAなどの米系企業を松下電器やソニーと言った日系企業が完膚なきまでに駆逐した結果、現在の世界のTV市場は、一部の廉価帯に韓国系企業などが進出しているのを除けば、日系企業の寡占と言って良い。一方PC業界では、IBMやCompaq、Appleなど世界的メーカーと言えば米系であり、さらにCPUとOSを米系が握っているため、米国の牙城と見られている。従って、TV vs. PCとは日本 vs. 米国という国家間競争と置きかえることもでき、注目を集めた。
 しかし、PCは決してTVの様な誰でも使える家電には成り切れ無いことが明らかになり、その対決の構図には大きな変化が訪れようとしている。PCが一部の研究者やオタクの専売特許であった時代はよかった。しかしオフィスに広がり始めても、初期設定やネットワーク接続は専門家任せ、新たなソフトをインストールする時もおじさん一人ではできない。さらに毎週のようにフリーズしたり、訳のわからない不具合が生じる。これではこれ以上「家電」の分野まで普及するには限界があるのは当たり前であろう。Windows95以降、PCは家庭に随分広がったと言われているが、それでも日本での世帯普及率が30%程度であり、その内半分近くは埃をかぶって寝ていると揶揄されているのは、やはり一般大衆が普通に使える家電ではなかったからではなかろうか。因みに、日本でのTVの世帯普及率はほぼ100%、VTRは80%近く、CD Playerが60%で、PSは94年の発売にも拘わらずPCより高くて38%。米国ではPCは50%以上であるが、テレビの普及率には到底及ばない。
 本当に使いこなせる人は専門家で、使われる環境がオフィスに限定されている以上、商品の差別化は進まない。特にOSとCPUのデファクトスタンダードが牛耳られているため、いくら需要が拡大しても、それは凄まじい価格競争に陥ることになる。OSがバージョンアップし、CPUのクロック周波数が上がる度に、それらだけを新しくしたニューモデルが各メーカーから投入される。主要部品を全て自前で賄えるメーカーは無く、各メーカーが担当するのは「組み立て」のみになる。それは誰にでも可能になり、台湾メーカーや韓国メーカーなど労賃の安い所が生産基地となってしまった。これまでの規格大量生産のビジネスモデルでは、「製造業」が中央に位置し、その前段階に部品メーカー、後段階にサービス事業やメンテナンス事業を従えた。中央部の製造業が最も付加価値を生み出す事業であり、ステータスも高かった。その「凸型」の付加価値曲線は、PCのビジネスモデルでは反対に「凹型」にひっくり返る。即ち、組み立てのみを担当する「製造業」の付加価値が最も少なく、その周辺産業に過ぎなかったはずの、部品であるCPUの生産メーカーと、ソフトメーカーやサービス業の付加価値が大幅に向上したのである。
 以前、「普通の消費者が使いこなせるのは、ビデオの録画の設定まで」という話しを聞いたことがあるが、これには説得力がある。パソコンは根本的に家電にはなり得なかった。かつて「オフコン」という言葉があったが、PCとは「個人用」でありながら、それはPrivateではなく、あくまで職場で仕事上の能率向上を追求するための機械に過ぎなかったのである。

BPCの多様化
 このように、PCはその発展過程上でオフィス用途という限定された形になったが、インターネットの普及が始まる1990年代半ば頃から、質的な変化を見せ始める。これ以前に「PCを買わないか?」という話題に否定的な返事をする人々の理由は、大半が「ワープロや表計算ぐらいしかすることがないから、特に家庭用(=Private Use)に買う必要性を感じない」ということであったように思う。それはもっともであろう。家で机の上にただ置いておくには20万円〜30万円というのは余りに大金であった。しかしインターネットの普及と共に、「メールをしたいからPCを買いたい!」という人々が圧倒的に増えた。友人の間での情報伝達でも、電子メールを利用するケースが増え、電話番号を持っているのが当然であるようなレベルにまで、電子メールアドレスを保有することが当たり前の世の中になりつつある。さらには、「Webにアクセスしたいから」、「かっこいいから!」と、PCを持つ理由が完全に変容してしまった。
 この時点で初めてPCはオフィスを出ることになる。それは一言で言うと、個人が個人の娯楽のためにPCを必要とし始めた瞬間であった。当時、電子メールやWeb Browsingは、私用で使われるため業務効率を落とすという狭量な見方から、社内で禁止されていたり、外部ネットワークと繋がってないことも多かった。ワープロや表計算であれば、会社の席に座ってやればいい仕事の領域を出なかったが、電子メールで友達と連絡を取り合ったり、Webにアクセスしたいという個人的欲求は、お金を払ってでも満たしたいと思うようになる。こうしてPCは、初めてPrivate Useにまでその対象領域を本格的に広げることと成った。
