岡山藩郡代津田永忠(1640年~1707年)の事蹟   GoogleMap      
           
     
   
                 
今回世界遺産への登録申請が行われた事蹟
津田永忠 岡山後楽園 旧閑谷学校 曹源寺の正覚谷墓所 岡山藩校・泮池橋
世界遺産候補として文化庁の公募に応募した「近世岡山の文化・土木遺産群」は、2008年9月26日の文化庁の選定からはずれ、「テーマや内容を大幅に見直す必要がある」とされた。
但し、今回提案の構成文化財のうち、「閑谷学校」は「足利学校」、「弘道館」と合わせて「近世の教育資産」として「現在の提案を生かして準備を進める」に分類され世界文化遺産登録に希望をつないだ。
今回、「近世岡山の文化・土木遺産群」が、世界遺産候補として取上げられたことにより、「津田永忠の行った事業が、今の岡山県南部地域の発展の基礎となっている」ことを知ることが出来た。
次のステップへの関係機関の対応に期待をつなぎたい。2008年9月27日
和意谷墓所 倉安川吉井水門 石の懸樋(田原用水路水路橋) 友延新田の井田 大多府漁港元禄防波堤
岡山藩郡代津田永忠
岡山藩主 池田光政、綱政の2代、50年にわたって仕え、和意谷に池田家墓所の造営、旭川の洪水から岡山城下を守るため、百間川放水路の開削、倉田新田、沖新田など新田の干拓、倉安川の開削、池田家の菩提寺である曹源寺の建立、後楽園の造営など岡山藩、ひいては現在の岡山の基礎となる各種事業を手がけ、完成させる。
百間川大水尾旧堤 津田永忠墓
   広告   
 
津田永忠の新田干拓に関する私見
ローマ帝国の滅亡の原因としては色々の説があるが、その一因として森林伐採やその結果としての土砂の堆積の進行、湿地化によるマラリヤを始めとする疫病の発生、港の埋没による交通の変化などが挙げられている。
岡山(備前)平野には、旭川、吉井川、高梁川の三大河川が流れ込んでいる。
岡山県の北部地方は、日本でも有数の鉄や銅の産地であり、古くからたたら製鉄銅の発掘・精錬が盛んであったといわれている。
当然、たたら製鉄の燃料確保のための森林の伐採や、銅の発掘・精錬に伴う土砂の流出が生じていたであろう事は推測される。
岡山藩郡代津田永忠が干拓に手腕を発揮した当時、今の岡山(備前)平野のほとんどは、上記三大河川の運んできた土砂が堆積していく遠浅の海であった。
津田永忠は、この土砂で埋没していく海を、干拓という手段によって国内でも有数の豊かな穀倉地帯に変えていったのである。
永忠は、ローマ帝国滅亡理由の一つが「土砂の堆積」ということまでは知らなかったであろうが、遠浅の海が、河川の土砂の流入によって形成されていっているということは知っていたであろう。
放置しておけば、変化していくであろう、沖積地を、起る変化を先取りして肥沃な土地に変えていき、現代の農業国岡山の基礎を作ってくれた、永忠の先見性は本当に見事なものである。
時の為政者が、自然のなす作用に着眼し先取りして、大きく自然を破壊しないで、人類に役立つ形に改変、実現していく・・・・。
知恵や組織力を含めた実行力の重要さを物語る好例ではないだろうか。
食料の自給率の向上が強く叫ばれている今日、この津田永忠の業績を改めて評価し、その精神を後世に引き継ぐとともに世界に発信していくために、世界遺産に登録されることを強く希望する。
原油が異常にくなり、また地球温暖化問題が差し迫ってきた今日、現代の岡山にも、
(1)「晴れの国岡山」といわれるほど「恵まれた太陽光」を利用するため、電力会社と連携して太陽電池の製造工場の誘致や太陽光発電の導入を推進しこれを農業、商・工業、家庭の電力源となるよう指導していく、(ドイツのような高緯度の地域でも太陽電池の導入が進んでいることを考えれば、岡山は本当に恵まれているのでは)、
(2)「地震や台風が少ない」という位置や地形を利用してそれに会った企業を誘致していく、
(3)「雨が少ないにもかかわらず「三大河川の恵みによる、豊富な水資源」と「先人の築いた県土」を利用して「国内の食料自給率を向上するための農業の一層の振興を測る」など、実行できることはたくさん有る。
世界遺産登録推進応援ネットワークに参加し、津田永忠の事蹟から、「自然の力を有効に利用する」という知恵をはじめ様々なことを学んで、現代に生かすことは、豊かな県土発展、ひいては私達個人個人の生活の向上の機会になると思う。
太陽光発電施設を設置する場所の一つとして、市町村の下水処理場浄水場はだめなのでしょうか。
