覇道への暗躍〜自由党政権抗争史
第二章 姿なき藤波孝生
「Xデー」には形通りに保守各党の役員並びに万博実行委出向の二年生議員全員に召集がかかってはいたが、参加の動向は原則として議員本人の選択に任される形だった。その為登場を期待されながらも姿を見せなかった有力代議士も多く、その筆頭が民主党前研修部会長藤波孝生である。藤波は早くから外務族のニューリーダーとして台頭しこの年夏仏印に於いて行われた「ニューリーダー指導力を開発する会」にも河本、宮沢等と共に参加、外相の本命視されていた。が民主党研修部会長就任後の11月、執務遂行上の不備により部会長職辞任を余儀なくされ政界引退必至の身の上であった所、混迷する外相人事に河本が宮沢と組み再抜擢の考慮中だった。 藤波の更迭は、気分屋であり言動に波の大きい藤波自身に依拠する所も多分にあったが、拮抗する桜内研修部会員が現職外相中曽根康弘とタッグを組み藤波を追い落としたという側面も強い。更迭に際し河本が後の外相候補としての藤波を失わんが為に、桜内−中曽根ラインの圧力に苦慮した宮沢に積極的に藤波擁護を支援する動きを見せなかったのは、万が一その時点で藤波救出に乗り出して仕舞えば即ち外相就任要請と同義であり、総理就任を半ば認めた事に繋がりかねないという懸念からであり、決して藤波という人物に対する評価が低いという訳ではなかった。
組閣に多大なる労力が払われるのは何時の世も変わりがない。極論すれば組閣こそが内閣総理大臣に取っての最大の課題であると言っても過言ではない程だ。故に本来の任期の約一年前に既に次期総理が決定されるという本末転倒の事態が生まれ、更に悪い事に年々そのサイクルを早めている。勿論候補者となるのは一年半程度政界に身を置き早くから頭角を現している者が殆どであるから、当人達に取っても政界の最高峰に参画し手腕を奮う野望もあり、且つ又培われた人間関係から義理と人情によって口説かれれば弱い面もある。
が大方の場合、その大半は忌避する事になる。それは内閣という伏魔殿への恐れと言うよりは、各々の「政界後」を睨んだ選挙区への回帰が概ねの理由であろう。現に入閣が落選へと繋がる可能性も否定出来ないだけに彼等の主張を「臆病者」として一蹴する事は出来ない相談だった。
とは言え既に総理就任が決定した河本に取っては、外相人事の難航と自らへの組閣全権委託という「Xデー」の悲惨な状況が明らかになった今、すぐさま積極的に動くより他はない。山口の忌避は如何とも動かし難く、一方桜内は独逸、倉成は圃国と共に駐在の意を打ち出し外相就任は絶望的だった。この為事実上唯一の候補者となった藤波に、宮沢を通じその旨を伝える。藤波としても外相就任には色気があった。就任早々に研修部会長のポストを解任されたとはいえ、生粋の外務族として仏印へ赴いたという事実は半ば外相を約した事を意味していた筈だ。解任は藤波の自信を傾けさせはしたが、汚名返上への意欲は失っていなかった。
翌15日、河本は藤波と同じ民主党出身議員であり、同時に重要閣僚としての入閣が有力視されていた二階堂、小沢を伴い吉祥寺へと赴く。会談で熱っぽく河本は語った。「お前は大荒波の中を一人でボートを漕いでいる様なものだ。何故眼の前にある舟に乗らないのだ。俺と一緒にこのエリザベスU世号に乗ろう」。振り返ってみれば陳腐な台詞に過ぎず、滑稽な光景であったかも知れない。がその青春映画のヒーローの如き台詞は、河本が如何に形振り構わぬ迄に必死だったかを如実に表すと共に、浪漫趣味甚だしい藤波への説得としては功を奏する物に違いなかった。
一方で安部は副総理に伊東正義に代わり小沢一郎民主党商工"部長"の登用を考えていた。小沢は民主党で研修、調査、商工の主要職務を全て網羅しており職務上からも適任であるのみならず、安部としてはそれ以上に小沢副総理が先に決まれば自動的に羽田の蔵相入閣が決定する点が大きかった。小沢は商工部会長として保調委に出席しており暗黙の内に竹下委任となる直前の主幹ポストを羽田選出に逆転させている。小沢が副総理として入閣すれば蔵相候補は最早羽田のみとなる。安部が「Xデー」で河本に伊東副総理を進言した時、同時に山口の説く「小沢副総理案」にも同調したのはかくの如き思惑が瞬時にして働いたからに他ならない。その際伊東は金丸の睨んだ通り自治相となる、何処迄も金丸の眼力は正解だった。
