備中松山城 岡山県高梁市 Takahashi City・Matsuyama Castle 周辺地図GoogleMap(航空写真あり)

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市街地の北端に聳え、高梁市の象徴として、また「おしろやま」の愛称で広く市民に親しまれている「臥牛山(標高480m)」。 この城の歴史は仁治元年(1240)有漢郷(現上房郡有漢町)の地頭に任ぜられた相模の国の住人秋庭三郎重信が大松山に砦を開いたことに始まる。 現在の「備中松山城」は天和3年(1683)、松山藩主水谷勝宗の手によって完成したものと言われている。 また、漆喰の白と腰板の黒が鮮やかな外観は四季折々の葉色に映え、さながら錦絵にも似たその風情は訪れる人々の心を往時へと誘う。 入閣料 小中学生 150円 大人(高校生を含む) 300円 入閣時の案内書より |
| 天守閣 | 本丸跡 | 接続廊下 | ||||
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接続廊下(つなぎろうか)
この天守は二重二階でありここは一階ではなく 八の櫓と天守をつなぐ廊下である。(現地案内板より) 正面に見える階段、見た目より結構急なのです。どこの城でも急な階段が多い。 |
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| 天守閣内部(1階) | 二の丸と高梁市街 | 天守閣内部(2階) | ||||
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| 階段 | 囲炉裏 | 装束の間 | ||||
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| 階段 この階段には踊場が付き、折れ曲っている。敵がすぐあがれないように曲げ幅も一人しか通れないように狭く階段の勾配も急ですべて防御に有利に考えられている。 勾配が急であるため各段の踏板にすべり止めも工夫されている。(現地案内板より) 囲炉裏 板石造り、長さニ間、幅三尺、篭城時の城主の食事、暖房用に用いられたと言われている。 天守閣の中に切りこみの囲炉裏があるのは全国的でも珍しい。これは戦国時代備中の首都としてこの城の激しい争奪戦が幾度も繰り返された経験から生まれたものである。(現地案内板より) 装束の間 籠城時の城主一家の居室、床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも侵入できないように工夫がされている。戦いに敗れ、落城の時は城主一家の死に場所でもある。(現地案内板) |
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| 二重櫓 | 天守閣(二重櫓前より) | 天守閣と二重櫓 | ||||
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| 天守閣と石垣 | 二重櫓と石垣 | 搦手門 | ||||
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| 天守閣・二重櫓 | 石落し | 三の丸 | ||||
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| 石落し 一階の床の一部を石垣上に張り出して設け、敵兵の攻撃に石を落とす。外観は丁度魚の「えら」に似ていることから、鰓形窓とも言う。(現地案内板) |
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| 石垣 | よくぞまいられた | 石垣 | ||||
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| 大手門跡 | 上太鼓丸 | 城見橋公園 | ||||
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| 上太鼓丸から見た城見橋公園。土・日・祝日には、ここ城見橋公園から、臥牛山中腹にある「ふいご峠」までシャトルバス(往復300円)が運行されている。 | ||||||
| 高梁市街(上太鼓丸より) | 臥牛山(上太鼓丸より) | 登城道 | ||||
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| 備中松山城の沿革 備中松山城は、延応2年(1240)に有漢郷(現上房郡有漢町)の地頭秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いたことに始まる。元弘年中(1331〜34)には、秋庭氏にかわり備後の 三好氏の一族である高橋九郎佐衛門宗康が大松山に入城。この頃には縄張りは小松山まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。その後も、城の縄張りは変遷を遂げ、城主は高氏・ 上野氏・庄氏・尼子氏と替わり、永禄4年(1561)には安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主と なっている。 元亀3年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。天正2年(1574)冬から翌3年夏にかけて 毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開される。いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶが、この頃には備中松山城の本城は 小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸馬酔木などの出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞になっていたことが記録などからうかがえる。また居館で ある御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓 現高梁高等学校用地)に設けられていたようであるが、本城とともにその縄張りや建物などについては詳細は明らかではない。 関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。小堀氏は頼久寺において政 務を執っていたが、政一は、慶長10年(1606)に御根小屋と備中松山城の修築を行っている。その後、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。その子長常に嗣子がなく 廃絶。常陸下館から成羽を経て、寛永19年(1642)、水谷勝隆が入城する。 水谷氏は、勝隆、勝宗、勝美の三代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆により玉島新田の開拓や高瀬舟による高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、県下三大祭り として有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっている。さらに二代の勝宗は、天和元年(1681)から三年にかけて備中松山城の大改修を行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、 大手門、二の丸櫓門、搦め手門など全容が完成している。しかし三代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため水谷氏は改易となっている。元禄6年(1693)水谷氏断絶後、播州 赤穂藩主浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄は一年近く在番として備中松山城にとどまっている。その後安藤重博・同信友次いで正徳元年(1711) に石川総慶が城主となり、延享元年(1744)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄が入城する。板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝ラ・勝職・勝静・勝弼 と7代続き廃藩置県を迎える。 城主一覧
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these are holes for stones and arrows
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