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  豊公園と長浜城     ながはま御坊表参道  
  長浜
豊臣秀吉が居城として初めて築いた長浜城とその城下町。
楽市楽座の制度と地租税三百石免除の恩典で、江戸時代を通じて長浜の町は大いに栄えた。
山之内一豊も城主になったことがある。町並みには、栄えた頃の面影が色濃く残っていて、いにしえの繁栄を懐古しながらの散策には最適。
    
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長浜城歴史博物館 長浜城本丸跡 豊公園
市立長浜城歴史博物館
長浜は、羽柴秀吉が江北12万石の領主として、はじめて自らの城を築き城下町を形成した地であります。
当市では秀吉ゆかりの城跡を永く記念するとともに広く皆様に学習の場、憩いの場として親しんでいただくために城郭様式の博物館を建設しました。
建物は城郭研究の権威藤岡通夫工学博士の設計によるもので二層の六屋根に望楼をのせた初期天守の様式にしてあります。
構造 鉄筋コンクリート造  延床面積 1836平方メートル  総高 33.9m  竣工 昭和57年8月31日  開館 昭和58年4月5日 
                                  長浜市

入館時間 午前9時〜午後4時30分(閉館午後5時)  入館料 (個人)一般400円・小中学生100円 (団体)一般320円・小中学生80円(団体扱いは20人以上)
休館日   12月27日から1月2日 なお展示替えのため、臨時休館することがあります。
                                  長浜城歴史博物館(現地案内板より)

豊公園
長浜城内を公園にしたもの。長浜城歴史博物館、国民宿舎豊公荘、長浜文化芸術会館、豊公園自由広場、太閤井戸、車150台を収容できる豊公園大駐車場(無料)などがある。
日本桜名所百選や日本夕陽百選のも指定されている。
旧長浜領境界碑 長浜ロイヤルホテル 国民宿舎豊公荘
旧長浜領境界碑
長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米300石を収めることを免ぜられた。
この特権は徳川幕府にも認められ、他地域と区切るための石碑が、江戸時代のはじめ長浜町のまわりに三十数本建てられたといわれる。
しかし今は、わずかに十余本を数えるだけでそのうちもとの位置にあるものは数本である。
この境界碑は、秀吉のもうけた長浜の年貢免除の範囲を知る上で貴重な資料といえる。
なおこの境界碑は「これより東 長浜領・これより南 長浜領」と記され、もとは長浜町の西北隅に建っていたと思われる。