「Xデー」の翌々日となる12月16日、「自由党 若手議員の意気高揚の会」に安部が訪れるとまだ人気の少ない五輪会館には既に河本と共に小沢、二階堂が現れていた。そこで声をひそめ河本は安部に囁く。「矢張り政局を鑑みるに副総理は小沢君しかいなかろう」。安部は自らの思惑が着々と結実していく事に単純に驚喜していたが、果たして僅か二日の内に何故に小沢副総理案が具現化していたのだろう。
高揚の会は金丸が幹事長時代に創設した一年生議員を対象とした党内教育の会合である。河本、安部、羽田、山口等は現職党六役として各々の職務に応じ演台に立つ側に回っている。内容自体は大過無くこなされたこの会合が終わりに近付いた頃、会場に突然藤波孝生が姿を見せた。
解任以来政界からその身を遠ざけていた藤波の来訪は奇妙な感情を以て迎えられたが、その場に連なる幾多の自由党代議士の中でその正確な意味を知り得たのは河本だけであろう。前日の四者会談の結果、外相就任を了承するならばこの日会合に現れる、それを以て承諾の答えに代えるとの返答を河本は受けていた。久方降りに見る藤波は矢張り相変わらずの藤波だった。相手を困らせる程の赤裸々な能弁さは藤波孝生ならではのものである。その中で河本だけがホッと安堵感を覚えると共に奇妙な困惑を味わっていた。自ら就任要請した河本自身、果たして本当に藤波が外相に適任であるのかという判断は付けかねていたのだ。「藤波が承諾して仕舞った」という直後の河本の発言は中曽根の圧力故とはいえ結果的に部会長職を解任された藤波の、政策立案者たる頭脳にではなく事務処理施行者としての能力、莫大なる外務執務に耐え得るか否かという点への不安だった。が取り敢えず藤波はこの日最終的に、彼の愛車の中で受諾する。後に河本自ら「車は役にたつよ」と述べた通りに、爾来旧河本車、馬力の無いコロナが密談の場として幾多の活躍を遂げる事となった。
「藤波が承諾して仕舞った」という言葉に付いてもう一度考えてみたい。窮乏下の組閣は難航を極めていた。その中で最大の懸案と見なされた外相が早々に決定を見たのなら、河本は驚喜乱舞しても可笑しくない筈だろう。ここに河本のふたつの性分を垣間みる事が出来るのではないか。そのひとつは極端な心配性であり、後のひとつは以前にも"愛される"と述べた稚気である。前者は確かに「取り敢えず外相決定」に喜ぶ以前に既に「きちんと職務をこなすか」という事後に頭が回っているという点で大事を為すには不利という面は否定出来ないが、その一方で何処か抜けているおおらかさが、総理総裁という発狂しかねない程の激務を遂行するに適宜なガス抜きになっていたとも言えた。
前者だけでは窮屈であり、後者では馬鹿丸出しだろう。ふたつの資質が微妙な調和を醸し出していたからこそ河本は大器の評判に違わぬ道を歩み得たのであり、少なくともそれは後年も変わらなかった。勿論前提として明晰な頭脳とそれに比例した弛まぬ努力主義があってこその栄冠の賜物である事は言う迄もない。
その点訪仏印以来の河本のライバルであり、もうひとりの総裁候補だった宮沢喜一とは極めて対象的ですらあった。況や宮沢が理論派であり、根本概念は「利潤とコスト」という金銭代替評価であるという側面だけで宮沢喜一を評価する事は大いなる誤りであるとしても、彼は充分に大胆不敵であり稚気という物からは程遠い印象があった。がそこには河本の対抗馬として掲げられながら、結局は金丸の、並みいる実力者達の瞳にも、彼の姿は次期総理として映ってはいなかったという悲劇への寂寥、更には「閣僚になる為に育て上げられるブロイラー」と揶揄された民主党体質への反発が、根底に潜んでいたのかも知れない。