 さらに、家庭で個人が自分の為にPCを使うようになった時、消費者は初めてその外見を気にし始めた。日本の狭い部屋に置くにはラップトップ型の方がいいし、持ち歩くにはノートブック型のできるだけ薄型がいい。さらにキャンパスで使うには、マグネシウム合金のかっこいい人目を引くデザインが良く、どのタレントが持っているからとか「流行」まで生まれ始めた。ここでPCとは、ただ数値的な仕様を比較検討する機能的な商品ではなく、見た目や直感、ブランドイメージも重要な要素である、普通の商品へと変化を遂げたのである。テレビ、ウォークマンと言った家電と同様の、様々な面から差別化の余地がある、普通の人が選ぶことを楽しめる商品になった。

C VAIOの成功
 PCの多様化を考える場合、ソニーのVAIOを抜きには語れない。ソニーはこれまでも、ブラウン管ディスプレイやリチウムイオン電池、CD-ROM Playerなどの周辺機器で大手のメーカーではあったが、95年に就任した出井社長の方針として、PC市場に参入することになる。この際の基本戦略は、「家庭用・個人用」ということであった。VAIOを「オフィスで使われるブラックボックス」ではなく、「個人がPrivateで楽しむための、アプリケーションを限定したマシーン」と位置付けたのである。
 ソニーの戦略は、Digital AVのソフト・ハードを加工し、発信するためのプラットフォームとして、VAIOを位置付ける所から始まった。そもそもソニーは、カムコーダー、MD Walkmanなど、Personal/Creative/Entertainmentの領域で圧倒的な強みを持っていた。これまでのPCを作り続ける限り、組み立てメーカー間のハードのスペック競争から抜け出せない。であるから、アプリケーションを明確にして個人が楽しむための新しいマシーンとして、VAIOを作り始めた。デジタルAVの遊び方はいくらでもある。MDデッキをVAIOにつなぎ、デジタル録音のみならず、編集・整理を自由に行う。Digital Video Cameraとも接続し、加工・編集を自由に行う。個人のCreativeな遊びのために、VAIOは設計されたのである。VAIOは"Video/Audio Integrated Operation"の略であるが、同時にそのロゴは、アナログ波形からデジタル表示(1と0)への進化を暗示しているのだ。
 個人的趣味のためのマシーンで外へ持ち出すことも多いから、そのデザインにも気を配った。VAIOは97年から日本市場に参入したが、11月に発売した505はその薄型とマグネシウム合金の質感から大ヒットを記録した。各社はすぐ追随し「銀パソ」ブームが発生した。ここで特筆すべき点は、それから2年間で、このB5版サブノート型の市場全体が7倍に拡大したということである。さらに、98年の11月に発売になったC1は、サブノート型にデジカメのレンズを搭載したと言う意味で、これまた画期的な商品であった。C1を合コンに持っていって、その場でみんなのメッセージを写真付きで入れてもらう。このようなカルチャーはかつてどこにも存在しなかった。これらの市場創造の結果、VAIOは国内コンスーマPC市場での占有率でトップ争いを繰り広げるまでになった。
 この他社との戦略の違いは、広告一つを取ってみてもよく解る。今でもPCメーカーのTVコマーシャルと言えば、有名なタレントをイメージキャラクターに使い、「何となく使い易そう」なイメージを醸成するものばかりである。高倉健から中山美穂まで、タレントはあまた起用されたが、結局商品特性を強調したCMは殆ど無い。何故か?強調すべき特長が無いからである。これは、やはりイメージキャラクター重視の邦銀のCMと酷似している。カタログを見ても同様で、商品スペックの説明にのみ紙面を割くが、それはLCDメーカーやCPUメーカーの宣伝をしているに過ぎない。しかしVAIOは違った。特に有名なタレントは使わず、ひたすらアプリケーションを訴求し続けた。「どのように使うか、楽しむか」という点で差別化を図ろうとしたのである。だからVAIOでは、ソフト専用のカタログからビデオ編集の手引きのカタログまで存在する。
 VAIOと似た動きをしているのがAppleのiMacである。そもそもAppleはソニーよりずっと長いPCの歴史を持ち、Macintoshという、PCとは異なるより遊び心に富んだマシーンを世に送り出してきた。そのユーザーフレンドリーなOSが孤立していることもあり、VAIO以上に熱狂的なファンがいるのも特徴である。Windowsの発売以降そのアイデンティティーを失いかけ、シェアが大幅に低下していたが、創業者のSteve Jobs氏が再度経営に加わり、独自のスケルトンデザインが光るiMacを発売し、大幅にシェアを挽回した。MacintoshがVAIO同様カムコーダーとの接続・加工を強調し、本格的DTPで圧倒的な強みを誇るのも、アプリケーションを明確化する戦略による。

D ネットワーク社会の到来