広い空間があるので可能ではと思うのですが?そこで発電して、必要電力を補うとともに、余裕が出れば、売電すれば・・・。下水道料金を安く出来るのでは。
岡山世界遺産登録推進決起大会」  「岡山世界遺産登録推進応援ネットワーク」推進大会
今回世界遺産への登録申請は行われていないが津田永忠が関係したとされている事蹟
建部井堰(一の口井堰) 百間川(一の荒手) 神崎分水樋門(仮称) 奴久谷大滝 秀天橋
鏡の州用水湧水池 上笠加の常夜灯 内尾大水門
津田永忠が関与した干拓地の全体像が一望に見渡せる場所(芥子山からの眺望) (児島半島三頂山からの眺望)
吉井川河口方面(芥子山山頂より) 旭川河口・児島湾方面 百間川・操山方面方面
  広告    
津田永忠 略歴
1640年 (寛永17年) 備前岡山藩士 津田左源田永貞の三男として生れる(現在の岡山市弓之町)
幼名は又六、字は最初、八大夫 のち重二郎、晩年は左源太
14歳の時池田光政の児小姓に取り立てられる
20歳で児小姓仲間横目役、のち150石取りに昇進
25歳で300国取り、藩政の最高評議機関である評定所に列座
1667年 (寛文7年) 和意谷池田家墓所造営の総奉行に任命される
1669年 寛文9年 旭川の洪水から岡山城下を守るため、放水路である百間川を開削
1670年 寛文10年 藩主池田光政より閑谷学校建設を命じられる
1672年 寛文12年 光政が隠居し綱政が藩主となる
1673年 延宝元年 閑谷学校の東部に屋敷を造営
1679年 延宝7年 藩栄干拓事業として倉田新田約300haが開かれる
倉安川(約20km)の掘削 1679年中に起工・完成(倉田・倉益・倉富三新田の灌漑と吉井川・旭川間の連絡が目的
1682年 天和2年 池田光政没(享年74歳) 津田永忠 岡山藩郡代となる
1685年 貞享2年 幸島新田557haが開かれる
1687年 貞享4年 大名庭園である後楽園の造営に着手
1691年 元禄4年 沖新田を開く 藩が手がけた干拓総面積 約1,918ha
1697年 元禄10年 田原用水工事を完成させる
1698年 元禄11年 藩主の菩提寺となる曹源寺を造営
1700年 元禄13年 後楽園を完成
1701年 元禄14年 閑谷学校を完成
1704年 宝永元年 65歳で閑谷に隠居
1707年 宝永4年 病のため没 享年68歳
Wikipediaを参考に作成
津田 永忠(ながただ)遺績碑(いせきのひ)                                                                   (後楽園内にあり)

余、旧封(きゅうほう)備前に過(よぎ)り、風土文物(ふうどぶんぶつを)を覧(み)る毎(ごと)に、今だ嘗(か)って熊沢伯継(はくけい)・津田永忠の我が家に功績在るを想見(そうけん)せずんばあらざるなり。伯継(はくけい)の余が祖(そ)を輔佐(ほさ)せること、天下人人(じんじん)の知るところなれども、永忠に到りては、則(すなわち)ち之を知るもの或(あ)ること鮮(すくな)し。
旧臣
(きゅうしん)木畑道夫(きはたみちお)等、其の此(かく)の如きを恨(うら)み、衆に諗(つ)げて曰(いわ)く、「我が芳烈公(ほうれつこう)、此の土(ど)に移封(いほう)されしとき、天下始めて干戈(かんか)を免(まぬか)れ、田野(でんや)(いま)だ辟(ひら)けず、礼文(れいぶん)未だ備(そな)はらず。
公鋭意
(えいい)(ち)を図り、輔弼(ほひつ)の才(さい)を急(きゅう)にし、或は賢(けん)を世臣(せいしん)より選(えら)び、能(のう)を草奔(そうほん)より挙(あ)げ、遂に熊沢氏、津田君を得(え)たり。
(きみ)、二世に歴仕(れきし)し、職に在ること五十年、賛翼(さんよく)の功績(こうせき)は枚挙(まいきょ)に遑(いとま)あらず。
社倉
(しゃそう)を設け以(も)って凶荒(きょうこう)に備え、節倹条法(せっけんじょうほう)を頒(わか)ち以って藩士の窮(きゅう)を救い、牧馬造船(ぼくばぞうせん)以って軍備(ぐんび)を修(おさ)め、郡毎(ぐんごと)に郷校(きょうこう)を興(おこ)し、岡山・閑谷(しずたに)両黌(りょうこう)を置き、幸島(こうしま)、福浦(ふくうら)、沖(おき)、倉田(くらた)等を開墾(かいこん)し、及び倉安川を疏鑿(そさく)し、地を得ること大約二千四百四十五町なり。
晩に致仕
(ちし)して閑谷(しづたに)に老い、専ら学校を督(とく)し、以て終る。
