覇道への暗躍〜自由党政権抗争史
第十四章 安部晋太郎一代
状況は圧倒的に安部に不利だった。荒れ狂う季節外れの嵐は留まる凪の時を迎えぬままに古びた八王子の議事堂をさまよい続けていた。10月10日体育の日、東京五輪開幕を記念して定められた祝日は36年後の今、臨時国会会期最終日として期せずして本会議最大の焦点となった国連宣伝協力隊法案の趨勢に揺れていた。法案は安部の永年に渡る悲願だった。安部の目指した全国家的宣伝興隆とその前提たる宣伝省の地位向上、その為には外務、大蔵という政界の本流に拮抗する族議員大会の設置は欠くべからざる必須の条件に違いなかった。
が安部は奇妙な迄に楽観視し続けていた。政府提出法案とは可決を絶対の前提にしているとの錯覚が、金丸政権下の保革協同路線に慣れ切った安部の身体を包み込んでいた。型通りに趣旨説明をすればシャンシャンと通るものだと安易に構えていた。国会前日のプレ宣伝議連大会の形さえ揃えれば良い、況や形作りを先行させ既成事実から逆算させるという安部の戦術が、政権初期に典型的な野党の反権志向の中で完全に裏目に出ていることさえも、安部は余りにも軽視し過ぎていた。
質疑は何時果てるともなく続けられている。攻勢は執拗だった。議長斡旋による動議打ち切りはこの際出来る限り避けねばならない。ごくありふれた、至極当然の、彼らの側に取っては極めて「正論」に違いない野党代議士の糾弾とも言うべき口調に空虚な答弁を繰り返しながら、安部は自らの描いたシナリオが少なからず修正を強いられつつあることに漸く気付き始めていた。
挙国一致内閣という謳い文句はまやかしに過ぎなかったのだろうか。それは金丸信という希代の魔術師の力によらねば為し得えない物だったのだろうか。実はその疑問は核心を突いていない。金丸内閣が保革協同路線を取り得たのは金丸−田辺ラインを基軸にしたという以上に、田村ら国対政治家の果たした意義が大きかった。明らかに安部は"根回し"を怠っていた。
不幸な事に安部が辺りを見回した時には、既にそこは抜けられない泥沼の真っ直中だった。孤独が安部に焦燥を与える。それは既に議事堂を後にして仕舞った大鷹のいない孤独であり、政権への批判票を一身に背負った国会の中の孤独であり、一月からぬぐい去る事の出来なかった内閣に於ける孤独だった。
「果たして私はこのまま朽ち果てて仕舞うのだろうか」。この異常な事態を助長する群衆心理の高まりが一層の高揚を呈するのと裏腹に安部の心情は覚醒の世界に入りつつあった。それは眼前で脆くも崩れゆく自らの悲願を直視出来なくなったが故の巧妙な論理のすり替えであると同時に、安部に法案成立という目的を背負った閣僚の立場を忘れさせ、私心を満たすべき一介の闘士へと変幻させた。
安部は待ち続けていた。その嵐の過ぎ去るのをでなく、闘うべき相手役の登場を待っていた。そして舞台の興奮が最高潮に達すると、マイクから粕谷茂民主党幹事長代理が、丸でそれが台本に記された当然に吐かれるべき台詞であるかの如くに声を発した。「代議交替、粕谷から宮沢へ」、その瞬間議事堂に蠢く全ての眼が民主党代議席の直近に陣取った宮沢喜一に注がれた。
対決の場面が訪れる。舞台はひとまず暗転し第二幕へと進みゆく。
多くの河本世代の代議士同様、安部も又その身を政界に投じたのは1988年4月の事である。が一年生議員時代の自由党四天王、更には羽田、山口らに比して頭角を表すのが遅れた安部がその存在を周囲に認知せしめたのは同年11月の保守対抗演劇合戦を経てからだった。橋本と金丸妹を主役に配し優勝を勝ち得たその「舞台」は彼等の若き日々の、まだ政争に明け暮れる事もなく、複雑な感情の行き来する舞台裏の生まれる前の麗らかな時代の象徴だっただろう。
