牡丹燈龍
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西野 純
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それは僕が大学二年の夏休みのことでした。
夏の刺すような強い日差しの中を、僕は毎日隣町にあるアルバイト先へ通い続けて
いました。
アルバイトというのは、進学塾で中学生を相手に数学と英語を教えることでした。
昼間の一番暑い時間帯に、電車に乗り隣町の進学塾へ行き、夕方再び電車に乗って
帰ってくるという毎日が続いていました。
そんなある日の帰り、駅の改札を抜けたところに立つ一人の女の子と目と目が合い
ました。
「どこかで見たことある子だな」と思っていると、彼女の方も僕に向かって、にっこ
りと笑顔を見せ頭を下げるのでした。
「誰だったかな」
そう思っている間に、僕は改札口をでた人混みに流され駅を押し出されていました。
「そうだ! 由美子だ!」
ようやく彼女の名前を思い出し、もう一度振り向いたときには、人の渦に女の子の姿
はかき消されていました。
早速家に帰ると、僕は、高校時代の卒業アルバムを開きました。
「やっぱり由美子だ。足立由美子」
由美子は、高校一年の時同じクラスだった女の子でした。同じクラスといってもほ
とんど話すこともなかったように思います。
確か、病院の一人娘で、病院を継ぐために医学部を目指していると、聞いたことが
ありましたが、高校卒業後はどうなったかは知りませんでした。
次の日、すっかり由美子のことは頭から消えてしまっていたのですが、前の日と同
じように、アルバイトの帰り、駅の改札を抜けると、そこに由美子が立っているので
した。
前の日と同じように由美子は人混みの中の僕を見つけると、にっこりと笑いかける
のでした。
「誰かと待ち合わせかな」
僕は、少し気になり始めていました。
次の日も、ひょっとしてと思って改札を抜けると、予想通り由美子は立っていまし
た。
僕は、人の流れに逆らいながら由美子の所まで行きました。
「やあ。久しぶり。由美子だよね」
「そうよ、西野君、こんにちは」
少し間があって
「昨日もここにいたよね。誰かと待ち合わせ?」
「べつに」
またしばらく間があって
「暑いわね。お茶でも飲みに行きません?」
そう由美子が笑顔で誘うのでした。
高校時代もそんなに話したことなかったのに、僕たちはそれから暗くなるまで喫茶
店で話し合いました。
高校時代の由美子は、がり勉タイプで、少し冷たい感じがしていたのに、今の由美
子はすっかり大人びて、あか抜けていました。
由美子は医大受験に今年も失敗して、二浪中だということでした。その話しになっ
たときだけ由美子は悲しそうな顔をしてうつむくのでした。
「今年がんばればいいよ」
そう声をかけてあげる以外に僕にできることはありませんでした。
喫茶店を出ると、外は浴衣を着た若い人たちで一杯でした。
ドーン!
突然、夜空に花火が上がりました。
「今日は花火大会だったんだ」
そういうと由美子は僕の手を取り人混みの中を走り出しました。
河原まで走ると、由美子は土手に腰を下ろし、打ち上げられる花火を見上げました。
僕も由美子のとなりに腰を下ろすと、一緒に花火を見るのでした。
「きれい……」
由美子が呟きます。
ふと、僕が由美子の顔を見ると、由美子の目は涙で一杯です。
「私ね……」
僕に涙を見られたのに気がついたのか由美子が話し始めます。
「こんなきれいな花火見るの初めてなの」
あふれでた涙が、頬をつたって流れ落ちます。
「毎日、勉強に追い立てられて、こんなに楽しい気持ちになれたことってなかった……」
由美子の肩が小刻みに震えています。
僕は、その肩をそっと抱くのでした。
その日から僕は毎日のように由美子と会うようになりました。アルバイトから帰っ
てくると駅の改札を抜けたところにいつも由美子が立っているのでした。
喫茶店で話したり、映画館で夜遅くまで映画を見たり、夜の公園を散歩したり、毎
日、楽しい時が流れて行きました。
そんなある日、お盆でアルバイトが休みの日が続き、家でゴロゴロしていると、高
校時代の友人から電話がありました。
「久しぶりに会おうぜ」
その日は、夜八時に由美子に会う約束があったので、少し渋ったのですが、結局会
うことにしました。
待ち合わせの喫茶店にはいると、大竹、北村、鈴木の友人三人は既に店の奥に席を
取り、大声で話していました。
「西野、お前、痩せたんじゃないか?」
席についた僕を見て、北村がいいました。
「なんか、顔色も良くないぞ、大丈夫か?」
確かに、最近体調を崩していました。夏バテのせいか、食欲もないし、疲れ気味だ
ったのです。
「ちょっと最近忙しくってね」
「そうそう、女ができて忙しいんだよな」
大竹が続けます。
「さっき電話で誘ったときも、この後約束があるからって、乗り気じゃなかったもん
な」
「まあね」
それ以上詮索されるのが嫌で、そういってその場は終わりました。
しばらく高校時代の思い出話に花が咲いて、時計の針も八時近くになり、僕が席を
立とうとしたときでした。
「そういえば、高校の同級生の足立由美子のこと知ってるか?」
その言葉に、僕は席を立とうとした腰をまた下ろしました。
「ああ、あのがり勉か」
「足立由美子、自殺したんだってな」
そんな!