一国の総理として全世界を股にかけるには英語力に乏しいという以上に、宮沢には国際的観点が欠けていたというもっともらしい理由こそあれ、この時点に於けるニューリーダーの宮沢評価は決して芳しい物ではなかった。余りに卓抜した論理と旺盛な知識追求欲は常人を以て対応する限界を越えさせ、その上自らの論理を強く打ち出し過ぎるという点が民主党幹事長としては適任であっても、首相としては理に勝ち過ぎるという衆目の声、それが新経済研究所構想を始めとする一連の内閣への反発の引き金となっていると見るのはうがち過ぎなのだろうか。
宮沢の党広報局長時代の朋友は同じく完全理論派の奥野自由党広報局長であり、奥野の引退後は河本と山口−羽田−安部の三国連携体制を主流とした自由党で傍流に押しやられた矢張り理論派の加藤商工部会長となった。しかしながら盟友は「ニューリーダー指導力を開発する会」以来の河本に他ならない。それを河本の宮沢への傾倒過多、更に言えば宮沢操る河本という図式と見る向きも少なくはなかったが、宮沢は生粋の政界人であり単に机上の空論に生きる人ではない。河本とは別の意味で宮沢も又、"愛らしさ"を抱える人物でもあった。そしてこの後財界に転出する一方で政界に於ける策動、理論面に於ける策動のみならず、混迷する組閣工作に於いても結局は河本を支え続けたのが宮沢であった事も紛れもない事実である。
自らの民主党を引退後も操り続け"宮沢上皇"として君臨、臨時財政審議会会長という準公職に就き、端目から見るには内閣との対立構造を深めていく宮沢は政界という世界の中で、国会という大舞台での敵役として足跡を残す。がその敵役であり閣外に控えていた筈の宮沢喜一その人が最後迄河本の盟友たり得たという事実こそ、確かに宮沢が一面河本に秀でる力を持っていたからではあれ、何故宮沢を頼りにする他なかったかという点で大きな疑問を醸し出しす端緒だった。
その宮沢は副総理に二階堂を薦めている。副総理は単に総理の参謀たる副官としての職責のみではなく、国会運営を司どる重職である。が宮沢とて二階堂の長き内閣での経験を買っていたばかりではないだろう。自身新経済研究所構想、更には党幹事長再任をも考慮した際、腹心であった小沢を早々に閣僚として奪われて仕舞う事を良しとしなかった事情もある。
が河本には「Xデー」の最中に安部と山口に指摘される迄もなく、二階堂副総理という腹案はなかった。五輪会館で安部に早くも「小沢副総理だ」と耳打ちした裏には、前日の二階堂、小沢、藤波との四者会談で藤波外相ムードが高まった直後に小沢の漏らした一言、「これで万々才だね」という台詞があった。
河本は充分に素直だった。権棒術数に弱く、その為寝技に優れた宮沢のダミーという声さえ生まれてはいたが、思ったままを口に出して仕舞う事も少なくなかった。
「何がだね?」。当然小沢発言は二階堂が副総理になる事を念頭に於いての物だったのだろう。小沢にそれを指摘されると河本は二階堂と顔を見合わせ曖昧に頷いた。それが二階堂には河本の自らの副総理就任拒否と映ったとしても不思議ではなく、二階堂の河本に対する最初の不信がこの時生まれたのかも知れない。が同時に小沢発言は、小沢がそれを明言しなかったとしても彼自身の入閣も暗に示している。詰まり二階堂副総理、藤波外務、小沢大蔵のトライアングル誕生を意味していた。
ところが河本は「小沢入閣に前向き」の部分だけを切り離し、逆に小沢副総理という案を打ち出した。民主党に於いて理論に走りがちな宮沢の政策を現実に施政し得る様若手に指導する役割を担っていた小沢が副総理適任であるとの感触は、実に当然の判断であり実際実現しても可笑しくない筈だった。
その小沢副総理案が結局決定に迄到らなかったのは小沢に他の重要閣僚就任の可能性、詰まりは蔵相就任の余地を残さざるを得なかったと共に、河本の懸案が再び外相人事で手一杯になった事によるものだろう。結果からみれば副総理人事は安部への囁き以降何等進展を見せていない。珠玉の名案だった「小沢副総理」は世人の口端に登らぬまま、ひとまず闇へと消えていく。
幾つもの暗躍が微動し始めていた1989年、その最後を飾るは、岐阜に於いて行われる冬の通常国会である。国会は本会議並びに会期中のみ開かれる常任委員会に釘付けになる閣僚、党代議に取っては激務であるが、その他全国族議員大会、又企画審議等の関係上一時的に顔を出すのみの代議士に取っては遊び半分に過ぎず、何れに取っても「祭り」であるのは間違いない。
