鞆の浦 広島県福山市 GoogleMap
鞆の浦港 常夜燈
鞆の浦
古くから、潮待ち風待ちの港として、大陸との交易、また北海道や北陸の日本海と大坂とを結ぶ北前舟の寄港地として栄え、多くの寺や商家をはじめとする名所旧跡が数多く残っている。
また、自然の景観にも恵まれ、穏やかな瀬戸の海に弁天島や仙酔島などが浮ぶ姿は一幅の絵を見るようで、日本で最初の国立公園、瀬戸内海国立公園の一つとして指定されている。
その穏やかな海の様子は、世界的に有名な琴の演奏家、宮城道雄の名曲「春の海」にも表現されている。
「鞆の浦」の鞆の名前はどこからきているのか?
色々あるなか、一つとして、鞆とは「弓の玄があたるのを防ぐため左手に巻いく防具のこと」で、鞆の浦の地形がこの鞆に似ていることからきたと言われている。
                                                                    鞆の浦案内図
すでに新聞などでも報道されていますが瀬戸内海に面した歴史ある美しい鞆の港が、今、「行政当局が鞆の浦港を横切る道路と駐車場建設」のため、「埋め立てを伴う橋の建設を強行しようとしており」住民が建設反対に立ち上がっております。
行政当局はなぜ話し合いによる解決を続けないのでしょうか?
「環境や文化財、歴史的な遺産・街並みの保護の必要性」がこれだけ叫ばれている今日、考えられないようなことが行われようとしております。
「湯布院」や「ヨーロッパの歴史ある美しい街並み」に人気があるのも、「大規模開発を避けたための結果である」という良い例がたくさんあるにかかわらす、行政当局は何故大規模開発を強行しようとするのでしょうか?
南フランスの「鷲の巣村」などでも旧市街や城壁内には地元の人たちの車以外入れないところが多く、駐車場から歩く場合が多いのですが、少しぐらい歩いた方がその土地についてより良く知ることが出来、記憶にも残るため余程いいと思うのですが・・・・・・・。
埋め立てが予定されている場所には歩いてしか行けないからこそ、人々が街なかを回遊するのを促しているのであり、駐車場を作ってしまうと人々の回遊が無くなり駐車場付近を除いた周辺の街はかえってさびれてしまうと思います。
旅人は、昔のままの、海と港が調和した鞆の浦の風景を求めて訪ねるのであり、殺風景な駐車場と広い道路を見に行くのではないと思います。
そのようになってしまった「鞆の浦」には、訪れる魅力は半減してしまいます。いや2度と行かなくなるかもわかりません。
港で栄えた鞆の浦の心臓部を何処にでもあるコンクリートと道路そして車があふれて危険な港に変えてしまうのですから・・・・・。
また、弓の弦を引くときの武具の形」に似ていると言われる鞆の浦の地形を、道路をつくることによって変えてしまえば、最早鞆の浦ではなくなり、町の名前も変えないとだめになるのでは?
そこを訪れた人たちは、周辺の歴史遺産をゆっくりと散策することなく、おそらくそこにできるであろう公営の施設で飲食と買い物をして、鞆の浦について何の印象も持たないまますぐ次の観光地に移動してしまうことでしょう。
瀬戸内海を眺めることの出来る景勝地は他にもたくさんあります。
現状のままでも、「鞆の浦の入口近くに、一時停車できる場所を設け」、「駐車場の位置や駐車料金そして主要観光ポイントと回遊に必要な時間を明示」し、また、「駐車場の空き状況がわかるように」する。更に出来ることなら「電線などの地中化」を行えばそれで十分だと思いました。
大規模開発にかける費用は、観光資源の保存と修復や地元観光産業の内容の向上に使っていくほうが良いのではないでしょうか。安い費用で出来るトンネル案も提出されております。
今まで箱物行政を行ってきた結果として、住民の方々の血税を使って「立派な文化センターは出来たけれどほとんど使われていない・・・・」といったことがたくさんあるのが悪しき例では・・・・。
鞆の浦 支援の会 ホームページ呼びかけ人 池田 武邦(鞄本設計名誉会長) 大林 宣彦(映画監督) アレックス・カー(東洋文化研究家) 伊東 孝(日本大学教授) 
陣内 秀信(法政大学教授) カロリン・フンク(広島大学助教授) 前野まさる(東京藝術大学名誉教授) C.W.ニコル(作家)