ただこれを境に多くの「自由党員」は共同体としての自由党から、政界の末端組織としての自由党「代議士」へと歩んでゆく。すんでの所で万博実行委への参加を思い留まった安部は、大晦日のディズニーランド視察の際に、次年の広報局長就任の意志を露にする。奥野局長下の党局委員にして倉石率いる広報院の一員という特異な立場を与えられていた安部の党総務会への参画は、必ずしも既定の構想、即ち橋本、河本の何れかを幹事長とする党体制には描かれてはいなかった事だろう。敢えて安部が先陣を切って名乗りを挙げたのは、何等かの世界に没入するべきだとの直感による。総務会への参画こそが政界への「没入」であり、その為に空いていた広報局長のポストに狙いを付けた安部の読みは的を得る事となった。
勿論既にこの時安部に内閣という得体の知れない孤塔を極めて身近な物として意識させていたと見るのは早計だろう。それでも早くも翌89年5月には党残留と入閣との狭間に揺れていた渡部恒三から、保広委主幹であった亀岡高夫から次世代の宣伝相と囁かれる事態を迎えると、嫌がおうにも意識をせざるにはいられなくなった。その想いは直属の上司である倉石の空手形を受けるに至ってより確固たる物へと昇華していく。倉石の後継となる金丸内閣陸軍相が大蔵族の小磯国昭の転出によって処理されたことが、安部に政界の保守本流とは全く別個の、「宣伝院の本流意識」とも言うべき奇妙な気負いを芽生えさせていた。
10月になって正式に党広報局長として河本体制の一員となると、安部に与えられた陣笠委員の顔触れは山口の研修部会、羽田の調査局に見劣りしないばかりかそれを凌駕せん程に豪華であり、人不足が憂えられた加藤の企画部会に津島雄二を供出しても尚且つ党内有数の力を誇る「安部派」を形成した事は、党時代の安部の政治活動を他に類を見ない優雅な物に仕立て上げていった。
その上その「安部派」には望外の副産物迄付いていた。それは石原を慕って新たに政界入りした大鷹淑子の存在である。後年あれ程迄に"孤独"を恐れ続けた事からすれば不可思議な迄に、無謀な迄に、或いは不用意な迄に、漠然と抱いていた覇道の存在にも拘らず安部は単身広報局長として乗り込んだ。そこに忽然と現れたのが大鷹だった。その年の四月から自由党は"不確実性"の時代を迎え、幾つもの思惑が入り乱れ揺れ続けていた。その過程を通じて知己を得るにより広報局次長としての大鷹は安部に取って欠かせない右腕となっていた。
それでも大鷹が政界の表舞台を歩いていない事は安部も理解していた。例えば国会であり、内閣であり政界の中核ともいうべき大舞台へ足を踏み入れる為には、何かを失わなければならないという非情な論理を安部は無意識に自らの中に取り込んでおり、大鷹がそれを強いる事の出来る類の、所謂"政界によくいる"類型の人間ではない事を知覚していたからこそ、安部に取って大鷹という代議士が必要不可欠な補佐官為り得た事も安部は充分に理解していた。
だから安部は保広委路線再考に際し伊東、大仏との会合を持った後、大鷹に閣僚としての自らの次官、事実上の秘書官としての入閣を極さりげなく、やんわりと要請する。肯定的な答えなど期待していた訳ではなかった。それでも例えたったひとりであっても安部は国連宣伝協力隊法案を掲げて宣伝省に錦の御旗を飾らなくてはならないという所迄「道」を歩んできて仕舞っている事をも、安部は自覚していた。
その翌日の感動を、安部は今でも忘れてはいない。「Xデー」を目前に控え安部の最終的な"決断"を喚起したのは、「安部ちゃんが内閣に行くのなら私も行くわ」という台詞の響いた、あの何時もの様にベルの鳴った大鷹からの電話だった。
「現下での宣伝省の拡大等幻想に過ぎず、あまつさえ族議員大会なぞその微小たる効果に鑑みて不効率も甚だしい」。利潤と効率という経済概念を旗印とする、余りにも"適切"な宮沢の論理は、安部には充分に予想し得る糾弾だった。が既に覚醒を来たしていた安部の頭脳は、本来なら穏便に処理するべきこの質疑をあろうことか火に油を注ぐかの如き徹底した"論戦"へと持ち込んで仕舞った。