 ここで初めの話しに戻るが、"Post-PC"だの"PC Plus"だの言われている背景には、PCを巡る環境の劇的な変化がある。PCは結局家電には成れなかったが、TVがPCに買ったわけでもなかった。PCはインターネットの登場により初めて家庭に入り、ソニーやAppleの努力でやっと家電化し始めた所であるが、それは皮肉にもPCの終焉とも一致していた。それはIT革命と巷で言われている現象の一段面でもあり、ネットワーク社会というこれまでに無かった新たな社会システムが、今まさに到来しようとしているのである。
 まず第一に、その社会では、誰もがネットワークへアクセスするプラットフォームを持っている。米国ではPCの世帯普及率が50%を越え、パソコンは一家に1台から個人に1台の時代に入りつつある。日本ではDoCoMoのi-Modeの加入者が400万人に近づいているように、携帯端末からもネットワークへアクセスしている。このように、誰もがインターネットを利用・享受できる環境になりつつある。これを裏付けるように、PCの低価格化が劇的に進行している。今やアメリカでは店頭で売られているPCの半数以上は$800以下であり、日本でもSotecに代表されるように10万円以下のパソコンが大売れしている。さらに革命的なのは、Free PCの登場である。これは、プロバイダーとの一定期間の契約を条件にPCを無償で与えるものなどいくつかの形態があるが、PCというハードウェアがインターネットアクセスというアプリケーション・サービスの手段でしかなくなった、と言う意味で革命的なのである。最早PCそのものを買うことには意味はなく、PCは家庭での、個人にとってのネットワークアクセスのためのCommodityと化しているということである。そこには、携帯電話ビジネスと同様のビジネスモデルが見て取れる。
 次は、ネットワークへのアクセス環境の大幅な好転である。これまでの家庭・個人からのインターネットアクセスの主流はダイアルアップであり、このようなNarrowband(狭帯域)では、個人がインターネットを利用するには甚だ劣悪な環境である。通常のモデムを利用した場合わずか33.6Kbps程度に過ぎず、高解像度化が目覚しいデジカメの画像を数枚メールに添付しただけで、送信するのに10分も20分もかかってしまう。これに対して、ネットワーク社会でのキーワードはBroadband(広帯域)である。オフィスでは既にLANでPCがネットワークに繋がっていると思うが、これであれば100Mbpsや10Mbpsの伝送速度であるから、Web Pageの閲覧にしろ映像の送信にしろ、当然支障がない。このBroadbandのネットワーク環境が一般家庭に広がるのは、2002年以降と言われている。しかし、米国ではケーブルテレビの世帯普及率が7割に近く、これを利用すれば、現在既に日本のISDNなどよりも遥かに広帯域のネットワークが常時接続である。これで日本のダイアルアップ程度の料金(勿論電話代は不要)なのであるから、米国政府が日本政府にNTTの接続料金体系を変更するように圧力を掛けるのも一理ある。この他にも、無線通信の利用、衛星通信の利用、さらには電線の利用など、ネットワークの太い管は着々と準備されている。
 三点目は、e-Commerceの爆発的な普及である。つい最近までは、インターネットと言っても電子メールを利用するだけであったが、米国を中心として、インターネットを使って様々な情報収集から本の購入、旅行の予約、金融取引など、e-Commerceが拡大している。昨年のクリスマス商戦では、インターネット経由のショッピングが前年同期比(99年11‐12月)で125%増の70億ドルに達したという。宅配網が追い着かず、配達遅延が続出したというおまけ付きであったが。この結果、Yahoo、Charles Schwab、e-Bayと言ったネット産業の成長力、特に株価総額の膨張には、これまでの経済原理では説明できないものがある。最近の米国の景気がバブルと言われながらなかなか壊れないのも、このIT革命というこれまでになかった要因に支えられているからである。
 これらがIT革命の行きつく先である、ネットワーク社会という新たな社会システムの一断面である。人によっては産業革命以上と言われるIT革命がもたらす、これまでの資本主義市場経済・民主主義のシステムに変わり得る、ネット資本主義・電子個人主義の時代。この時代においては、誰もがネットワークに自由にアクセスし、ネットワークを前提として社会システムが成り立っている。個人消費者が膨大な情報量を容易に手にし、供給者と直接つながって対話をし、一物一価や見込み生産が当たり前で無くなる。これまでのマスコミからのBroadcastに対して、個人が世界中の個人に対して自由に意見を発するPersonal-castが現実のものとなる。最早好きと嫌いとに拘わらず、この社会を否定することはできない。

EPost-PC