岐路に立つ鞆の浦(株)日本設計・池田武邦名誉会長スピーチ 鞆町のまちづくりホームページ土木部港湾河川課

「鞆の浦の埋め立て」について、広島地方裁判所が、「埋め立て免許の差し止めを命じる判決を出した」との報道が各メディアでされています。
日本が大きく変わっていく第一歩ではないでしょうか。2009年10月1日
医王寺 鞆の浦 鞆の浦
仙酔島 弁天島 鞆の浦港
鞆の浦歴史民族資料館 鞆の津の商家 福禅寺
福禅寺対潮楼 Fukuzenji Temple Taichoroh
福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院。
本堂やそれに隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年代)に建立。
客殿からの海の眺めは素晴らしく、正使洪啓禧は客殿を「対潮楼」と命名。文化交流の場になっていた。
法宣寺 南禅坊 阿弥陀寺
法宣寺
法宣寺は、1358(延文3)年日蓮宗の高僧の大覚大僧正が、ここに法華堂を建立し布教したことに始まる。
鎌倉時代の法華教は、南北朝時代になって鞆の浦に伝わり、中国地方へ布教する拠点となった。
明円寺 医王寺 開運 厄除 愛宕大権現
医王寺
医王寺は、平安時代の初期、弘法大師の開基と伝えられる真言宗のお寺。
現存する鐘楼は寛永20年(1642年)藩主水野勝成の建立、本堂は貞亨2年(1685年)水野勝種の再建したものといわれている。
又本尊の木像薬師如来立像は室町時代中期のもので、当時の特徴をよくあらわし県の重要文化財に指定されている。
山中鹿之助首塚 ささやき橋 静観禅寺
山中鹿之助首塚
戦国時代の終わり、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣山中鹿之助は、1578(天正6)年岡山県の高梁川阿井の渡で討たれ、毛利輝元や足利義昭に首実検をされた。
ささやき橋伝説
応神天皇の頃、百済よりの使者の接待役・武内臣和多利と官妓・江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていた。それが噂になり二人は海に沈められた。
それから密語の橋と語りつがれている。
妙蓮寺 顕政寺 大観寺
沼名前神社 鞆の津の力石 小松禅寺
沼名前(ぬなくま)神社
祭神 大綿津海命(おおわたつみのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)
鞆の祇園さんともいわれている。

沼名前神社 能舞台 国指定重要文化財 昭和28年11月14日指定
豊臣秀吉が愛用し伏見城内にあったものを初代福山藩主水野勝成が二代将軍徳川秀忠よりゆずり受けたと伝えられている。

小松寺
 臨済宗妙心寺派
安元元年(1175)平重盛が、厳島神社参詣の途中護身の阿弥陀仏像を安置して一宇を建立したのがはじまり。
本堂前に祀る有髪薬師地蔵尊は非常に珍しい石仏で古来霊験顕著として遠近より参詣者多い。
時宗本願寺 慈徳禅院 正法禅寺
安国寺 地蔵尊 鞆城の石垣と刻印
備後安国寺 県史跡昭和30年1月31日指定
鎌倉時代の文永年間(1270年代)金宝寺として創建。
南北朝時代足利尊氏により安国寺と改称。
境内全域は県史跡に指定され、釈迦堂と堂内の木造阿弥陀三尊像・木造法燈国師座像などは国重文に、地蔵堂にある石造地蔵菩薩座像は、重要美術品に指定されている。
鞆の街 鞆の街 太田家住宅
太田家住宅・太田家住宅朝宗亭 重要文化財平成3年5月31日指定 鞆七郷落遺跡 県史跡 昭和15年2月23日指定
維新の夜明けも近い1863(文久3)年8月18日、尊皇攘夷を主張する三条実美ら7人の公家は、公武合体派に追われ都落ちをし、一行は、ここ旧「保命酒屋」に立ち寄り、その時、三条実美は、保命酒(竹の葉と表現)をたたえる和歌を残した。
主屋の太田家住宅と向いの「朝宗亭」は、18世紀中頃〜19世紀初期の建物であり、共に国の重要文化財指定されている。
世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯くて嘗むるも 珍しの世や 
澤村船具店 田淵屋 海彦
平野屋 潮待ち茶屋 常夜燈
鞆港 鞆の浦 仙酔島連絡線
円福寺 芭蕉の句碑 淀媛神社
このページの寺社の説明は現地案内板を要約したもの。「たびせと」鞆の浦

   

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