それは宮沢に怒気を孕ませ更なる激烈なる言質を吐かすに充分な応対だった。が一層峻烈な反対論を滔々と述べさせる事により安部は宮沢の保っていた「冷静」を打ち破り「感情」を前面に押し出させた、その成果に安部は奇怪にも満足していた。何と奇怪な"満足"であったことだろう。確かに今や「弱者」へと転落した安部に最後の一太刀を食らわせるかの如くの怒りの宮沢は、彼をして国会の「悪役」というレッテルを確固たる物とする効果には抜群だったかも知れない。それでもその代償として「法案の成立」という最大の成果を安部は引換に供出していたとするならば、それは如何に甚大な犠牲であったのだろう。
安部は何故それ程迄執拗に宮沢との「対決」を望んだのか。安部は元来決して宮沢との間に亀裂ばかり生じさせていた訳ではない。そればかりか例えば89年度の初頭に自由党主導で行われた「政界バンド」に宮沢が助っ人として参加した事にみられる様、寧ろ良好とも言うべき間柄だった時期が長い。増してや歴史を紐解いてみれば、嘗て奥野の提唱によって博多通常国会に急遽挙行された広報族会合に基調講演を行ったのが当時の宮沢民主党広報局長であった通り、安部の本分である宣伝省に関しても両者に大きな隔たりはなかった筈だ。
が宮沢が新経済研究所構想を発表し、更に会計検査院、臨財審と内閣との別歩調を歩み始めるに至って閣僚という立場に立つ安部との間に微妙な距離が生まれる。その相違が決定的な響きを以て現出したのが臨時国会の約1ヶ月前となる9月20日、宮沢の主催した次期保守代表委プレ委員会であった。
前保代委主幹という立場を利用して内閣による保守各党党首への政策根回しの場であるべきこの会合を巧みに乗っ取った宮沢の「東京新党」構想がその主題となったが、偶々居合わせた安部にしてみればその余波として自らの保守立脚基盤である保広委が廃絶の憂き目にあう様なプランを容易に見逃す事は出来ない。
だから前総理の資格で参加していた金丸を始め、大仏、塩川らの安部系議員の応援を以てその具体化を防いだ。結果「東京新党」構想自体はその後の保代委に大きな影響を及ぼすことにはなったが、辛うじて保広委はその姿を維持し党首出向主幹制への回帰をうやむやの内に阻止、引き続き現場上がりの"何れかの広報局長"による主幹、その実安部の子飼いである森主幹を黙認させた。
この時形としては「敗北」を余儀なくされた宮沢の吐いた台詞は当人も意図する事なく、実は重大な意味を持っていた。宮沢は安部に向かって「これは政治家と経営者の対決だ。今回は政治家の勝ちだな」と、笑顔で語っていたのである。
この前哨戦があったからこそ、安部は第二ラウンドを手ぐすね引いて待っていた。それは"連勝"を狙う安部の奢りであり、閣僚としては逸脱した行為であったとしても、では一体宮沢を「悪役」に仕立て上げた事が、果たして安部の勝利だったのか。宮沢は好んで「悪役」の汚名を背負っていたのではないか。それは河本への友誼からの内閣の光に相対する「負」の存在といった偽善のみにあらず、宮沢は悪役となった自らの姿に酔っていた、陶酔していたのではないか。
「陶酔」と「覚醒」の闘い、それこそあの河本の首班指名に於いて自らを際立たせる為だけに質問者のマイクに殺到した野党議員達と変わる所のない、国会をショーとしか見なすことの出来なかった哀しい代議士気質に違いない。その上「陶酔」の側は自らの喜びに浸っていれば良かったが、「覚醒」した男はそんな無知蒙昧な振る舞いを最も嫌悪していた筈だ。宮沢の怒号を喚ぶ為の反論、「利潤と効率を無視しても為さねばならぬ事がある」という安部の答弁は、行政に与る者としては確かに一個の理があるのかも知れない。が安部がそこに見た物は、無理であったとしてもとにかくやるという、あれ程迄に忌避し続けた万博への、そして野党代議士への嫌悪と同一に堕ちた、唾棄すべき自らの姿だった。
今して想えば二年生議員時代、そして党広報局長の日々が安部の至福の時だった。山口、羽田との三国同盟、異国風味を巡った自由党お誕生会、そしてあの頃は夜毎のベルが鳴っていた。「Xデー」が過ぎ年が明けると河本内閣の組閣参謀にと意気込んだ安部の邁進は空回りを続けていった。勿論それは安部の責任も大きい。「俺は勝手に(宣伝相を)やる」という通告が河本の安部への信頼を著しく低下させた点は否めない。それでも安部は徐々に河本政権に於いての自らが、所詮旧来の伴食大臣であった宣伝相−広報院の域を越えぬ"白書作成マシン"以上の存在を要求されていないことに気付き始めていた。蔵相、外相、副総理、重要閣僚の決定が安部の耳に届くのはことごとく新聞辞令を通じてであり、保公指開会には宣伝省の時間は与えられず、亜平会議参加に関しては遂ぞお呼びのかかる事はなかった。