 最後に、それでは今後PCはどうなるのであろうか?ネットワーク社会が現実になる以上、PCはネットワークへの窓口として今後も栄華を謳歌するのであろうか?それともVAIOやMacintoshのような、デザインに凝り、アプリケーションを絞ったマシーンとして生き残るのであろうか?私の答えは、PCはPCであることを辞めなければならないと思う。VAIOにしろMacintoshにしろ、基本的な設計思想としては、何でもできるキーボードを背負った情報処理マシーンであり、その意味でPCの一種であることには変わりがない。PCがブラックボックスであることを辞め、よりネットワークに特化した、かつ多様性のあるマシーンに進化していくのではなかろうか。その鍵は、Cyber WorldとReal Worldを繋ぐプラットフォームにある。
 Cyber Worldでは、米国発のe-Commerceが爆発的な成長力を見せているが、これは他地域にも伝播しつつある。その際のポイントは、他の地域でも米国同様のDesktop PCをプラットフォームとしたモデルだとは限らないということである。米国では流通しているPCの8割がDesktop型であり、その過半が$800以下あるいはFree PCである。従って米国流のe-Commerceとは、Real Worldの自宅で机に座り、PCの画面に向かってCyber Worldにアクセスし、株の売買や車の購入、旅行の予約をするものが主流である。しかし、Cyber WorldとReal Worldを繋ぐプラットフォームは、決してDesktop PCのみではない。
 欧州ではGSMという統一規格に基づいた携帯電話の普及が目覚しい。フィンランドでは人口の70%以上の個人が携帯電話を保有し、携帯電話で各種金融決裁まで行っていると言う。日本でも移動体電話の保有者数は5,000万人を超えている。既に、i-modeの加入者を含めて移動体電話を使ったモバイルコンピューティングをする人口は、1,000万人を遥かに上回っており、数年後には音声のみのもしもしハイハイの利用者数以上になるという統計もある。さらに家電が強い日本では、ネットワーク対応のデジカメやカムコーダー、Web Pageの情報を取り込める電子レンジなど、ネットワーク対応の商品が次々と生まれている。来月発売されるPS2が注目されている理由の一つは、Broadbandネットワーク時代のネットワーク端末のデファクトスタンダードになる可能性がある、と見られているからである。このように、PCとはあくまでNarrowband時代のアメリカ的e-Commerceに代表されるプラットフォームであったが、今後もこれが、Broadband時代のCyber Worldへの世界的なプラットフォームとなる保証は全く無い。

 昨年11月のPCの世界的な展示会Comdex Fallでは、元々家電メーカーであるソニーの出井社長が日系企業のトップとして初めて基調講演を行い、VAIOというこれまでには無い"PC"や、PS2などを核に最大級のプレゼンスを示した。さらに、新興メーカーを中心に数多くのNet専用端末が展示され、これまでのPCショーというイメージから一新した。1月の家電展示会Winter CESでも、GMやFordと言った世界有数の自動車メーカーとAOLやYahooと言ったネット産業との、自動車のネットショッピングに関する提携話、音楽の電子的配信(EMD)に絡んだ提携話など、ネットワーク上のサービスについての発表が会場を賑わした。これまでPC業界から見れば異業種であった企業が、ネットワークというキーワードの元に馳せ参じ、全く異なる業界秩序が形成されつつある。
 このように、これまでの「何でも出来る情報処理のブラックボックスで、事実上オフィス用途に利用されてきた」PCというマシーンは、最早余命幾ばくも無いのではなかろうか。このブラックボックスは、よりアプリケーションを明確化し、デザインや機能で差別化をすることにより、益々多様化していくと思われる。ネットワーク化された家庭での"Home Portal"として巨大なHDDとCPUのみを持ったマシーン、キーボードも無くなりスタイリッシュになった"Network Platform"、毎日持ち歩き「もしもしハイハイ」からネットワーク上での情報検索、電子メールまで出来る50g程度の "Mobile Platform"、旅行の時に持ち歩き動画・静止画に拘わらず現地から世界中に発信できる "Visual Gateway"。そこではPCが家電に融合されたり、逆に携帯電話を取りこんだりもするであろうが、最早どちらがどちらに勝った負けたという議論は意味を成さないのではないか。そこにはネットワーク社会というこれまでには無い社会システムが存在しているのであり、既存の国境と業態を超越した合従連衡の中では、米国vs.日本やPCメーカーvs.家電メーカーという区別は、発想の転換の妨げになるだけである。2000年のPCの世界出荷台数は1億4千万台と予測されており、右肩上がりの成長は相変わらずであるが、5年後にはPCと呼ばれるマシーンは殆ど無くなっているのではないだろうか。

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