河本とて前年神戸は三田の通常国会では浮き名を流す活躍も見られたが、今回は自由党幹事長として全日程出席であるばかりか、次年の自らの執務に関わる金丸内閣の政策運行にも眼を向け、更には"組閣交渉"にも手を染めなければならなかったのだから多忙を極めた。本会議自体は三木内閣が正式に総辞職し金丸政権が国会の承認を得、社会党実力者にのし上がった田辺副委員長との金丸−田辺ラインを基盤とした保革共同路線を基に大過なく過ぎていったが、中で河本の最要事は、来る90年3月に行われる国連総会参加者決定の運びだった。例年国連総会には現職総理並びに次期総理内定者、現職外相並びに次期外相内定者が参加するが次年よりは一般商工企画を司る経企庁長官の上位機関となる商工担当閣僚の参加も義務づけられていた。これは世界的に政界の根本である研修と共に、次代の施策として企画分野がよりウェイトを占める事が地球規模に於いても是認された事を示すに他ならないが、一方日本政界には外相、蔵相と相並ぶ副総理格の商工相は断続的にしか設置されず、現に金丸内閣にも存在しなかったから、この参加者決定は大きな意味を持った。
その上河本本人は自身初の改選の為早くから参加を断念しており、商工担当者には河本の代行職務迄が要求される事になる。決定は参加志願者本人が国会に現れ志願書類を提出した上で金丸以下の面接により本通常国会会期最終日朝の本会議にて発表される。加えて次期外相たる参加者も、内諾のあった当の藤波の国会参加が遅れ、中曽根外相が外務常任委員会に於いて「何故私の後継が決まらないのだ」と感情を激するという一触即発の事態を迎え、会期が進むに連れ山口、桜内、倉成外務族三人衆が議事堂を所狭しと駆け回る光景が目に付くに到っていた。
国連総会参加者が次期外相代行に中曽根直系の渡辺民主党研修部会員、商工担当者としては橋本環境庁長官、山東新自ク国際局長という布陣に決定したのは暮れも押し迫る12月27日の事である。国連総会に参加するという事は外遊の見返りとしての政界への貢献という見地から事実上今後も政界に留まる決意を意味する。一年生議員ながら早くから中曽根の後継として名高かった渡辺美智雄の派遣は決定が翻った次期外相派遣の一時的な代替策としての緊急避難的措置だったが、橋本、山東の派遣は両人の今後を占う意味で大きなものを含んでいた。
橋本竜太郎は河本、宮沢に続く第三の総理候補だった。当人にも充分その意志があったのはこの年五月の橋本の安部に対する、半ば冗句めいてこそいたが「私が総理に就いたら君は宣伝商を引き受けてくれるかね」という台詞からも明かである。が河本が次期総理に内定した現在となっては橋本の地位は極めて微妙な物だった。金丸内閣の現職環境庁長官であり本来ならば引き続いて河本内閣の重鎮として政界に身を委ねるのが筋ながら橋本の次期は今ひとつ明快に期待されるものではなかった。政界残留は五分五分という見方が強かった。が国連総会への参加は残留を意味する。しかも前述の通り参加不能の河本の事実上の代行職務を含めてである。
橋本は河本とは同窓に当たり考えてみれば不思議な運命の糸の連関を想起させずにはいられない。実際往時からウマが合ったとは言い難いふたりの間柄から、果たして橋本が河本の下に付く事を良しとするかが疑問とされたのは当然の感触であろう。それでも事ここに至っては「Xデー」に於いて「私はまだ政界にやり残した事がある」と明言した橋本は貴重な戦力、閣僚候補者であり、更には橋本入閣は保守党対策、次官招聘を鑑みるに大いに意義があった。環境庁長官として万博にも大きく関与していたその政策能力以上に、橋本には人気があった。
既に国会を前に河本は橋本と会談し、商工担当としての入閣は内諾を得ている。が国連総会への参加は橋本自身選挙出馬を断念する事となり、その結果が自由党則からして三年後に落選となって返ってくる公算が高い事からすれば、安易に承諾出来る類の話ではない筈だろう。国会会期中、商工担当国連総会参加者立候補の不在に苦慮した河本は国策常任委員会に共に出席する金丸と通じた上で橋本にその旨訴えた。金丸にしてみれば義弟にあたる橋本の今後の政界での位置を考えれば箔を付ける為にも、更には橋本自身の見地を広げる為にも自らも現職総理として足を運ぶ国連総会への橋本の参加は、充分にその思惑に叶うものだろう。