(そ)れ熊沢氏の事、先輩(せんぱい)(すで)に「伝(でん)」「行状(ぎょうじょう)」「事跡考(じせきこう)」の著あり、蕃山邨(しげやまむら)の遺址(いし)も亦(また)豊碑(ほうひ)有り、今君(きみ)の功業(こうぎょう)(かく)の如くなるに、而(しか)も一書片碑(しょへんぴ)の以て世に表はす無し。豈恨(あにうら)む可(べ)きに非(あら)ずや。」
皆曰く「然
(しか)り。」と。将(まさ)に碑を建てんとし、来りて文を余に請う。
(こ)れ時(とき)明治十八年八月、車駕西巡(しゃがせいじゅん)し、備前に過り、余陪(よばい)す。
(が)上道郡江並邨(むら)を経。江並邨は即ち沖なり。
長隄
(ちょうてい)数里に亘り、平田(へいでん)数万頃(すうまんけい)、茫茫(ぼうぼう)として天に連(つら)なり、其の土肥え、其の稼(か)豊かに、其の臣殷富(たみいんぷ)なり、因(よ)りて憶(おも)ふ、二百余年の前、此の茫茫たる者は、蒹葮(けんか)の叢生(そうせい)する所、魚鼈(ぎょべつ)の群遊(ぐんゆう)する所、今変じて雞鳴(けいめい)狗吠(くばい)(あい)聞ゆるの境(きょう)と為(な)る者は、果して誰の功ぞや、と。
(が)進みて、岡山学校に幸(こう)し、後楽園に駐(とど)まること三日。
茂樹嘉葩
(もじゅかは)あり、怪巌奇石(かいがんきせき)あり、鶴舞(つるま)ひ魚躍(うおおど)れる庭園泉池(せんち)の設(もうけ)は、最も天顔(てんがん)を怡(よろこ)ばす。
(しか)して之を経営せる者は、其れ復(また)誰ぞや。
既にして駕
(が)倉安川に沿(そ)ひ、和気郡伊里中邨(なかむら)を経(ふ)
(むら)の北は閑谷(しずたに)なり。
(し)有り、侍従(じじゅう)長徳大寺実則(むねのり)をして臨視(りんし)せしむ。
余も亦
(また)随行(ずいこう)す。講堂(こうどう)・聖廟(せいちょう)、魏然(きぜん)として澗松(かんしょう)万翠(ばんすい)の中に聳(そび)え、咿唔(いご)の音、水声(すいせい)鳥語(ちょうご)と相和(あいわ)す。
(しか)して之を経営せる者は、其れ復(また)誰ぞや。皆永忠(ながただ)の功業(こうぎょう)に非(あら)ざるは莫(な)きなり。
(よ)りてその退隠(たいいん)の処(ところ)を訪ひ、之を黌(こう)の東数十歩、渓山幽絶(けいざんゆうぜつ)の地に得たり。
(ここ)に於て、余(よ)低徊(ていかい)して去る能(あた)はず。
烏呼
(ああ)(いにしえ)より功成(こうな)りて身退(しりぞ)き、優游(ゆうゆう)(も)って歳を卒(お)ふる者は、其れ幾何(いくばく)ぞや。
(むべ)なり、道夫(みちお)等、伯継(はくけい)と並びに不朽(きゅう)に伝へんと欲するや。
永忠
(ながただ)、通称(つうしょう)重二郎(じゅうじろう)、又佐源太(さげんた)、世臣(せいしん)なり。食禄(しょくろく)千五百石。
其の没
(ぼつ)するは宝永(ほうえい)四年二月五日と為(な)す。銘に曰く、
新田葱葱(そうそう)、年として豊かざるは無く、倉安の水、灌漑(かんがい)四通(しつう)す。
社倉(しゃそう)の遺法(いほう)、以て民の窮(きゅう)を救(すく)ひ、造船牧馬(ぞうせんぼくば)、軍須(ぐんしゅ)(たちどこ)ろに供(きょう)す。
(いわ)んや学校を創(はじ)め、礼譲(れいじょう)の風(ふう)を興(おこ)すをや。凡百(ぼんひゃく)の事業、我が先公を輔(たす)け、
(ほどこ)して今日に到り、余沢(よたく)何ぞ空(むな)しからん。此の土(ど)を宰(つかさど)る者、永く其の功を思へ。

明治十九年一月
                                                                      篆額(てんがく)  正三位勲三等      池田 茂政(もちまさ)
                                                                      撰文(せんぶん) 従三位勲三等侯爵   池田 章政(あきまさ)
                                                                      書   正五位                     日下部東作
                                                                                                   (鳴鶴)(めいかく)
