亀山城別名 沼 GoogleMap
     
    亀山城 西ノ丸跡  
     
  亀山城跡     二の丸跡  
  亀山城跡黒田官兵衛ゆかりの地
亀山城は、城の本丸、二の丸のあった弁天山の形が亀に似ているところから名づけられた。沼城ともいう。
小学校の所在地に西の丸、楢部に出丸があり、これらを総称して亀山城と呼んだ。
戦国時代中山備中守信正によって築城され、宇喜多直家が永禄2年(1559年)浦上宗景よりこの城を賜り新庄山城跡より移った。
以来直家の壮年時代活躍の拠点となった城跡である。天正元年(1573年)岡山城に移るまで14年間在城した。
慶長6年(1601年)春宇喜多氏にかわって岡山城主となった小早川秀秋によって廃城となり、亀山城の中心櫓(天主)は岡山城表書院の段の大納戸櫓に、城門は秀秋の家老稲葉内匠頭本邸の表門に移築された。
(現地案内板より)
亀山城本丸は、浮田小学校の裏にある小高い丘、西の丸(下の写真)の東方にある丘の上にある。上の写真で、左が本丸のある丘、右の一段低くなっている所が二の丸跡。
 
     
  亀山城 本丸 亀山城 モニュメント 宗形神社 本殿  
  亀山城 本丸跡
天正10年(1582)6月4日備中高松城攻略に成功した羽柴秀吉は、一刻も早く二万の大軍を京へかえさなければならないと、心ははやっていた。
梅雨は前線を伴って激しく吹き荒れ、吉井川は氾濫し大軍の足を止めた。
秀吉は天を恨みながら亀山城に旅装を解いた。
そこにはかいがいしく世話をするお福の姿があった。
秀吉はお福の世話で鋭気を養いながらも、逆臣明智光秀を討つ軍議を怠らない。
東の空に朝日が輝いたのは8日だった。
秀吉の突進が始まる。
亀山城から姫路城まで22里、わずか一昼夜で駆け抜けた鬼神のような進撃である。
天正10年6月13日亡君織田信長の弔い合戦で勝利した秀吉の中国大返し外伝である。  
                            亀山城案内図    平成8年3月(現地案内板より抜粋) 
ここの案内板では、吉井川氾濫の為、羽柴秀吉は、亀山(沼)城で足止めを食い亀山(沼)城を発ったのは6月8日朝となっており、小和田哲男著「黒田如水」(ミネルヴァ書房)より引用して作成した「高松城水攻め跡」、備中高松城水攻め関係歴史に記載の内容とは異なっている。
  亀山城 モニュメント
このモニュメントは切った石を組み合わせお互いを少し傾けて八の字に据え、その間に秀家の生誕を記した石の球を配している。
八の字は、宇喜多氏の旗印兒」の「儿」をモチーフに直家、秀家に縁のある「八郎」の名と一族の末広がりの繁栄をイメージしている。
亀山城を手中にいれ、戦国大名として飛躍していった直家の足跡と、妻おふくと二人の愛情のもと生まれた子秀家の家族の姿を表現している。
(現地案内板より) 
  宗形神社
宗形神社は別名弁才天様と呼ばれ様々な願い事が成就されます。交通安全、病気平癒、入学祈願、良縁は勿論、弁才天にちなんで美女願望、安産祈願は特に有名であります。
絵馬祈願については、500円以上の奉納を希望します。宗形神社
(現地案内版)
 
本丸への登り口(宗形神社参道) 参道 宗形神社 拝殿
赦免花伝説
関ヶ原の戦いに敗れ八丈島へ流された秀家公の菩提寺宗福寺に二株の蘇鉄がある。
この蘇鉄の花が咲いた時、なぜか赦免があったと言われている。
文政年間に69人天保年間に41人、弘化年間に64人、嘉永年間に24人の流人が赦免されたが、宇喜多一族には何の沙汰もなく、明治になって罪が許されたのであった。
平成9年3月 上道地区地域振興事業実行委員会 史跡部会
(現地案内板)
 

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