「いつのことだよ!」
つい僕は大きな声を上げてしまいました。
「この春だよ。二度目の受験失敗が決まったときにね」
僕は頭の中が真っ白になるのを感じました。
「そんな筈はない!」
僕は思わず立ち上がり、テーブルを叩きつけていました。
そんな僕の行動に、驚いた顔をして三人は僕を見ます。
「ど、どうしたんだよ、いったい」
「そ、そんな筈はない……。今から僕は由美子に会うんだ……」
怪訝そうに三人は顔を見合わせます。
「何かの聞き間違いだよ。由美子が自殺したなんて」
「いや、確かに、足立由美子に間違いないよ」
「じゃ、僕が今から会うのは誰なんだ……」
しばらく誰も声を出すことができませんでした。
「わかった」
声を出したのは大竹でした。
「西野は、これから由美子と会う約束をしているんだな?」
「そ、そうだ」
「お前たちが会っているところを、俺たちこっそり見ていてもいいかな」
頭が真っ白で何も考えることができません。
「いいよ……。でも、気付かれないようにしろよな」
そう言い残して、僕は、由美子との待ち合わせ場所に向かいました。
いつもの駅の改札口です。
僕が約束の時間を少し過ぎて改札口に着くと、由美子はもう待っていました。
「そうさ、何かの間違いか、あいつらのたちの悪いいたずらに違いない」
由美子の笑顔を見た僕は、そう思うのでした。
そうして由美子と楽しい時を過ごした僕は、さっきの喫茶店に戻りました。
同じ席に三人は座り、深刻そうな顔をして話し込んでいます。
「どうだった? 確かに由美子だろ」
僕は席につくと三人に向かっていいました。
「西野……、確かにお前は楽しそうに話していたよ……」
「それで?」
「だけど、お前の話し相手の姿は、俺たちには見えなかったんだよ」
「えっ?」
「そうだよ。お前は誰もいないところに向かって、ひとりで話していたんだよ」
「じょ、冗談いうなよ。見ただろ、由美子を。ふざけるのもいい加減にしろよ」
「そういうだろうと思ってこれを探してきたよ」
大竹が差し出したのは、一枚の新聞の切り抜きでした。
その新聞には、由美子の自殺の記事が載っていたのです。
「ま、まさか……」
僕は、身体中の血が引いていくのを感じました。
「あ、明日、約束をしたんだ」
「えっ?」
「明日、一緒に海に行こうって」
「どこの海だ?」
「ほら、高校一年の最後に、クラスで行った飯島海岸に」
その言葉に三人は顔を見合わせました。
「この新聞の切り抜きをよく読んでみな。由美子が自殺したのもその飯島海岸なんだ」
「そう。絶壁があっただろ。あそこから飛び降りたんだ。」
僕は、混乱して、頭を抱え込んでしまいました。
「お盆が終わると、死者はあの世へ帰るっていうぜ。まさか、お前を連れて帰ろうっ
ていうわけじゃないだろうな」
それから、ことは急展開し、鈴木の親戚にお寺の住職がいるからということで、真
夜中に僕たち四人はそのお寺を訪ねたのです。
「取りつかれていますね」
住職は、僕の顔を見るなりそういいました。
そして、僕は、お寺のお堂に連れて行かれました。
「これから丸一日の間、ここを出てはならぬぞ」
住職がそういいました。
「外で何があっても、戸を開けてはならぬ。声を出して応えてもならぬ。ここでじっ
と時が経つのを待つのじゃ。全ての戸に封印のお札をはっておく、封印がしてある限
り邪悪なものはこのお堂には入れぬ」
「おい、がんばれよ」
大竹が声をかけます。
僕は、何がなんだがわからず、されるがままになっていました。
「いいな、丸一日の間、我慢するのじゃぞ」
住職は、そう言い残して、三人の友人と共にお堂を出て行くのでした。
一人真っ暗なお堂に取り残された僕は、今までのことを振り返ってみました。
まだ、信じられません。
由美子が自殺していたなんて。
この夏、由美子と過ごした楽しかった時間が蘇ってきます。
あの思い出は幻だったのだろうか。
時が流れ、辺りが明るくなり始め、鳥のさえずりが聞こえ始めました。
「朝だ」
せみが鳴き始め、夏の暑い日差しが辺りを包み始めています。
時計がないので何時かはわからないが、由美子との約束の時間は過ぎているかも知
れない。
そう思ったときのことでした。
トントン
お堂の戸を叩く音がしました。
僕は、身構え、腰を浮かした姿勢のまま、その戸を凝視しました。
住職さんだろうか?