                                                                               石匠   備中         藤田市太郎
                                                                               碑石   さぬき         庵治(あじ)
                                                                               台石   備中          六口(むくち)島産 
この石碑は後楽園の鶴舎と茶店の中間地点あたりにあり、この碑文を読むと永忠の業績が明治時代に一度見直されていたことが良く分かる
世界遺産に相応しい岡山の農業~文化~土木遺産(決起大会・岡山世界遺産登録推進応援ネットワーク推進大海資料より)
番号 名称 完成年 区分 保護の種別 所在地 選定の理由
岡山後楽園 1689年 特別名勝・史跡 岡山市 全国の大名庭園の中で、兼六園と並んで最大級、かつ「農業」を前面に打ち出した庭園/石に対する強いこだわり
旧岡山藩藩学・泮池橋 1669年 史跡 岡山市 藩校施設で唯一現存/岡山らしい石桁橋
旧閑谷学校 1701年 特別史跡 備前市 わが国最古の庶民のための学校/農業との関連を強く示唆した壁書/唯一無二の形をした長大な石塀
旧閑谷学校講堂、小斎、習芸斎
及び飲室、文庫、公門
国宝・重要文化財 備前市
閑谷神社 重要文化財 備前市
旧閑谷学校聖廟 重要文化財 備前市
旧閑谷学校石塀 重要文化財 備前市
閑谷学校関係資料 重要文化財 岡山市
岡山藩主池田家墓所
附津田永忠墓
史跡 岡山市、備前市 和気町
和意谷墓所(三のお山/光政墓) 1669年 史跡 備前市 永忠の才覚を発見した名君の墓
曹源寺の正覚谷墓所(綱政墓・他) 1704年 史跡 岡山市 永忠に活躍の場を与えた名君の墓/ユニークな階段側石
津田永忠墓 1707年 史跡 和気町 農業県岡山の基礎を築き、文化財級の施設を多数造った偉人の墓
10 倉安川吉井水門 1679年 岡山県 史跡 岡山市 現存する日本最古の運河閘門/見事な石護岸
11 田原用水水路橋(石の懸樋 1697年頃 岡山県 史跡 赤磐市 国内に現存する最大の石桁水路橋
12 友延新田の井田跡 1671年 備前市 史跡(碑のみ) 備前市 世界でも、恐らく唯一現存する「実際に機能した井田」
13 大多府漁港元禄防波堤 1698年 登録有形文化財 備前市 全国最古級、かつ、最大級で、保存状態最良の防波堤
14 百間川大水尾旧堤 1692年 (登録記念物)   ー 岡山市 沖新田を可能にした、日本初の優れた河川制御技術の残滓
津田永忠関連リンク
津田永忠と沖新田干拓 岡山世界遺産登録推進応援ネットワーク
関連地域の宿泊施設 関連地域の交通 近くのキャンプ場
選定の理由「岡山世界遺産登録推進応援ネットワーク」推進大会配布資料より)
(1)近世の稲作農耕のありよう、すなわち、幕藩体制のもとでの社会状況が、最高の質と最良の保存状態で見られるのは、岡山だけである。
(2)モンスーン地帯における稲作農耕を中心とする社会体制が、世界でもっともよく体験できる。
(3)個々の資産のレベルも、国内外のレベルから見て、それぞれが非常に高い完成度に達している。
(関連遺跡など)
建部井堰(一の口井堰) 1661年? 旧建部町 史跡 岡山市 全国最大級、かつ、保存状態最良の石造斜め堰
百間川(一の荒手) 1669年 岡山市 近世の洗堰で、一部なりとも原形を留めた全国唯一の存在
神崎分水樋門(仮称) 1683年 岡山市 県下に残る最古の石造樋門/見事な石護岸
芥子山からの沖新田の眺望 1692年 岡山市 わが国近世最大の干拓地/全体像が一望に見渡せる。
奴久谷大滝 時期不詳 和気町 永忠の風雅な一面を覗かせるユニークな農業施設
秀天橋 18世紀中 岡山県 重要文化財 玉野市 わが国最大の、参道橋以外の石桁橋
鏡の州用水湧水池 1805年 和気町 史跡 和気町 わが国、近世、近代を通じて唯一の地下ダム
上笠加の常夜灯、樋口の常夜灯 1813・26年 瀬戸内市 農業用水路の常夜灯は、全国でも稀な存在
内尾大水門 1824年頃 岡山市 全国最大の長尺石材を使った石樋門

Home