それ故に安部が金丸の手によって解体された旧広報院の復活、即ち事実上の内閣からの独立に進まざるを得なくなったというのは余りにも安部寄りの解釈であったかも知れない。が安部には政界の中枢に位置してこそ閣僚を引き受けた意義があったのであり、その力を嘱望されなくとも黙々と仕事をこなす様な甲斐性はなかった。その想いは内閣に隠された「枢密院」の存在を知った時、堅固な決意へと変わる。大鷹、森を擁しての安部派再結集とその保守基盤たる保広委、そしてその全国的発展である族議員大会こそが、安部の生きる唯一の残された道となっていた。
若しこの政権始動以前の段階で河本と協同歩調が取れていたら、若し自らが宣伝相である以前に閣僚の一員である事を打ち出していたら、そして若し形だけでも副総理の肩書きを貰っていたら。安部は内閣の末期を迎えてから度々思い返す事になる。それは安部の自意識過剰だったのだろうか。所詮宣伝相という末端の閣僚には過ぎたる情熱だったのか。安部は大人しく国民白書さえ作れば良かったのか。
ただ惜しむらくはその疑問が安部に生まれたのが余りにも遅かったということだろう。少なくとも万博の夏、恵比寿の夏休み迄は安部に取っての政界は、宣伝省という小さな世界を越える物にはなり得なかった。そしてその恵比寿の夏休みが自らに取って重大な転機であった事も、安部は苦渋を噛みしめながら振り返る事になる。
奇妙な対決の過ぎやった舞台は採決の場面に転ずる。安部はこの時「議論は尽くしました。だからこの法案の全てを国会の採決に委ねます」と言った。がそれを宮沢との対決を果たし今や恬淡とした境地に達した爽やかな安部の姿勢と見るのは、矢張り早計に過ぎる。蓋し安部はこの期に及んでも僅かに点り続けた執念の火を絶やしてはいなかった。臨時国会の時点で新たに承認された社党新生研究会を加えた29党中投票権は21票、過半数は11となる。詰まり法案を可決した大蔵委に代議を派遣している五票に保守の与党票を加算すれば本会議可決は可能と、往生際も悪く安部は見込んでいた。確かに田中政権期の様に法案に社党反対票が続出した時代も嘗てはあった。が金丸の保革協同路線を経た今や、果たして過半数ギリギリで通る様な法案がその後の運用に如何に著しい支障を来すかという簡単な論理さえも解らぬ程、安部は混乱していた。
その安部の儚くも淡い夢が一瞬にしてついえたのは正に採決の直前である。「提出理由に質問のある政党」型通りの楢崎の台詞に、不意に予算委員長の塩崎民主党幹事長から質疑が発せられた。「予算案はどうなっていますか」。
安部は丸で自らの身体から血の気の引いていく音を張っ切り聞いた様な気がした。それは法案質疑の中途から少しづつ安部の脳裏に持ち上がってきていた疑問だった。安部の手元には法案の書類があり、それは等しく各党に配布されている。では一体予算案は何処へ行って仕舞ったのか。
瞬間、安部は破滅を感じた。法案には全て予算案が必要とされるのは政界の常識だろう。何もかも自らで取り仕切り、法案に内閣の誰にも助力を求めなかったツケがここに現れてきた。暫時の休憩を挟んで安部は力なく議案取り下げを宣言する。舞台裏では冬の通常国会運営を司どる新自ク代議士が大仏を中心に予算案を捜していた。確かに第一回が冬の通常国会に行われる宣伝族議員大会は形式上には予算案作成義務は新自クにあるとは言える。がそれは欺瞞だった。安部は法案を上程する迄予算の事など微塵も気に留めてはいなかった。だからそれを新自クの責任に帰することなど安部には出来る筈もない。そして万一平和裡に審議された法案であれば予算の切り離し事後承認という荒業も可能ではあっただろうが、そんな戯言が許される様な状況にないことは、安部自身が一番よく解っていた。
