表町商店街ー岡山ー      
        
        
   
   
   
  下之町商店街ー天満屋百貨店前ー      
  表町商店街
天満屋百貨店を中心に、桃太郎大通りから旧国道2号線に至る約1q余りの商店街。
岡山駅周辺と共に岡山市街の代表的繁華街である。
北端の円形ビル、シンフォニービルから、上之町商店街(アムすメール上之町)、中之町商店街、下之町商店街、栄町商店街、紙屋町商店街、千日前商店街と並んでいる。
さらに紙屋町商店街と千日前商店街の間を東西に交差する形で、東に西大寺町商店街、西に新西大寺町商店街が伸びている。
この表町商店街の一筋東側には、オランダ通り商店街が南北に伸びている。
 
  表町の歴史
戦国時代末期に宇喜多秀家が岡山城とその城下町を整備した際、岡山城の北側を通っていた山陽道を、城の南側の亰橋を経て、現在の西大寺町商店街、表町商店街に該当するルートに付け替え、福岡を中心に備前国内各地から商人・職人を集め山陽道沿いに住まわせたことに始まる。

岡山市コミュニティサイクル「ももちゃり」
岡山・表町商店街ホームページ
 
     
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  上之町商店街    中之町商店街    下之町商店街  
  旧上之町ー城下町岡山ー
宇喜多氏が備前福岡の商人を城下によび寄せてつくった町です。
はじめ福岡町とよばれ、のちに上之町とかわりました。
江戸時代この町で山陽道と美作への道がわかれていました。
(現地案内石碑)
      旧下之町ー城下町岡山ー
宇喜多氏が備前福岡の商人を城下に呼び寄せてつくった町です。
福岡町とよばれ、のちに下之町とかわりました。
山陽道が町の中央を通り本陣もありました。
(現地案内石碑) 
 
         
   栄町商店街    紙屋町商店街    西大寺町商店街  
  西大寺町の由来
備前を制圧した直家は、天正元(1573)年亀山城(岡山市沼)から石山城(岡山市)に移り、城下町をつくるため備前福岡(瀬戸内市)から有利な条件で多くの商人をよびよせ、さらに会陽で栄えた西大寺の門前町からも、山口与左衛門ら二十七軒の有力商人が移り、そこでその町名を西大寺町と呼んだ。
直家の死後、その子秀家は父の築いた石山城よりも拡張整備した岡山城を築き、同時に城下町の繁栄を考え、西国往来(山陽道)の道筋を変えて、京橋ー西大寺町ー福岡町(表町筋)を通るようにした。
城下町完成は、慶長三(1598)年頃と言える。
尚、表八ヶ町の愛称が生まれたのは、明治三十六年といわれ、後日橋本町(京橋町)が抜けて、千日前がこれに代わって加わり現在に至る。
  早水藤左衛門
赤穂義士の一人で主君浅野内匠頭が「松の廊下で刃傷」した事件を最初に赤穂に知らせた事で名高い。
山口弥右衛門(与左衛門より六代目)の三男として西大寺町で生まれて、後に早水家の養子となった。
辞世ー地水火風空のうちより出し身のたとりてかえる元の住かへ
今屋
おなじみ「備前太鼓唄」にみえる。
備前岡山西大寺町 大火事に 今屋が火元で五十五軒 コーチャエ コチャエ・・・・・で知られている
天保五(1834)年三月二十六日夜半、西大寺町の中ほど南側にあった今屋喜兵衛の物置納屋から出火、岡山城下町の大火災となった。
「岡山市史」によると、丸焼四十三、半焼十三、取り壊し家屋四、計六十軒なり
  京橋
宇喜多秀家が、岡山城の築城当時に操山の山麓を流れていた旭川や、市の北部を万成峠に向けて通っていた山陽道の大改修工事を行い、文禄二(1593)年、京橋ー中橋ー小橋を架け、新山陽道を約八ヶ年間かかって完成している。
京橋附近は当時の水陸交通の要衝として栄えた。
京橋西詰に下記の柱が現存している。
岡山県里程元標(明治九年設置、明治四十年八月建替)
岡山市道路元標(大正九年建設)
迷子しるべ石柱(明治二十五年十一月建設)
 昭和六十三年八月  西大寺町商店会・
               西大寺町町内会
(現地案内板) 
旧山陽道マップ 
奉還町商店街⇒岡山城下から西への出口
 
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