橋本はその依頼にこう答えている。「河本君、私は選挙を放棄して迄政界残留を志すべきかを、この国連総会参加者の選考に懸けてみようと思う」。他に応募者の皆無だった選考に懸けてみるという言は奇妙ではあるが、それが半ば芝居がかった橋本の自己陶酔であり、それを河本は橋本の純情と受け取ったならば、国連総会に英知を傾け後に河本内閣副総理商工相という新ポストを与えられながらも何時迄も河本と解り合う時の訪れなかった橋本の悲劇というシナリオにはこの時既に「決定稿」という文字が刻まれて仕舞ったという事なのだろうか。
少なくとも国連総会参加か否かの時点に、橋本には政界引退の第一の好機があった。台本は出来上がって仕舞っていたかも知れないが、まだ橋本には静かにそれを置くという選択の道があった。勿論橋本にも環境庁長官という不毛な職務に政治生活を終える事に未練を残していたという以上に、危急の河本丸を助けるという義侠心があった筈だ。だから橋本を責める事は酷に過ぎるのかも知れない。ただ橋本の国連総会参加発表はその意味する政界残留を政界燕に驚きを以て迎えられ、果たして如何なる執務を執行する事となるのか格別の話題を提供した事は事実であり、同時にかけ違えたボタンが二度と元には戻らなかった事も確かな事実なのである。
一方山東昭子の参加は安部の思惑に叶うものだった。書類上の山東の参加資格は「次期総理」であり、主な役所は他国首脳との交際を深めるのみという、語学抜群な河本が取り立てて重きを払う迄の人選ではなかった故の所産だが、これにより「Xデー」での発言を捉えた河本への示唆が山東の国連総会参加、郵政相就任という形で結実すれば、現状で宣伝相扱いとなっている海外担当分野を山東に委任する事が可能であり、宣伝省拡大に専念したい安部には願ってもない決定だった。
勿論通常国会にて決定した事はこればかりではなく、自治委員会に於いて同年限りで廃止される自治省財務局財政課長を伊東が担当するに内定したにより伊東自治相への足掛かりと見なす事が可能となったのもそのひとつではあったが、外相が白紙に戻った事により副総理人事にに手を打ち、更には野党ニューリーダーと知己を深めるに絶好の機会だった筈の国会はこの点では河本に取って丸で意味を為さず、結果として主要閣僚の決定を全く見る事なく1989年を終える事となる。小沢、二階堂、羽田、山口等、政界を大きく揺らし、急転直下の海部俊樹登場に至るのは激動の1990年を待たねければならなかった。勿論小沢の漏らした、「国会は魔物だよ、羽田君」という一言が羽田の暗躍の手がかりとなった事に見られる様、深まる危機感の中で策動していったのは矢張り国会という大きな一幕たるに相応しき暗躍の微動だった。それは誰にも否定する事の出来ない、大きな荒波の前兆であったと言えるのだろうか。なお最後に自由党に於いて森広報局委員が安部の後継を宣言した事を「次なる覇道」への密やかな一頁として掲げておこう。
外相人事、橋本の処遇、副総理と河本に与えられた宿題は山積された。何故河本は何時迄も内閣構築に悩まされなければならなかったのだろうか。次章は時計の針を戻して河本の自由党幹事長への道を回顧してみたい。
その前に第二章の最後に通常国会の最終シーンを付け加えておこう。
最終日、通常国会の議事堂運営を行った公明党への感謝の意が表明された後議事堂ロビーにて歓談する人波の中、河本敏夫は暗澹たる前途への不安と共に呟いた。「奴は遂に現れなかったか」。内諾を得た筈の藤波が果たして次期外相として確定する為には本通常国会に現れ国連総会への参加を決定する事が必須条件であり、中曽根より後継本命と見なされた山口敏夫と共に、ギリギリ迄逆転参上、渡辺に代わる国連総会参加決定の運びを望み続けていたのだ。
何時迄待っても藤波孝生は現れなかった。 (第2章 完)
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