不意に最高の場面に肩透かしを食らったかの様な国会はまだその余韻を残しながら何処か緊張の空気を失っていた。その隙をぬって国会前与野党対決の目玉と想われた政府提出法案が全国一年生議員会議を始めなし崩し的に可決されてゆく。
そこにひとり安部は泣いていた。それは安部の幼稚な負のヒロイズムであり、同情を買う為の下世話な打算であったとしても、居並ぶ野党代議士に取っては、最早負け犬の遠吠えとしか映ってはいなかった。いや単に誰かが泣いていたという程度の記憶しか残さなかったのかも知れない。ただひとつだけ安部を擁護するならば、縦え安部がその涙を"演出"であるとトレードマークとなったその毒舌で笑い流していたとしても、少なくとも安部は紛れもなくその時溢れる涙を止められなかった。そして激烈なる闘いを経てやっと辿り着いた採決さえ出来ずに泣いている哀れなピエロを支える者は内閣にも、そして国会の何処にもなかったのだ。
大蔵委への代議派遣から自動的に法案協賛となった税金、共産両党が採決に際しわさわざその「名義貸し」から降りる事を宣言した瞬間に怒りを込めて机を叩いた二階堂と小沢の声なき配慮が安部の唯一の救いだった。
結局安部は何かを間違えていたのだ。安部の法案だから国会は通して当然、たとえそれが"無理"を秘めた内容であったとしても万博がそうだった様に、政界ではそれが通用する。果たしてそれは安部の側の論理であり、巧みな根回しの策を弄さなければ年度冒頭の敵意をむき出しにした野党代議士が素直に首を縦に降る筈など本来ない。ただ安部は彼等の繰り返し述べた質疑、宣伝族議員大会の時期尚早、弱小党の宣伝省への協力の物理的不能、実質的内容の不透明という論理を充分に理解しながらも、宣伝相という立場に立ったのならば安部の論を構築せざるを得ないというその一点だけは解って欲しかった。
がそんな子供じみた相対主義者の主張を説くくらいなら、大衆を鼓舞し噛み砕いた平易な言葉で上辺の理解を求め、世論を操る様な、そんな政治家にならなければならないことも安部は解っていた。そして解っていながら、最後迄出来なかった。
プレ保代委で宮沢に勝ち得た安部の政治力は国会という舞台には、即ち野党迄は行き届いていなかった。そしてそれ以上に安部は元来「政治家」ではなかった。「経営者が政治家に負けたという事だな」、宮沢でさえも安部が自ら好んで作り上げた政治屋イメージに捕らわれていた。果たして宮沢は予期し得ただろうか。自らの闘ったその政治家が、眼の前で崩れゆく余りにも脆い存在でしかなかった事に。
やがて全ての法案が可決されると楢崎議長の閉会宣言によって河本政権の臨時国会は永遠に幕を閉じる。「これを持ちまして本臨時国会は終了致します」、安部はその言葉を丸で過去からの亡霊の囁きであるかの如くに暗然と聞いていた。
「もう一年頑張りましょう」、その森の励ましに安部は果たして自らに残された時間が一年もあるのかとふと想いを馳せた。あと一年、その時安部は四年生議員、政界最後の年の後半に入っている。そして「安部後」の宣伝相となった森がそれを成し遂げてくれるのか。あと一年、宣伝族集会は再び日陰の身として細々と裏街道を歩んでいかなければならないのか。
国会後の喧騒を、酒宴を避け早々と高円寺へときびすを返した安部は、予想した通りに、いや淡い期待を裏切られた様に赤いボタンの点滅していない留守番電話を見詰めた。別に安部に電話をしなければならぬという道理はなく、一介の秘書官にそれを強要する権利も安部にはない。が例えば党大会の後であり、岐阜の通常国会の後でありこんな時何時もあの赤く光ったボタンが安部の救いだった。
何時迄も鳴る事の無い電話を見詰めながら安部は法案が流れ宣伝省興隆という政策が頓挫した以上に、自らの政界生活がその真夏日を過ぎ緩やかな退潮を示し始めていることを確実に感じていた。
(第十四章 完)
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