しのぶれど − 百人一首より
                           神野 優
 時は天徳四年(西暦九六〇年)、村上天皇の時代。遣唐使の廃止以後衰退した漢文 学に代わり、万葉集以後低迷していた和歌が宮廷、及び貴族社会に広く親しまれてい た。
 宿をでた平兼盛は、すっかり秋の色を濃くした小道を一人歩いていた。
 内裏歌合トーナメントの決勝戦を明日に控え、兼盛の心はひどく動揺していた。
 紅く色づいた紅葉の葉が兼盛の肩に触れ、秋の夕日との微妙なコントラストは、三 夕の和歌に匹敵する歌を生み出す環境であったが、今の兼盛は歌を口ずさむ心境では なかった。
 一月前、夏の終わりに行われた内裏歌合トーナメントの準決勝以来、兼盛は恋に陥 っていたのだ。
 あの時、応援席の最前列に座っていたあの女性、まだ夏の暑さの残るなか、彼女の まわりだけ爽やかな風が吹いていた。
 兼盛の脳裏に彼女の長い黒髪と涼しげな瞳が焼き付いていた。
 しかし、そんな兼盛の思いも報われぬ恋であった。
 兼盛は彼女の左手の薬指に、光輝くブライダルリングを見てしまったのだった。
 その日以来、兼盛は、ため息だけの日々を送り続けていた。
 昼間はぼんやりと深まる秋の景色を眺め、夜はといえば、小野小町の歌のように、 夜の衣を裏返すまでもなく、彼女は夢の中に現れ兼盛の想いを深くさせた。
 こんなことでは、とても明日の決勝戦は戦えない。
 明日の相手は、強敵の壬生忠見である。
 身分の低い生まれの忠見は、和歌に全てをかけてここまできた男であった。今頃、 明日に備えて猛特訓をしているに違いない。
 兼盛はぼんやりと夕日を見上げ再びため息を付いた。
 
 翌日、宮廷へ向かう兼盛の足取りは重かった。
 どうせ負けるに決まっている。
 こんな気持ちのままでよい歌なんて歌えない。
 彼女は今日も来るのだろうか。
 彼女の前で惨めに敗れる姿をさらすことになるに違いない。
 ふと、後ろから兼盛を追い越した牛車が止まり、中から兼盛を呼ぶ女性の声がした。 「兼盛さんじゃないですか? どうしたのですか? 決勝戦を前にして足取りが重い ですよ」
 その声の主は兼盛の叔母であった。
「準決勝は儲けさせてもらいましたよ。今日もお願いしますね」
 叔母は、歌合トトカルチョに手を出しているのだ。
 そして、叔母は兼盛の顔をしばらくの間見つめると、笑いながらいった。
「まさか。兼盛さん。恋をしているのではありません?」
「見抜かれた!」
 兼盛は思った。
 そうなのだ、きっとみんな気付いていたに違いない。
 そう思うと兼盛は、赤面した。
 
 宮廷内の内裏歌合会場は、既に人で埋め尽くされていた。
 やはり彼女はいた。準決勝と同じ応援席の最前列だ。
 兼盛は、一目彼女を見ただけで目を伏せた。
 村上天皇が側近を従えて入場してきた。この若き帝も報われぬ恋に悩む男であった。
 彼は、関白大臣の正妻に想いを寄せているのだ。
 兼盛と同じようにぼんやりとして、心ここにあらずの様子である。
「テーマは何にいたしましょうか」
 側近の問いかけに帝はぽつりとつぶやいた。
「…しのぶ恋……」
 帝は図らずも本音を漏らしてしまった。
「テーマは『しのぶ恋』。制限時間は十分です」  側近は帝のつぶやきをテーマにしてしまったのだ。
「では、開始!」
 判者の声と共に内裏歌合トーナメントの決勝戦は始まった。
 最初に歌った方が絶対に有利である。相手に焦りを与えることができる。
 しかし、今の兼盛は、集中心を欠きとても歌える状態ではなかった。
 非情にも時は過ぎてゆく。
「八分経過」
 時計係の女官が時を告げた。
 
    恋すてふ わが名は
       まだき 立ちにけり
         ひと知れずこそ
             思ひそめしか

 
 壬生忠見が先に歌った。
「負けた」
 兼盛はそう思った。
 この歌には勝てない。
 そう思うと急に肩の荷が降りた。
 そして、彼女を見た。
 彼女は、心配そうな顔をして、兼  盛を見つめていた。
「そうやって、ずっと私のことを見 ていてくれたのですか?」
 兼盛は、そう彼女に問いかけたか った。
 そして、兼盛の脳裏にこのひと月 の出来事がよみがえった。
「……一体、私は、何を思い詰めて いたのだろう」
 そして、今朝の叔母の言葉がよみ がえった。
「まさか。兼盛さん。恋をしている のではありません?」
「十、九、八……」
 時計係の女官がカウントダウンを 始めた。
「四、三、二、一」
「し、しのぶれど……」
 不意に兼盛の口をついて歌がよま れた。
 
    しのぶれど色に出でにけり
       わが恋は
         ものやおもふと
             人の問ふまで

 
 兼盛の素直な心の歌であった。
 判者は、どちらを勝者とすべきか判定しかねて帝をかえりみた。
「……しのぶれど、か……」
 帝は、ため息混じりにつぶやいた。
 そのつぶやきを判者は、聞き漏らさなかった。
「この勝負、平兼盛殿の勝ち!」
 判者の声が会場に響いた。
「この、この歌は、あなたのために歌ったのですよ」
 兼盛は、彼女をじっと見つめると、小さくつぶやいた。
 
 その後、この内裏歌合トーナメントに敗れた壬生忠見は、敗戦の痛手から病に倒れ、 不運な一生を終えたという。
 一方、兼盛の恋のその後は定かではない。
(イラスト 星川千秋)