大竹たちだろうか?
トントン
再び叩く音がしました。
「声を出して応えてもならぬ」
住職さんの言葉を思い出し、僕は、ただ戸をじっと見つめることしかできません。
夏の暑さで汗が滴り落ちてきます。
「西野君……」
扉の向こうから呼びかける声は、紛れもなく由美子の声でした。
「約束した時間よ……」
僕は、危うく声を出してしまうところでした。
「西野君……」
それは今までに聞いたことのない、悲しそうな由美子の声でした。
「どうして開けてくれないの? 私の力ではこの戸を開けることができないのよ」
封印のせいだ。
「西野君、海に行くって約束したじゃない。高校一年の時にみんなで行ったあの海……。
とれもきれいだった。」
そう、昨日の夜、つい数時間前に、二人でそう話していたんだ。
「あんな真っ蒼な海に抱かれて漂えたら、きっと気持ちがいいよ」
由美子は、自殺したとき、あの真っ蒼な海に抱かれていたんだ。
「ねえ、一緒に行きましょ」
由美子……
かわいそうな由美子。
病院の一人娘に生まれてきたばかりに、高校時代も勉強ばかりで、何も楽しむこと
ができず。
みんなで海に行ったときも、親には塾に行ってくるなんて、嘘までついて。
あとでばれて散々叱られたって。
でも楽しかったって。
そういっていた。
高校時代唯一の思い出だって。
かわいそうな由美子。受験に失敗して、死ぬなんて……。
「由美子、一緒に海に行こう……」
僕は、立ち上がってお堂の戸の前によたよたと歩いて行きました。
そして、お堂の戸に手をかけると、力一杯引きました。
封印していたお札が破れ落ち、ひらひらと舞います。
夏の強い日差しが、お堂の中に差し込み、僕は思わず手をかざしました。
その光の中に由美子が笑顔で立っています。
音のない世界に迷い込んだように、僕には何も聞こえません。
ただ、差し出された由美子の手を取って、僕らはふわふわと歩きだしました。
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気がつくと、僕らはあの絶壁の上に立ち蒼
く広がる海を見おろしていました。
「西野君……」
由美子は、悲しそうな目をして、僕を見上
げます。
僕は、優しくうなずき返しました。
僕らの身体は宙に舞ったかと思うと、蒼い
海に向かって落ち始めました。
僕は、由美子の身体を強く抱きしめます。
由美子も抱き返します。
もう離さない。
僕は心の中でそうつぶやくのでした。
暗闇の中で、僕は由美子を探して歩き回っ
ていました。
あんなに強く抱きしめていたのに。
由美子、どこへ行ったんだ。
すると、暗闇の中で、ほのかに明かりがと
もったかと思うと、由美子の姿が浮かび上が
りました。
「由美子……」
「ありがとう、西野君」
僕の言葉を遮るように由美子が続けます。
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「ここまででいいわ……。やっぱり、西野君を連れて行く訳にはいかない……」
「えっ?」
由美子は、今までに見た中で一番の笑顔で応えます。
「楽しかったわ。思い出が作れてよかった。この思い出だけでいい。私と一緒に行く
のは」
僕はなんて応えたらいいのかわかりません。
「ほら、みんなが呼んでいるわよ」
…… に し の ! ……
僕は、かすかに声のする方を振り向きました。
「じゃ、さよなら、ありがとう、西野君」
再び僕が由美子の方を向いたとき、由美子の姿はしだいに遠ざかり、暗闇の中に溶
けるように消えていきました。
「由美子……」
目を開けると、僕は病院のベッドの上でした。
ベッドのまわりを大竹、北村、鈴木が取り囲んで僕の顔をのぞき込んでいます。
「西野、大丈夫か?」
「あっ、ああ、痛っ」
身体中が痛い。
「お前、俺たちの気がつかない内に、お堂を抜け出しているんだから……」
「ゆ、由美子は」
その言葉に三人は顔を見合わせた。
「お前だけだよ。奇跡的に助かったのは」
「あの絶壁から飛び落ちて助かるなんて、奇跡だぜ」
そうか……
由美子が助けてくれたんだ。
そういいかけて僕は言葉を飲み込みました。
思い出だけでいい。
由美子もそういっていた。
決して忘れない。
由美子と過ごしたこの夏の思い出は。
僕は心の中で由美子にそうささやくのでした。
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(イラスト 星川千秋)
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