須磨寺 GoogleMap

須磨寺(すまでら)
真言宗須磨寺派の大本山で山号は上野山、本尊は聖観音。886年に光孝天皇の勅願寺として聞鏡上人が創建した。源平ゆかりの寺として広く知られている。
                                                                                            須磨寺案内図

龍華橋・仁王門 須磨寺 本堂 五鈷水
弘法岩 五鈷水
平成12年初頭、この場所に手水処(手や口のお清めの場所)を建立することを計画いたしました。
弘法大師御宝前にて祈ること三七日(二十一日間)清浄で豊富な水が三内で湧出する事が判り、その水をお大師様にちなんで「五鈷水」と名付け、大きな五鈷を石の台座
に置いた手水処にすることにしました。
ところがある雨の朝、手水処建設予定地に立っていると、山のような僧形がぼんやりと浮かんできたのです。これは五鈷を持つのはお大師様だという思いが浮かび、その
浮かんできた姿を描き、そのような石を求めて四国各県を訪ね歩きました。
そしてまた祈ること二十七日(十四日間)若き日のお大師様もご修業なされた四国の霊峰 石鎚山の麓より人の手の一切入っていない高さ二メートル七十センチ、重さ十三
トンの大岩が見つかったとの知らせが入りました。一目見てこの大岩こそあの雨の朝に浮かんだ僧形でありお大師様であると確信し「弘法岩」と称して当山にお迎えしました。
お大師様の体を流れた水で身を清め、背中にふれてお大師様の温もりを感じてください。              合掌
         平成十二年四月吉日   大本山 須磨寺
(現地案内板より)
正覚院 源平の庭 護摩堂
源平の庭
寿永3年2月7日(1184AD)一の谷合戦の際、源氏の荒武者 熊谷直実は、海上に馬を乗り入れ沖へ逃れようとする無官太夫平ノ敦盛を呼び返して、須磨の浜辺に組み討ち、その首をはねた。
平家物語が伝える最も美しく、最も哀しい、有名な史話である。敦盛は時に年16、笛の名手であった。その遺愛の青葉の笛は、今も当寺に伝えられている。
(現地案内板より)
須磨寺 本堂 大師堂 首実検の松
源義経卿腰掛松
義経卿此の松樹に腰を掛けて敦盛卿の首を実験せりと伝う。以って一名首実検の松とも云う。
(現地案内板より)
敦盛卿首洗い池 出世稲荷 三重塔
出世稲荷の由来
往昔 福原遷都のみぎり平相国清盛公、都の守護神を湊川の畔に泰安したるところ出世稲荷と呼ばれ立身出世、事業成功の神として広く庶民の信仰を集め港都最大の
稲荷社として栄えてまいりましたが、明治中期湊川改修に際し平家に最もゆかり深い当山へ遷座し奉ったものであります。
祭神は尾玉、荒熊、末広の三神です。
(現地案内板より)
敦盛首塚 六地蔵菩薩 みざる・いわざる・きかざる・・・・
謡曲「敦盛」と敦盛首塚
謡曲「敦盛」は、戦乱の巷では敵であった者同士が、極楽浄土で共に成仏する運命になった事を主軸にして作曲された修羅物である。
一の谷の戦いで少年敦盛を討った熊谷直実は、無常を感じ出家して蓮生と改め、菩提の為古戦場を尋ねると、敦盛の霊は草刈男の姿で現れて迎える。
蓮生はひたすら回向を続けまどろむ夢の中に、花やかな姿で現れた敦盛が、一門没落の運命の中にも忘れかねる歓楽の日々があった事や、戦いの有様を物語り、
敵蓮生の日々の回向に感謝し、共に極楽往生の出来ることを喜びつつ消え去るのである。
直実は、義経の首実験の後、許しを得て遺品「馬・甲・冑・弓矢・青葉の笛」と共に、戦死の有様を書き添えて父経盛に送った。懇ろに弔われた「敦盛首塚」は今も人
は絶えない。
(現地案内板より)
六地蔵菩薩
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道に輪廻(リンネ)する一切の衆生を救って下さる仏様です。

左から みざる・いわざる・見てござる・きかざる・おこらざる・・・・おさるのあたまをなでると動きます。
須磨寺 書院 本坊
わらべじぞう 蓮生院 貞照寺