                 市立長浜城歴史博物館(現地案内板より)
大正時代を今に伝える東屋 さくら名所百選の地 太閤井戸
大正時代を今に伝える東屋
この洋風東屋は、大正7年(1918)に開設されたスポーツ公園「長陽園」にあったが昭和初期に豊公園に移設した建物と言われている。
「長陽園」は明治後期から昭和初期に活躍した実業家・下郷傳平久成翁が、現在の長浜幼稚園の場所に開園した運動場である。
方形造(ほうぎょうづくり)、鉄板葺で、各面に千鳥破風状の飾り屋根を付けた複雑な屋根形状が特徴となっている。
東面を除く各三面の中央間に開口を設け、それ以外は腰板壁とし、この内部に座板を取り付ける。
内側は天井がなく、十字に陸梁(ろくばり)を組んでその中心に束(つか)を立てる小屋構造をそのまま見せている。
明治43年(1910)に開園した豊公園の歴史が刻み込まれた建造物の一つとして、貴重な東屋といえるだろう。
              平成18年10月吉日  長浜歴史博物館友の会 財団法人下郷共済会
(現地案内板より)
藤(豊公園) 長浜城石垣出土地石標 長浜ヨットハーバー
史跡 長浜城遺跡
従来、この附近の水面下には、長浜城石垣の用石と伝えられる巨石が散在していた。
昭和44年7月、この地に湖岸埋め立て工事が進められることになった。同年11月下旬から約1ヶ月間、水底の発掘調査をしたところ石垣の根石と認められる30数個の巨石が、延長約30メートルにわたり整然と列になっていることがわかった。よってここに標石を設けて長浜城遺構の一端をしのび、郷土史研究の参考に供するものである。
                         昭和46年3月 長浜市教育委員会
(現地案内板より)
  米川 曳山博物館 四居家住宅  
四居家住宅
現存する長浜最古の町家であり長浜における標準的な町家と比較して、間口は広く大型である。外観は、建ちは低く、卯建(うだつ)を高く上げた姿が印象的で、この建物の大きな特徴となっている。
現在は桟瓦葺であるが、穏やかな屋根勾配などから、当初は板瓦葺屋根であったとみられる。なお、この住宅は、平成12年に四居氏から長浜市に寄贈を受けたものである。
(現地案内板より)
叶匠壽庵 三谷旅館 ゆう壱番街
叶匠壽庵 営業のご案内
定休日・水曜日(季節により変更させていただく場合がございます)
カフェ(一階)営業時間 9時〜17時
匠壽庵特性ケーキセットをはじめ抹茶パフェ あんみつ ぜんざい等の甘味メニューも取揃えております。
和菓子売場(一階)営業時間 9時〜17時
匠壽庵銘菓 季節生菓子の販売
ダイニング(二階)営業時間 11時〜14時
花おこは弁当(お菓子付)税込1,890円 美山つづら弁当(要予約)税込3,150円
(店頭案内より2008年5月18日現在)
豊国神社(詳細あり) 大通寺(あせび寺)詳細あり 総持寺(詳細あり)
  豊国神社
由緒
天正元年(1573)信長の進攻により小谷城の浅井家が滅亡し、湖北が秀吉公の知行地になると翌年長浜城と城下町の造営に着手し、それ以後楽市楽座の制度と地租税三百石免除の恩典で、江戸時代を通じて長浜の商家は大いに繁栄しました。
慶長3年(1598)秀吉公が逝去されると、町民は太閤さんの恩徳を慕って豊国神社を建立しましたが、江戸時代になり太閤さんを神格化することが禁じられて取り壊され、秀吉公の御神像は町役人の家々で守り継がれた時代が続きましたが、寛政5年(1793)「えびす宮」の建築許可を受け、奥に御神像を安置して密かにお祀りしていました。
現在の神社名は、明治維新後に晴れて復帰した名称です。(現地案内板より)
秀吉公と豊国神社
豊国神社の前身である豊国社は、慶長4年(1599)の京都における豊国社の造営を受けて創始されました。それは、慶長5年(1600)8月18日のことで、現長浜八幡宮のお旅所内に社(やしろ)を置いて、「豊国大明神」と称しました。しかし、元和元年(1615)に「大坂の陣」で豊臣家が滅亡すると、長浜の豊国社も廃止に追い込まれてしまいます。
その後、寛政4年(1792)に至り、お旅所にあった豊国社の旧地に、蛭子神(えびす)社と合わせて豊国社が祀られ、弘化3年(1846)には秀吉公250回忌にあたり、社前に石燈籠や釣燈籠が奉納されています。
明治維新になって豊(みのり)神社と改名し、明治25年(1892)には社地を現在地附近に移して、大正9年(1920)に豊国神社と改名しました。
曳山祭の起源を秀吉公に求めるように、長浜町人の秀吉公への信仰は根強いものがあります。
左図のように個人宅でも秀吉像を持ち、それらを拝礼する慣行があったようです。この町民たちの秀吉公への信仰の核となったのが、この豊国社であったといえます。
(現地案内板より)
 
重要文化財大通寺本堂(阿弥陀堂)
寺伝によれば、承応年間(1652〜1654)東本願寺から移した建物といわれ、高欄擬宝珠に明暦3年(1657)刻銘があるので、この年には縁まで完成したものと考えられる。
元文元年(1737)には平面を拡張し妻飾り破風(屋根側面の三角形のところ)を作りかえるなど大修理をほどこした明治45年と昭和27年に屋根葺替えが行われている。
139畳敷きの広い外陣の正面に、吹放しの入側及び縁を廻らして参詣者の場とし、奥には内陣を上段にかまえ、中央広場の左右余間及び飛檐(ひえん)の間を配した真宗寺院本堂の発達した
平面をもつ大建築で、内陣は彫刻金箔押しの欄間などで装飾されている。
           平成2年10月 長浜市教育委員会
(現地案内板より)
骨董 宇根屋 ながはま御坊表参道商店街 大手門通り
煎餅堂 黒壁ガラス館 黒壁スクエア
札の辻本舗 カフェパクト
札の辻本舗
江戸時代における情報発信のメディアであった高札。
かって主要道路であった北国街道と美濃谷汲道とが交叉する交通の要衝であった「辻の札」は高札の掲示場でした。
今、観光客など多くの人々がいきかう札の辻にガラスの工芸品や湖北の物産品の専門店「辻の札本舗」がうまれました。
長浜の老舗の心が込められた名産の数々を取揃え皆様のご来店を心からお待ちしております。
(現地案内板より)
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